Pの刺激

第20話: 悪魔猿

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

教祖と郁夫は、窓際に並んで座った。家具もカーテンもない四畳半。吹雪は始まりと同じく急にやんでいた。雲間から射す西陽にふたりの影が長く伸びていた。それともその光は街の炎だろうか。郁夫の舌には錠剤の味が残っていた。水も飲まずに呑み下したばかりだ。ふたりは効果が表れるのを待った。別の人生を郁夫は夢想した。その世界では血と炎の惨劇など起きてはいない。彼らは若者同士、下宿で青臭い悩みを語り合っている。
 教祖は引き寄せた片膝に腕を乗せ、染みだらけの壁を眺めていた。「あの作家には単なる文才に留まらない何かがあった。教団と関わる以前から彼の作品は異常な吸引力を有していた。出版関係者はそのことに気づいていた。だからあれだけの人格破綻者と縁を切れなかった」
 郁夫は苦い気持で畳を見つめた。「つまりどこかへ隠したってことですか。薬の力を借りて」
「そう確信している」
「完全版をウェブに流出させたのは? 街中で犠牲者が続出すよ」
「我々は本人の仕業と見ている。十三年ぶりに結末を書いて完成させたのだ。世間を混乱へ陥れるために」
「未知の断片は本物だったんすね。死んだんじゃなかったんすか」
「死後に新作を発表し続ける作家は珍しくない」
「若様も変わりましたね」
「冗談をいっているのではない。生之介とPは相互に作用し連鎖反応を起こした。親和性が高すぎた。もはや生之介がPでありPが彼自身なのだ。生死に常人のような意味はない」
「密林の悪夢は生之介の妄想でしょ」
 教祖は静かに頷いた。全身から陽炎のような光が立ちのぼっていた。「断片の散布が汚染を広めた。読めば識域下に悪夢が植えつけられる。ここまでの事態は想定しなかった。収拾の責任がある。手伝ってくれるな?」
「おれを生かしたのは若様すよ。あれからずっとうなされてたんです」
「知っている。おまえは追跡対象だった。『悪夢っ子組』唯一の生き残りだからな」
 郁夫は教祖の横顔を見つめた。十三年間も密かに見護ってくれていたのだ。
 耳鳴りがして化学臭を嗅いだ。世界が大きく揺らいで変容をはじめた。飴細工のように溶けて伸縮し、脈打ち、渦巻いた。郁夫のうめきは輪郭を失って洞窟のように反響した。
「Pはどこから来たと思う」教祖の声は脳髄にじかに刺さるかのようだった。
「教団で開発したんでしょ」
「事件の数年前、何者かが教団のネットワークに侵入した。教団は書き込まれた化学式をもとにPを合成した」
「意味が……」
「回線は外部に接続されていなかった」
 火災の上昇気流が雷雲を呼んだ。窓が風で鳴り、部屋が暗くなった。郁夫の網膜に青い光が閃いた。視界が戻ると扉が立っていた。雷鳴が低く轟いた。耳鳴りと目眩、化学臭が強まった。扉は何の支えもなしに直立していた。知らず知らず引き寄せられるような力を感じた。ふたりは静かに立ち上がった。教祖が扉を開けた。郁夫は身構える間もなく吸い込まれ、木の葉のように翻弄された。悲鳴は闇へ吸い込まれた。
 堆積した枯葉と泥に放り出された。熱と光を感じる。郁夫は腰をさすって立ち上がった。燃える密林で教祖は油断なく周囲を窺っていた。獣や鳥が警戒の声を発し、樹上を逃げ惑っていた。蔓が燃え落ち、炭化した樹が倒壊した。黒い渦があちこちで眼についた。靄のようなものが漂い出ている。その向こうに燃える市街地が見えた。現実世界への通路だ。境界が失われつつあるのを郁夫は知った。
 黒煙に覆われた空は血の色に揺らめいていた。その空を悪魔猿の軍勢がよぎる。教祖は炎の隙を巧みに捉えて進んだ。あのときと同じだ。郁夫は泥流に足を取られつつあとを追った。
「引き込まれた連中はこの世界のどこかにいるんすよね」
「諦めろ。とっくに吸収されている」
「あの渦から戻れないんすか」
「漏れ孔か。迷い出れば永遠に夢とうつつをさまようことになる。亡霊のように」
「生之介の孫もいるはずなんすよ」
 振り向いた教祖の眼が郁夫の記憶に焼きついた。見せたことのない表情だった。
「一緒にいられるときはわずかだ。大切にしろ」
 火の手が及んでいない廃墟へ出た。建物はいずれも窓ガラスが割れ落ちていた。壁面は苔むして亀裂からシダが生い茂っていた。半壊した建物も多く、瓦礫は苔や植物に覆われていた。街灯や電柱、信号機、道路標識に蔓が絡みついている。舗装は隆起し陥没して大きな亀裂が走っていた。打ち棄てられた車列が古墳のように緑に埋もれていた。地下鉄の出入口は白い繭に覆われていた。
 暗雲から硫黄の火が降りはじめた。直撃した信号機が倒れた。建物から火が出て燃え広がった。緑に覆われた車が打ち抜かれて爆発した。大木が炎に包まれて倒れかかってきた。陥没へふたりは飛び伏せた。鋭い枝が郁夫の脇腹をかすめ、ぬかるみに突き刺さった。這い出たふたりに羽音ともに石が降ってきた。悪魔猿の群に郁夫は背中を突き飛ばされて足をすくわれた。頭上から髪をむしられ眼を突かれた。郁夫は泥まみれで無数の手を懸命に払い除けた。
 攻撃が急にやんだ。建物の影や地割れから大蜘蛛が集まってきた。猿の群は慌てふためいて飛び去った。
「あれはの悪夢だ」郁夫の視線に教祖が答えた。
 その言葉で郁夫のなかで何かが結びついた。訪れた悪夢の多くに現れた大蜘蛛は人類に固有の不安ではなかった。彼自身から感染していたのだ。大蜘蛛の群はふたりに群がった。眼玉だらけの頭部や節のある長い肢、膨れては縮む腹が迫る。花弁のような牙がひらいて郁夫の視界を闇に包み込んだ。郁夫は本能的にその牙を掴み、蜘蛛の口に身を乗り出して内臓を喰いちぎった。
 郁夫は噴出する強酸性の毒液を頭から浴びた。棘のような毛に覆われた体表を内側から噛み破った。蜘蛛の肢が地面を掻きむしった。郁夫の血と蜘蛛の毒液で地面がぬかるんだ。大蜘蛛は苦し紛れのように粘つく糸を吐き散らした。ふと隣を見ると教祖も同じことをしていた。郁夫は自分が正しい道を進んでいると信じた。
 数メートル先の大地が陥没し、大蜘蛛の群が潰されて毒液が飛び散った。見上げると巨大な猿が立っていた。体表には無数の顔や手足が蠢いていた。猿が翼を広げると肉色の襞が炎に照り映えた。翼は風をはらんで衝撃波を起こした。枝葉やシダが引きむしられ、樹木がへし折られ、根から土塊を散らして飛んできた。コンクリート塊がふたりをかすめて大蜘蛛を直撃した。舗道がえぐれて毒液が飛び散った。
 赤黒い蔓がのたくりながら四方八方から飛んできた。郁夫と教祖は巻きつかれ、締めつけられて血を吸われた。構わずに一匹、また一匹と大蜘蛛を捕らえてはむさぼり続けた。粘っこい音を立てて毒液がほとばしる。ふたりの腹は泥を吸った水死体さながらに黒く膨れ上がった。骨格が内側から砕けて押し拡げられ、巻きついた蔓が伸びきって引きちぎられた。ひび割れた舗装が重みで飴のように沈んだ。
 大蜘蛛は逃れようともがいて糸を吐き散らした。糸はあらゆるものを絡め取った。岩や大木が引き抜かれ、廃墟が倒壊し、逃げ惑う蜘蛛の群をさらった。ふたりはその強靱な糸を熱帯植物や瓦礫もろとも吸い込んだ。打ち棄てられた車列、枯葉や倒木、信号機や交通標識、引き剥がされた舗装を呑み込んだ。嵐が起きた。空を覆う厚い雲が竜巻のように吸い寄せられた。黒煙に汚染された大気や泥流までもが彼らに吸収された。
 世界はふたりの血管を経巡って全身へ染み渡った。
 郁夫は気づくと茫漠とした混沌を漂っていた。人類の知り得る世界ではないように思えた。ここは、との郁夫の問いに返事はなかった。教祖は郁夫の身中にいた。ふたりは互いを呑み込んで融合していた。その巨大な姿は人類とはかけ離れていた。全身に穿たれた紅の眼。節のある無数の肢には棘のような毛が密生していた。瓦礫やガラス片に覆われた膚には葉脈のような筋が拡がり、腹には赤黒い触手が蠢いた。
 悪魔猿は皺くちゃの赤ら顔を歪めて叫んだ。粘液が煮え立つような音がして全身の皮膚が泡立った。腫瘍のような毛玉が生じては分裂して膨れ上がった。巨大な猿は濡れた塵のように崩れ去り、黒い雲のように広がった。元の大群に戻った悪魔猿は郁夫たちを取り囲んだ。その顔のひとつひとつが郁夫を虐待した幹部らに見えた。郁夫の胸に暗い記憶が胆汁のように湧き出た。その情念は黒く燃える網となってほとばしった。
 猿は叫び声をあげて散った。網は彼らを一匹も残さず絡め取り、締め上げた。猿たちは眼玉を剥き、紫の舌を突き出して動かなくなった。
 郁夫は激しい吐き気に襲われた。膨れ上がった腹がアメーバのように波打ったかと思うと口から世界が噴き出した。泥流、炎と黒煙。鉛色の空。ひび割れた舗装。枯葉、倒木。潰れた車の残骸。瓦礫やアスベストの埃。紅い実。廃墟。熱帯植物……。極彩色の絨毯を拡げるかのようだった。郁夫は再び燃える密林へ放り出された。全身を地面に打ちつけ、うめきながら起き上がった。
 熱帯樹が焼け崩れて火の粉が舞い上がった。視界がひらけた。
 遠くかすむ丘に竜巻のようなものが見えた。垂れ込めた暗雲から黒い塵が滴り落ちる。どす黒く覆われた丘が形を失って崩れた。猿の残骸が世界を腐食しているのだ。大地が溶解して黒い泥沼と化した。激しい嵐が生じて瓦礫が銃弾のように飛んだ。郁夫がしがみついた樹は根本から倒れて泥の激流に呑まれた。郁夫は燃える瓦礫とともに押し流された。彼は必死に教祖を捜した。
 椎奈の声が聞こえたかと思うと骨張った体が激突した。視線が合い、椎奈は郁夫の頸にすがりついた。車の残骸が迫るのが見えた。郁夫は潰される寸前で椎奈を抱き寄せ、身をかわした。車は流木を粉砕した。化学臭が強まり泥流が勢いを増した。虚無が前方で渦を巻いた。瓦礫や大木が呑まれて蒸発するのが見えた。郁夫はもはやこれまでと腹を括った。
 爆音が轟き渡った。それは獣の咆吼にも雷鳴にも聞こえた。鋼の塊が逆光に輝き、瓦礫や岩を跳び伝って迫った。毛むくじゃらの腕が伸びて椎奈の襟首をつかんだ。数珠つながりに郁夫もかっさらわれた。郁夫は虚無に呑まれる教祖を垣間見た。答えを求めるかのように郁夫へ手を伸ばしていた。その手は白い花のように泥へ沈んだ。
 同じ瞬間に椎奈が見たのは不敵な笑みだった。ひげの中の厚い唇がニヤッと歪んだ。糸のように細い眼が鋭く見つめていた。春の日溜まりのような懐かしい温もりを感じた。
「お祖父ちゃん……?」
 白い光にふたりは目覚めた。厚い雲の切れ間から陽が射していた。ふたりは埃やガラス屑を払って立ち上がった。異様な臭いの立ちこめる廃墟だった。旅行代理店だったらしく観光パンフの燃え残りが瓦礫に散乱していた。大型車両の唸りや往来の騒音、得体の知れない振動音が聞こえていた。
 教祖を探す郁夫の表情に焦りと不安が増した。廃墟に強風が吹き抜け、煤を舞い上がらせた。椎奈は一瞬ためらってから彼の袖を引き、無言で指差した。
 教祖は胎児のような姿勢で倒れていた。泥まみれで別人のようにどす黒く膨らんでいた。眼球が飛び出し、紫に膨れた舌が口から溢れていた。両手の指は猿のように鉤型にこわばっていた。P中毒の末期症状だった。郁夫は屍体をじっと見下ろし、何もいわずに路上へ出た。椎奈はあとを追った。
 非常電源の発動機が大きな振動音を立てていた。人通りは普段と変わらなかった。車線が制限されて大きな交差点の信号だけが機能していた。誰もが慎重に運転していて車の流れは緩やかだった。交通整理の警官は見当たらなかった。舗道には隆起や陥没、地割れが生じていた。多くの建物は窓がブルーシートで覆われていて、壁のタイルが皮膚病に侵されたかのようにまだらに剥落していた。コーンやA型バリケード、黄色のテープで危険箇所が囲われていた。どこもかしこも細かいガラス片や漆喰の粉にまみれていた。黒い泥は消火活動の名残か水道管が破裂したせいだろう。地面から土管が飛び出したマンホールも眼についた。関西のガス局の車両や給水車が何台も通過した。
 バスの停留所には特別運行の掲示が出ていた。手書きだった。長蛇の列はいたるところで見られた。水とおにぎりの入荷をコンビニの店員が叫んでいた。新聞で覆われた窓には「煙草、トイレットペーパー、生理用品、電池はありません」との貼り紙があった。飲食店はありあわせの食材で弁当を用意し、暗い建物の前に露店を出していた。電気が来ている区画では軒先に人々が群がって携帯を充電していた。
 黄色いテープが風でビーッと鳴っていた。駐車場の金網に人だかりができていた。金網は大小さまざまな紙片で覆われていた。避難所の情報や安否確認の貼り紙だった。連絡先や伝言が焦げ臭い風に煽られていた。郁夫と椎奈は列には加わらず、コンビニの窓を覆う新聞紙を凝視した。三十年ぶりの震災が報じられていた。黒い泥が多くの生命を押し流していた。
 電話やメールは使えず災害伝言ダイヤルは使い方がわからなかった。瑠璃子や透子とはソーシャルメディアで連絡がついた。誰も怪我ひとつしていなかった。椎奈の両親は許可証を手に入れ、神奈川からひと晩かけてトラックを飛ばしてきていた。一人娘の無事を知るや彼らは泣き崩れた。満載した物資はボランティア団体に引き渡された。
 総ガラス張りの複合公共施設は吊り天井が損壊した。新幹線の橋脚にも大きな被害が出た。交通機関の復旧には長い時間がかかりそうだった。文化横町のビルは窓が数枚割れ、壁の亀裂が増えただけだった。古い時代のコンクリートは丁寧に練られている、と瑠璃子は講釈した。インド雑貨店の商品は無事だった。まだ段ボールから出していないのが幸いしたのだ。透子は溜息混じりに郁夫に告げた。
「なんにも壊れなかったわよ——店はね!」


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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