Pの刺激

第19話: 開かれた扉

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

三人組が侵入したのは、私家版をちょうど読み終えたときだった。椎奈は大音量でデスメタルを聴いていた。二階へ上がってくる足音は聞こえなかった。PDFでの議論にざっと眼を通し、私家版のひとつを「了」まで読んだとき気配を感じた。振り返ると囲まれていた。ダークスーツにサングラス。ゲーセンの拉致未遂犯と格好がそっくりだった。だが全員別人だ。身のこなしも雰囲気も訓練されたプロに見えた。
 椎奈はヘッドフォンを耳からむしり取った。「何あんたら? 人んちへ勝手に——
「生之介の孫娘だな」リーダー格らしき男が進み出た。「痛い目に遭いたくなければ答えろ。未知のPCzをばらまいたのは誰だ。『PUNK』はどこにある」
「は? 何いってんのよ」
 男はPCの画面を指し示した。「これは結末部だ。どこで手に入れた」
「サイトの管理人に訊けば?」
 あとのふたりは悟られぬほどの動きで距離を狭めた。椎奈は急に足元が揺らぐかのような眩暈を感じた。空がかき曇り、蛍光灯が明滅して消えた。PCがバッテリー駆動に切り替わった。三人組の顔に狼狽が走った。青い光が閃いた。雷鳴とも地鳴りともつかない音が轟いた。鼓膜がきーんと鳴り、鼻から熱いものが滴り落ちた。
 窓の外に突然、季節はずれの吹雪が荒れ狂った。化学薬品のような臭いがした。
 男たちは怯えたように部屋の隅を見つめた。椎奈は吐き気をこらえて彼らの視線の先を見た。
 扉が立っていた。あたかも初めからそこにあったかのようだ。黒光りするオーク材、真鍮の把手。何の変哲もない扉に見えた。それがかえって禍々しい。何の支えもなしに直立していた。その扉がいきなり開いた。強烈な風が津波のように押し寄せた。書類が撒き散らされブラインドが狂ったように踊り、ソファーから毛布が剥ぎ取られた。机が倒れてPCが吹っ飛んだ。部屋の扉は蝶番からむしり取られそうになった。渦巻く暴風に椎奈は押し倒された。髪が乱れ、スカートの裾が捲れ上がる。
 男たちは手近なものにしがみつこうとした。紙屑や空き缶が弾丸のようにぶつかってくる。それらは扉に吸い込まれず、扉を迂回するかのように飛び交った。埃臭い辞書が書棚から飛び出し、雪崩のように男たちへ襲いかかった。男たちは力尽きて床や壁から引き剥がされ、横っ飛びに吹っ飛んだ。ひとりは吸い込まれる寸前にかろうじて扉の枠をつかんだ。仲間たちが折り重なって衝突し、サングラスが飛んだ。三人は扉へ消えた。椎奈の手が痺れてきた。指が床板の継ぎ目から離れた。椎奈は激流に逆らうかのようにもがいた。
 悲鳴が吸い込まれて消えた。
 強風は階下の雑貨店まで吹き荒れた。布や服が舞い、棚が倒れた。金物がひしゃげ陶器やガラスが砕けた。扉は急に音高く締まった。嵐も吹雪も途端にやんだ。扉は無人の部屋からかすんで消えた。
 椎奈は熱気と眩しさに平手打ちのような衝撃を受けた。燃える密林にいた。炎が這い寄る泥地に、白装束の人々が横たわっていた。化学臭と灯油の臭い、髪の毛が焦げるような臭いが入り混じった。椎奈は咳き込み、涙と鼻水を流した。障子や壁が倒れて火の粉が舞い上がった。火勢が強まり、黒煙が渦を巻いて上昇した。遠くで鳥や獣が叫んだ。その声はサイレンや野次馬の声を思わせた。
 猿が数匹、嘲笑うように火事場を見物していた。プロレスラー然とした大猿と、四角い頭でガニ股の小猿だ。瘤のように歪んだ背中には蝙蝠の翼が生えていた。椎奈が瞬きすると悪鬼たちは消えた。
 野太い悲鳴に振り向いた。熱気越しに巨大な蜘蛛が見えた。ダークスーツの男が蔓に絡みつかれていた。大蜘蛛がゆっくりと男に近づき、のしかかった。男は眼を見ひらいて獣のように吠えた。鉤爪がその頭を捉えた。大蜘蛛の顎が花弁のようにひらき、牙が剥き出された。唾液が滴って男の眼を灼いた。
 椎奈は顔を背けることすらできなかった。男は頭からバリバリと喰われた。頭部がなくなっても体は惰性のように暴れた。胸郭が噛み砕かれると牙の間から両脚が力尽きたように垂れた。大蜘蛛の口から鮮血が瀧のように溢れた。生々しい臭いが立ちこめた。年若の男が喘ぐような声を漏らした。煤けた顔は涙と鼻水でグシャグシャだった。彼は失禁していた。大蜘蛛の口から腸が垂れていた。それを引きずりながら大蜘蛛は炎の向こうへ消えた。その先には闇が渦巻いていた。
 椎奈は背後から手首をつかまれた。がっしりした体格の男だった。岩のような顔と一重瞼の垂れ眼が迫った。彼女は片手で吊し上げられた。手首の骨が砕けそうだった。馬のいななきのような笑い声がした。年若のほうだ。彼の眼は狐憑きのように吊り上がっていた。瓦の崩れる音がして熱帯樹が燃え崩れた。火の粉が三人へ降りかかる。燃える枯れ葉が舞った。
「この餓鬼……ふざけた真似しやがって。どんな手品を使いやがった」
「知らないわよ! こっちだって何が何だか……」
 椎奈は熱い泥に突き倒された。煙を吸い込んで激しくむせた。年若の男は狐憑きのような眼で枯れた蔓を探した。爪先で蹴って動き出さないのを確かめてから拾い上げ、それで椎奈の両手首を縛った。家畜に無理強いするかのようにひっぱって立つように命じた。声が裏返っていた。
「道案内しろ。焼け死にたくはねえだろうが」
「道なんて知らないわよ!」
 狐男は椎奈の頬を平手で張り飛ばした。彼女は倒れずに持ちこたえ、燃え尽きた倒木を乗り越えて歩きだした。炎に切れ間が生じた。彼らは歩いた。上昇気流の呼んだ強風が密林を揺らした。その音にまぎれて幻聴が聞こえた。人や車の騒音。店先の音楽や呼び込みの声。パチンコ屋の喧噪。宗教の街宣車……。潮騒のようにかすかに聞こえ、風に消えた。
 狐男は正しい道筋を見つけさえすれば元の世界へ戻れると信じ込んだかのようだった。定時連絡をする規則でもあるのか、腕時計や携帯に何度も悪態をついた。黒煙の切れ間に覗く太陽から時間や方位を推し量ろうとした。岩男はむっつりと動じないかに見えた。だが木々のざわめきにさえ神経を尖らせているのが次第にわかってきた。腫れぼったい瞼が痙攣していた。
 うわずった笑い声がした。椎奈が振り向くと狐男は屠殺場のバケツをひっくり返したかのような血を浴びていた。大蜘蛛が岩男を生きたままむさぼっていた。椎奈は逃げた。胸の悪くなる音が耳に残った。狐男はすがりつくように追ってきた。椎奈には振り切る余力がなかった。
 トボトボと歩いていると地面が揺らいだ。狐男の足元がすり鉢状に崩れた。渦巻く泥の底には何かが潜んでいた。巨大な蟻地獄だった。這い上がろうともがく男を怪物は鷹揚に待ち受けた。鋭い顎をガチガチと交差させる。椎奈は熱帯樹にしがみついて一部始終を見てしまった。胴体を切断された男は泥中へ消えるまで笑っていた。孔はゆっくりと埋まり、赤黒く濡れた砂だけが残った。
 吹き荒れる風。地鳴りのような火災の音。椎奈は恐怖と惨めさで啜り泣いた。幼児のように手の甲で涙を拭った。両手を縛る蔓はいつの間にか切れていた。痛むほど喉が渇いた。重い脚を引きずるようにして歩いた。火傷や筋肉痛、いつ負ったかわからない打ち身が痛んだ。乾いた血で膚が痒かった。自分の足でこれだけ歩いたのは生まれて初めてだった。生きて元の世界に還れたら——いや、意地でも生き延びて書いてやる。この経験を。
 やがて幻覚に見舞われるようになった。大勢の悲鳴や車のクラクションが風に乗って届いた。発電所の事故を報じる臨時ニュースが一瞬だけ聞こえた。うろたえた顔でさまよう人々も見かけた。その多くは靴を履いていなかった。目前に渦巻く孔が現れたこともある。歪んだ空間越しに街の往来が見えた。覗き込もうとしたら向こう側の人々に気づかれた。指差されて騒がれ、怖くなって逃げた。
 どれだけ歩いたろう。何日も経った気がした。ふと顔を上げた。絡み合う枝葉の向こうに影が見えた。密林へ吸い込まれる前の世界に似ていた。椎奈は煤と泥に汚れた手で眼をこすった。それでも変わらずそこにある。都会のビル群に見えた。垂れ込めた暗雲が炎に照らされていた。高層ビルの中腹から黒煙が吹き上げられていた。倒壊したビルの瓦礫から声が聞こえた。サイレンが行き交っていた。風はきな臭い熱気や灰色の埃、漏れ出たガスや化学臭を含んでいた。建物は蔓に絡みつかれていた。外壁に裂け目のようなひび割れが見えた。
「何これ……」
 渦巻く黒い孔から蜃気楼が漂い出ているのだった。椎奈は吸い寄せられるように近づいた。熱気が押し寄せてきた。罵声、怒号、クラクション。爆発音。地鳴りのような間欠的な衝撃。建物が燃え盛り、崩落する音。瓦礫混じりの黒い泥流が渋滞の車列に忍び寄った。舗装のひび割れから泥が湧出し、熱帯植物が生い茂っていた。人々の形相は鬼のようだった。どの顔も煤にまみれて正気を失っていた。建物や車が燃えながら土砂に押し流された。小型車が転覆する一瞬、窓を叩いて叫ぶ女が見えた。
 暴徒が割れたショーウィンドウから侵入して金品を略奪していた。肥った女が老人を突き飛ばした。母親に手を引かれた子どもが転んで人波に呑まれた。寝間着でさまよう老婆や泣きながら親を捜す子どもが見えた。人波から離れた場所に乳母車が取り残されていた。赤ん坊の遺骸は苔に覆われていた。それらすべてが瓦礫混じりの泥流と生い茂る植物に呑まれた。
 身動きのとれない車列へ巨大な蔓が絡みついた。車は閉じ込められた人々もろとも貫かれ、アルミ箔のように絞め潰された。フロントガラスが蜘蛛の巣のように砕けて赤く染まった。車列はたちまち黒い泥と無数の葉で覆われた。蔓は逃げ惑う人々を捕らえては血を吸った。太い根につまずいたり、蔓に足をすくわれたりする者も多かった。人びとは子どもや老人や妊婦を容赦なく踏みつけた。
 地下鉄の出入口から黒煙が噴き上がっていた。大蜘蛛の群がゾロゾロと出てきて街中へ散らばり、粘性の糸を吐いて人々を絡めとった。頭部を繭にされた子どもを家族が半狂乱で引き剥がしていた。父親が鉄パイプで蜘蛛を遠ざけ、母親と祖父母が繭をむしり取った。子どもの顔は食いちぎられ溶解していた。
 黒い泥流はそれ自体が生き物のようだった。押し流されるバスに炎が迫った。乗客が閉じ込められた車内は黒煙に包まれた。流れてきた看板が窓を突き破り、独楽のように回転する車が側面に衝突した。頭を血まみれにした男がはずみで転がり出た。男は蔓に絡め取られて生きながら血を吸われた。衝撃とともに火球が膨れ上がり、車列を次々に呑み込んだ。鉄塊やガラス片、燃えるタイヤ、泥水を吸った黒い人体の断片が飛散し、散弾のように人々へ襲いかかった。
 絶叫とともに人間が降ってきた。火や大蜘蛛に追われてビルの上層階から飛び降りたのだ。地響きをたてて歩道へ叩きつけられた。その光景に眼を剥いて叫んだ女も泥に呑まれた。落ちてきた人間は爆撃のように群衆を打ち倒した。炎に包まれて暴れながら落下する者や、白い粘液で宙吊りとなり、伝い降りた蜘蛛に生きながら喰われる者もいた。ガスに引火した建物が爆発した。噴き出す黒煙。ガラス片を浴びた人々の声。泥中に倒れたまま動かない男。よろめきながらその場を離れる老人。眼を覆う両手から血を流す女。火だるまの人間が転がり出た。誰も彼を助けなかった。人々は蔦や泥流に足を取られながら虫を散らすように遠ざかった。
 キーッ! キーッ! キーッ!
 暗い血の色に染まった空。形の定まらない暗雲のような影が飛来した。鳥の群ではなかった。蝙蝠のような翼を持つ猿の軍勢だった。硫黄の火が降りはじめた。
 文化横町にも火の手は迫ろうとしていた。
 新装開店へ向けた段ボール箱が並ぶ店内。郁夫は瑠璃子と、透子は実家と連絡を取ろうとしていた。何度試してもメールは送信に失敗した。電話は「只今回線が混み合っております」との案内音声を繰り返した。災害伝言ダイヤルは一七一だったか一一七だったか、ふたりとも思い出せない。空気がきな臭かった。吹雪が荒れ狂う窓の外には紅い光がちらついた。騒ぎは間近に迫っていた。地鳴りのような爆発音も聞こえる。どこかでガスが漏れているような臭いもした。眩暈のような異様な揺れが続いていた。建物がミシミシ軋んだ。
「兄貴もさっさと逃げたほうがいいすよ!」
 丸米はそう忠告し、小二女児の手を引いて去った。臨時ニュースを流していた二階のテレビは、今では砂嵐しか映らない。異様な世界には慣れているはずの郁夫も、現実を浸食する悪夢には混乱した。吾朗の私物で何を持ち出せばいいかわからなかった。メールも電話も使えないのでは本人に確認できない。透子は普段から緊急時持ち出し用のリュックを店に用意していた。郁夫は携帯だけを手にして透子と表へ飛び出した。
 どの店もシャッターが降りていた。横丁を出ると閑散とした通りに爆音が迫った。散乱したゴミを縫うようにしてバイクが現れた。バイクは路面に火花を散らし、後輪を横滑りさせて停車した。黒ジーンズにショートブーツ、革ジャンの痩せた男だ。男はヘルメットの風除けをあげた。
「若様! なんでこんなとこに。早く避難——
「乗れ」教祖は風除けを下ろし、エンジンを噴かした。
「ちょっといっ君!」
「悪い。ひとりで逃げて!」
 郁夫は教祖の後ろに飛び乗った。バイクは爆音をたてて走り去った。透子は茫然と見送った。
 バイクは渋滞する車列の隙間を縫った。炎と暴力の只中を駆け抜ける。郁夫はしっかりと見続けた。現実世界では二度と経験すると思わなかった悪夢を。木造モルタルの老朽化したアパートが見えてきた。教祖は敷地へバイクを乗り入れて停車し、郁夫に降りるよう促した。エンジンの冷える音がした。サイレンや爆発音が遠い花火のように聞こえた。空にはどす黒い煙が垂れ込め、空襲のように紅く照り映えていた。烏が一羽、孔のような黒い目で電線から郁夫を見下ろしていた。
 教祖はヘルメットを抱えて階段を登り、表札のない扉を開けて土足で室内に入った。郁夫もそれに倣った。四畳半の座敷は空気がよどんでいた。長いあいだ無人だった部屋に特有のかび臭さ。壁にはひびや剥落があり、畳は黄ばんでささくれていた。教祖の無表情から考えは読めなかった。行動をともにしていた頃、常に緊張を強いられたのを郁夫は思い出した。彼がどのような人物であるかを改めて意識した。睾丸が縮み上がり、口が渇いて吐き気がこみあげた。ここで何をされる? 監禁、暴行——
 若き教祖はポケットから何かをつかみ出した。郁夫へ差し出す。
 掌には黒い錠剤のシートが乗っていた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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