Pの刺激

第16話: 再会

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

若様……」
「警告したはずだ。手を煩わすな」
 薄暗い大食堂で若き教祖は月のように浮かび上がって見えた。青ざめた膚と白い司祭服のせいだ。歳月が声も風貌も変えていた。薄い眉、ナイフで切り込んだかのような鋭い眼。病的に骨ばった体は頸だけが逞しかった。
「こんなこったろうと思いましたよ」郁夫は椅子を勝手に引いて着席した。「あんたたちは最初からつるんでたんだな。資金の出所は支倉グループだった。原稿を切り刻んで街中にばらまかせた。まさかその爺さんが持ってたとはね。なぜそんな真似を。Pと何か関係でも?」
 大食堂は静まり返っていた。クローン軍団は銅像のように衣擦れさえ立てなかった。魔女の晩餐を思わせる料理は冷えきっていた。教祖の声は無機質だった。「汚染は拡大している。第三者が介在しはじめた。我々が把握していない断片が紛れ込んできている」
「マニアの捏造じゃないすか」
「大半は贋作だ。だが中には正しい配列を知らなければ書けないものもある」
「椎奈について話があるんじゃなかったのか」支倉が口を挟んだ。
 郁夫は驚いて振り向いた。存在を忘れていた。支倉の顔は土気色だった。相手を頭から囓りかねない猛烈さは息を潜めていた。富豪らしい威厳はどこかに消えていた。
「何かいい残さなかったか、あの子は……」
「死んだみたいないい方ですね。何をです」
「生之介のことだ」
「本人に訊けばいいじゃないすか」郁夫は少し考えた。「ははぁ、読めてきた。原稿を細切れにして撒いたのは完成稿の持ち主をおびき出すためだったんすね。草稿をあんな風に扱われたら黙ってられない。誰が何の目的でやったか嗅ぎ回りだすに決まってる。案の定、動きだした奴がいた。編集者と孫娘だ。宍戸さんは犯人を捜しはじめたから違う。椎奈も期待外れだった。そこで彼女を人質にして犯人をおびき寄せることにした」
「逃げた先を知ってるんじゃないのか」
「拉致したのはそっちじゃ……」
 再び重苦しい沈黙。やがて支倉が口をひらいた。
「教団が遣いをやったのは事実だ。犯人から接触があったか確かめるためだ。私は関わっていない。実行部隊が君の事務所へ入った直後、あの子は失踪した。部隊の連絡も途絶えた」
「ひどい荒らされようでしたよ。何を捜してたんで?」
「部隊には何も傷つけんよう厳命したと聞いている。そもそも原稿はこちらが押さえている。あの子が何を隠し持っていたというのだ」
「この際、手札は明かしませんか。そっちは謎の第三勢力の正体が知りたい。こっちは椎奈を取り戻したい。原稿もです。編集者が喉から手が出るほど欲しがってる」
「我々が所有しておるのは結末がない草稿だ。手持ちの断片はすでに撒き尽くした。誰でも自由に閲覧できる。無料で読めるものに誰が金を払う」
「みんな正しい配列を知りたいんすよ。フィルムの切れ端をただ集めたって映画にならない」郁夫は瑠璃子の講釈を思い出した。編集こそが物語を生み出すと彼女は語った。「階下の雑貨屋もいってましたよ。商売のコツは陳列棚の編集。関連づけで商品を並べるってね。私家版ってのは自分の読み方を紹介してるんでしょ。みんな他人の編集ぶりが気になるんすよ。まして正解があるとなりゃ……」
「『悪夢っ子』らしい発想だな」若き教祖はかすかに頷いた。「ひとは物語がなければ生きられない。混沌に意味を見いだすべく世界を並べ替える」
「あの子を取り戻すのに役立つなら何でも協力しますよ。重要な手がかりがどこかに埋もれてるかも。たとえば……Pの隠し場所を記した地図とか」
「君はさっきから何をピーピーいってるのだ。寝ぼけてるのか?」
 郁夫は支倉を哀れむように見つめた。「生まれてこの方、悪夢から醒めた試しはありませんよ」
「文化横町まで送ろう」若き教祖は静かに椅子を引いて立ち上がった。これ以上の手がかりは得られそうもない。郁夫は無言で教祖に続いた。富豪は疲れきったように手を振り、料理を下げさせた。
 郁夫は戸口の段差で振り向いた。「最後にひとつだけ教えてください」
 支倉は視線を上げなかった。年相応に老けて見えた。溜息とともに声を漏らす。「なんだね」
「そのゼリーみたいなのは?」強面男が下げようとする皿を郁夫は指し示した。
「知りたいのは虫の種類かね。それとも調理法か」
「失礼しました。じゃ……」
 郁夫は車中で教祖の異様な存在感に息が詰まりそうだった。郁夫は多くの夢に潜るうちに他人の内面に驚きを感じなくなっていた。それが思い上がりだったと今さらながら思い知らされた。
「なぜこんな真似を。悪夢は終わったっていったのは若様じゃないすか」
「かつての幹部らに担ぎ上げられた。教祖の血を継いだのは私だけだ。私にも彼らにも選ぶ余地はなかった」
「あいつら生きてたんすね。あの爺さんとはいつからのつきあいなんです」
「支倉か、生之介か」
「両方お聞かせ願えますかね」
「答えは同じだ。原稿を巡る因縁。それ以上は説明できない」
「先代からって意味ですか。それとも『失踪』の前後?」答えはなかった。「丸米が生きてることはご存知で?」
「いずれ処分される。おまえがやったのはそういうことだ」
「取引しませんか。異本の手がかりをつかんだら教えますよ。そっちは丸米の脱会を認め、手を出さない」
「条件をつけられる立場だと思っているのか」
「悪夢潜りは若様だけじゃないんですよ。どうやって連絡すれば?」
「必要があれば接触する」
 黒塗りの車が大通りへ消えると、すべてが幻だったような気がした。横町はいつになく混雑していた。事務所へ近づくにつれ人混みは増した。ひとを掻き分け、店先のワゴンや看板をかわして進んだ。長蛇の列はインド雑貨店へ続いていた。透子が悲鳴混じりに叫んだ。「やっと帰ってきた!」
「何すかこの騒ぎ?」
 郁夫は更紗ドレスの争奪戦に巻き込まれた。掻き分けて進んだ。中年女たちが血相を変えて商品を引っぱり合った。重ね着の老人が香炉を品定めしていた。男子高校生の集団はカーマ・スートラの図解に歓声をあげた。
「お願い、猫の手も借りたいの。千八十円になります。ちょっとレジを——君それポケットから出して! ちゃんとお金払ってね! ありがとうございます、またどうぞ。あっ、今日はセールなのでスタンプは」
 郁夫は包装と万引きの監視を担当した。夕方には売るものが何ひとつなくなった。最後の客は透子が着ているワンピースを売ってくれとせがみ、剥ぎ取りかねない勢いだった。郁夫はその中年女を追い出して扉を締めた。透子が素早く施錠した。ふたりは長い溜息をついて床にへたり込んだ。
 店内には什器しか残されなかった。札束を手分けして数えた。奇声を発して抱き合い、札束を放り上げて舞い落ちるのを愉しんだ。その金をATMへ運んだ。経験したことのないスリルだった。透子は刻文町へ繰り出そうと提案した。郁夫は体力が持つまいと断った。透子は口に出した以上に残念そうだった。
 郁夫はボロ切れのような気分で事務所へ上がった。蛇口から水をがぶ飲みし、懐かしいソファーへぶっ倒れた。泥のような眠りに引き込まれるのをかろうじて踏み留まった。吾朗に電話した。
「お掛けになった電話は現在、電波の届かない場所にあるか、電源が——
 オフ会で知り合った女とでもよろしくやっているのだろう。携帯を床へ放り出し、エジプトのミイラよろしく腹の上で両手を組んだ。すぐさま眠りに落ちた。休息の眠りではない。
 恐怖の源に立ち向かうのだ。炎の悪夢に。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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