Pの刺激

第13話: 家捜し

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

若様は立ち止まって郁夫に向き直った。揺らぐ熱気と逆光で表情は見えない。
「羅門の言葉に近づくな、郁夫」
「何すかそれ。どういう意味だよ」
「人々の認知は遷移しつつある。青葉市は湧出点となった。おまえの手に負える事態ではない」
「おれ、若様みたいに頭良くないんすよ。忘れたんすか」
 炎が渦巻き、爆ぜて火の粉をまき散らした。壁や天井が崩落した。そのさなかでも少年の言葉は明瞭に聞こえた。頭蓋の内部で鳴り響くかのようだった。「何に首を突っ込んでいるのかおまえはわかっていない」
「脅すつもりすか。昔はもっと信用してくれたじゃないすか」汗は塩となり膚には火膨れが生じた。それでも郁夫には熱さを感じる余裕さえない。
「懐かしむような過去ではあるまい」
「十三年ぶりの再会でそのいい草かよ。今どこすか。生きてるのなら逢いたい」
 燃える障子が両者のあいだに倒れ込んだ。炎と黒煙が渦を巻いて上昇する。火の粉が舞い散った。
「私は過去の人間だ。おまえの悪夢は終わった。忘れるのだ」
「待って。置いていかないで。ひとりにしないでくれ」
 郁夫は炎と煙に手を伸ばした。天井が大きくたわみ、瓦と燃え盛る梁が目前に落下した。相手の姿は見えなくなった。郁夫は喘いで夢から醒めた。全身が汗に濡れ、心臓が早鐘を打っている。体を起こそうとして転落しかけた。シングルベッドだった。うなされるのも道理だ。
 ひとり暮らしのワンルームには無駄なものが何ひとつなかった。ああいう店をやっている反動だと部屋の主が語ったのを郁夫は思い出した。喉が渇いて荒れていた。カーテンの外は青みを帯びていた。壁の時計を見た。夜明けが近い。透子が寝返りを打って郁夫の顔を覗き込み、どうしたのと寝ぼけ眼で尋ねた。ちょっとね、と郁夫はごまかした。
「怖い夢見たのね。可哀想に」
 むっちりした白い腕が郁夫を抱き寄せた。透子はまた寝息を立てはじめた。
 何軒も梯子したのを郁夫は思い出した。透子は昔の男を罵倒していた。お前に店なんてやれるわけがない、と脱サラの決意を嗤われたのだそうだ。マンションへ向かう途中のコンビニで安物の大瓶ワインを買った。脚がもつれるたびに支えあって笑った。エレベーターで酒臭いキスを交わしたのは憶えている。
 忘れろ、か……。
 郁夫は冴えてしまった眼で天井を眺めた。炎に呑まれた信者たちがそこに重なった。数時間前の記憶もおぼろげなのに過去の亡霊は今では鮮明によみがえっていた。噴水の前で庭師と話し込む小男が見えた。四角頭でガニ股、襟の大きい紫の開襟シャツ。片頬にケロイドがあった。
 郁夫はその男を知っていることに気づいた。道場に火を放った幹部だ。
 世間がとっくに働きだした時間にふたりは起きてシャワーを浴びた。透子は紫蘇と茄子の味噌汁をつくった。納豆に葱を刻んで自家製の練り梅を加え、やはり自家製のヨーグルトにミントを添えた。ふたりは文化横丁に遅い出勤をした。透子は鍵を手にして動きをとめた。金魚でも呑み込んだような顔で郁夫を見た。郁夫は扉を見た。シリンダー錠が壊されていた。ふたりは見つめ合った。
 郁夫は扉を開けて店内へ踏み込んだ。靴底がガラスや瀬戸物の破片を踏んだ。透子は玄関先にへたり込んだ。店内は台風が吹き荒れたかのようだった。棚が倒れ、タペストリーは壁から剥ぎ取られていた。服は一着残らず床でガラス屑にまみれていた。郁夫はカウンターの内側へまわった。見たところ金庫やレジに被害はない。二階へ上がった。そのときまで郁夫は椎奈を疑っていた。扉は強烈な力で吹き飛ばされたかのように傾き、一番下の蝶番でかろうじて繋がっていた。ソファーや重い机が転がっていた。ブラインドはグシャグシャだ。
 散乱した書類が内側から青白く光っていた。モバイルPCを発掘した。キーに触れていないのに画面に文章がひとりでに打ち込まれていく。
「……の物語が書かれた本を読み耽る傴僂の猿を閉じ込めている檻の建つ荒れ果てた丘が見下ろす小さな街を覆い尽くす黒い霧が呼ぶ世界の終わりの物語が書かれた本を読みふける傴僂の猿…………」
 スクリーンセイバーだった。カーソルを動かすと小説らしき文章が表示された。PDFに投稿された私家版だった。文末に「了」の文字があった。充電残量は六〇%。電源コードが外れてからそう時間は経っていない。PCを机に置いて部屋を見渡した。倒れた椅子の上にヘッドフォンが垂れている。真紅の携帯を発掘した。音楽再生アプリが表示されていた。こちらの充電は切れる寸前だった。
 光と振動が着信を報せた。履歴を調べようとしていた郁夫は後ろめたさに飛び上がった。
「なんであんたが出んのよ。あの子は」大音量のロックが聞こえた。
「瑠璃子さん……そっちじゃないんですか」
「あんた何をやらかしたの。手を出すなっていったでしょ」
「家にも帰ってないんですね。どこへ行くとか聞いてませんか」
「何があったの」
 室内が荒らされて椎奈が消えたことを郁夫は説明した。
「その携帯はもとの場所へ戻して。母親に当たってみる。通報はまだ? こっちでやるから動かないで。透子さんは?」下にいる、といいかけた郁夫の背筋に寒気が走った。階下から笑い声が聞こえてきたのだ。「ひとりきりにしたの? 莫迦ね、一緒にいてあげなさい!」
 充電切れの警告音は切られるのとほぼ同時だった。郁夫は階下へ駆け下りた。
 透子は戸口にへたり込んだままだった。うつむいて肩を慄わせている。郁夫はひざまずいて透子の肩を揺すった。透子は顔を上げ、郁夫と視線が合うなりニッタリ笑った。それから力いっぱい郁夫を抱き締めた。
「これで借金が完済できる!」
 透子はストーカー被害経験があり、部屋荒らしに対応する保険に入っていた。郁夫の携帯が振動した。
「今そっちへ向かってる。母親は警察には届けるなといってる。構うと本人のためにならない。娘はもう社会人なんだからこれ以上煩わされたくないって。父親は電話にも出ない。あたしにも保護責任がある。じゃ信号変わったから」
「はぁー。こりゃ徹底的にやられたね」
 切れるのと声は同時だった。ふたり組の警官が断りもなく入ってきた。眼鏡をかけた中年とにやけた顔の若者だ。郁夫の中学時代まで江虫家には警官がしばしば訪れた。「近くに来たついでの挨拶」と称していた。瑠璃子は動じずに茶飲み話をしていた。どの警官も友人のように打ち解けて見えたが本心はそうではなかったろうし、瑠璃子もまた気を許してはいなかったはずだ。おそらく今でもあの一家は郁夫と同様に監視されているのだろう。刻文町派出所の夜勤担当には郁夫の顔なじみもいた。だがこのふたりは初めてだ。向こうも郁夫を知らないようだ。警官コンビは退屈そうに室内を眺め、おざなりな事情聴取をした。
「まごころ何だって?」
「『州辻まごころサービス』」
「『まごころサービス』ね。何だそれ」
「人助けすよ。ひとやモノが見つからない。お巡りさんを呼ぶほどじゃない。僕の出番です」
「いくら儲かるの」
「こいつニートですよ先輩。いいご身分すね。こっちはあくせく働いて莫迦みたいだ」
 出自の記録は警察に残っている。その気になれば調べられるはずだ。事件を知る警官がめっきり減ったのを郁夫は感じた。あれだけの死が忘れられていく。なかったことにされるのだ。
 透子は抗議した。「このひとは探偵です。やましいことは何もありません」
 警官たちは顔を見合わせて薄く笑った。年かさのほうが真顔になった。「それならちょっと事情が違ってくるよ。届けは出してる? 誰かの恨みを買ったんじゃないの」
「まだ説明が必要ですか? ストーカーが——
「お嬢ちゃんには訊いてないよ」
 瑠璃子が現れた。中年警官が嬉しそうに叫んだ。「ルリちゃん! どしたのこんなとこへ」
「ご挨拶ね。うちのビルよ」
 瑠璃子はふたりの警官を表へ連れ出し、小声で話した。ふたりは大人しく帰っていった。瑠璃子は怒りを隠さずに郁夫を連れて二階へ上がった。部屋の惨状に彼女は動じなかった。
「まだ連絡ない?」
「携帯番号もメアドも教えてませんよ。そっちにも?」
 瑠璃子は荒々しく溜息をついた。「何か手がかりになりそうなことは」
 郁夫はPCと携帯を見せ、聞き込みとの類似性を話した。
「あんたの商売でしょ。何とかしなさい」
「無報酬でしょうね……」
「あんたの不手際よ。面倒見る約束だったでしょ」
「親ってそんなもんすかねぇ。どこも江虫家みたいかと思ってましたけど」
「あの家は特別よ」吐き棄てて瑠璃子は去った。
 瑠璃子と入れ違いに保険調査員が訪れた。それから横町の隣人が入れ替わり立ち替わり見物に現れた。彼らは何も知らなかった。怪しげな人物や椎奈が外へ出るところは目撃されていなかった。悲鳴や物音を聞いた者もなかった。ようやく人が絶えると郁夫は傷物商品を「わけあり特価セール」として処分する準備を手伝わされた。倒れた棚を起こして破片を掃き寄せた。商品についた細かいガラス屑をブラシや粘着テープで取り除いた。
 かつてなく活き活きとしていた透子が急に静かになった。黒いレースの下着を訝しげにつまみ上げた。
 郁夫が抗弁した。「学生のじゃないかな」
「迷惑なのよねあれ。客に誤解されるのよ。上でヨガ教室でもやってるのかって」
 郁夫は床で銀色に光るものに気づいた。つまみ上げて見つめた。掌に載せ、これは何かと尋ねた。
「知らない。うちの商品じゃないわ」
 ピンバッチだった。輝くブラウン管が象られている。
 郁夫はそれを握り締めた。針が皮膚を傷つけるのも構わずに。眠たげな眼は過去の炎を見据えていた。どす黒い羊水が彼の足首を捕らえて引き戻そうとしていた。毛穴に染みついた臭いからは逃れられない。どんなに清めてもすれ違う人々が顔をしかめる。生まれ育ちとはそういうものだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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