炎は渦を巻いて弾け、逆流する瀧のように天井を焦がし、舐めるように這い拡がった。黒い毒気を吐いて火の粉を胞子のごとく撒き散らした。四方八方から壁のように迫り、頭を庇う郁夫の両腕に降りかかった。刺激臭のある煙が体内へ侵入しようとする。薬品に浸したボロ切れを、力ずくで鼻や喉に詰め込まれるかのようだ。灼けつく痛みに郁夫はむせて涙を流した。その涙もたちまち乾いた。睫毛や眉が焦げ落ちて髪の毛が縮れた。燃え盛り爆ぜる音のほかは奇妙なほど静かだ。信者らが生きたまま焼かれているとはとても思えない。サイレンや野次馬の声が聞こえた。
末期癌の教祖は信者を道連れにした。軍隊を生き埋めにする古代の王のようだった。医療機具が運び込まれて祭壇に据えられ、灯油が撒かれた。教祖を崇める人々は道場から庭先まで溢れ出た。元看護師の巫女がバイタルサインの停止を認め、鷲鼻の医師が教祖の死を告げた。配られていたPを人々は服用した。信者らは髪を振り乱してお題目を絶叫し、ひとり、またひとりと昏倒した。幹部らは祭壇を押し倒した。燭台の火は競うように駆け巡った。プロレスラー然とした元弁護士と、四角頭でガニ股の元ヤクザは姿を消した。祭壇の医療ベッドが炎に覆われた。
郁夫はカルトの子どもだった。普通の子らが九九を暗唱しているとき、彼はお題目を唱えていた。普通の子らが笑いながら駆けているとき、彼は教祖を伏し拝んでいた。狂人の群を家族と呼ばされ、社会病質者を神と崇めさせられた。信者らがいかに傲然と謗ろうと、外と内、どちらの世界が異常かは明らかだった。だが彼は無力だった。人生を差し出して適応するしかなかった。自分が儀式の産物なのは薄々気づいていた。そういうものとして受け入れ、疑問すら持たなかった。家庭の団欒など遠い別世界だった。
州辻なる信者がいるにはいた。彼が就学年齢に達する前に老衰で死んだ。顔つきや立ち居ぶるまいで、もしやと疑わせる男女もいた。だからどうということもなかった。その日その日のお勤めをこなすので精一杯だった。親のわからぬ子どもは教団では珍しくなかった。自立心を養う「棄て育て」が推奨されていた。そのなかでなぜか彼だけが、教祖の息子のお供として小学校へ通うことを許された。若様が中学へ上がってからも惰性のように通わされた。
郁夫のほかに「悪夢っ子組」は十二名いた。多くは思春期の少年少女で幼児も二名含まれた。十五歳以上はいなかった。通常Pは幻覚と昏睡を生じさせる。彼らは特異体質だった。精神感応で他人の夢や幻覚に入り込んだ。教団はそれを「潜る」と称した。Pはひとたび摂取すれば脳の神経伝達物質と置き換わる。服用を重ねるにつれ効きにくくなり禁断症状も悪化する。わずかな配給を待つしかない信者らは郁夫たちにつらく当たった。儀式に供せられるたび大量のPを投与されたからだ。
幼いうちから薬漬けになる代償は大きい。誰もがどこかしら発育に異常があった。背骨や手足が歪んだ子。関節に瘤が生じた子。教団の滅亡で郁夫は否応なしにPを断った。にも関わらず成人するまでリンパ節の腫れに悩まされた。そもそも受胎時からPの影響下にあったのだ。特異体質も薬害かもしれない。
実験は子どもたちの体を蝕んだ。ひとり、またひとりと脱落した。「悪夢払いの儀」は一般信者を前にした公開実験だった。深い昏睡に陥ったまま心臓麻痺で死ぬ子もいた。戸籍を持たない子どもが多かった。法的に存在しない子に大人たちは何をしてもよかった。順応力の強い子どもだけが生き残った。郁夫がそうだった。実験を重ねるにつれ能力を伸ばし、遂にはPを服用せずとも潜れるようになった。
仲間たちは外の世界を知らずに一生を終えた。静かに運命を受け入れて炎に呑まれた子。Pで動けなくなった子。仲間を助けようとして逃げ遅れた子……。郁夫は彼らを火中へ置き去りにした。振り返りもせずに自分だけが逃げ延びた。その罪悪感を背負って生きてきた。ほかにも生き残りがいると知ったのは、中学を出て夜の街で商売するようになってからだ。郁夫は吾朗にも能力を明かさなかった。隠せなかった相手は瑠璃子だけだ。郁夫が十二歳のときの事件だった。
吾朗の父親は浮き世離れした画家だった。金にも他人にも無頓着で夫婦間はしばしば険悪になった。息子は緩衝役にならなかった。空気に気づかない屈託のなさがむしろ誰からも愛されていた。家庭内の緊張は郁夫によってもたらされたのかもしれなかった。瑠璃子は子どもを喰い物にした教団に憤っていた。子どもを救うどころか良識ぶって批難するばかりの社会に憤っていた。マスコミや警察から郁夫を護るため彼女がどれだけ心を砕いているか、夫は知ろうともしなかった。妻の酔狂な道楽のように捉えて自分からは関わらなかった。郁夫はそのすべてに気づいていないかのように愚かしい道化を演じ続けた。
その晩も郁夫は家庭内の空気が帯電するのを察した。そんなとき彼はいつも燃える道場の刺激臭を嗅ぎ、舌に墨の味を感じた。夕食後、居間でゲームをしていたときだった。いつものロック音楽がかかっていないのに気づいた。電子音だけが虚ろに響いていた。もう片づけて宿題しようよ、と郁夫は親友に何度か促した。
「なんで? もうちょいでクリアできんのに」
吾朗は要領がよかった。母親が爆発すると勉強を口実に子ども部屋へ逃げる。郁夫はゲーム機を片づけていて遅れた。またしても長い小言を頂戴した。そんなとき郁夫は目の前の大人に幼い女の子の影を見た。それは戦友と過ごすかのような時間にも感じられた。その夜はとりわけ瑠璃子の神経が参っていると感じた。剃刀のような美しさが損なわれて年齢相応の人間に見えた。郁夫は能力をニキビのように持て余していた。そのときまで使い途があるとは考えなかった。郁夫は一家が寝静まるのを待った。
当時の悪夢は人それぞれの色彩を帯びていた。どす黒い密林はまだ人々の魂を冒してはいなかった。吾朗の父親はゴーギャンの南の島で地元民の女と戯れていた。枕を並べた妻は過去の亡霊に悩まされていた。その世界は総天然色だった。いかにも芸術家を夫に持つ映画マニアらしかった。郁夫の前で記憶が再現された。
瑠璃子はかつて職場内で不倫をしていた。関係がダレはじめた頃に脚の骨を折った画家が入院してきた。映画の話題で盛り上がり、あれよという間に結婚が決まった。外科医とは関係を絶った。月日は流れて愛息は小学生になる。外科医が寄りを戻そうと連絡してきた。拒絶したがしつこい。一度だけ逢って関係を持った。もう近づかないと約束させて別れた。数ヶ月は嘘のように何もなかった。忘れかけた頃に男の自殺を知らされた。医療ミスの責任を取らされて辞職。離婚して株に手を出し多額の負債を抱えていた。
その報せを聞いてから夢に亡霊が訪れるようになった。
暴風雨。稲光がうら寂しい丘の墓地を青く照らした。指先から骨の覗く手が墓石を押し退けた。死んだ男はぬかるみへ這い上がった。髪や歯は抜け落ち、虚ろな眼窩や腐った皮膚に蛆がうごめいていた。身動きするたびに腐肉がしたたり落ちた。恨みがましく瑠璃子の名を呼んだ。洞窟を吹き抜ける風のような声だった。制服姿の看護師はへたり込んだ。怪物は両手を差し伸べて迫った。腐敗臭が鼻を衝いた。
はいはい、ご免なさいねと郁夫は割って入った。酒屋の夢から拝借してきた琥珀色の瓶をゾンビの口へ突っ込んだ。死者は反射的に喉を鳴らして漢方酒を呑んだ。空瓶が落ちて転がった。命を養うという銘柄が効いた。腐肉の下から組織が再生した。見る見るうちに背筋が伸びて髪や歯が生え整った。剝いた茹で卵のように膚が色艶を取り戻した。糊の利いた白衣まで着込んでいた。
外科医は戸惑ったように瑠璃子を見つめた。ただの弱々しい男だった。
「瑠璃子さん、いってやりなよ。あんたなんか嫌いだって」
「しくじったのは自分のせいでしょ」瑠璃子は手近な石を拾って投げつけた。夫の前でも弱みを見せない女が泣きじゃくっていた。それを見ても郁夫は驚かなかった。「あたしにも人生がある。放っといてよ!」
「悪かった……穴があったら入りたい」男は俯いて両手で顔を覆った。
「出てきた場所を忘れたの」
「もう二度と君を悩ませない」
男は墓穴へ戻り、内側から墓石をずらして蓋をした。暴風雨が急にやんだ。晴れ間が射して濡れた草木が輝く。青空に虹が架かり小鳥がさえずった。瑠璃子はのろのろと立ち上がった。疑うように墓石を白サンダルの爪先でつついた。地中に何かがいる気配はない。
「眼が醒める頃には墓は消えてますよ。この丘は花畑にでもなるでしょう」
瑠璃子は安堵したように眼を閉じ、深呼吸して花の香りを嗅いだ。白い霞が立ちこめて世界が薄らいだ。
深い睡眠へ移行するのを確かめて郁夫は泡を抜け出た。まだ夜明けまで時間がある。街の上空を同級生の家へ向かった。その女子は温泉好きだった。夢の舞台も露天風呂や旅館が多かった。郁夫は夜ごと侵入して登場人物になりきった。その魂は豊富な湯脈をたたえていた。郁夫はしばしば地面をつつき、彼女のために湯を湧き出させた。罪の自覚はあった。学校で訝りの視線を向けられることもある。だが事実を悟られる畏れはなかった。夢の共有を信じるほど十二歳は幼くない。
夢は愛情豊かな対人環境を映していた。両親、祖母、友人たち。数多い登場人物の前で郁夫はやましさを憶えた。同級生に囲まれていて近づけないことや、幼い弟が乱入してきたりすることも多かった。その晩は運良くふたりきりになれた。「郁夫」ははじめから登場していた。他人の眼に映る自分は戯画のように不気味だった。ぼやけた輪郭に身を重ねて一体化した。露天温泉は湖のように広大で対岸が湯気にかすんでいた。お湯をかけあってはしゃいだ。ふと見慣れた影に気づいた。訝しげに周囲を見まわしている。制服は泥まみれだった。深い眠りに落ちたはずの瑠璃子だった。
夢の主は吾朗の母親を知らない。何より白黒の世界で瑠璃子だけが鮮やかな色彩を放っていた。あとを尾けてきて迷い込んだらしい。郁夫は愕然とした。こんなことは初めてだ。このままでは瑠璃子の肉体は植物人間と化し、魂はこの夢に吸収される。異物は少女の精神にも悪影響を及ぼしかねない。瑠璃子の手をつかんで泡を出て、家の上空へ連れ帰った。質問する隙を与えずに夢の球体へ放り込んだ。急いで眼を醒まし、わざと大きな物音を立ててトイレへ行った。水を流して出てくると瑠璃子が寝室の戸口にいた。眼が腫れているのが暗くてもわかった。制服姿を見たばかりの郁夫には彼女のパジャマが奇妙に映った。
どうしました、と郁夫は眼をこすりながら眠たげな声で尋ねた。瑠璃子は一瞬口ごもり、なんでもないと答えた。郁夫は子ども部屋の扉を閉ざして視線を締め出した。心臓が高鳴っていた。悟られやしまいと自分にいい聞かせた。その見通しは甘かった。
数日後に保護者会があった。それは瑠璃子にとって挑戦だった。誰に何をいわれても自分はふたりの男子の母親なのだと心に決めた。気負いは肩すかしされた。教師も同級生の保護者たちも「いっ君と吾朗君のお母さん」と呼びかけてきた。彼らは瑠璃子の闘いを知っていた。ふたりの男子には友達が多かった。教室で誰からも愛されていた。玄関先でマスコミのフラッシュを浴びた母親はもう孤独ではなかった。
「ウチの娘、『いっ君は卓球が下手だ』って。『体育?』って訊いたら夢の話。来年はもう中学なのに。温泉宿で卓球をしたんですって。このところ毎晩いっ君が出てくるそうなの」
瑠璃子はその日から考え込んだ。論理より直感を重視するタイプだった。彼女は家族の前では睡眠不足を隠し通していた。にもかかわらず郁夫にある日、尋ねられた。「やな夢は見なくなった?」
それが決め手となった。休日に瑠璃子は夫と息子を追い出した。郁夫には家事を手伝わせるといった。父子は疑わずに映画館へ出かけた。なんの話だかわかるわね、と問われて郁夫はとぼけようとした。逃げられず白状させられた。やがて瑠璃子が頼まれ事を持ち込んだ。断れなかった。互いの後ろ暗い秘密がふたりを分かちがたく結びつけていた。郁夫が瑠璃子を悪夢から救った夜、すでにその因縁は始まっていたのだ。一度きりのはずが度重なった。評判は口コミで広まった。
あと味の悪い仕事もあった。瑠璃子の友人から請けた案件だった。十代の子を持つ親なら誰でも経験する悩みに思えた。高校二年の息子が悪友にそそのかされて遊び歩くようになった。隠し事もあるようだ。受験も控えている。仲間との縁を切るよう説得してくれという。郁夫は聞き込みをして関係者の夢に潜り、溜まり場を突き止めた。寂れた地区だった。荒れ果てた元工場や使われていない倉庫、シャッターの降りた建物。廃ビルの一室で目撃した光景は忘れられない。後輩の女子中学生を監禁して集団で暴行していた。
主犯格は依頼者の息子だった。
公衆電話から匿名で通報した。瑠璃子は友人を失った。報酬は得られなかった。
郁夫は夢を操作した。犯人たちを裸にして縛り上げ、被害者の夢へ連行した。古代の闘技場を埋め尽くす大観衆が彼らの所行を糾弾し、被害者に声援を送った。怯えすくむ少女に郁夫は赤熱した火箸を与えた。郁夫は加害者らに死も発狂も許さなかった。人間のかたちを残した肉屑と臓物の塊になってもなお明瞭な意識を保たせた。夢には固有の論理がある。それを無視してねじ曲げたのはあとにも先にもこのとき限り。それも加害者らの夢に対してのみだ。少女は自らの力で記憶を乗り越えようとしていた。郁夫は触媒の役を果たしたにすぎない。
郁夫は加害者らの魂を元の泡へ還さなかった。彼らは互いの自己同一性が交錯した状態で目覚めた。汗ばんだ手が血まみれの肉屑に見え、鏡には少女を犯した仲間が見えた。全員が医療少年院送りとなり家庭は崩壊した。友人は瑠璃子を電話で罵倒した。呪う声は郁夫にも聞こえた。通話を終えると瑠璃子は視線も合わせず「よくやった」とひとり言のようにいった。郁夫は聞き違いかと思った。それきりふたりは二度とこの件に触れなかった。
そして今、郁夫は炎に囲まれていた。熱気と黒煙が死そのもののように迫った。吊り眼でショートヘアの女が見えた。スエット上下に裸足、場にそぐわぬ格好だ。女は炎に取り巻かれて逃げ道を捜していた。梁が炎に包まれて崩落した。阻まれて郁夫の声は届かなかった。信者らの体をなぶる炎のあいだから悪鬼どもが窺っていた。溶けた薬で舌が痺れた。炎の壁が押し迫る。脱出まで意識が持つかどうか。
「郁夫こっちだ!」
揺らぐ熱気越しに若様が見えた。栄養不良でひょろっとした十四歳の少年だ。濡れたハンカチを郁夫に放ると若様は駆けだした。はめられているとしてもほかに道はない。郁夫は火の粉の舞うなかを追った。紅い舌の嘲弄をかわし、動かない人体を踏みつけ、頭を低めて落下物をかいくぐった。
「生き延びるんだ。最後まで見届けろ!」
不意に郁夫は気づいた。これがただの夢ではないことに。
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。