その用心棒はクローンではなかった。ヘッドハントされるまでは髪を金色に染め、ヴィジュアル系バンドでドラムを叩いていた。新入りにギタリストの座を奪われたのだ。この見てくれでは仕方ない。広い肩幅、分厚い胸板。顔はオルメカの巨石人頭像そっくり。違うのは気の弱そうな垂れ眼だけだ。腕の太さは担当楽器を替えてからとみに発達し、襞飾りの衣裳と厚化粧でも隠しきれなかった。
夜間警備のバイトと華やかな舞台との二重生活を、今でも懐かしむことがある。出待ちや追っかけに付きまとわれた当時でさえ恋人はなかった。少女たちのお目当ては他のメンバーだったのだ。ライブ小屋から溢れる少女たちには、PAの大音響をしのぐ絶叫を浴びせられた。一度など殺到したファンに楽器や機材を破壊され、身の危険さえ感じたものだ。いつしか彼は仲間の警護役と化していた。
大手レーベルの契約条件はドラマー交替だった。ウェブ上の記事や仲間のツイートでそのことを知った。変容したバンドに未練はなかった。現在の職場に勧誘されたのを機に足を洗った。転職して驚いたのは同僚の身体的特徴だった。自分とそっくりなのだ。身のこなしを徹底的に叩き込まれ、一切の個性を剥奪されると、鏡張りの部屋と錯覚するまでになった。太古の集合的無意識に取り込まれ、一体化するかのような心境だった。同僚に教わった店で逆ナンパされたのはその頃だった。
男子校出身の彼はモテたくて楽器をはじめた。上達したのは速弾きだけだった。同級生が合コンしているとき彼は自室でギターを練習していた。友人が童貞を喪失したとき彼が抱いていたのはギターだった。そんな彼が生まれて初めての恋に夢中になった。竜巻とか何とか、過剰な修辞を駆使したくなるような恋だった。女は合鍵で彼の部屋へ出入りするようになった。アパートの窓から見える遊園地で毎日のようにデートした。かつてのバンドは売り出しに失敗し、借金や女を巡って諍いになり解散していた。
やがて雇用主の支倉が遊園地の買収に関心を寄せた。観覧車から敷地を視察するため貸切となった。支倉の籠には秘書と遊園地の経営者、若者の上司が同乗した。若者は同僚とともに次の籠に乗った。籠はゆっくりと上昇した。若者は地上の不審者を確認するためにオペラグラスを持たされていた。いつものようにアパートが見えた。部屋の窓から女と愛を交わす自分が見えた。観覧車が二周、三周するあいだに、女は狭い部屋にひしめく彼と代わる代わる交わった。自分が何人いるか数えるのは諦めた。
遊園地から戻った彼を同僚たちは祝福した。
「おれたちの世界へようこそ。晴れて本当の仲間だね」
「ほんとに愛されてると思ってただろう。おれのときも騙されたよ」
「これで遠慮なくいえるよ。耳のかたちが少し違うぜ」
「名医を紹介するよ。みんな世話になったんだ」
世の中には自分のような人間もいれば、少女といかがわしい行為をして高級車で送迎される男もいる。用心棒の脳裏をさまざまな妄想が巡り、怒りが今になって猛烈にこみあげた。用心棒はアクセルを床まで踏み込み、クラクションを浴びながら右へ左へハンドルを切った。急ブレーキを踏んで路肩に止まり、荒い息をついた。追突する車がなかったのは奇跡だった。車を降り、後部扉を開けて叫んだ。
「地下鉄の駅はすぐそこです。あとはご自分でお帰りください!」
郁夫と椎奈は渋々降りた。用心棒は肩を怒らせて運転席へ戻った。黒塗りの高級車は急発進で走り去った。戸惑うふたりの周囲に排ガスの雲が残された。
地下鉄のビラ撒きはエスカレートしていた。中吊り広告や広告ステッカーに偽装されている。洗練された文章とはいえなかった。比喩や商標、擬音を多用したねちっこい描写だった。感嘆符が眼についた。乗客は誰ひとり携帯を見ていなかった。全員が掲示物に釘づけだった。魂を奪われたように読み耽っている。弱り顔の乗務員が一枚ずつ剥がして歩いていた。抗議の声や不平の呟きが聞こえた。
郁夫は座席にもたれた。椎奈は支柱に腕を絡め、郁夫の顔を覗き込んだ。「どうするのこれから」
「刻文町で聞き込み」
椎奈の大きな瞳が輝いた。大伯父の脅迫で決意を固めていた。どんな妨害に遭おうとも断固として祖父を捜し出すつもりだった。「やっぱり同じこと考えてたのね。力を合わせて謎を解き明かしましょ!」
郁夫は呆れて彼女を見上げた。「行方不明の女を捜すんだよ。君には関係ない」
椎奈は冷水をかけられたような顔になった。「あんな脅しに屈するの」
「遺族があれだけ反発してんだ。原稿を見つけても出版は無理さ。宍戸さんには諦めてもらう」
「何が人捜しのプロよ。意気地なし。大伯父が怖いなんて!」
車内の視線を集めた。郁夫は落ち着けよとなだめた。椎奈は郁夫の睾丸の有無を問いただした。中年男が舌打ちした。大学生カップルが非難がましい視線を向けてきた。若い母親が子どもを連れて別の車両へ移った。郁夫はついカチンときていい返した。口論に火がついた。
文化横丁へ向かうあいだずっと視線を集めた。インド雑貨屋の店内は暗かった。「 CLOSED 」の札が扉の窓に下げられていた。罵倒はつかみ合いの喧嘩に発展しつつあった。事務所の扉が締まるなり互いの服が剝かれ、舌が唇で塞がれた。服や靴がソファーの上を舞った。最後の一枚は蛍光灯に引っかかった。
ふーん、こんなものか。と思った直後、椎奈は高波にさらわれた。その激震ですべてが変わった。麻薬投与ボタンを憶えた猿さながらだった。体の奥から噴き出した黒い炎に囚われ、飲み干しても飲み干しても乾いた。ソファーはぐしょ濡れになり、ふたりは痣だらけになった。締めきられた部屋に汗いきれが充満した。
透子が出勤してくる前にふたりは身支度を済ませた。椎奈は黒ジーンズとキャミソールをリュックから出して着た。破れた網ストッキングは丸めてゴミ箱へ突っ込んだ。黒い下着は見つからなかった。
アーケード街で聞き込みを開始した。反応はまるでマニュアルでもあるかのように同じだった。江虫母子は元気かと尋ね、椎奈に気づいて珍獣でも目撃したかのように驚く。ガールフレンドではないと知るや関心をなくし、そこから延々とPCzの愚痴がはじまるのだった。迷惑ビラは勢いを得たように増えていた。日に何度も紙吹雪を掃除しなければならない。痕を残さずに剥がすのも骨が折れた。深夜番組でPCzが紹介されたらしく、何も買わずにビラについて質問する観光客も増えた。応対に手間取って本来の客を逃してしまう、という。
「犯人を警察に突き出してやりたいよ。でも商売があるし。君、何とかしてくれんかなぁ」
「捕まえたらまっ先に教えます。代わりに情報提供を……」
逆にブームを歓迎する向きもあった。郷土作家に強い古書店だ。全集の在庫が数セットはけて上機嫌だった。
「羅門文学は地域文化の財産だ。一過性の流行に終わらんといいがね」と老店主はいった。
人々が語ったのは愚痴に留まらなかった。不可解な失踪事件が多発していたのだ。どの話も似通っていた。
「真面目な子でね。無断欠勤なんて一度もなかったのに」
「待ち合わせをすっぽかされて急に連絡がつかなくなった。てっきり振られたかと。それが……」
「部屋はもぬけの殻。家出なんてする子じゃないのよ。警察はまともに相手してくれない」
「管理人に鍵を開けてもらったら部屋は無人で、PCは起動中だった」
「長期欠席なんておかしいと実家に電話した。逆に質問攻めにあった。家族もずっと捜してたんだ」
「話しかけようと振り向いたら、もういなかった。地面に携帯が落ちてた」
「警察にも届けた。土日を使って捜しまわってる。全然手がかりなし。あんたに頼もうかと思ってたんだ」
「何かわかったら連絡してよ。恩に着る」
「見つけたら三割引にしたげる」
郁夫が十代からずっと人捜しで生活していることは誰もが知っているはずだ。なのに無料奉仕を当然のように期待された。役に立つ遊びのように思われているのだ。代わりに郁夫は宍戸から絞れるだけ搾り取ることに決めた。郁夫のパーカのポケットにはスナップ写真や失踪状況のメモが溜まった。携帯のメモリは転送された写真で埋め尽くされた。生真面目そうな眼鏡の学生。ミーハーそうな女子高生。哲学者風の顔立ちの銀行員。旅行好きのOL。若禿の助教授。朗らかな主婦。堅実な会社員。金髪と片耳ピアスの鳶職。快活な営業職。理系の研究者……。共通点はないに見えたが実は全員がPCz愛好家だった。失踪現場に残されたPCや携帯には決まって私家版が表示されていた。あたかも閲覧中にトラブルに巻き込まれたかに見えた。
「やけに入れ込んでたね」
「朝から晩までビラのことばかり。オツムに来ても不思議じゃないよ」
「例の会議室に入り浸ってたみたい。手がかりになる投稿を捜してるんだけど、膨大で調べきれなくて」
「私家版っていうんだっけ? 無理に読まされたよ。気違いの文章だな」
「神隠しにあったんじゃないかしら。おかしなことに凝るから……」
最後に当たってみた生花店で有望な証言が得られた。貧相な風体の若者が壁にビラを貼っていたという。バイトの娘は茎をハサミで整えながら話した。
「何の仕事してるかわかんない感じの人でぇ。紙束とスプレー缶抱えてコソコソと。最初はピンクちらしかなと思ったんですけど。服装? 野球帽と伸びたTシャツ、霜降りジーンズにスニーカー。全部ホームセンターで売ってそうな安っぽい奴。顔色悪くて頬ゲッソリ、ニキビだらけで今にも倒れそう。超キモいんですよぉ」
ふたりはディグバーガーに入った。できあがりを待つあいだ椎奈は携帯で検索した。支倉グループに言及するサイトは数多い。めぼしいものにざっと眼を通した。
「東北地方有数の世界的企業。造り酒屋から発展した。酵母の研究開発から転じたバイオ製品や化粧品のビジネスでも有名。近年はアンチエイジングの研究で注目されている」
支倉本人についての記述もあった。
「七、八十年代を通じ、地元文化への経済援助を行った。謎の失踪を遂げた無頼派の文豪、羅門生之介との交流が知られる」
郁夫はテーブルに頬杖を突いて店先の道化を眺めていた。強化プラスティックの人形は両手を広げてベンチに腰かけている。黄色と赤の縞模様は囚人服のブギーマンを思わせた。
「集団失踪事件か。まるで十三年前のお祖父ちゃんみたい。どっちも大伯父が関わってるんじゃないでしょうね。不都合な事実を嗅ぎつけられて、拉致監禁……」
「いくら実力者でもここまで派手にやったら捕まるだろ」郁夫は椎奈がどこまで本気かわからなかった。
「脅迫されたじゃん。核心に近づいてる証拠だわ」
「あんたの一族は生之介を毛嫌いしてる。深入りして欲しくないんだよ」
「じゃ集団失踪はどう考えるの」
「生之介の真似が流行ってんのさ」
郁夫は上の空だった。広大な庭園で見かけた男について考えていた。確かにあいつを知っている、と彼は思った。炎に遮られて何も思い出せなかった。
ふたりは脂の染みた紙袋を抱えて張り込みをはじめた。ポテトを分け合い、チーズバーガーをコーラで流し込む。曇り空は電線の網に分断されていた。横道は薄暗かった。問題の壁にはスプレーの落書きが繁殖していた。PCzと思われる文章もあった。違法駐輪の自転車がずらりと並んでいた。ピンクちらしは風にはためく鱗のようだった。待つこと二時間。郁夫は落ち物ゲームに熱中し、椎奈は携帯で太宰を読んでいた。
貧相な若者が現れた。虚ろな眼は何も映さぬかのよう。ふたりの目前を夢遊病のように通り過ぎた。本来は丸顔なのだろうが、やつれて頬骨が突き出ている。酷いニキビ面だ。総額千円に満たぬ服装だった。あと一度でも洗濯したら破れそうなTシャツの胸で、小さなピンバッジが今にも落ちそうになっていた。郁夫にも経験があるのでわかる。あの足取りは空腹のせいだ。若者は小脇に抱えた束のビラを一枚、スプレー糊で壁に貼りつけた。
「現行犯!」椎奈が叫んだ。
犯人は身を翻して駆けだした。反応が早すぎた。いつ捕まるかとビクビクしていたのだろう。裏通りへ抜けようかというとき、ビラ撒き犯の膝はカクッと折れた。前のめりにぶっ倒れる。スプレー缶が転がり帽子が飛び、紙束がぶちまけられアーケード街へ舞い散った。紙はタンブルウィードよろしく転がって通行者に踏みつけられた。突風に舞い上がって建物や車の窓にへばりついた。側溝に落ちて泥に浸かった。
犯人は芋のようにいびつな坊主頭だった。郁夫はそいつに飛びかかって馬乗りに押さえつけた。犯人は体力を振り絞って抵抗した。上になり下になりの揉み合いとなった。追いついた椎奈は助太刀を試みた。ブーツの蹴りは郁夫の尻に当たった。彼が怯んだ隙に犯人は這い逃げようとした。
「待てコラ」
郁夫は犯人の頸をつかんだ。再びもつれ合って倒れた。バイクを駐輪しにきた男が気味悪そうに一瞥した。椎奈はさりげなく離れ、電柱にもたれて観戦した。やがて郁夫と犯人は息切れして動けなくなった。
「きゅ、休憩」郁夫は犬のように喘いだ。
「もう逃げねえから勘弁してください」
郁夫は眠たげな眼を細めた。「ん? お前……」
「ジロジロ見んなよ気色悪い」犯人の声は変声期の中学生を思わせた。
「どっかで見た顔だな。待合室で逢わなかったか。最近できた名古屋系激安店の」
「知らねえよ。人違いだろ」
若者は急に何か思い当たったように郁夫を見つめた。郁夫も眼を丸くした。
あーっ、と同時に叫んでふたりは互いに指を突きつけた。
「丸米じゃねえか!」「若様の金魚の糞!」
「生きてたのかよ!」
三度までも見事に声が重なる。郁夫は坊主頭を平手で殴った。「誰が金魚の糞だ」
丸米は歩道に尻餅をついて坊主頭をさすった。「いつも若様の尻について回ってたじゃねえか」
「くだんねえこと憶えてやがる」郁夫は路上へ座り込んだ。死体を塗り込めた壁から滲む血のように記憶が甦っていた。「お前だって道場でお漏らしした癖に」
「雪の夜は冷えるんすよ、板の間。年中裸足で薄っぺらな白装束。オネショならあんただって」
「あれもお前だろが。寝てるあいだに布団すり替えやがって」
「先輩ちっとも変わってねえな」
「お前こそ頭——」郁夫は声を押し殺した。「またどっかの地獄に戻ったのか」
丸米は郁夫を鋭く睨み、それから悔しげに顔を背けた。
「あんたがあれからどうやって生き延びたか知らねえけどよ。ほかに喰ってく方法も身の置きどころもなかった。施設はすぐに追い出された。里親とも相性が悪かった。路頭に迷ったおれを今の家族が救ってくれたんだ」
郁夫は痛いところを突かれた。若様の付き人として小学校に通わせてもらえたのは、教団の子どもで彼ひとりだけだった。おかげで吾朗と親友になって江虫家に入り込めた。まんまと世間の荒波から逃れた。
「知り合いなの?」椎奈はしゃがみ込んで興味津々にふたりを見た。
丸米は今初めて存在に気づいたかのように椎奈を見た。
郁夫は億劫そうに説明した。「昔ちょっとな」
「付き合ってたの?」
郁夫は肩に疲労がのしかかるのを感じた。作家ってのは何を考えてるやら。
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。