Pの刺激

第9話: 大立て者の脅迫

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

郁夫と大男に挟まれて椎奈は腕組みをしていた。ドレスは皺になってはいたが乾いている。男たちを待たせて三十分もシャワーを浴び、念入りにドライヤーとブラシを当てた。郁夫はといえば髪は寝癖がついたまま、顔には乱闘の痕跡に加え、疲労と睡眠不足で隈ができている。ジーンズは生乾きで臭った。
 椎奈の平静ぶりに郁夫は驚いていた。さすが上流家庭のご令嬢、拉致されても動じないとは。高級車に乗るだけで郁夫は緊張した。教団幹部には暴力団からの転身組もいた。彼らはリムジンどころか専属運転手まで持っていた。今でもそうした人種と渡り合わねばならないことがある。だがこの手の車に自分が乗るのは初めてだった。本革と黒檀の内装、琥珀色の照明。遮光窓はおそらく防弾仕様。外界の音は締め出されていた。足元からかすかな唸りが伝わってくる。水溜まりを撥ねる音はほとんど聞こえない。窓外を流れる景色に気づかなければ、停まったままと錯覚しそうだ。後部席に三人も座り、しかもひとりは大男。それでも狭さは感じなかった。
 強面の男たちは三つ子のよう、というよりも大量生産品のようにそっくりだった。妙な光沢のある暗い色のスーツ。銀のタイピンがついた暗い色のネクタイ。鏡面仕上げのサングラス。いずれも限りなく坊主頭に近い短髪で、オルメカの巨石人頭像に似ていた。郁夫には彼らに訊きたいことが山ほどあった。電話で所在地を伝えた直後に現れたので、椎奈の家族と繋がりがあるのはまちがいない。しかしどうやって部屋を突き止めたのか。腕組みする男に行く先を尋ねてみた。予想通り押し黙ったままだ。誰ひとりとして口を利かない。郁夫は彼らとの唯一の会話を反芻した。
「おふたりとも服を着て一緒に来てください」
「精算は」
「必要ありません」
 あのとき喋ったのが助手席の男だという確証さえない。あるいは運転手かもしれない。誰も教えてくれないのでスモークガラス越しの景色から判断した。どうやら支倉方面へ向かっているらしい。暗く淀んだ空、ビル群のシルエット。一日の予定を組み立てながら職場や学校へ向かう人々。濡れた路面が黒い油のように見えた。爽やかな朝に疎外されたように感じるのは、椎奈の悪夢に染まったせいか。郁夫はこめかみを揉んだ。
 平静を装いつつも椎奈は怯えきっていた。祝日には門に日章旗を掲げさせるような、厳格な大伯父だ。ただの説教で済むはずがない。隣の郁夫の体温を太腿に感じ、頼りたくなる自分を戒めた。信用できるものか。車内の全員が敵も同然なのだ。昼休みの教室で体験談を語り合う同級生らが脳裏をよぎる。こんな男と寝たと思われるのは癪だ。だが何もなかったと知られるのは、もっと屈辱だった。
「大伯父の差し金ね」
 質問ではない。誰も答えなかった。代わりに郁夫の脳裏で結びつくものがあった。
「大伯父って……もしかして支倉秀一郎?」
 地域政財界の実力者。地名にその名が冠せられるほどだ。青葉市の商業地図はこの十年で大きく塗り替えられた。大型量販店の相次ぐ出店で郊外へ拡散し、中心部は駐車場の値下げ競争が生じるほど空洞化が進んだ。そんな時勢にもかかわらず、支倉ブランドは全国的に知名度を高める一方だった。酒造で培ったバイオ技術を化粧品や接着剤に活かしたのだ。郁夫はホテルの屋号に思い当たった。あれは所有者の頭文字だったのだ。郁夫は椎奈を凝視した。業界人の両親に富豪の親戚。どんな家庭なんだ。
 窓外に流れる風景が変わった。酒造所。化粧品会社。近代的な真新しい工場。「バイオ化学産業研究所」と看板を掲げるビル。前方の小高い丘を高い塀が取り巻いていた。瓦の庇がついた漆喰の塀はどこまでも続くかに見えた。監視カメラの前で停車した。鉄柵の門がひらいて車は森林公園のような敷地へ入った。鬱蒼とした樹木のあいだを走った。曲がりくねった、なだらかな坂道だった。
 広場に出た。フリスビーやバレーボールができそうな広さだが、そんな朗らかな雰囲気は微塵もなかった。噴水のそばの灌木を庭師が手入れしていた。老いたポパイのような日焼けした老人だった。やっと豪邸が見えてきた、と思ったら通過した。物置か何かだったらしい。由緒ある史跡のような屋敷まで十分ほどかかった。カモシカでも横切るのを警戒したのか、減速した。竹林を抜け、車を降ろされてさらに歩かされた。
 普段の感覚とあまりにかけ離れたものを、人間の脳は認識できない。支倉邸がどんな外観だったか、郁夫の記憶にはほとんど残らなかった。映画通の瑠璃子なら『市民ケーン』を引き合いに出したろう。ただし脳炎にやられた小津が、高熱にうなされながらリメイクした悪夢版だ。とにかく広大で悪趣味だった。玄関では楽にサッカーができそうだった。板張りの廊下は鏡のように磨き上げられていた。墜落しそうな錯覚を憶えたほどだ。郁夫と椎奈は用心棒たちに挟まれ、大名行列よろしく無言で練り歩いた。和風建築に西洋風の扉や手摺を思いつきで継ぎ足したような造り。不自然な段差が何カ所もあった。金のかけられ方を別にすれば、かつての教団施設を思わせた。お仕着せの女たちが行く先々で彼らを出迎え、一斉にお辞儀した。割烹着ではない。いわゆるメイド服の本物を郁夫は初めて見た。特に気になったのは足元だ。足袋を履いていた。
 純西洋式の大食堂は、椎奈の幼い記憶ではとにかく暗い印象があった。大きな窓があるのに陽が射さず、日中でも照明が必要だった。つけても暗かった。無理な増改築がたたって電圧が低いのだ。実際、何も変わっていなかった。メイド服の使用人が壁沿いに整列していた。彼らは学校指定風の上履きを履いていた。
 毛足の長い絨毯。遙か彼方に火のない暖炉。高い天井には豪奢なシャンデリアが吊られていた。震災の日には大金を積まれても真下にいたくない。調度類はどれも骨董品で、華美な彫刻が施されていた。暗紅色のヴェルヴェットが張られた背もたれの高い椅子がテーブルを囲んでいる。絹の布で覆われたテーブルは、盛りつけられた果物をボール代わりにしてテニスができそうな広さだった。
 暖炉を背にする正面の席で老人が食事していた。角張った顔、鋭い眼光。尊大なへの字口。猛々しい剛毛の眉。深く刻まれた眉間の皺。膚は長年風雨に晒された革のよう。七三に分けられた髪は黒く染められていた。暗色の高級スーツは明治時代に仕立てたかに見えた。太い頸にナプキンを巻いていた。たくましい顎の筋肉が咀嚼のたびに動いた。支倉秀一郎は歳の割には堂々たる体格で背筋が伸びていた。専門家を雇って特殊なトレーニングでもしているのだろうと郁夫は思った。
 腕に白い布をかけた給仕人と、杖を手にした狐眼の男が両脇に控えていた。狐眼の男は秘書らしい。背が高く撫で肩で、気取ったデザインの眼鏡をかけていた。郁夫と椎奈は校長の前に突き出された悪童さながら、誰かに声をかけられるのを待った。椎奈は軽く触れたら爆発しそうなほど神経を尖らせていた。
 支倉は卵立てからドロッとした黄身を銀スプーンですくった。チラリとも視線を上げずにいう。「まだ朝食を済ませていまい」傲岸なスタッカートの発音だった。
 支倉から数メートル離れた席が用意されていた。使用人が椅子を引いた。椎奈は怒ったように着席した。郁夫は向かい合う席に座った。
「若い癖にどうした。遠慮せず食べたまえ」
 郁夫は皿を見下ろした。悪臭の元凶は硬そうな黒パンではなかった。卵をふたつ用いた両眼玉焼きでも、分厚い生焼け肉でもない。赤黒いドロッとしたジュースだ。スパイスや薬草をふんだんに用いたと見える。この食卓にはどこか偏執的な傾向が感じられた。本人はそれを健康志向と解しているらしい。部屋の空気は淀んでいて黴臭かった。無理な改築と古物趣味のせいだ。
 椎奈はナプキンを頸に巻き、銀のナイフとフォークを手にして肉に取りかかった。「お醤油ないの」
「塩ならそこにある」
「お醤油がいい」
 支倉は眼で合図した。蝶ネクタイの給仕人は重い扉の向こうに消え、銀の盆に有田焼の醤油差しを乗せて戻ってくると、椎奈の目玉焼きに醤油をかけようとした。椎奈は給仕を睨みつけ、醤油差しを奪った。それから半熟卵をひと口すくい取り、黄身に醤油を垂らした。
「あそこで何をしていたのかね」
「隠しカメラで見てたんでしょ。大伯父様がラブホ持ってるなんて知らなかったわ」
「アミューズメント・ホテルだ」
「確かにね。ウォータースライダーはあるし。法律上はビジネスホテルなんでしょ」
「お母上は君との電話のあと、すぐわたしに連絡してきた。相手の見当はついていた。わたしはその男について調べさせ、免許を持たないことを知った。車のも探偵のもな。あとはチェックインと駐車の記録から割り出させただけだ。隠しカメラなどない。娘の不品行を知ったらお父上は哀しむだろう。ショックで寝込むかもしれない」
「娘がどうなろうと両親は気にしないわ。世間体さえ保てれば」
 ナイフとフォークが皿で立てる音だけが広間に響いた。
 郁夫は耐えかねて声を発した。「ケチャップあります?」無視された。
 支倉はナプキンで口を拭き、丸めて給仕に手渡した。それを合図に使用人が音もなく群がり、散ったかと思うとテーブルは片付けられていた。支倉は大袈裟に溜息をつき、椅子に肘を乗せて背中をもたれた。あたかも相手のしつこさに根負けし、貴重な時間を割いてやるかのような態度だった。
「五分やろう。君は何だね」
「調べたのでは?」郁夫はパーカのポケットから名刺を取り出し、秘書を呼んで手渡した。「肩書きは名乗りませんよ。免許がないのはご存知でしょ」
 秘書は名刺を支倉に見せた。支倉は無視した。
「他人の家庭に首を突っ込もうというのかね。何が見つかった」
「面倒を見るよう頼まれたんすよ。その子の親の友達に」
「確かに面倒見はいいようだな」
「あそこへは雨宿りに入ったんです。捜査を手伝ってもらってたんですよ。生之介さんの遺稿を捜してるんです。宍戸菱康さんはご存知で?」
「あの男は死んだよ。もう十三年になる。捜しても無駄だ」
「昨日、お逢いしたばかりです」
「生之介の話だ。あの編集者なら知っている。それがどうした」
「何者かが未発表原稿を街にばらまいています。本来は宍戸さんが出版するはずだった。取り戻したいんです」
「生之介の遺稿か。実在するとなぜわかる? 私にはどうでもいいのだが……」
「街中の噂なんですよ。犯人捜しも大流行で」
 支倉は深い溜息をついて立ち上がった。秘書が椅子を引いて杖を手渡した。支倉は軍人を思わせる足取りで室内を巡りはじめた。毛皮スリッパの左足をわずかに引きずっていた。
「昔を思い出したよ。姪が結婚する以前から奴のことは知っていた。当時はまだワープロはおろかコピー機もなかった。ガリ版刷りの同人誌だ。こう見えても私は学生時代は文学青年でな。家業を継いでからも地域文壇への関心は棄てなかった。優れた出版物には支援を惜しまなかったものだ。ミニコミ誌の投稿文を見たときは落胆したよ。私の商売が手厳しく批判されていた。調べてみると書き手は同世代。郵便局に勤めながら詩を書いていた。私は人を介してその男に面会した。敵に回すには危険な輩だった。幾晩となく酒杯と議論を交わし、誤解を解いた。奴が短編集でデビューする半年前だった」
 支倉は急に立ち止まった。眉根を寄せ、何かを嗅ぎつけたかのように使用人へ鼻を近づけた。メイド服の使用人は恐怖に顔をこわばらせた。支倉は彼女の髪をまとめるレース布をひっぱり、自分にしか見えない傾きを直した。そして満足したように逍遙を再開した。
「縁とは妙なものだ。やがて姪が婚約者を連れてきた。椎奈の父親は生之介の存在を恥じ、姪に隠しておった。姪は相手の父親が何者かさえ知らなかった。どのみち姪は本を読まん。生之介と私の友情は姻戚となってからも続いた。『失踪』のひと月前に袂を分かつまでな。間もなく奴は大型バイクで海へ突進し、高波に呑まれた。その報せにも私は驚かなかった。奴は若い頃から死に急いでいた。いつ不特定多数を巻き添えにしてもおかしくない。書くのは自殺、あるいは殺戮の代わりだった……」
 支倉は冷え切った暖炉に手をついて振り返った。
「あの男は危険なのだ。死んだからとて安心はできん。奴に破滅させられた者を何人も知っている。宍戸と知り合いならわかるだろう。莫迦げた探偵ごっこはやめるんだ!」
 支倉は杖の先を突き刺すように郁夫へ向けた。椎奈はまたしても疎外されていた。
 帰りの護送係はひとりだけだった。逃亡の畏れがないためだろうと郁夫は思った。陽の射さない竹林を大男について歩いた。車は車庫の前でエンジンをかけて待っていた。用心棒が後部扉を開けた。椎奈に続いて郁夫が乗り込むなり扉が締まった。鼓膜が圧迫され、金属のように鳴った。車体がゆるやかに沈み、男が運転席に着いたのがわかった。車が滑りだした。
 曲がりくねった坂道を下り、広場に出た。四角い頭でガニ股の小男が、噴水のそばで庭師と話し込んでいた。紫のシャツは襟が大きすぎ、灰色のジャケットの上に翼のように飛び出ていた。眼つきが鋭く、唇の端は卑猥な冗談でも飛ばすかのように歪んでいた。
 男の片頬にケロイドが見えた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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