Pの刺激

連載第8回: 悪夢潜り

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月25日

赤黒いトンネルには掃除機のような唸りが脈打っていた。郁夫はそこから白黒世界へ抜け出た。隣に横たわる少女の丸くて広い額から、どす黒い煙の糸が立ちのぼっていた。
 郁夫の魂は肉体から遊離した。浮上する気泡のように筋を辿って上昇する。天井をくぐり、中年の不倫や若者の痴話喧嘩を目撃しながら、屋上の給水タンクの脇をすり抜けた。上空では数多の筋が、風にたなびきもせず雲間へと消えていた。大半が虹色で、どす黒い筋も混じっている。その数はレム睡眠下の人々に等しかった。
 鉛色の厚い雲を抜けた。月明かりのもと、虹色のあぶくが無数に浮遊していた。臍の緒のような筋で肉体に繋ぎ止められている。ひとつひとつが世界を内包していた。なかには黒煙が渦巻くものもある。誰かが悪夢にうなされているのだ。新たな泡がふたつ立ちのぼってきた。甘い薔薇色がかってなかば溶け合っている。痴話喧嘩の男女が寝入ったのだ。重なり合わない部分に居酒屋の制服を着た女が見えた。男のバイト仲間のようだ。
 街の上空に浮かぶ無数のあぶく。それは精神感応による幻視だった。さながら周波数を合わせて海外の放送を傍受するように、郁夫は意識を同調して人々の夢を知覚した。
 ひとの心は複雑だ。何が解決の糸口になるか予測できない。現実の街を歩きまわって得た事実や、生身の人々から聞き出した逸話からでは迫れない真実がある。郁夫は夢へ侵入し、無意識の底から手がかりをさらい上げた。ある失踪事件では半年前の何気ないひと言が決め手となった。女は結局、その男を追わなかった。郁夫に導かれて過去を再訪するうちに共依存を自覚したのだ。このときはたんまり金をせしめたが、夢で悩みを解決すると、多くの依頼人はまず成功報酬をよこさない。郁夫の手柄とは考えないからだ。さじ加減が難しかった。
 郁夫は雲の上を漂い、虹のあぶくを見渡した。ここ半年ほど傷んだ実のように黒い泡が眼につくようになった。内部には必ずアンリ・ルソーの絵画を思わせる密林がはびこっている。互いに関わりのない人々が同じ夢を見る原因はわからない。テレビ番組の影響か。そうした夢ではしばしば奇妙な登場人物を見かけた。夢には夢なりの脈絡があるはずなのに、そぐわない感じなのだ。しかし今はその謎を考えている暇はない。郁夫は引力に身を任せた。頭上の泡へ吸い込まれる。どす黒い煙が渦を巻いた。
 多くの夢は獣の知覚のように白黒だった。原始的な次元まで意識が降下するからだ。色つきの夢は創造的な生活をしている者や、病んだ精神によく見られる。椎奈の世界は原色に彩られていた。鮮やかな濃緑の葉、毒々しい赤い実。頭上の枝や浮き上がった根は血管のように絡み合っていた。鬱蒼たるシダ、巻きついて垂れ下がる蔓。ねじくれて瘤のある幹や岩は苔むしていた。空は鉛色の厚い雲に覆われ、幾重にもなる葉からはひと筋の陽光も射さない。堆積した枯葉は白っぽい菌で腐食し、歩くたびに足元が沈んだ。大気は濃厚で微動だにせず、重い湿気を含んでムッとした。悪夢特有の帯電しているかのようなヒリヒリした刺激があった。
 大地が揺らぎ、暗い茂みがガサッと動いた。数メートルある巨大な蜘蛛が郁夫の前を悠然と横切った。狂気の明瞭なサインだ。こいつが大発生していたらその夢からは急いで抜け出さねばならない。強い感染性があるからだ。粘性の糸に絡め取られ、ぬかるみに呑み込まれて永久に抜け出せなくなる。蜘蛛の輪郭や細部が朦朧としているのは意識の周縁部にいるからだ。夢の主には不安として知覚される化学薬品のような臭いがした。
 蜘蛛は植物をバキバキと押し倒して突き進んだ。郁夫は茂みを掻き分けてついていった。地面は湿っていて柔らかい。ハイカットのスニーカーは踝まで泥まみれになった。幸い足を取られるほどではないし、蜘蛛が増殖する気配もないが油断はできない。腹が急に膨らんで破裂し、無数の子を撒き散らすこともある。幹部に素質を見込まれて、脳がどす黒く染まるほど薬漬けにされていた頃、病んだ心に潜らされて危うく死にかけたことがあった。四方八方から押し寄せる毒虫に、底なしの泥沼へ追い込まれたのだ。その信者は程なくして死んだ。
 大蜘蛛は金属的な鳴き声を発しながら速度を上げた。意識の核へ近づくにつれ、カメラの焦点が合うかのように輪郭が定まり、化学臭も強まった。頭上で鳥が甲高い声を発し、茂みから飛び立った。
 途中で道を尋ねられた。額の後退した聡明そうな若い男だった。パジャマは泥と草の汁にまみれ、ボタンが失われて鉤裂きができている。胸元には黒ずんだ血の染みがあった。スリッパもボロボロだ。疲れきった様子で上唇に古い血がこびりついていた。
「迷ってしまったもので……もう数日もさまよい歩いてるんです」
 気の毒だがよそ者なもので、と郁夫は答えた。男は途方に暮れたように立ち去った。郁夫は深く考えず先へ進んだ。識閾下にはわけのわからぬ象徴が蠢いている。いちいち相手にしていたらキリがない。
 悲鳴まじりの罵声が聞こえてきた。郁夫は大蜘蛛に遅れまいと歩みを早めた。次第に登り坂になり、植物がまばらになった。丘に大蜘蛛が群れ集っていた。不定形になったり形を結んだりする泥のような個体も含めると、全部で二十体ほど。本当に病んでいればこの程度では済まない。自然や街の風景すべてが蠢く虫で形成されることさえある。頂上には背の高い枯れ木が立っていて、お下げ髪の椎奈が裸で縛りつけられていた。冒涜的なキリスト磔刑図を思わせた。ボッシュやブリューゲルに霊感を受けた同人漫画家が描いたかのようだ。
 現実より幼い椎奈は甲高く叫び続けていた。胸は平らで陰毛は薄く、腰のくびれも目立たない。痩せた体を丸い額がいっそう子どもらしく見せていた。椎奈の自意識は人並みはずれて干渉力が強かった。ペドフィリアでもない郁夫がつい凝視したのは、これが「晒しものにされる」夢だからだ。蜘蛛の頭が目玉だらけなのもそのせいだった。椎奈は恥を知られることを畏れながらも強烈に求めていた。
 椎奈は広げた両腕と揃えた両足首を、植物の蔓で縛りつけられていた。郁夫は枯れ木をよじ登った。枝は乾ききって脆くなっている。椎奈はさらに取り乱して暴れた。椎奈は転落しても眼が醒めるだけだが、郁夫もそうとは限らない。郁夫は蔓をほどいた。手が自由になるや椎奈はめちゃくちゃに殴りかかってきた。郁夫は椎奈を抱えて地面まで降ろしてやった。途端に羽音と風圧を感じた。飛来した猿の群に椎奈をかっさらわれた。
 鉛色の空を郁夫は茫然と見上げた。背中の曲がった小猿の軍勢だった。蝙蝠のような翼を羽ばたかせ耳障りな声で騒ぐ。裸の椎奈に群がってはるか彼方の城塞へ連れ去った。キーッ、キーッ! バタバタバタ……。羽音と椎奈の悪態は遠ざかり、猿軍団は黒い靄のようになって見えなくなった。郁夫は毒づいた。どうも簡単に行きすぎると思った。よかろう、毒を喰らわば皿までだ。
 郁夫は城をめざして密林を横断した。個性豊かな仲間が道中で加わった。英雄志願の小柄な妖精、無口な解放奴隷(動植物を愛でる優しさと、怪力とを併せ持つ巨漢)、冒険好きの若い道化(お喋りでそそっかしく、堅物の妖精とは犬猿の仲)、ニヒルな魔法遣いといった面々だ。力を合わせて怪物と闘い、伝説の宝を発見した。欲をかいた道化のせいで窮地に陥った。仲間割れを経て団結を強めた。魔法遣いの過去の因縁(宿敵に婚約者を殺された)と対決した。旅芸人一座の哀れな娘を救い、生まれ故郷へ連れ戻した。娘の父親は豪商だった。ぜひ婿にと懇願されるも、涙に暮れる娘を振り払って村をあとにした。
 長い苦難の旅だった。ついに城へ辿り着いた。尖塔の連なる石造り建築。ガウディーの教会とアンコール・ワット、中世東欧の城をかけ合わせた感じだ。柱や壁面は淫らな浮き彫りで彩られている。BL漫画からの引用と思われた。そこから先も冒険は続いた。暗渠に巣くう鰐の群、無数の槍が待つ落とし穴、壁や天井が狭まる部屋といった卑劣な罠をいくつも乗り越え、鐘楼へ到達した。
 長い螺旋階段で仲間は敵を喰い止めた。倒しても倒しても湧いて出る。
「ここはおれたちが引き受けた」
「一刻も早く姫君を」
「おう、頼んだぜ!」
 悪魔猿の親玉は巨龍を乗りこなしていた。巨龍は翼で嵐を起こし、口から炎を吐いた。壮絶な死闘があった。村を救った礼に長老から授かった伝説の宝剣で、郁夫はとどめの一撃を喰らわせた。屍骸を乗り越えて奥の扉へ急いだ。廊下はなぜか地下牢へ通じていた。凡庸で冗長な展開に郁夫はウンザリした。椎奈が一作で消えたのも頷ける。だがここで意表を突かれた。看守はどう見ても日本人だった。髪は流行の美容師の手になる感じ。今風のひげを生やして眉を細く整えていた。ジムで鍛えていそうな体といい、膚の色艶といい、手入れされた爪といい、見るからに金のかかった美青年だ。頭巾とローブさえ高級ブランドに見えた。
 看守は白い歯を覗かせ、爽やかに頬笑んだ。「君、何年何組?」
「はあっ?」
「制服で来なかったんだね。聖パトリシアは休校日じゃないでしょ。サボり?」
 何いってんだこいつ……。郁夫は生理的な嫌悪を感じ、相手の腹に拳を叩き込んだ。青年は失神して石畳にくずおれた。映画やドラマが広めたイメージのおかげだ。ベルトから鍵束を奪い、ひときわ目立つ鍵を使って頑丈な錠前をはずした。鋼の扉を蹴り開けた。椎奈は目隠しをされ、拘束具で両手首を天井に吊されていた。石造りの牢獄は鉄格子つきの高い窓がひとつきり。暗く、湿って黴臭かった。痩せた白い体は華奢で痛々しかった。
「助けに来たぜ。こら……じっとしてろって!」
 手錠に合う鍵が見つからない。椎奈は悲鳴を上げ、鎖を鳴らして暴れた。ふと気づくと郁夫は素っ裸だった。本来は椎奈がさっきの男に襲われる筋書きだったのだろう。そこで急に細部が曖昧になった。描写するだけの経験がないのだ。郁夫が狼狽すると世界は白い靄となって消散した。眼が醒めるかと思いきや、すぐさま再凝集した。気づけば密林に戻って大蜘蛛のあとを歩いていた。元通り服も着ていた。初歩的な失敗だった。こっちの自意識を流入させるなんて。大気も帯電したような刺激を取り戻していた。ふりだしに戻る、というわけだ。椎奈は予想以上にねちっこい性格らしい。
 またひらけた場所に出た。今度は平地で、枯れ木の代わりに大木があった。ダイニングテーブルに中年の男女が着席している。また強い化学臭を感じた。椎奈はジャージと上履きを身につけていた。父親は筋肉質で高価そうなシャツを着ており、拡げた新聞の陰に顔が隠れていた。母親はラメ入りの派手なロングドレス。娘に背を向けて携帯で長話していた。声は中年女というより我の強いゲイのようだった。香水が強烈に鼻を衝いた。長い爪は毒々しい色に染められていた。「ベラ」なる単語が脳裏に閃いた。郁夫には何のことかわからない。
 椎奈は両親を揺すぶって怪物に気づかせようとした。相手にされなかった。それどころか両親は人形のように微動だにしなかった。大蜘蛛は急速に真実味を獲得した。意識の焦点が結ばれたのだ。乱雑に穿たれた無数の眼は血の色に燃えていた。節くれだった肢は黒い毛に覆われ、先には鋭い鉤爪があった。膨らんでは縮む腹は膿のように滲む体液で照り輝いている。乱杭の牙が内へ外へと蠕動し、唾液が糸をひいて滴った。シダの茂みに達するやジュウッと白煙があがった。強酸性なのだ。
「お祖父ちゃんに似るからよ」
「痛い目を見るといい。少しは懲りるだろう」
 怪物は咆吼し、涎を撒き散らして家族へ迫った。椅子は樹木と化して地面に根づいた。棘だらけの蔓が両親を締め上げ、下品な音を立てて脈打ちながら吸血した。逃げようとする娘に両親はすがりついた。
「助けて、ママ動けないのよ!」
「パパを見棄てて逃げる気か、親不孝者!」
 両親の顔が椎奈に迫った。四本の腕が腐肉と化してべったりと椎奈にまとわりついた。両親は今や娘に寄生するひと塊の生物のようだった。椎奈がいかに離れようともがいても振り払えなかった。あたしたちはいつでも一緒、と母親の顔がいった。おれが養い、おれが育てたと父の顔が高圧的にいった。大蜘蛛は鉤爪を振りかざして彼らにのしかかった。顎が複数に割れてひらき、棘のような牙が剥き出された。強酸の唾液が滴った。
 郁夫は茂みから様子を窺っていた。油断して蔓の触手が忍び寄るのに気づかなかった。蔓は足元を這い上がって絡みつき、締め上げてきた。土埃と草いきれに化学臭が入りまじるのを郁夫は感じた。早く椎奈を救わなければ手遅れになる。それ以前に郁夫自身が危なかった。教団の儀式で死んだ子どもの一部はそれが原因だった。相手の意識に呑まれて養分のように吸収され、肉体に還れなかったのだ。
「そのふたりを殺せ」と郁夫は叫んだ。「そっちが本体だ。化けてるんだよ!」
 椎奈はハッと息を呑んだ。しがみつく両親は確かにどこか異質だった。人間を実際に見たことのない何かが、資料を基にこね上げたかのようだ。そしてすでに土塊のように形を失いつつある。
「騙されないで。嘘ついてるのはあの男よ。皆殺しにしようとしてるんだわ!」
「血を分けた実の親と、どっちを信用するんだ!」
 椎奈は戸惑い、助けを求めるように郁夫を見た。
「作家だろ? 自分で考えろ!」蔓と格闘しながら郁夫は叫んだ。
 作家——そうよ、あたしは作家なんだ! 椎奈は想像力を振り絞った。色や質感、打鍵感。画面に表示される文字。心に手応えを感じたそのとき、空中に青い光が現れた。薄暗い密林が隅々まで照らし出された。
 締めつけが緩んだ隙に、郁夫は蔓を脱した。茂みから転げ出る。大蜘蛛に石や木の実を投げつけた。動きを停めた蜘蛛は輪郭が滲んだ。ぶつける物は次々と見つかる。内心の葛藤の表れだ。悪夢を撃退する力が、椎奈自身に湧き出ているのだ。蔓も力が衰えて動きが緩慢になった。
 青い光は渦を巻いて凝集し、モバイルPCの形を結んで空中に実体化した。もはや偽物どもは人間のふりをやめていた。互いに融合し、椅子や食卓とも一体化して不定形の塊となった。蔓の触手はどす黒い肉色を帯びて膿のように濡れていた。その触手を飴のように伸ばし、椎奈に絡みついてPCから引き離そうとした。我が子を血の池へ引きずり込む亡者のようだ。椎奈はPCにしがみつくようにして狂ったように打鍵した。
 画面から光の文字が津波のように溢れ出した。光はスパークし荒れ狂う奔流となった。嵐を駆け抜ける龍さながらに怪物へ襲いかかる。網のように怪物を包み込んで収縮した。怪物は陥没し、変形して悶え苦しんだ。骨が砕ける音、内臓が押し潰される湿った音がした。
 断末魔の叫びと衝撃が轟き渡った。
 郁夫は両腕で顔を覆って光を遮った。怪物は幾筋もの光芒を放ち、熟れすぎた果実のように弾け飛んだ。両親の四肢や頭部が湿った音を立てて草むらに落下した。PCは水銀のように溶けて丸まり、蒸発した。郁夫に絡みつく蔓は油粕のようにボロボロと崩れて消えた。大地や大気を慄わす衝撃は続いた。椎奈が眼を見ひらいて叫んでいたがその声は郁夫には届かなかった。声が引き金だったかのように巨大蜘蛛はガラスのように砕け散った。爆風が吹き抜け、樹々や茂みを揺らした。大量の葉を奪い、蔓を引きちぎった。飛散する細かな破片がふたりの周囲で渦巻いた。鏡のように虹色にきらめく。郁夫は眼が眩んだ。世界は白くなった。
 光が満ち溢れ、夢のあぶくは蒸発した。
 ふたりは同時に眼を醒ました。彼らは冬眠から醒めた双子の熊のように、ベッドの両端でうめきながら体を起こした。見当識の恢復には時間がかかった。視線が合った。椎奈は表情をこわばらせ、怯えた眼で膝を引き寄せた。郁夫は腰にタオルを一枚巻いただけの格好だった。彼は自己嫌悪で何もいえなかった。性経験のない若者の淫夢は、自己同一化の過程をも意味する。侵入者が関わるべきではなかった。他者との境界や自立心が損なわれる畏れがあった。彼自身も危なかった。未確立の自我で汚染されたのを感じた。
 椎奈は安堵と同時に屈辱を憶えていた。風俗マニアと一夜をともにしたのに身体に異変はない。何事も起きずに朝を迎えたのを悟った。魂に異物が混入したかのような感覚があった。はらわたに熱い杭を打たれてひと晩じゅう掻き回されたかのようだ。熾火のような熱を無視し、自分だけは高潔であるかのように郁夫を睨んだ。そして違和感の正体に気づいた。相手の火傷痕に見憶えがあるのだ。初めて見る裸なのに。
 窓の日覆いから朝の陽光が漏れていた。浴室を使う音や掃除の物音、寝起きの一戦の声が、薄い壁や天井越しに伝わってくる。ふたりは眼を逸らせば負けとでもいうように見つめ合った。
 椎奈は無意識に手を伸ばし、郁夫の火傷痕に指先で触れようとした。
 着信音が沈黙を破った。椎奈は弾かれたようにベッドを降り、黒ドレスから真紅の携帯を発掘した。あたかも最初から携帯に手を伸ばしていたかのように取り繕った。椎奈はベッドに背を向けて床に座った。自分の奇行に心臓が破裂しそうだった。
「椎奈ちゃんおはよう、よく眠れた? 記念すべき第一日目の朝ね。お仕事が始まる前にかけてみたのよ。新しいお部屋はどう、もう慣れた? 吾朗君は優しくしてくれる? 教わることが一杯あって大変でしょう。あたしも社会人になりたての頃はね——
「ママ……」椎奈は思わず声を潜めた。母親の声を郁夫に聞かれたくなかった。「まだどんな仕事するかもわからないの。その吾朗って人にも逢ってないのよ」
「また逃げ出したんじゃないでしょうね。あんたいつもそうなんだから。何事も根気が肝心よ。あんたには意志の力が欠けてるの。弱虫ね。パパとママだってね、今の地位を得るのにずいぶん努力したのよ。ママのお友達がせっかく見つけてくれたお仕事を——
 郁夫は椎奈の弱々しい背中を見つめた。電話の声は離れていても明瞭に聞こえた。なるほど瑠璃子の親友だけのことはあると彼は思った。
「そのお友達に直接聞いてよ。雇い主が戻るまで留守番なの」
「そう、ならいいけど。急に大きな取引が決まったの。世界中の一流ブティックから選ばれたのよ。超セレブを相手にするんだから。素敵でしょ。詳しく聞きたい?」
「あのねママ……」
「榊原さんたら可笑しいのよ、ママのこと最高に素敵だって! それでね——
「ごめん、充電切れそうなの。手短に説明して。用件は?」
 母親はあからさまに機嫌を損ねた。「様子を見に行こうと思ったのよ。忙しくなるから延期だわ。じゃ、しっかりやりなさい。また警察沙汰なんてごめんですからね。もうこれ以上ママを煩わせないで」
「了解。『H』ってホテルに男といるの。ママを見習ってしっかりやるわ」
 椎奈は衝動的にそういって通話を切った。そして郁夫に聞かれているのを思い出して顔から火を噴いた。
 郁夫は慰めようと口をひらきかけた。そのとき外の狭い通りをエンジン音が猛烈に迫った。甲高い急ブレーキ、扉の重々しい開閉音。廊下が騒がしくなり、扉に足音が殺到した。
 自動ロックの紛れもない解錠音がした。
 屈強な男が三人、室内へなだれ込んできた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。