Pの刺激

第5話: 負け犬の過去

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

あ痛て……」編集者は顔をしかめ、吾朗の椅子で身じろぎした。「お手柔らかに頼みますよ、瑠璃子さん」
「大の男がガタガタいわない。ちょっと染みたくらいで」瑠璃子はアルコール綿で編集者の傷口を消毒した。右手にピンセット、左手にチェリー。吸う一方で滅多に吐かない。本当に人間なんだろうかと郁夫は思った。
「あいかわらずパンキッシュだなぁ」
「パンクはロックの魂よ」
「その口癖もあいかわらずだ」
 郁夫はぐったりと壁にもたれた。客用の椅子をボスに取られたのだ。背中の火傷痕を無意識に隠す。氷を入れたビニール袋を瞼に乗せていた。彼は疲れ切っていた。まるでひと晩中潜ったかのようだ。サイレンや野次馬のざわめきが耳に残っていた。あのゲーセンにはしばらく近づけまい。
 男たちは負傷していた。ふたりとも眼のまわりには痣、瞼や唇は腫れている。拳は指の関節が擦り剥けていた。編集者のスーツは型が崩れて皺くちゃ。郁夫はTシャツを引き裂かれ、上に着ていたシャツを失っていた。椎奈はソファーで不機嫌そうに窓を見つめていた。ブラインドの下りた窓には蔦の這う壁が迫っている。郁夫と編集者のおかげで彼女だけは無傷だった。
「何者です、あの三人組」郁夫は尋ねた。
 宍戸菱康ししどひしやすと名乗る男は広い肩をすくめた。「初対面です」
「何か手がかりは。その子に何かいってませんでしたか。『マイクロフィルムをよこせ』とか……」
「いつの時代のスパイ映画よ」
 瑠璃子は週に一度は劇場に通う熱心な映画マニアだった。看護師時代は睡眠時間を削ってでも月に十数本のDVDを観ていた。現在は居間にコレクションを揃え、夕食後に夫婦で映画を愉しむ。
「気がついたときには彼女は襲われてました。何が何やら……」
 大人たちは椎奈を見つめた。
「知るわけないでしょ。なんであたしが拉致されなきゃいけないの」
「また変なことに首突っ込んだんじゃない?」瑠璃子が決めつける。
「やばいもの盗んだとか」
「殺人でも目撃したとか」
 郁夫と宍戸が調子を合わせた。
「人違いか何かでしょ。プロットなら荒唐無稽とかいう癖に!」
 宍戸は嘆息した。「小説のリアリティーは別です。説得力のない事実より、読者の求める嘘を——
「作家はただ真実を書くだけよ。大人はみんな嘘つきだわ!」
 面倒な子に関わっちまったな、と郁夫は思った。さっさと報酬を払ってみんな出て行ってほしい。こないだの浮気調査なんて酷かった。人目を気にしながら公園へ通う中年男。野良猫に餌をやっていただけだった。依頼者の望む証拠をつかめなければ成功報酬は得られない。幾晩も潜らされて徒労に終わった。生計手段となった今も小遣い銭程度でしかない。いったいどう生活しろというのか。せめて日当方式にしてほしい。だが瑠璃子に交渉する勇気は郁夫にはなかった。
「契約の話は本当ですよ。ご両親に頼めばお金は出してもらえるでしょう」
 編集者は困惑したように眉をひそめた。瑠璃子はピンセットの先を突きつけた。
「宍戸さん。この子に変な真似しないでよ。親友の娘なんだから」
「とんでもない。私はただ再デビューを手伝おうと」
「詐欺師!」椎奈は叫んだ。「こんな田舎まで呼びつけて。何が出版エージェントよ」
 瑠璃子は脱脂綿をゴミ箱へ棄てた。道具を薬箱に片づける。「どういうこと」新しいチェリーに火をつけた。
「市場調査とコンテンツ指導を任せていただきます。売り上げが見込めれば出版社にかけあってもいい。まずはどういう路線で行くつもりか話を……」
「金だけ取るっていうのよ。本にするつもりもないのに!」
「無料で働かされちゃ困りますよ。奉仕活動じゃあるまいし。つまり、こういうことなんです……」
 宍戸は真相を語りはじめた。それは業界関係者なら誰もが知る逸話だった。冷笑的に囁き合っては、当事者でなかったのを心密かに安堵する噂だ。出版界のふたつの秘宝を、彼は目前で失ったのだ。
 羅門番。その慣習がいつ確立したか定かではない。読み切り、連載、単行本化に書き下ろし、講演や朗読サイン会。本人の代わりに日程を調整し、執筆の進展を管理する。各社から選び抜かれた精鋭が持ち回りで務めた。さながら原子炉の清掃のように、業界では誰かがやらねばならない任務と見なされてきた。羅門は印刷所を待たせる常習犯だった。短編や随筆の原稿はいつも奪い合いになる。自社に有利にしているのでは、と疑われない人徳が羅門番には求められた。宍戸は大手総合出版社の文芸担当として実績があった。巡ってきた役目に奮い立った。同業者からは大いに同情された。
 無頼派作家は評判通りの人物だった。酒、競馬、喧嘩、麻薬……それに女。酒場で喧嘩、ラリって喧嘩。女を巡って喧嘩。大穴予想を吹き込んだ相手と喧嘩。競馬場で大酒を呷り、ヤク中の女と喧嘩。大枚注ぎ込んだ挙げ句の乱暴狼藉。大型書店やカフェ、ダンスフロアでの朗読会はいつも暴動寸前だった。ひと目見ようと詰めかけた客が会場から溢れる。作家は三十分も遅刻し、酒の臭いを発散させて悠然と登場した。そして眼光鋭く、PA要らずの声を張り上げた。野次る聴衆を罵倒し、ロックコンサートさながらに煽った。あまりの騒ぎに警察が呼ばれ、関係者は厳重に注意された。
 醜態や奇行も数知れなかった。泥酔して下半身を露出、放歌高吟。若い娘らに「お爺ちゃん風邪ひくよ」とクスクス笑われ、誰かに通報されて留置所にぶち込まれた。不敬な文章を発表して政治団体に脅迫された。深夜の路地裏で何者かに取り囲まれもした。羅門は動じなかった。直立不動で敬礼し、街中に響き渡る声で国歌斉唱した。圧倒された兇漢らは散り散りに逃げ去った。
 羅門はバイクを愛した。映画『イージー・ライダー』で有名な大型マシンだ。その怪物で夜ごと高速を爆走した。それでいて飲酒運転でも速度違反でも、逮捕歴は一度もなかった。交通規則は遵守していたのだ。印象を裏切る事実はまだある。彼の原稿は手書きではなかった。国民機と呼ばれるPCで書かれた。そしてその機体は、奇怪なまでに改造されていた。執筆用のエディタは自作だった。
 宍戸は大抵の個性に免疫があるつもりだった。それまでに担当してきた作家には政治団体とつるむ大御所もいた。それでも羅門には手を焼いた。数枚の原稿を受け取るために馬の成績を暗記した。限度を超える酒に付き合った。紫煙に霞む賭博場の空気を吸った。朗読会に同行し、訪れる先々で平身低頭した。泥酔した作家を裏口や留置所へ身請けに行くのは、日常茶飯事だった。
 羅門はしばしば厄介な連中に絡まれた。進んで喧嘩をふっかけもする。宍戸に羽交い締めにされ引きずられるように逃走しながら、羅門は罵声をあげて中指を突き立てた。宍戸の忠告を聞き入れる相手ではない。困ったことに作家が破廉恥の限りを尽くすほど、作品の凄みは増した。読者の襟首を捕らえて引きずり込むかのような迫力だ。掲載誌や単行本の部数は伸びた。
 反比例するように宍戸の体重は激減した。学生時代よりもなお痩せた。孔が足りずにベルトを詰める。撫でつける髪は鏡の前へ立つたびに薄くなった。不整脈も出た。ドリンク剤の常用に加えて胃薬にも頼った。それでも担当を降りるつもりはなかった。進行中の長編に携われるのは編集者冥利だった。前半の草稿を読んだだけでわかった。膨大なビブリオグラフィーにおいて、いや日本文学史上において最重要の作品になると。
 だがその想いは裏切られる。いともたやすく呆気なく。
 予兆めいたものは何ひとつなかった。強いて挙げるなら、またしても警察の厄介になった帰途。夜明け前の牛丼チェーン店での会話だ。有線で流行歌が流れ、ステンレスの業務用冷蔵庫は低く唸り、店員は客と視線を合わせず亡霊のように挨拶した。コの字カウンターに並ぶ客の顔は蛍光灯で青ざめて見えた。大柄な文豪は店内に奇妙に溶け込んでいた。若いの、と彼は担当者に呼びかけた。「おれを狂った年寄りと思ってるだろ」
 宍戸の喉に飯が引っかかる。同席者を気まずくする才能に羅門は長けていた。
「フン、図星か。気にするな。遺伝って奴さ……」
 作家はボソボソと不味そうに食べながら語りだした。
「ちっぽけな田舎町でな。親父は思うがままに他人を操る輩だった。家族の弱みにつけ込んで学者の娘と一緒になった。伯父はまっすぐ立てなかった。不治の遺伝病だと検査してわかった。全身の筋肉がじわじわと弱り、二十歳前後で心臓に達する。宣告は的中した。祖父はがっかりさ。期待してた跡継ぎにゃ先立たれるわ、娘のせいで危険な男にたかられるわ。実験所の庭木で頸を吊った。おれが赤ん坊の頃の話だ。お袋は祖母さんの精神病が遺伝して、やることなすこと支離滅裂だった。親父にとっちゃとんだ見込み違いさ。金蔓にならないんじゃ騙されたようなもんだ。
 不安と変化の時代だった。よそ様の土地や財産を召し上げて進歩的な実験をするのがもてはやされた。親父は息子に独自の教育を施した。やればやるほど息子はおかしくなった。ある日お袋はおれの目の前で裁縫鋏を取り出した。お前のせいだよ、と鳥みたいな声で叫んだ。人間の喉からあんなに血が出るとはな。まるで噴水だったよ。親父に後始末をやらされた。染みはなかなか落ちなかった。返り血を浴びた服は臭ったね。体がでかくなって破れるまでずっと着せられてた。親戚の大事なお下がりだからな」
 どす黒い狂気が羅門の分厚い唇から漂い出ていた。全身の毛穴から侵入され魂が犯されるかのように宍戸は感じた。まっとうな家庭に育った編集者には、羅門の生い立ちは荒唐無稽に聞こえた。なんて幼稚で甘えた男だろう。あれだけの傑作を書く男でなければ関わりたくない。それが正直な感想だった。
 しわがれた低音で羅門は唐突にいった。「お前、悪魔と姦ッたことあるか。契約って奴よ」
 老人の糸のような眼は冗談をいっているようには見えなかった。
「ロバート・ジョンソンですか。四つ辻で魂を売り渡したという」
「誰だそいつは」
「歌手兼ギタリストです。女の亭主に割れた酒瓶で殴り殺された。酒場で」
 宍戸は以前、古いブルースのムックを編集した経験があった。仕事だからやったまでだ。
「書くってのはそういうことだな」ひとり合点するように羅門はしかつめらしく頷いた。宍戸は真意を問い質そうとした。作家は吠えた。「おい兄ちゃんビール!」
 謎めいた話はそれきりになった。マスコミの表現を借りれば「謎の失踪」の数日前だった。
 港町での追跡劇がどんなきっかけで始まったのか、宍戸の記憶は定かでない。予兆はなかった。だが予感はしていたのかもしれない。彼は確かに制止しようとしたのだ。身の危険を冒してまでも。強風が吹きすさび、雨が横殴りに叩きつけ、波が鉛色に荒れ狂う埠頭。作家と編集者は一世一代のカーチェイスを演じた。羅門生之介の最期はまたたく間の出来事だった。声をあげる暇もなかった。追いすがる編集者を振り切り、高波にさらわれたのだ——未完成の原稿を道連れに。
 まるで誰にも読ませまいと、自ら黄泉の国へ突進したかのようだった。
 青い稲光が閃き、黒々とした波が小山のごとく盛り上がる。高波は老作家の大型バイクに轟音とともに覆い被さり、砕け散った。飛沫が煙幕さながらに宍戸の視界を奪った。彼の車は横滑りし、紙一重で転落を免れた。宍戸は熱病にかかったように茫然と車を降り、びしょ濡れの岸壁を見つめた。事故の痕跡は何ひとつなかった。あたかも羅門生之介は最初から実在せず、すべてが幻覚だったかに思えた。
 作家の生存は絶望視された。遺体もバイクも原稿も見つからなかった。出版社は「取材費」に莫大な予算を投じていた。宍戸はその責任を問われて遺族からも責められた。老作家を心理的に追い詰めたというのだ。遺族といっても息子夫婦と、昔から疎遠だった親戚数名。本来なら関わりたがらぬ連中だが、莫大な遺産が転がり込むとなれば話は別だった。その遺産には借金という別名があった。彼らはどうしても宍戸から賠償金をせしめなければ気が済まなかった。
 宍戸は一気に転落した。部署を転々とした末に閉鎖寸前のレーベルへ配属された。部下も作家も使えない連中ばかりだった。何気なく手にした応募原稿に宍戸は愕然とした。内容にではない——それならどれだけ良かったか。出来は小説とすら呼べなかった。問題は差出人の名だ。
 紛れもなくあの疫病神の孫娘だった。
 宍戸は勝負に出た。市場調査の統計が商機を裏づけた。十一年前の因縁は、三島の割腹自殺のように時代の象徴として記憶されていた。重役を前にしたプレゼンは成功。社が一丸となってこの大博打に乗った。新聞や雑誌、中吊り、テレビCMで宣伝が打たれた。
「あの文豪の孫娘」
「十四歳、鮮烈のデビュー」
「早熟の天才」
 恥も外聞もない。使える手管は節操なく使った。取材が殺到した。編集部は茶川賞ノミネートへの根回しに尽力した。ブランド力の落ちた文学賞は「斬新」な作品を欲していた。見事ニーズが一致する。受賞効果は凄まじかった。増刷に次ぐ増刷。およそひと月で二十万部も売り上げた。
 低迷する業界にとって「羅門の孫娘」は最大の商品だった。だがいかんせん作品数が少なすぎた。関連本すら出せずにいるうち、翌月には早くも在庫がだぶつきだした。孫娘は処女作の成功にこだわるあまり次作を書かなかった。半年が過ぎ一年が経った。茶川賞のブランドは地に落ち、早熟の天才は業界最大の汚点と化した。
 全責任は宍戸にのしかかった。追われるように辞職した。家庭の不和も臨界点へ達した。美しく聡明な妻は幼い娘を連れて出ていった。まだ新しい郊外の家に、彼は数十年のローンとともに取り残された。
 腐っていても始まらない。心機一転、エージェント業を起ち上げた。培った経験とコネを役立てるときだ。面識のあるなしを問わず、片っ端から声をかけた。もっとも欲しいのは形容詞つきジャンルを書ける作家だ。「ためになる」ミステリ、「斬新な」ホラー、「泣ける」恋愛小説、「萌える」SF。勝算はあった。築き上げた実績や信頼は、誰にも負けない自信があった。
「成功するといいですね」
「頑張ってください」
「陰ながら応援してます」
 誰もが前途を祈り、そそくさと通話を切り上げた。仕事を得るためなら靴でも舐めたような連中がだ。まるで回線を通じて疫病に伝染するのを畏れるかのようだった。契約に漕ぎ着けるどころか会ってさえもらえない。大企業の肩書きをなくして何者でもなくなったのを宍戸はようやく悟った。
 売り物がなければ商売はできない。公募誌に広告を出した。登録料を払ってまで応募する者はいなかった。やむなく無料化した。廃棄用の段ボール箱がたちまち積み重なった。退職金を食いつぶす生活に下読みを雇う余裕などない。ブログ更新のついでに儲け話を探した。
 青葉市にまつわる奇妙な噂に遭遇した。散文の一部と思しきものが街中にばらまかれているという。ソーシャルメディアで噂が広まり、熱狂的な愛好家が増えていた。それは「PCz」と呼ばれていた。
 末尾や冒頭が重複するものも含めると、確認されただけで数百種。数は増え続ける一方だった。固有名詞、句読点や構文、語句の使用頻度など、文体には明らかに統一性があった。贋作の疑いがあるものを除外すれば、すべて同一作品の一部と見られていた。どの断片にどれが続くのか。「PCz拡散性会議室」(略称PDF)なるコミュニティーで日夜議論が交わされていた。配列の再現をもくろんだ編集例は「私家版」と呼ばれた。それはパズルであり、どこへも到達しないトマソンの階段でもあった。
 宍戸の興味を惹いたのは正体の定説だった。郷土出身の文豪、羅門生之介の未発表作だというのだ。冷やかしのつもりで抜粋を見るや仰天した。紛れもなくあの遺稿だった。慌てて過去の議論に眼を通す。羅門生之介の生存説が飛び交っていた。青葉市刻文町で実際に目撃されたとの噂もあった。宍戸は矢も楯もたまらず新幹線に飛び乗った。編集者としての直感が何かを告げていた。流れる景色に胸が高鳴った。
 実際に眼にした光景は衝撃だった。
 闇金や出張風俗の広告、迷い犬のビラなどに偽装された電柱の貼り紙。地下鉄の中吊り広告。求人情報誌やフリーペーパーの棚。繁華街の立て看板や電柱には、ピンクちらしとともに群がっていた。スプレーの落書きが目立つと思えばそれもPCzだった。歩道橋やガードレール、ガード下のコンクリート壁に、忘れがたい一節が殴り書きされていた。駅のトイレでも発見した。個室の扉に鉛筆でびっしり書き込まれていた。強風に舞う紙吹雪は忘れられない。羅門の言葉が文字通り街中に散らばっていた。
 宍戸は確信した。思わせぶりな広告は刊行へ向けた話題づくりだ。誰かが遺稿を手に入れたのだ。羅門の最高傑作を。その名も『PUNK』……無頼派最後の生き残りなどと持ち上げられるより、いっそただの不良と呼ばれたい。生前そう口にしていた老作家の心意気。編集者人生を賭けた原稿を、どこの馬の骨とも知れない輩に奪われてたまるものか。別の負け犬が意識へ浮上した。あの子にはそんな行動力も才覚もない。だが才能を別にすれば、あの狂人の血をもっとも受け継いだのは彼女だ。何か知っているかもしれない。
 羅門椎奈。
 史上最悪の一発屋。アイドル的にもてはやされ、処女作を越えられずに一瞬で消えた。性格だけは祖父に似て、手を焼かされたのを思い出す。生之介の孫娘でさえなければあんな地雷は踏まなかった。単刀直入に尋ねれば、引き出せるものも引き出せまい。彼は戦略を練った。
 携帯にはまだ名前が残っていた。「失踪」事件以来、あの家には近づき難かった。ご令嬢の受賞当時は連絡を取るのにいちいち夫妻を通さねばならなかった。ご機嫌伺いの挨拶に何度も出向いたものだ。まるで書いたのが娘の自発的な意思ではなく、自分たちが一から十まで指導して書かせたかのような態度だった。そんな両親に椎奈は何もいわなかった。両親も彼女が見えていないかのようだった。互いに不可視の存在にでもなったかのように。家庭内のあの呪われた空気がすでにその後を暗示していた。
 横槍を入れられてはかなわない。今回は直接、本人へ電話した。
 突っ張っていても所詮は子ども。初めこそ警戒されたが再デビューをほのめかすと喰いついてきた。おだててその気にさせ、青葉市へ呼び寄せた。中央資本の大手フランチャイズとパチンコ屋ばかりの街で、駅ビルには同じ外資系カフェが三軒もあった。宍戸はカフェのテーブルに契約書を拡げた。登録料や年間契約料、報酬のパーセンテージ、別料金の営業費。立て板に水で説明しながら、切り出すタイミングを窺った。
 本題に入る前に睨まれた。死体のように隈取られた陰険な眼で。「騙そうってのね」
 抗弁する間もなく逃げられた。椎奈は弾丸のように店を飛び出した。練った戦略は初っぱなから瓦解した。店内の視線を浴びながら書類をかき集めてあとを追う。ゲーセンの店先で捕まえた。汗だくで説得に努めていると、見知らぬ若者に因縁をつけられた。そこから先は郁夫も知っての通りだった。
「あんただったのね、家出をそそのかしたのは。そんなことだろうと思った」
 瑠璃子は腕組みして宍戸を睨んだ。彼女にそんな眼で見られて平然としている男を郁夫は初めて見た。
「権利者に無断で出版はできない。遺稿を撒いている何者かはいずれ遺族に接触します。椎奈さんは生之介にそっくりだ。いまだ彼を毛嫌いするご両親よりもきっと椎奈さんを選ぶ。編集者としての直感です」
「で、その接触とやらはあったの」
「まさか。お祖父ちゃんなんて顔も知らないのに。あたしに何を訊くのよ」
 郁夫はゲーセンの三人組について考えていた。どうも『PUNK』は金になるらしい。当時の紳士協定などもう無効だろう。各社間で争奪戦になってもおかしくない。出版を有利に進めるなら判断力のない女子高生をまず味方につければいい。落ちぶれたとはいえ元作家なら宣伝にも利用できる。うまい手だ。今のうちに気に入られておけばおこぼれにあずかれるかもしれない。郁夫は氷嚢を下ろして宍戸に謝罪した。
「誤解が解けて何よりです」宍戸は精力的に郁夫と握手した。「お名前をまだ伺ってませんね」
「『まごころサービス』の州辻郁夫です。その子を見つけるよう頼まれたんすよ」
 郁夫は書類の山から名刺を発掘して宍戸に手渡した。
 瑠璃子が口を挟んだ。「プチ家出ってあるでしょ。ああいうの見つけるの得意よ」
「凄腕だ。家出の翌日には見つけたんだから」宍戸は愛想笑いした。その目に抜け目のない光がよぎるのを郁夫は見逃さなかった。宍戸はいかにもついでのように尋ねた。「料金は?」
「要相談。お安くしとくわ」
「ひとつ僕もお願いしようかな」
「キツい重労働でもどんどんやらせて。頭がまわらない分、無理は利くのよ」
 大人たちはそれぞれの思惑から冗談めかしていた。郁夫は椎奈が宍戸に反撥する理由がわかったような気がした。したたかな編集者なのだ。おそらく瑠璃子にも負けまい。
「PCzをばらまいているのは誰か。突き止めて原稿を取り返してください」
 来た。待ちに待ったでかい仕事が。郁夫は昂揚するような滅入るようないつもの心境を味わった。家出人捜しは序章に過ぎなかった。これが本番だったのだ。願わくば例の力を使わずに済みますように。
 椎奈が眼を光らせて会話に割り込んだ。「ねぇ。犯人ってお祖父ちゃんじゃない?」
「彼が生きてるって意味ですか」
「十三年かけてついに書き上げたのよ。恨みを買った出版社には持ち込めないから、そんな手で発表を……」
 宍戸は感想を口にしなかった。ただ失笑した。
「場所変えましょうか」瑠璃子は空き缶で吸い殻を潰し、立ち上がった。
 宍戸が振り返る。「羅門さん?」椎奈は反応しない。
 瑠璃子は戸口で郁夫にいう。「今忙しいのよ、その子の親。仕事が落ち着いたら様子を見に来るって。それまで面倒見てやって」
「はぁ?」
「中学出たばかりの女の子よ。慣れない土地でひとり暮らしは物騒でしょ。しっかり監視すんのよ」瑠璃子は椎奈にもいった。「お母さんに色々頼まれたの。詳しくはその男に訊いて」
 ふたりは去った。階段から表へと足音が遠ざかる。階下の音楽が再び聞こえるようになった。
 丸い額の下から陰険な瞳が睨みつけてくる。郁夫は背筋が寒くなった。流しで氷嚢を処分して戻るまでのあいだに対策を練ろうとした。なるべく緩慢に歩いたが思いつかなかった。
「あー、つまりだ。あんた翻訳を手伝うらしいよ。住み込みで。雇い主は留守だけど」
 椎奈は聞いていなかった。ニヤリとほくそ笑み、拳を握り締めて立ち上がった。ついに題材を見出したのだ。祖父を捜して謎を解き明かす。自身のルーツを探求する大河家族小説だ。いける!
 椎奈は高笑いした。
 郁夫は顔をこわばらせた。やれやれ、妙なことに巻き込まれちまった……。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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