Pの刺激

第2話: 怪しい依頼人

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.25

州  辻郁夫すつじいくおはイグアナに似ていた。眠たげな眼は下瞼があるかに見える。背中の火傷痕は鱗を思わせた。小学校以来、誰もが彼を「いっ君」と呼ぶ。呼ばないのは親友の母親、瑠璃子くらいだ。だらしなく伸びた髪に襟のたるんだTシャツ。ネルシャツとジーンズは垢じみて擦り切れていた。
「なんなのこの部屋」
 足の爪を切っていた郁夫は机から転げ落ちそうになった。階下の音楽で瑠璃子の靴音に気づかなかった。狭い横丁でなければ、大音量の音楽で真紅のコンバーチブルの接近を察したかもしれない。あいにく駐車場は遠かった。狭い室内は雑誌や漫画、紙屑、弁当の容器で床が見えない。普段は美人女子大生が競い合うように掃除する。恩師のつてで吾朗が雇った下訳の学生だ。媚を売る相手が不在でこの有様だ。
「吾朗ちゃんは?」
「東京に出張ですよ。聞いてません? 打ち合わせと出版社のパーティー。それから何かのオフ会だそうで。おれは学生が来るんで留守番を……」
 瑠璃子は切れ長の眼を疑わしげに細めた。ふんわりしたショートヘア、豹を思わせる尖った顎。襟のあいた白い木綿ブラウス、鎖骨には銀のネックレス。洗い晒しの細いジーンズが似合っていた。モデルのような体型はとても四十代なかばには見えない。
「困ったわね。州辻君じゃ話にならない。ここ灰皿ないの?」
 瑠璃子は苛立たしげに部屋を見まわした。来訪のたびに繰り返す台詞だ。
 郁夫は背中を丸め、頭を低めて空き缶を差し出した。「どんなご用件で」
 瑠璃子はチェリーの灰を空き缶に落とした。「あんたの用はあとで話すわ。吾朗ちゃんの携帯は繋がらないし……」
 郁夫は苦い薬でも呑まされたような顔をした。「また親父さんが使うから出ていけと?」
「まさか。息子がやっと自立したのよ。夫婦水入らずの生活を満喫してるわ」
 吾朗の父親は画家だ。妻が病院を辞める以前、文化横町の二階建て店舗をアトリエにしていた。昭和三十年代に建てられた当初はトイレさえなかった。泊まりがけで描けるよう改装した。ユニットバスや台所をしつらえ古物のソファーを運び入れた。やがて父は歳を取り、自宅で充分という気になった。そこで一階を貸店舗とし、二階は愛息に自由に使わせることにしたのだ。郁夫が入り浸るうちにいつしか事務所は共有となった。もちろん家賃のやりとりなどない。
「知り合いの娘を紹介したいの」
「お見合い?」
「相手はまだ子どもよ。下訳のバイトにどうかと思って。住み込みで」瑠璃子はソファーの毛布を胡散臭げに一瞥した。事務椅子を引き寄せて座り、長い脚を組む。「高校中退して就職もせずブラブラ。近所や親戚の眼もあるし。ほっとくわけにもって母親に泣きつかれて」
「で安請け……引き受けたんですか。まず吾朗君に相談するのが筋でしょ」
「今さらしょうがないじゃない。逸材よ。英語も得意だっていうし」
「いきなり住み込みって」
「落ち着き先が決まるまでよ」
「夜は物騒ですよ」
「だから留守番が要るのよ」
「盗まれるものなんて」
「仕事道具」
「PCはいつも持ち歩いてますよ。戦前の俗語辞典なんて誰が欲しがります?」
 瑠璃子は煙草を口から離した。「なんでそうムキに? 州辻君に関係ないでしょ」
「いやそのほら、翻訳家って繊細だから。集中力がそがれるんじゃないかと。心配じゃないですか親友として」
 瑠璃子は彼をじっと見つめた。救急病院で人間の生死を見続けてきた眼だ。郁夫の顔にガマの脂よろしく汗が流れる。ハンドバッグが振動した。瑠璃子は携帯を取り出した。
「今その男と話してるとこ。家出人捜しには実績があんの。勤め先も確保したから。じゃまたあとで。はーい」
 このところ碌に食べていない。金になるならどんな仕事でも欲しかった。通話を終えた瑠璃子に郁夫は尋ねた。「それがもうひとつの用件ですね」
「珍しく呑み込みが早いわね。危なっかしい子なの。一昨年ちょっと有名になったもんだから……」
「有名?」
「茶川賞を獲ったのよ。十四歳で」瑠璃子は顔をしかめた。「反応が薄い。羅門生之介の孫よ」
「ごつい名前すね。プロレスラー?」
「無頼派の文豪よ。あんたがウチに来た頃、騒がれてたじゃない」
「その節はどうも」
「一生働いて報いてもらうから」
「洒落になりませんよ」
椎奈しいなちゃんは顔は親に似たけど性格がね。天才だ文壇のアイドルだって、騒がれて調子に乗ったのよ」
 郁夫は手渡された写真を見た。入学式の記念撮影だろう。桜舞い散る校門の前で少女がふてくされている。セーラー服に校章。髪は三つ編み。広いおでこが火星人のようだ。大きな瞳が陰険な輝きを放っていた。あたかもこんな服装をさせられたのが気に喰わぬかのようだ。
「変な気を起こさないでよ。まだ十六なんだから」
「勘弁してくださいよ。吾朗君と違ってモテないんすから」
「だから心配なんじゃないの」瑠璃子は口紅のついた吸い殻を缶に押しつけた。バッグを手に立ち上がる。「まちがいがあったら承知しないわよ。大事な親友の娘なんだから」
 瑠璃子は椅子を戻さずに部屋を出ていった。その後ろ姿を見送り、靴下を探しはじめてから郁夫は「あっ」と叫んだ。ふたつの用件は同じ娘のことだったのだ。「江虫翻訳事務所」「州辻まごころサービス」と表札をふたつ掲げた扉を出て、狭くて急な階段をとぼとぼと降りた。
 数ヶ月前からこのビルで暮らしていた。部屋代の滞納でアパートを追い出されたのだ。吾朗の言葉が脳裏をよぎる。「好きに使っていいけど、お袋にだけは知られんなよ。色々と面倒だから」
 郁夫は溜息をついた。口コミは刻文町界隈に広まっていた。もっと欲を張って営業すべきか。夜の女への点数稼ぎもあるし情報も得やすくなる。せめて吾朗がいれば、当座の金くらいは用立ててもらえたのに。
 ビーズ暖簾をくぐり、線香臭いレジ裏へ出た。ちわっす、と入翼透子に声をかけて窮屈なカウンターを抜ける。狭い店内に商品がひしめいていた。ろうけつ染めやペイズリー柄。小さな鏡や玉飾りのついた服。等身大の不気味な幼児の置物。妙に色艶のいい口ひげ俳優のブロマイド。象の頭をした両性具有者らが、複雑な体位で交わる図。金メッキや真鍮製の小間物……。床のラジカセからウェイラーズが流れている。郁夫は日頃から疑問を抱いていた。インド雑貨店でなぜレゲエ。
「むむ、不吉な……謎の少女が見える!」
 透子は芝居がかった仕草で水晶玉を撫でた。頸や手首に巻いたビーズが鳴る。
「話聞いてたんすね。そのネタちょっと飽きたんすけど」
「火難、水難、風難の相が……獣にも注意。失せ物を見出し、懐かしい人に再会するであろう。ラッキーアイテムはシダの鉢植え」
「ぐっと良くなったすよ」この女の冗談につきあうには根気がいる。
「今度カレー食べに行かない? ナンの美味しいお店知ってんの。駅裏の」
 透子はカウンターに両肘をついた。更紗のサリーに身を包んだ面長美人だ。クレオパトラ型の鼻に小さな口。唇の左端にはホクロがある。青いラメ入りアイシャドウ、栗色のロングヘア。座っているとわからないがモデル並みに背が高い。一念発起して脱サラし、起業の夢を叶えて一年が過ぎた。郁夫よりいくらか歳上だ。
「奢ってくれるならいつでも声かけてください」
 郁夫は雑貨の棚を倒さないよう細心の注意を払って店を出た。「まごころサービス」の看板は特価品のワンピースで隠れていた。陽の射さない横町をアーケード街とは逆側へ向かう。個人商店のひしめく横丁は昭和の雰囲気を残していた。魚屋の撒いた水にビラが何枚か浸かっていた。公衆便所と総菜屋を過ぎ、写真機材屋の脇を抜けた。
 鼻先で虹色の球体が破裂した。
「いっ君」
 空き店舗を写真屋の主人が個展会場にしていた。郁夫は暗幕で囲われた展示スペースを見た。作品が二十枚ほど眼玉クリップで吊り下げられ、白黒の街がシーツに投影されていた。小学二年の日焼けした長女が戸口でシャボン玉を吹いていた。赤いボンボンに花柄ワンピース、膝には絆創膏。サンダルは大人用だった。
「どうしたの。浮かない顔ね」
「大人には色々あんのさ……」
「パパの新作見て」
 少女は丸椅子から立ち上がり、郁夫の手首をつかんだ。室内へ強引に引き込む。
「この作品は刻文町の光と陰を表現しています! それでねそれでね、こっちは——
 教えられた台詞を得意げに暗唱する。獲物をがっちりつかんで離さない。眼鏡と口ひげの父親が向かいの店から監視していた。説明を終えた案内嬢はぺたんと椅子に座り、シャボン容器つきのストローを構えた。
「感想をノートに書いてください。住所と名前も。案内状送るんだって」
 少女は店先にシャボン玉を吹き散らした。郁夫は従った。八歳児には逆らえない。
「ねえ見て見て。すっごい数できた!」
 少女は弾んだ声で立ち上がり指差した。あるものは風に漂い、あるものは地面に舞い降りる。空中でぶつかり合って消えたり融合したり。ひとりでに弾けるものもある。路面に丸い濡れ跡が増えてゆく。
「全部に景色が映ってるね」と少女。「世界が閉じ込められてるみたい」
 無数のあぶくに封じられた小宇宙……。
 郁夫は連想した。青葉市の夜空に浮かぶ百万の悪夢を。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告