黒い渦

第7話: 植民地様式の白い大きな家だった

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.19

植民地様式の白い大きな家だった。冬でも芝の青々とした庭園。落葉樹にまで趣があった。玄関で迎えた引っ詰めの娘は助手らしかった。扉を引き開けたのとは反対の手にスタイラスを握っている。腫れぼったい眼で来訪者を眺めた。宍神は本名を名乗った。助手は奥へ引き返して来客を告げた。
 写真の女が現れた。三十代半ばで成功した女流漫画家だ。ソバージュの髪、プリーツやフリルで膨らんだ紅茶色のドレス。化粧っ気はなくセルフレームの眼鏡をかけている。宍神を見るなり不安の色は諦観へと変わった。「いつかこの日が来ると思ってた。写真取材だって断るようにしてきた。だから殺害計画には関わりたくなかったのよ」
「認めるとは思わなかった」
「とにかく上がって。ご近所に変に思われる」どう思われようがもはや関わりがない事実を宍神はあえて指摘しなかった。
 建物の中は暖房が効いていた。広い部屋は仕事場らしかった。伸びたTシャツや擦り切れたジーンズ、型崩れしたジャージといった格好の男女がスタイラスを握ったまま様子を窺っている。宍神は隣接する応接室へ案内された。今日はもういいわ、この人と話があるから。女は助手たちに早く帰るよう促した。
 宍神は勧められたソファーに腰掛けた。「短期間でよく稼いだな。どうやって社会に紛れ込んだ」
「人間のふりをするのは難しくない。本物がふりをする程度にはね。コーヒー、紅茶?」
「本物がふりをする?」
「人間は他人と同じになるのに必死だわ。社会から弾かれないように。芸術分野で食べてる人形はあたしだけじゃない。残念ながら運動選手にはなれない。あれに依存してるから。コーヒーでいいわね」
 開け放された戸口から仕事場の机が見えた。錠剤のシートが散乱していた。
「要らない。人形が創造性に秀でてるとでも?」
「芸術なんて模倣の組み合わせよ。感情だってそう。あなたも人形?」
 宍神は答えなかった。
「運に恵まれたのは自覚してる。作家になれなかった仲間もいた」漫画家は電気ケトルの電源を入れ、戸棚からカップと瓶を出した。粉を入れて湯を注ぐ。匙でかきまわす音で慄えているのがわかった。「最後の一杯がインスタントだなんて」
 漫画家は向かい合うソファーに座った。カップを唇へ寄せ、熱さに顔をしかめて膝に黒い液体をこぼした。悲鳴をあげて立ち上がり、台拭きで拭おうとした。「たまにまともな格好してるとこうなんだから!」不意に手を止め、放心したように腰を下ろした。
「俺が来るのを知ってたのか」
「まさか。だったら家にあるお金をかき集めてジャージのままで逃げるわよ。さっき取材が入ったの。海外の大きな仕事を請けたのよ。うちの子たち張り切っちゃって。がっかりさせちゃうわね。次の職場も紹介してあげられなかった」
 宍神は写真の束を差し出した。「作家志望者はどれだ」
「仲間を売るとでも?」憔悴した笑みは消えていた。今はただ虚ろな表情があるだけだ。
「見逃す条件かもしれない」宍神は肩を揺すり、写真をコートのポケットにしまった。「時間の無駄だな。こっちも本気にするとは当てにしてない」
 人形は眼を細めて窓の外を見た。落葉樹で鳥が数羽遊んでいた。変色した葉がまだ残っている。「あなたのことは前から知ってた。あたしたちがまだ高級性具だった頃の……」
「原型師だった。辞めて十年になる」
「それで今は殺し屋ってわけね」人形の声に怒りが滲んだ。
「誰も殺さない。不具合の生じた製品を機能停止するだけだ」
「生命の定義か」人形は諦めたように大きく息をついた。「哲学的な議論で苦痛を長引かせないで。やるならさっさと済ませて」眼鏡を外してテーブルに置き、髪の乱れを直して背筋を正した。無表情に宍神を直視する。その眼から視線をそらさずに宍神はコートに手を入れ、短銃を抜いて撃った。黒い体液と脳ユニットが壁に飛び散った。まだ残っていた助手と痩せた中年男が駆けつけた。助手は絶叫し、飛び込んできた勢いのまま踵を返した。表で助けを呼ぶ声が聞こえた。携帯で通報しているのか、それとも近隣の住民に助けを求めたのかもしれない。顔を失って座っている妻を痩せた男はじっと見つめた。
「奥さんは人形だった」宍神は言った。サイレンが近づいた。
「気づいてたよ」男は肯いた。「騙されてるふりをしていた。本人に知られなくてよかった」

「待ってよ……」
 リーダー格の男の腕を女は掴んで引き留めた。爪の剥げた指がひび割れた膚にめり込む。粘液がジクジクと滲んで滴り、男は苦痛に顔を歪めた。女はハッとして手を放すと両腕で頭を庇った。ギターケースを担いだ男は濁った眼を向けただけだった。自慢だった女の長い髪は薄汚れた布で覆われている。昨夜から房ごと抜けるようになっていた。早く手を打たないと全員お陀仏ですな、と言って中年男が下卑た笑みを浮かべた。やはり不似合いな楽器ケースを背負っている。この男も歯の多くが抜け落ちて歯肉が腐りはじめていた。眼は落ち窪み、隈取られて狂気の光を強めている。三人とも肉体の崩壊が進行していた。膚は乾いた泥のようにボロボロと剥落する。背筋や手脚は佝僂病のように湾曲して縮かんでいた。
「わかりきった無駄口を叩くな。何のためにあそこまでして銃を手に入れた」今では老人のように見える青年が喉から声を絞り出した。「情報は本当に間違いないんだろうな」
「あたしも死にたかないですからね」中年男は集合住宅を示した。「あれが売人の住処ですよ。見取り図は頭に入ってますね」
「当然だ」若い男はもはや虚勢を張る体力もなかった。息を切らし、生への未練だけで歩を進めていた。
 家路を急ぐ人々で下町は混雑していた。ネオンが瞬き、酸化した油の臭いを換気扇が撒き散らす。男たちの荷物は人目を惹かなかった。学生風の娘が買い物袋を抱えて鍵を開けようとしていた。持ってあげる、と言って女がすっと近づき袋を取り上げた。娘は微笑んで扉を開け、荷物を受けとって礼を言った。三人は微笑と会釈で応じ、彼女の後について建物に入った。若い男はパネルに手を伸ばして何回ですかと尋ねた。絵の具で汚れたTシャツとジーンズの娘は三階と答えた。
「親切な方がいてよかった。田舎から出てきたばかりで……」
「この街もあんたの故郷と同じだよ」と男が言った。「出て行きたくても逃げ場がない」
 娘の笑みが凍った。変わった奴でね、といった風に中年男が肩をすくめてみせた。
 四階で三人は降りた。目的の扉は突き当たりだ。若い男は突き進みながら生皮を剥ぐように猟銃を出してケースを棄てた。中年男もそうした。今度は鍵がかかっていた。テレビの録音された笑い声が漏れ聞こえてくる。若い男は曲げたヘアピンを鍵穴に差し込んだ。解錠音がした。若い男は中年男を戸口の見張りに立たせ、先頭に立って廊下を進んだ。掃除の必要なアパートだった。芸人が何か言い、観客がどっと沸いた。若い男は薬室に弾を送って猟銃を構えた。壁沿いに歩く女は短銃の遊底を引いた。
 テーブルで食事をしていた一家が侵入者を見た。若い男が発砲した。食器が砕けて料理が飛び散る。立ち上がりざまに短銃を抜いた売人が壁まで吹き飛ばされた。若い男は薬莢を排出して続けざまに撃った。赤ん坊に離乳食を食べさせていた母親が抱いた子供ごと大穴を開けられた。女も短銃を撃ちまくった。絶叫する幼い男の子と彼を庇おうと飛び出した少女が射殺された。そのあいだもテレビの爆笑は続いていた。
 鼻の下にひげを生やした売人は生きていた。突き出た腹で血の筋を描いて床を這った。毛深い右腕ごと吹き飛ばされた短銃へにじり寄る。その左手を若い男が踏みにじった。デスはどこだ、と言って若い男は熱い筒先で売人の顔を叩いた。こめかみに黒い油がついた。売人は上目遣いに睨むばかりで答えなかった。若い男は踵に力を込めた。「イーヴルだよ。知らんとは言わせねえぞ。でかい取引が控えてるんだろうが」
「世界はそいつで一杯さ」売人は憎々しげに声を絞り出した。「お前もその手先だ」
「ふざけるな」その脚を若い男は撃ち抜いた。売人は痙攣して獣のように吠えた。
「どこにある。言え」
 ベッドだ、と売人は答えた。惨めな声だった。赤黒い切り株のような右腕から激しく出血している。女が寝室へ飛んでいき、マットレスを剥がして神経質に叫んだ。「嘘ッ。ないじゃない!」テレビの観客がまた爆笑した。銃を頭に押しつけられた売人は狼狽して叫んだ。
「板を剥がすんだ。二重底になってる」
 あったわ、と女が叫んだ。売人は安堵の色を滲ませた。その頭部を男は猟銃で吹き飛ばした。
 洗剤のCMと同時にトイレで水が流れた。頬骨の高い色黒の男がジーンズのベルトを締めながら廊下に出てきた。くわえ煙草で鼻歌を唸っている。イヤフォンから金属的な音が漏れ聞こえていた。色黒の男は血まみれの部屋に眼を剥いて腰から拳銃を抜いた。撃ち合いになった。薬を掻き集めていた女も寝室から応戦した。テレビは撃ち抜かれて沈黙した。若い男は右腕と左脇腹に傷を負った。短銃に持ち替えて弾倉が空になるまで撃ち続けた。
 静かになった。硝煙が立ち籠める部屋に屍体がふたつ転がっていた。廊下には色黒の男。床に飛ばされた携帯のイヤフォンから金属的な音が聞こえていた。女は錠剤の包みが敷き詰められたベッドに伏せるようにして死んでいた。短銃を手にした中年男が若い男の背後に近づいた。
「何やってたんだ。おかげで分け前は増えたけどよ」若い男は額の汗を拭うと銃で屍体を示した。「誰だこいつ」
「婿養子だよ。奴の商売仲間だ」
 若い男はハッとして中年男を睨んだ。「知ってたのか。こいつがいるのを」
 中年男は若い男の眉間を撃ち抜いた。若い男は糸の切れた操り人形のように膝を突き、天を仰いで横ざまに倒れた。
 中年男の肉体は限界に達していた。腐りかけのミイラのようだった。ぶるぶる慄え、黒ずんだ膿のような脂汗が滲み出る。寝室へ急いだ。崩れて塵になりつつある女の屍体を中年男は払い除けた。抜け殻となった赤いドレスから湿った塵が床にぶちまけられた。中年男はビニールの梱包を引きちぎり、錠剤のシートを取り出して高笑いした。勝ったのだ。死神を出し抜いた。慄える手で錠剤をシートから押し出そうとした。錠剤は落ちてベッドの下へ転がった。中年男は苛立たしげな声を発し、別の粒を押し出した。割れた唇に錠剤を押し込める。汗だくなのに口が乾いて嚥下できなかった。水が欲しい。ベッドに手をついて立ち上がろうとした。
 銃声がした。
 中年男は眼を剥いて噎せ、錠剤を吹き出した。その後から黒い血の泡がこぼれ出た。肩がわなわなと慄え、信じられないという表情がよぎった。底板を剥がされたベッドの錠剤の上に倒れ込んだ。
 コートの男が戸口に立っていた。手にした銃から硝煙が立ちのぼる。宍神は屍骸の襟首を掴んでベッドからどけた。中年男の屍骸はグニャリと横ざまに倒れた。宍神は黒く汚れたシートを拾い上げた。屍骸は崩れて塵になりはじめた。宍神は黒い錠剤を見つめた。それは強迫観念のように彼を捉えて離さなかった。
 宍神は錠剤をコートのポケットに突っ込み、アパートを後にした。

 平日の昼間だというのに園内は家族連れや若い男女で混雑していた。夕焼けの街に宍神はいた。赤い電波塔のほかに高層建築がひとつもない立体投射映像の空。未舗装に見せかけた通りには八百屋や駄菓子屋が軒を連ねている。いずれも強化プラスティックで再現された木造家屋で、パークの商標を付した土産物が売られていた。大衆食堂では当時を再現したと称する料理が食べられた。小劇場では当時の娯楽映画を扱った「総天然色シネマスコープ」なるアトラクションをやっていた。
 宍神は観光客に紛れて係員へ近づいた。丸顔でぽっちゃり型の女だ。客室乗務員風の制服におかっぱの黒髪。ロープを張った棒の位置を直しながら、客に行列の最後尾や待ち時間を教えていた。訓練された笑顔は宍神と警官たちを見るなり凍りついた。胸のIDカードに記載された名を飯沢警部は呼んだ。
「君の遺体が発見された。どこの組織の支援を受けた」
 逃げようとした人形の腕を飯沢が掴んだ。警官たちが取り囲んだ。人形は自由なほうの手で衣裳の胸元を引き裂いた。ボタンが弾け飛び、時代考証がなされていない現代の下着が露出する。人形は金切り声で叫んだ。アトラクションには見えなかった。群衆は悲鳴に感染したように現実へ引き戻され、叫びながら四方八方へ散った。園の保安要員が駆けつけて私服警官らを捕らえようとした。幼い子供が転んで踏み潰された。母親が群集に抗おうとして倒れた。揉み合いながら飯沢が声を張り上げ、部下たちが無線で指示を出した。
 宍神は保安要員を振り払って人形を探した。大河のような人垣へ紛れ込む後ろ姿を認めた。植え込みや案内板に仕込まれた拡声器から割れた電子音が響き渡る。人形の道化師や和装の女が巨大な山車を率いてビラを撒いた。観客は歓声をあげて子供を肩車したり携帯で撮影したりしていた。
 係員が微笑を崩さずに宍神を制止した。「ハイ、危ないですよ」
 宍神は押しのけようとして息を呑み、相手を見つめた。
「あの子とは違いますよ。登録済みです」人形はいかにも機械仕掛けのように眼をまわし歯を剥き出して笑ってみせた。「仲間を売りたくはないが我々はあなたに恩がある。それにあの子は規則を破った。店番の婆さんが居眠りしている煙草屋が見えますか。あそこを廻ってください」
「君を知らない」
「あなたは今でも伝説の人だ。さあ早く」
 女はポップコーン屋台の脇に屈んで幼い男の子に風船を手渡していた。左手は胸元を押さえている。
「離れろ!」
 幼児が眼を丸くして宍神の銃を見つめた。赤い風船が手を離れて投射映像の空へ吸い込まれた。女は幼児を抱えて屋台を押し倒した。母親の悲鳴。水槽が砕けてポップコーンが撒き散らされ、砂糖醤油の香りが立ち籠めた。宍神は逃げ惑う人々にまたも行く手を阻まれた。
 私服刑事たちが追いついた。幼児は地面に座り込んで泣いていた。母親が取りすがった。
「一般人を巻き込むな」警部が低く叫んだ。「部外者の介入が発覚すれば責任を取らされるのは俺だ」
 いたぞ、と刑事が叫ぶ。人形はブリキ看板のある板塀に追い詰められた。動くな、と飯沢が叫んだ。学生風の男女が林檎飴を舐めながら横切った。若い刑事が彼らを押しのけて飛び出した。人形が信じがたい素早さで刑事を捕らえて羽交い締めにした。人々は歓声をあげて携帯を掲げ、共有された情報でさらに見物客が集まった。人形は短銃を奪って刑事を突き飛ばし、頭上へ発砲した。茜色の空が金属音を立てて歪み、投射装置のガラス片が降り注いだ。見物客は悲鳴をあげて散った。警官たちは彼らにぶつかりながら人形と宍神を追った。人形は長蛇の列へ紛れた。悲鳴や抗議の声があがる。人形は従業員を突き飛ばしてゲートを超えた。大看板に古い活劇映画のポスターを模して水路と黒ずくめのギャングが描かれていた。下水道での銃撃戦を演じるアトラクションだ。ちょうど最後尾が出発するところだった。人形は乗客を水へ突き落としてカートに飛び乗った。宍神が水路に到達したときにはカートは遠く離れていた。
 配管工の扮装をした係員が集まってきて宍神を捕らえた。息を切らして追いついた飯沢が手帳を掲げ、警察だと叫んだ。飯沢から話を聞いた係員がどこか裏からモーターボートを出してきた。飯沢が飛び乗って宍神を手招きした。足を踏み入れると沈み込んで揺れ、発動機が唸ると燃料の臭いがした。部下と三人で水路を走りだした。黒く着色された塩素臭い流れはムッとする湿気で息苦しかった。軌道を移動するカートの列が見えてきた。最後尾は無人だ。吹き替え俳優めいた太い声のナレーションと銃声の効果音が響き渡った。カートの側面が効果音と同期して火花を発した。客の歓声までが効果音のように宍神には思えた。
 閉鎖して客を逃がすべきでは、とカートの列を追い越しながら部下が言う。観客はボートの登場に驚いて拍手喝采した。見世物と思わせとけと飯沢が答えた。「この兄ちゃんが専門家だ」
 一流の揉み消し屋になれますよ警部、と宍神は答えた。
 禁酒法時代の刑事とギャングが両岸に別れて撃ち合いをしていた。本物とは似つかない重低音で自動小銃が銃火を閃かせる。コンクリートの壁が火花を発し水面が飛沫を上げた。苦悶の声が天井から流れ、人形が胸を掴んで水路へ落ちた。警官の一体が裸に剥かれていた。胸毛の生えた筋肉質の体。股間だけがつるんとして何もなかった。人形は自分が裸であることを知らぬげに定められた演技を続けていた。
 飯沢が命じて部下がボートを岸に寄せた。あんたはボートから援護するんだ、と飯沢は宍神に命じた。
 演技を再生する人形は動く林のように見えた。飯沢は短銃を手にしてその中へ消えた。カートや人形の作りだす波。録音された銃声や声優の台詞。それらの合間にモーター音や観客の声が近づいた。飯沢の部下はボートを進めた。宍神は撃ち合う人形を一体ずつ確かめていった。滑稽に誇張された顔が、ほの暗い照明と、揺れる水面の照り返しを受けていた。風を切る音が耳元で唸った。効果音にしては軽すぎる銃声。飯沢が応射するのが聞こえた。
 宍神は仕込まれていない動きを探した。あれか? 違う、天井からの台詞と同期して口が動いている。その陰だ。丸顔の女が演技する人形を盾にし、奪った制服を着て銃口を向けていた。偽の銃火と同時に本物が閃く。宍神は水へ飛び込んでボートの縁に隠れた。掴まったボートが揺れて狙いが定めにくい。飯沢が短い叫びを発した。撃たれたのだ。部下はさっきから操舵輪に俯せたまま動かない。人形は描き割りの影に逃げ込んだ。整備用の裏口へ回られたら厄介だ。従業員になりすましていたのであれば舞台裏を熟知しているだろう。宍神は岸へ這い上がった。銃声がして発火装置のない箇所からコンクリート片が飛び散った。闇雲に撃ち返した。やがて天井からの銃声しか聞こえなくなった。
 丸顔の人形は横ざまに倒れていた。両手で押さえた左腿から黒い血が溢れている。短銃は離れた場所に転がっていた。人形は宍神の足音を聞いて眼を見開いた。その上に影が落ちた。「お願い……殺さないで。ほんのちょっと試しただけなの」人形の声は慄えて裏返っていた。魚のように蒼白な顔は流れたマスカラにまみれていた。「あなただって若い頃、少しくらい手を出したでしょ……」
 宍神は人形の頭部に狙いをつけた。群衆に引き離された少女の記憶が重なった。
「ねえ、見逃してよ……あなたのために何でも……」
 銃声が水路に反響した。人形がのけぞり、脳ユニットが飛び散った。
 有機合成物は黒い筋を描いて滴り落ち、水の流れへ加わった。
 警官の呼子や無線。観客のざわめき。係員の誘導の声。音楽が途切れていたことに宍神は気づいた。役者のナレーションが詫びの文句に変わっている。本日はご来園ありがとうございます。お客様がこれらからも安心して愉しめるよう抜き打ちの点検を行います。ご迷惑をおかけします。現場係員の誘導に従ってください……。宍神はまだ熱い銃を見つめた。硝煙の臭いがした。
 雪乃。お前がいなくなってから俺は何をしてきたんだ。
 コートのポケットから錠剤のシートを出した。慄える手で黒い粒を包装から押し出す。乾いた口へ放って無理に嚥下した。墨を思わせる苦みが十年ぶりに喉を下っていく。どす黒い靄が腹の底へ拡がるのを感じた。じわじわと全身の毛細血管へ染み渡る。腐臭がして眩暈が強まった。ほの暗い坑内が脈打ちはじめ、足元のコンクリートが粘性の渦と化した。立っていられない。宍神は壁にもたれて浅く速い呼吸をした。その壁も粘液となって腐敗した肉襞のように体を包み込もうとする。頭蓋で騒音が鳴り響いて彼は銃を取り落とした。両手で頭を抱え、背中を丸めて呻いた。視界が悪意をもって脈打ち、うねり、渦巻いた。
 どす黒い渦に足を捕らわれて流れへ引き込まれた。高速度撮影のようにねっとりした水柱があがった。動きを止めた人形たちが口々に嘲りの声を発した。どす黒い水流は喉と鼻を塞ぎ、塩素の味で肺を満たした。軌道を逆行するカートの客が彼に愉しみを奪われた不平を言い合っている。青白く揺らめく水面が遠ざかり視界が暗くなる。虚無へ吸い込まれる。完全な闇——
 白い光が爆発した。
 すべてが逆回しになる。十年分の歴史が蘇る。日常の積み重ねがほぐれて世界へ拡散する。
 雪乃と暮らした日々。同じベッドで目覚め、台所に並んで立ち、向き合って食べ、無駄話を交わし、抱き合って眠る。満ち足りていた。危ない橋を渡っていることも、そのことが決して口にされないことも問題にならぬほどに。愛する女に似せた造形は彼には自然な成り行きだった。いかに周囲から倒錯した行為に思われ、気味悪がられようとも。それはいわば彼女に捧げる供物だった。
 騒乱の勃発は臨時ニュースで知った。国営放送のアナウンサーが切迫した調子で伝えた。暴動は都心を呑み込み、彼らの住居へ迫りつつあった。残っていては危険だった。待ち人は遅れていた。もう来まいと見切りをつけ、限られた貴重品を身につけてアパートを出た。すぐに片がつくだろうと思っていた。さほど遠くへは行けなかった。地下鉄は停まっていて通りは放棄された車で渋滞していた。
 略奪は近所の商店街まで及んでいた。燃え盛る炎、獣のような叫び、逃げ惑う男女。はぐれた家族を捜す声。黒煙をあげて炎上する車。飾り窓が叩き割られ、陳列棚が倒されて商品が運び出される。公然と輪姦が行われていた。路上でガラス屑が水晶のようにきらめいた。携帯もインターネットも繋がらなかった。人々は家族や友人の無事を確かめることすらできなかった。警察や救急の車両も襲撃を免れず、車内に負傷者を残したまま燃えていた。
 何が起きてるの。雪乃の問いに宍神は答えられない。この夜、誰もが同じ問いを発していた。
 四つ辻にさしかかった。押し寄せてきた群衆に巻き込まれた。転べば踏み殺される。揉みくちゃにされながら宍神は雪乃の手を放すまいと努めた。引きちぎられそうな痛みに雪乃が悲鳴をあげた。ガスの臭いがして建物が火柱をあげて吹き飛び、衝撃で大地が揺らいだ。巨大な瓦礫が降り注ぎ、アスファルトが飴のように変質する。揺らぐ熱気と黒煙の向こうに黒い影が滲み出る。鎌状の鉤爪を持つ獣だった。
 暴徒がふたりを指さして叫んだ。宍神は恋人の手を引いて逃げようとするが、熱いぬかるみと化した路面に足を取られて動けない。宍神を呼ぶ雪乃の声。ふたりの手が引き離される。暴徒の群れが彼女の姿を呑み込む。
 助けを求める手が宍神の記憶に焼きついた。
 火柱が噴き上がり、黒煙と熱気が視界を歪める。声が麻痺して叫べない。人や車を巻き込みながら路面が陥没する。建物は窓が砕け落ち、壁が裂けて瓦解するなり濁流に捉えられ、押し流されて沈んだ。宍神の足を捉える大地もまたどす黒い奔流と化していた。熱い泥が摺鉢状の陥没へ轟然となだれ込む。渦は燃える街やガラス屑、暴徒や恐慌に陥った人々を呑み込む。ダンスフロアを、放送スタジオを呑み込む。馴染みの酒場と孫を得たばかりの店主を。暖かい家庭を、その小さな幸せを。麻薬と踊りに逃避する若者たちを。昔なじみの恩人を。過酷な逃亡生活を送る人形たちを——
 そして雪乃を。
 鉤爪が閃き、宍神は絶叫した。
 気がつくと彼は交差点に佇んでいた。通りを行き交う車。すれ違う人々。両の掌を見つめた。じっとり汗ばんでいる。黒い水を吸い、炎に炙られたはずの服は何ともなかった。皺だらけで汗臭いだけだ。この十年間ずっと避け続けた場所だった。
 雪乃が群衆に呑まれた交差点。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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