黒い渦

第4話: 封鎖された地下道が交差する広場を

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.19

封鎖された地下道が交差する広場を、有機ELランタンが亡霊の夢のように浮かび上がらせている。制服の少女が枯れた噴水のベンチで青い手帳にペンを走らせていた。前髪が切り揃えられた漆黒の長髪。口元のホクロは造り物めいた顔を誤魔化すかのようだった。その無表情は十八世紀の自動書記機械を思わせた。暗視コンタクトがあれば荒廃した光景が見てとれたろう。堆積した砂埃、ガラスの破片。変色した新聞紙や湿気で膨れた週刊誌。使用済み避妊具。照明や広告パネルはすべて割られるか取り外されるかしている。浮浪者の焚火跡には割れた一升瓶や代用ビールの潰れた缶が散乱していた。
 若い男女の話し声と、ガラスやコンクリートの破片を踏む足音が近づいてくる。男は眼つきが尋常ではなかった。伸びっ放しの長髪と不精髭。垢じみたネルシャツに軍用ジャケット、裾が泥で汚れたジーンズに黒ずんだスニーカー。膚は屍体のように蒼褪め、不自然に灰色がかって見えた。
 ヒステリックな声が息を切らして追いすがった。薄っぺらで丈の短い、赤いドレスの女。襟と袖にフェイクファーのついた上着は、かつては白かったが薄汚れてくすんでいた。長い編み上げ靴は泥と埃にまみれている。追いつくなり女はハンドバッグで男の背中を打った。男は女を罵倒した。
 口論を少女が遮った。「いい加減にして。集まるだけでも危険を冒してるのよ」
 女は憎々しげに少女を睨みつけ、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。男は舌打ちした。
 七歳くらいの少年がランドセルを降ろし、少女の隣に腰かけた。運動靴の足を退屈そうにブラブラさせる。体操着はやはり薄汚れていて、屋外で寝泊まりしていることが窺い知れた。
 背広の中年男が最後に現れた。背中を丸めて頭を突き出し、道化めいた足どりで近づいた。ビア樽腹と短い手足がランタンの光に浮かび上がる。小さな眼や追従笑いを浮かべた口が、油断のならぬ感じを漂わせた。これで全員か、『赤鼻』はどうしたと若い男は仲間を見渡した。死んだよと少年が報告する。大人たちの視線が集まった。「路地裏のゴミに埋もれてるのを見た。ナノフラクタル・ナイフがそばに落ちてた。赤鼻が見せびらかしてた奴だよ。まさかそれで自分がやられるとはね」
「残るは八人」中年男は薄笑いを崩さない。「我々もいつまで生き長らえるか」
「オソノが殺されたばかりなのに」女がしゃくり上げた。俯いた顔にマスカラが煤のように流れた。
「自業自得さ。偽薬を掴まされるなんて」若い男は吐き棄てた。
「揉み消し屋とつるんでたのよ、あの売人!」
「体が腐るまで気づきもしなかった。莫迦でなきゃ何だ」
 女は唇を噛み、拳を握り締めてそっぽを向いた。友人の最期が脳裏にまざまざと甦っていた。獣のように叫んで顔を掻きむしり、骨の露出した指先が白い皮膚に食い込む……男たちを魅了した眼がせり出し、神経繊維を引きずって流れ出る……両腕が湿った音を立てて落下し、脚が体を支えられなくなって倒れる……肉塊は空気に触れるや灰色に変色する。すべてが終わるまで長い時間がかかった。暗い路地裏に遺体は残らなかった。塵となって崩れ、風に吹き散らされた。何もしてあげられなかった、と女は思った。抱き締めることも言葉をかけることも。助けを求めて伸ばされた手にも悲鳴をあげて後ずさりするばかりだった。
「あたしらも遅かれ早かれそうなりますぜ」中年男は肩を揺すって歯の隙間から笑う。人を苛立たせる卑屈な声だった。わかってる、と若い男は忌々しげに叫んだ。
「何か計画があるんでしょ。聞かせてくれるんじゃなかったの」少女が再びペンを走らせながら言う。手帳に記されるのは彼らの過去だった。彼らは製薬会社が撒いた餌に引っかかったのだ。その地下クラブは口コミで評判が広まっていた。入場自由。黒い錠剤が無料で配られる。フロアを揺るがす音と光の脈動、汗臭い熱気、脈打つように下腹を突き上げる重低音……軍用ジャケットの男と赤ドレスの女もそのなかにいた。踊り疲れて明け方の街へよろめき出る頃には恋に落ちていた。
 墨色の錠剤はそのクラブから疫病のように蔓延した。若者たちは搾取される現実を忘れた。テロや強盗事件は急減した。誰にとっても歓迎すべき変化といえた——初めの半年は。やがて不可解な変死体が見つかるようになった。学校で、職場で、ダンスフロアで、薄暗い路地で。ある者は人の形をした塵の山となり、ある者は熟れた柘榴のように体がはじけた。友人や家族が風に撒き散らされ、雨に流されたと目撃者たちは語った。ひとたび摂取すれば薬なしでは体組織が維持できなくなる。その事実が広まったときには手遅れだった。
 猫背の中年男は海外出張中に売春窟で手を染めた。訛りの強い片言の英語で女将に薦められたのだ。黒い錠剤は子供をいたぶる楽しみを増大させた。ある朝目覚めると彼は小便臭い板張りの廊下にいた。建物は静まり返っていた。どの小部屋も扉が引き裂かれ、損壊された遺体で汚れていた。冷水シャワーを浴びて血を洗い流し、身支度を調えて市場の人混みへ紛れた。帰国して最初にやったのは売人を捜すことだった。
 薬の影響は広告代理店によって隠蔽された。無数のダミー会社を経て、端金で汚れ仕事を引き受ける業者が雇われた。被験者はひとり、またひとりと抹消された。離脱症状で死ぬ者もいれば家族や友人、恋人を惨殺した末に自殺する者もいた。つきまとう影に気づいて着の身着のまま、誰にも告げずに行方を眩ます者もいた。逃亡生活中に知り合った仲間と行動を共にする者も多かった。地下道に集まった彼らもそんな集団のひとつだった。製造工場を探し当てる希望に全員がしがみついていた。この小集団で制服の少女だけが冷静だった。指導者気取りの若い男が演説し、仲間が口々に騒ぎ立てる。そんなとき鋭い寸評を挟んで一同を静まり返らせるのが彼女だった。その言葉には呪いにも似た支配力があった。
 ランタンに照らされた手帳は偏執的な文字で埋めつくされていく。今描き出されるのは少女の手帳を覗き込む少年の記憶だった。その物語で子供たちは下水道を駆けていた。渦巻く濁流に足を取られそうになる。汚水と汗にまみれ、舌は水と酸素を求めて膨れ上がる。肺と心臓は破裂せんばかり。服は長い逃亡生活で汚れて擦り切れている。幾日も走り続けた脚は立てなくなる寸前だ。背後に迫るコートの男は手段を選ばなかった。銃。獣の爪痕のような切り口のナノフラクタル・ナイフ。ビルの屋上や駅のホームから突き落とされた者、酸や溶剤を浴びせられ火を放たれた者もある。既に十名以上がこの元原型師の手にかかっていた。
 待ってよ、置いてかないで、僕を見殺しにしないで。幼い少年は懸命に走って仲間に追いすがった。伸ばした手にシャツの裾が触れたそのとき坑内へ銃声が轟いた。兄貴分として慕われた仲間は額にどす黒い花を咲かせ、骨片や脳漿を撒き散らした。脚がもつれて横ざまに転がり、水飛沫をあげて濁流へ呑まれる。続けざまの銃撃。年長者らは次々と転倒した。膝を突いて倒れる者、悲鳴をあげて水中へ転落する者。疲れ果てた幼い少年は膝から力が抜け、もうどうにでもなれとばかり柱の陰へ身を預けた。弾む息、むっとする汚水の臭い、濁流の轟音。銃声が止んでいるのに不意に思い当たった。
「仲間に伝えろ。最後の一匹まで逃しはしないと」低い声が反響した。わざと見逃されたのだ。男の言葉を伝え広めさせるために。「どこに身を潜めようとも必ず仕留める——この宍神がな!」

 質素な葬儀だった。喪主は取り乱しもせずに務めを果たしていた。借り物の黒ドレス。ベールの下の表情は見えない。宍神はまともに顔を合わせられなかった。向こうでも避けているように思えた。傍らでは黒いワンピースとタイツの姫君が不思議そうに棺を見ていた。父親を見殺しにしたのが「小父ちゃん」だと知ればどう思うだろう。棺は楡の木立のそばの地中へ降ろされた。棺は霧雨に濡れながら土を被せられた。空気は鋭く張り詰めたように膚や耳を刺した。小窓から覗く狼野は、失われた側を隠すため花に埋もれて顔を背けていた。牧師が聖書の一節を読み上げた。宍神の意識はスタジオに飛び散った血や肉片を見ていた。警察の特殊部隊が到着するまで彼は何もできなかった。遺体にすがりつく夏美の傍らにただ立ち尽くしていた。
 参列者は少なかった。狼野は騒乱の夜に両親を失った。夏美は実家と関わりを断っている。宍神が受けた案内状は場所と時間だけを告げる素っ気ないものだった。なぜ狼野が死んだのか。いくらでも替えの利く負け組ではなく、たったひとりの夫であり父親でもある男が。悪夢から抜け出たかのような怪物が意識から拭えなかった。眼を閉じるたび狼野の最期と重なった。母子に声をかけることができずに宍神は墓地を辞した。騒乱の夜に恋人を殺し、今ふたりの友人とその娘を失った。十年かけて同じ地点に戻ってきたかのようだった。
 後任の上司は狼野とは正反対だった。現場に同行するどころか協力を拒む。揉み消し屋の存在を憎み、営利行為の暗部には関わりたがらない。それでいて体面は過剰に気にするごく一般的な男だった。衝立で無数の小部屋に仕切られたフロアに宍神は赴いた。その男は出頭を命じておきながら振り向こうともしなかった。前の奴みたいに甘い態度は期待するな。俺は揉み消しの不手際で殺されるつもりはないからな。そう告げたきり宍神を完全に無視した。これ以上口を利くと汚染されるとでも言いたげな態度だった。
 宍神の業務はあくまで現場補佐であり、本来は肉体労働に限られた。にもかかわらず午後は上司の代わりに汚染の解析や警察への問い合わせに終始した。何の権限もない非公式の臨時雇いが正社員並みの仕事を押しつけられ、何かあれば責任を取らされる構図だった。メールに気づいたのはホテルに着いてからだった。葬儀を終えた時刻に着信していた。いつもの店で待つという。断るのも億劫だった。扉の鍵が開いているのに気づいた。部屋のソファーに誰かいる。トリコか、と声をかけた。伴が入れてやったに違いない。
「誰と間違えてるんで?」凍りついた人形の陰から声がした。眼鏡の小男が彼を見上げた。「あたしだよ。忘れちまったかね」
「電気くらい点けてくださいよ。撃たれたらどうする気ですか」宍神は灯りをつけた。給仕人形の足元に鞄を置き、かつては盆を支えていた片腕にコートをかける。「どういう風の吹きまわしで? 十年ぶりじゃないですか」
「あんたは撃たないよ。そういう人間だ。そろそろ復帰しちゃどうかと思ってね」
「冗談はよしてください。とっくに足を洗った。ご存じのはずだ」宍神は空いているソファーに座った。自分の部屋で居心地の悪さを感じるのは二度目だった。「まだそんな格好をしてるんですね。現場も変わったでしょうに」
「この業界にはまだ必要なんだよ。あんたみたいな才能が」小男は膝に肘をつき、組んだ手に顎を乗せた。両脇に白髪を残して禿げ上がった四角い頭。作業服に防寒ジャケット、安全靴。過去を懐かしむように眼を細め、室内に点在する人形を眺めた。いずれの品も埃が積もり義眼が曇って膚も黄ばんでいた。十年の歳月。「あの頃の商売はよかった。高級性具の域は脱してたが、まだどこか出自が臭っていた」
「社会の中核に組み込まれれば何だって上品になる」
「だがあんたが手がけた奴みたいな温もりはない。身も蓋もない工業製品さ。何かが失われたんだ」小男は哀しげに肩を揺すった。「おかしな話だよ。生体に近い有機培養型よりシリコンの塊の方が活き活きしてたなんて」
「昔話ですか。老け込むにはまだ早いでしょう」
「あんたの造形には独特の色気があった」
 宍神は溜息をついて頭をわずかに振った。「業界の変化くらい知ってます。もう人混みに紛れた人形さえ嗅ぎわけられない」
「まだあのことを気にしてるのか。あんたのせいじゃなかった」
「時代についていけなくなった。理由はそれだけです」
 小男は大きく息をつき、膝に手を突いてゆっくり立ち上がった。「お暇するよ。今日のところはね」
「何度いらしても同じですよ」宍神は戸口まで送った。「階段、見えますね?」
「この眼鏡はあんたのコンタクトと同じだよ。こういう進歩なら大歓迎だ」小男の背中は廊下の闇に消えた。「気が変わったらいつでも連絡してくれ。また来る。昔話をしにな……」
 宍神は熱いシャワーを浴びて着替えた。鍵をかけてホテルを出る。約束の時間を十五分も過ぎていた。ラムコークを啜っていた伴が友人の姿に気づき、おう、と声をかけた。宍神はいつもの席に着いた。独特の臭いが染みついた薄暗い店内、琥珀色の照明、古ぼけたカウンター、酒の味。すべてが普段通りだった。亡霊が黒ビールを手に何か言った。どうして部屋に通したと宍神は尋ねた。
「休業はもう充分だろ。いつまでも不安定な身分に甘んじるこたない。自分を憎むような商売は辞めて古巣に戻れ。今の有機培養型の醜さを見ろよ」
「変わったんだよ。何もかも」
 伴は舌打ちした。「素直じゃねえなぁ」
 杯を重ねるにつれ、故人の想い出話になった。伴は珍しく酔っていた。「俺たちはいつも一緒だった。莫迦げたことも随分やったな。本屋を襲ったのを憶えてるか」
「忘れるもんか。隣町の新古書店へ運ぶ車まで準備した。計画だけはいつも完璧だった。監視システムに偽の映像を流したのは狼野だったよな。俺とお前が実行犯。雪乃は見張りで、夏美は実在しない本を店員に探させる役だった。あの色仕掛けには驚いたよ」
「女たちは先に大人になってたんだな。俺たち三人がいつまでも餓鬼でいるうちに」
「先客がいるなんて計画になかった。雪乃が悲鳴をあげて……」
「成り行きで追いかけ、とっ捕まえた」伴はクスクス笑った。「あのまま続行してりゃ間違いなく掴まってた。それが警察に表彰されるなんて。雪乃の機転のおかげだな」
 そうだな、と肯いて宍神はグラスに視線を落とした。
「夏美に遺品を頼まれた」伴は今初めて思い出したように言った。「俺らが引きとった方があいつも喜ぶだろうってさ。お前と取りに行くと答えた。構わないよな」
「場所がない」
「ないわけないだろう。空き部屋ばかりだ」
 会話が途切れた。店内は混みだしていた。談笑する声やグラスに氷が触れる音。酒を注文する客の声。狼野が好きだった曲が流れていた。店主はシェーカーを振りはじめた。あの太い腕が繊細な味をつくりだす事実が宍神には信じられない。
「『トリコ』について何か知らないか」
 伴は明らかにギクッとした。「どこでその言葉を知った」
 宍神は旧市街の落書きについて説明した。伴は黙って正面を見つめていたが、やがて話しだした。「報道関係者のあいだで知られる噂がある。モジョには人形に暴動を煽動させる意図があった。人間になりすました人形が集団心理を誘導したっていうのさ」
「騒乱の夜は仕組まれてたっていうのか」
「都市伝説だよ。その噂じゃモジョの作者は若い娘ってことになってる。その名が……」記者は阿呆らしいとでも言いたげに肩を揺すり、止り木を降りた。「この頃どうも近くてよ」
「つき合うよ」宍神はお代わりを頼んでカウンターを離れた。
「ゆっくりして来い」
 宍神は振り向いた。無愛想な店主が冗談を口にするのは珍しかった。「何かいいことでも?」
「孫が産まれた」
 驚きのあまり宍神は間の抜けた反応をした。「子供がいたのか」
「養女だ。路地裏で拾った。六歳だった。しゃぶらせる代わりにポン引きと麻薬から抜けさせた。それが今じゃ立派な母親だ」
「商売にも張りが出るね」伴が言った。
「娘の花嫁姿を見るまではと思ってた。今は孫が片づくまで安心できん。いつまで経っても死ねんよ」岩に刻まれたような顔を少しも動かさずに店主は言った。彼が個人的な話題を口にするのも、ここまで長く話すのも初めてだった。
 宍神は用を済ませ、汚れた鏡の前で手を洗った。何かが書かれていた痕跡はなかった。掃除をした様子もない。店主に尋ねるつもりも伴に話すつもりもなかった。怪物の件と同じだ。
 伴はやけに時間がかかった。「切れも悪いんだ。歳だな」
「ラムコークの飲み過ぎだ。控えろよ」と声をかけて宍神は扉に手をかけた。音より先に衝撃波を感じた。扉が吹き飛ばされ意識が途切れた。気づくと暗闇で瓦礫や鏡の破片に埋もれていた。何も聞こえなかった。壁の残骸を押し退け、全身の痛みに抗って立ち上がった。埃と細かい屑がぱらぱら落ちた。暗視コンタクトが闇に適応して惨状が浮かび上がった。鼓膜に圧迫感があり高周波のような遠い音がした。埃と硝煙が立ち込めていた。便器の残骸の近くに伴が見えた。顔をしかめて頭を振り、よろよろと立ち上がる。視線を交わして互いの無事を確かめた。口を利く余力はなかった。世界にじわじわと音が戻ってきた。
 店内は一変していた。瓦礫とガラス片。飛び散った赤黒い肉片。小さな火が蛇の舌のように燃えている。ばらばらになった遺体は黒焦げだったり全裸で血だるまになっていたりした。カウンターがあった場所はわからなかった。負傷箇所を押さえてよろめき歩く者。顔面を瓦礫に潰されたり、腹から腸がこぼれたりしながらも、死にきれずに呻く姿もあった。あとの客は椅子やテーブルの残骸と共に倒れたままだった。地上へ這い出たふたりは血と埃にまみれていた。通行人は顔をしかめて非難がましく囁き合ったり、割れた窓ガラスや地下から立ちのぼる煙を携帯で撮影したりしていた。サイレンが近づいた。
 防犯映像を分析した鑑識は伴と入れ替わりにカウンターに近づいて去った客を犯人と特定した。時限式のプラスティック爆弾はカウンターの裏にテープで固定されていた。
 警察はその客を機械式の人形と断定した。

 宍神の頭は熱いシャワーを浴びることしかなかった。扉の隙間から光が漏れていた。鍵は開いていた。光源は暖炉の炎とテレビだった。床には制服や黒レースの下着、小さな革靴が点々と脱ぎ棄てられていた。林立する人形たちが悪意を持つかのように感じられた。浴室には先客がいた。湯音と光が扉の曇ガラスから洩れていた。扉がひらいた。湯気と共に紅潮した顔が突き出される。「うわっ汚……どうしたのその格好」
「どうやって入った」宍神は扉を掴んだ。伴が入れてやったはずはない。さっきまで一緒だったのだ。
 貴姫は彼を睨み上げた。屍体のような膚は生々しい桜色に染まっている。床が濡れた。
「寒い。早く締めて」貴姫は湯の下へ戻ろうとした。その細い手首を宍神は掴んだ。「痛っ……何よ」
 ほかに合鍵を渡したのは狼野だけだ。転居前のように気軽に遊びにきて欲しかった。互いに多忙でかなうことはなかった。宍神は貴姫の手をねじ上げて向き直らせた。「保安部の連中はどうした」
 貴姫の顔に怯えがよぎる。彼女は濡れた足を滑らせた。宍神は手首で吊るすようにして女を立たせた。湯音にふたりの荒い呼吸が加わった。
「は、放し……て……」貴姫の懇願はほとんど声にならなかった。
 宍神は振り払うように手を放して浴室を出た。貴姫は便器の蓋からタオルを掴み、濡れた体に巻きつけて後を追った。宍神はソファーからハンドバッグを拾い上げ、口を開けて逆さに振った。携帯や手鏡、細々とした化粧道具が床に散らばる。狼野の合鍵が甲高い音を立てた。貴姫は宍神の頚へしがみついて唇で言葉を封じた。脚が絡みつく。バッグが手を離れる前に、最後まで引っかかっていた何かが大きく跳ねた。宍神は女を押しのけた。挟まっていたタオルが落ちて貴姫はソファーに倒れた。乱れた髪が海藻のように顔に張りついた。桜色の斑点が麻疹のように散り、唇と乳首は紫になっている。怯えた眼がすがるように宍神を捉えた。揉み消し屋は彼女を見ていなかった。生き物のように跳ね踊るものを空中で掴み取った。
「軽い冗談だったのよ。あんなことになるなんて……」
 すり替えに気づかないとはな。小さな球を見つめて宍神は呟いた。
 クライアント名が聞こえて宍神は振り向いた。男性キャスターが経済ニュースを報じていた。最高経営責任者がその娘と共に、各国の外交官らとの食事会に出席。産業の展望について演説したという。
「あたしだって傷ついたのよ。気が済むまで殴ればいい」
 令嬢の微笑が端末に大写しになる。名前と年齢が字幕に出た。女は啜り泣きをやめて身を硬くした。没個性的なアナウンサーは喋り続けた。宍神は球を持つ手を降ろした。女は放心したように力を抜き、宍神から離れて床に座り込んだ。急に芝居が頓挫されたかのような空気が漂った。宍神は眩暈を感じて立ち尽くした。身体が自分のものに感じられない。世界が虚無へと引きずり込まれるかのようだった。あの夜の悪夢のように。
「君は誰だ」急に見知らぬ人間になった女を宍神は見下ろした。
 画面では別の誰かが洗練された微笑をふりまいていた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告