黒い渦

連載第3回: 地下クラブでの事件は

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月19日

地下クラブでの事件は宍神たちが介入することなく処理された。数名がナノフラクタル・ナイフで斬殺され、すし詰めの客が出口に殺到。将棋倒しで百名近くが圧死した。暴走した人形は駆けつけた警官隊に破壊され、事実の大半を伏せた報道がなされた。ウェブ上には怪情報が飛び交った。あまたの嘘に真実が埋もれて好都合だった。系列会社で動作検証に使われていた人形だ、と狼野はエレベーター内で説明した。
「感染経路はわからない。業界トップクラスの防護が破られた。製品に混入する可能性もある。回収された残骸を解析して何が出たと思う」
「モジョか」
 狼野は肯いた。「有機培養型でも動作するよう改変されている」
 こうした事例が続発すれば隠蔽しきれない。業界への痛手は必至だ。宍神の生活も立ち行かなくなるが十年もこんな稼業を続けられたのがむしろ幸運といえた。狼野に別の人生はない。
 ふたりは「親爺」のオフィスに出頭した。宍神まで呼ばれたのは不可解だった。親爺は情報管理部門の統括者で、かつては筋肉質だった体にでっぷり贅肉のついた大柄な男だった。弛んだ頬、隈のあるふてぶてしい眼。土気色の膚。秘書を追い払って最高経営責任者の娘の名を口にした。「お嬢様は知ってるな」
 狼野は戸惑っていた。「香港の寄宿制女子校に留学中と伺っておりますが」
「生産施設や納品先の見学をご希望だ。政府や警察には話がついとるが報道各社には知られていない。非公式の帰国だ。身内にも社内の人間にも洩らすな。お嬢様の強い要望で警護はつけない」
 そんな揉み消しは聞いたことがない。訝る宍神をよそに親爺は話を続けた。令嬢はつい先日、父親との些細な諍いから家出騒ぎを起こしたばかりだという。警護より監視が主な任務であるらしかった。通話器が鳴った。秘書の声に親爺はお通ししろと命じた。ふたりの背後の扉が開いた。親爺は皮張りの大きな椅子から立ち上がった。宍神と狼野は戸口へ向き直った。十代後半の少女が室内を見まわしていた。襟に白い毛皮のついた淡いピンクのダウンジャケット。白のセーター、ウールのミニスカート。黒タイツに編み上げブーツ。凝ったウェーブの濡れたような髪は専属の美容師の手によるものだろう。少女はおざなりに挨拶したのちふたりを眺めた。飽きるまでの間に合わせの玩具でも見るような眼つきだった。父親の部下に並べられた追従の言葉を少女は適当な相槌で聞き流した。
 幼い外見ですぐにはわからなかった。だが口元のホクロを見間違えようはない。
 娼婦トリコだった。

「保安部門は本気で護衛をつけないつもりだ」通話を終えると狼野は言った。「人混みの方がかえって安全だと」
「なぜ下請けの俺まで付き合わされるんだ。親爺は何を考えてる」
「知るか。俺だってこんなのは管轄外だ」
 後部席の貴姫が言った。「ひさしぶりの帰国だからお買物したい」
「予定は生産ラインの見学と伺っておりましたが」
「退屈させないで」
 話題の店や流行の遊び場の長いリストが口述された。勝ち組が足を踏み入れないような治安の悪い地域も含まれている。狼野は異議を申し立てた。逆らえば父親に言いつけると令嬢は脅した。彼女の身に何かあれば馘首どころでは済まない。狼野は退かなかった。宍神は困惑してただ傍観するしかなかった。十分あまり議論したのち妥協案が成立した。若い娘ばかりの店でふたりの男は人目を惹いた。箱や紙袋を山積みした車は人工島へ向かった。そのテーマパークは早い時期から自動人形を使って成功したことで知られていた。売り物は前世紀後半の再現だった。区画は五〇年代から九〇年代まで十年ごとの設定で分かれていた。人形は当時の人々を演じて客を愉しませていた。毛先の揃った重たげな髪。太い眉に濃いアイシャドウ。スタジアムジャンパーに野球帽。まだらに退色したもんぺのようなジーンズ。特設ステージではフリルのワンピースをつけた人形が、奇妙な振つけと音程のはずれた唄を再生していた。
 優先パス発行所から行列へ、アトラクションからまた発行所へ。笑い転げながら走る女子高生に、大の男ふたりが息を切らして引き回される。宍神は出口で待つと主張したが聞き入れられなかった。閃光銃によく似た模型の銃を手に、ロケット型の列車で電飾の銀河を駆け抜ける。易々と高得点を記録した貴姫に対し、振り落とされまいと必死の大人たちは怪物を一匹も仕留められなかった。貴姫が操縦したコーヒーカップを降りたふたりはよろめいて手摺りに寄りかかった。少女は彼らを指さして笑った。
 雲が厚く垂れ込めていた。空気が膚を刺した。メリーゴーラウンドに興じる令嬢をふたりは眺めた。こうするあいだにも仕事は累積する。ソーシャルメディア投稿用の画像を撮影させられながら狼野は呟いた。
「妙だと思わないか」
「高校生にしちゃ幼過ぎるな。爪弾きにされて逃げ帰ったんじゃないか」
「護衛なしに俺らにお守りをさせることだがよ。混雑した場所は確かに誘拐にも殺害にも向かないが……」
 令嬢が戻ってきて狼野の手から携帯をひったくった。大半の画像を不平がましく消去して数枚に納得した。
 喫茶室で男たちはぐったりと座り込んだ。キース・ヘリングやリキテンシュタインを思わせる店内装飾。ブラウン管を象った原色の造型物がアニメを放映していた。貴姫は音読が憚られるような口語的で長い名称のパフェを平然と注文した。酒は置いていなかったので宍神は狼野と同じくコーヒーにした。パフェを待つあいだ貴姫は狼野を質問攻めにした。奥さんいる、美人? 子供は? 何歳? 家族を愛してる? 浮気したことは、好きなタイプは? 答えに窮した狼野のコートの内側で携帯が振動した。彼はこれ幸いとばかり失礼を詫びて席を立った。足早に戻ってきた狼野は微笑を浮かべてコートと伝票を掴んだ。納入先でトラブルが起きたと弁解し、後は頼むと宍神に言い棄て、支払いを済ませて出ていった。
 貴姫は狼野の後ろ姿を見送った。振り向いたときには眼が暗い輝きを放っていた。パフェを押し退けて顔を宍神に近づけた。「驚いたでしょう」もう子供には見えなかった。
「悪い冗談だ。どちらの気が狂ったのだろうと思っていた」
「これは夢よ。あなたは高熱でうなされてるの」
「ほんとうは何歳なんだ」
「あの制服は本物。留年もしていない。ばれたらあなたは捕まるし、あの上司も妻子を抱えて失職ね」
「破滅させるために近づいたのか」
「うちの揉み消し屋とは知らなかった」
「その言葉をどこで……」
「パパよ。教育のつもりなんでしょ」
 揉み消し屋は書類の矛盾を現場で解消する。責任を非正規の業者に押しつけるための慣習で、公には存在しない建前になっている。関係を辿れないほど多くの持株会社や孫請けを経て広告代理店に雇われる例が多い。宍神は代理店を経ずに口約束で雇われ、経費節約に貢献していた。
「あのときの追っ手は何だ。家出から連れ戻すためか。誘拐か」
「どうでもいいじゃない。対人防護規定を改変するウィルスがあるって本当?」
 宍神は相手の眼を見つめた。「何を知りたい」
「例の連続殺人よ。肝心な部分は報道されない。きっとパパが手をまわしたのよ。事態が拡大する前に揉み消さないといけないんでしょ。人形を機能停止させる方法を教えて」
「視覚素子が唐突な動きを捉えるとシステムが一瞬フリーズする。その隙に閃光銃で強制終了させる」
「リモコンみたいなもの?」貴姫は柄の長い匙をグラスから抜き取った。果物の刺さったクリームがどろりと崩れる。
「そうだ。ただしこの手は Rhapsody までしか使えない。開発中の Bebop では不具合が解消された」閃光銃の射程距離が短いことは黙っていた。「近年では有機培養型が機械式に取って代わりつつある。 Bebop は専用の人形に最適化されている。ハードウェアと有機的に結びついていて生身の人間と見分けがつかない」
「これまでの有機培養型とは別物ってわけね。動力源もコンセントじゃなく食べ物から摂る。トイレも使うし体を洗わなきゃ垢で汚れる。そんなのが不具合を起こして脱走したら大変ね。閃光銃じゃどうにもならない」貴姫は蔑むような薄笑いを浮かべてメイド人形を見つめた。「すごい胸。あんなのも殺したことある?」
「ただの初期化だ。何ひとつ壊しゃしない。記録をサルベージして出荷時の状態に戻すだけだ」
「殺す。停止させる。どっちでもいいわ。やったの」
「あれの前の型なら」
「感じたんでしょう」貴姫は指からクリームを舐めとった。ふたりの視線が絡み合った。
 宍神のコートで携帯が振動した。狼野からだった。暴走した人形が放送局を襲撃し、キャスターを人質をとって篭城したという。警護担当者を向かわせた、お嬢様はそいつらに任せて現場に来てくれ。
 狼野が珍しく動揺しているのに宍神は気づいた。「おい、まさか……」
「確認は取れてないが、そうらしい」

 宍神の脳裏に記憶がよぎった。夫と娘に囲まれた彼女の笑顔、他愛ない会話の数々——そしてただ一度の過ち。「あれはなかったの。昔の悪い癖とか、つけ込んだとか考えないで。早く忘れて元の悪い仲間に戻ろう」「あの子が羨ましい」「あたしは雪乃じゃない!」「狼野君に告白されちゃった。付き合おうと思ってる。あなたも早く新しいひと見つけて。その方があの子も喜ぶ」「子供ができたの……喜んでくれると思ったわ。あの人? 女の子だって決めつけてる」「自分がこんな風になれるとは思わなかった」
 狼野は喋り続けていた。そうすることで正気を保とうとするかのように。
「携帯には連絡がとれない。あいつの同僚に会った。放送前の打ち合わせ中だったそうだ。逃げるので精一杯で何が起きたかわからないと言っていた。無事が確認された局員や搬送された負傷者のリストに名前はない」
 通話を終えると社の保安部員が三名近づいてきた。貴姫が黒塗りの高級車に押し込まれるのを見届け、宍神は園内の駅へ向かった。車内で携帯で情報収集した。警察は近隣に避難勧告を出したという。今にも降り出しそうな曇天で海は鉛色だった。人工島を出てバイクを借りた。現場へ近づくにつれ渋滞で身動きがとれなくなった。バイクを乗り棄てて走った。
 警官の呼子、大音量の演説。濃緑の街宣車。マスコミの車両も眼についた。渋滞に巻き込まれた運転者らはハンドルにもたれたり窓に身を乗り出したりしていた。バンの屋根に立つ指導者、拳を突き上げる支持者たち。プラカードや横断幕を掲げて拡声器で叫ぶ市民団体。人形は神の遣いなり。いや神への冒涜である。人権を認めよ。人心を荒廃させる悪だ。人形反対、人形賛成……。主義主張のためには誰もが他人の生死など顧みない様子だった。
 車止めの前で巡査が迂回を指示していた。飯沢警部の名を告げて通してもらった。狼野は飯沢の部下から説明を受けていた。血まみれの局員が担架で運ばれていった。野次馬や報道陣は救急車を通そうとしなかった。飯沢がふたりに気づいて近づいてきた。肩幅の広い大柄な男だ。角張った頭には白髪が目立つ。眼には抜目のない鋭さがあった。安物のくたびれたコートを着ていた。人形は清掃業者に偽装して警備を通過した、と警部は説明した。「ロビーに手榴弾を投げて報道スタジオへ向かった。三日前にも警報の誤作動があったばかりだった。混乱に乗じて人質をとられた」
「犯行声明は」と狼野。
「『新生命種支援組織』を名乗ってる。前にも一度おたくらが……解決した連中だ」揉み消し、と飯沢が言いかけたのが宍神にはわかった。「人形を捕獲し武装させて局内へ放したらしい。モジョとの関連だろ、あんたらが知りたいのは」
「何か情報が?」
「現時点では何も。何らかの手段で対人防護規定を改変されたとしかわからん。奥さんから連絡は」
「携帯に繋がりません。逃げたとも運び出されたとも聞いてない」狼野は感情を交えずに言った。
「おたくらの処理が終わるまで手出しするなと上に指示された。できる限りの協力はさせてもらう。この街にとって大事な企業様だからな」
 飯沢は身を翻して警官の群へ消えた。彼の部下が携帯に見取り図を表示してエレベーターと階段の場所を教えてくれた。ロビー正面のエレベーターは爆破で扉が歪んで使えないという。二十分経過しても連絡がなければ特殊部隊を突入させると告げられた。宍神と狼野はジュラルミンの盾の列から進み出た。建物の前面ガラスはすべて吹き飛んでいる。手榴弾の炸裂した陥没跡は生々しかった。黒焦げで燻っている。硝煙と合成樹脂の焦げた臭いが立ち込めていた。瓦礫の下で小さな火が燃えている。エレベーターはどれも扉が凸凹に歪んだり暗い縦坑を覗かせたりしていた。散乱するガラス片やコンクリート塊をじゃりじゃりと踏み締めて進んだ。焦げついた脂のような血痕がいたるところにあった。
 無人の廊下は複雑に入り組んでいた。蒼白い照明に照らされている。床や壁には血が点々と散っていた。引きずられたか這いずったと思われる筋がどす黒く伸びていた。既視感に似た不安を憶えたとき宍神は腐臭を嗅いだ。ふたりは立ち止まって息を潜めた。全身の感覚を研ぎ澄ませる。奇妙な物音がした。潰瘍から膿が飛び散るような異音だ。廊下を折れた先で何かが動く気配がある。
 飛び出してきた影が前方をよぎった。
 視線を交わした。「見たか?」狼野は喘ぐような息を洩らした。驚きと恐怖に声が掠れている。
「ああ」宍神は唾液を呑み込もうとした。口の中が乾いている。眼にしたものが信じられなかった。
 警戒しながら角へ近づく。何かが通った痕跡はない。再び腐臭が漂った。今度は強烈な悪臭だった。
 突き当たりに影が滲み出た。もはや影ではなかった。壁や天井がえぐれて剥落した。腐肉が引き剥がされるような音がして巨大な獣が向き直った。衝撃で床が揺らぐ。無数に穿たれた眼がふたりを捉えた。裂傷のような口がひらき、暗い血の色が覗いた。乱雑に生えた牙の隙間から唾液がねっとりと垂れた。
 金属的な咆哮が鼓膜をつんざいた。
 ふたりは身を翻して走った。鎌状の鉤爪が床をえぐり、建物が揺れた。宍神がエレベーターのボタンを叩いた。胸の悪くなるような異音と地響きが迫った。扉がひらいた。隙間へ転がり込む。狼野がボタンを叩いた。狭まる扉の隙間に赤黒い影が体当りした。籠は激しく揺れたがどうにか上昇をはじめた。続けざまの衝撃と咆哮が遠ざかる。狼野は額に脂汗を滲ませ、壁にもたれて荒く息をした。二の腕の袖が裂けて血が滲んでいる。「何だあれは」
 宍神はわからないと嘘をついた。それはもう終わったはずだった。しかも同じものを狼野が目撃した。足元が消失するかのような感覚だった。「何かがおかしい。ただのテロじゃない気がする。引き返すか」
「莫迦言え。行くぞ」扉がひらくなり狼野は閃光銃を構えて飛び出し、宍神が後に続いた。
 防音扉が開け放たれている。破壊されたセットや撮影機器、壁や床に塗りたくられた血肉や臓物が見えた。自動小銃を手にした人形が佇んでいた。繋ぎの作業服は鮮血に染まり、ポケットに弾倉らしきものが突っ込まれている。照明の一部が破壊されたせいで薄く長い影が幾方向にも伸びていた。損壊された人体の断片が散乱していた。銃弾を浴びた者もあれば何かで切り裂かれたような遺体もあった。
 夏美は倒れたセットの陰で頭を抱えてうずくまっていた。大量の返り血を浴びて慄えている。彼女自身の血ではないようだ。尊厳を剥奪された幼なじみを宍神は見たくなかった。人形は充電切れが近いように見えた。もっと困難な条件で仕留めたこともある。ふたりは合図の視線を交わして突入した。人形が銃口を振り向けた。糖蜜を泳ぐように緩慢な動作だった。宍神はその足元を狙ってゴム球を投げつけた。
 球は跳ねなかった。床に吸い込まれるように落ちた。
 狼野には明らかに隙が生じていた。宍神は血まみれの床に滑り込んで引き金を絞った。閃光はそれよりも早かった。長く引き延ばされたその一瞬、友人が人形の注意を惹きつけることだけを考えているかのように宍神の眼には映った。まるで身をかわす気がないかのように。
 狼野は滑稽なバレエでも舞うかのように銃弾に貫かれた。
 ふたりの幼なじみの目の前で。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。