黒い渦

連載第2回: 雨。運河の濁流。

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月19日

運河の濁流。半ば廃墟と化した集合住宅団地を行くふたつの傘。
 携帯の画面で標識を追っていた狼野は舌打ちした。携帯の画面を相棒に示す。点滅していた光点の表示は消えていた。遮蔽性の高い場所にあるのかもと言いながら宍神は自分が口にした気休めを信じていなかった。標識を解除したり武装させたりして人形の「逃走」を幇助するテロが増えていた。このあたりには地下道もトンネルもないと狼野は応じた。集合住宅の全戸を確認するのは不可能だ。スパイ衛星の熱反応画像を頼りに聞き込みをすることにした。その衛星は倒産した戦争代理業者の置き土産だった。管理者不在のまま忘れられ、宍神のような業者や犯罪者、極貧国の独裁政権に使われていた。
 俺たちは医療関係者だと狼野は宣言した。脱走患者を連れ戻すために派遣されたんだ。若き日の悪ふざけがまだ続いているかのように装うのはふたりにとってやめどきを見失ったつらい習慣だった。しかつめらしい顔つきが生活の手管になり、友情が立場の上下にすり替わった今では冗談とも命令ともつかない中途半端な言葉が宙に漂う。そのことにふたりとも気づかぬふりをしていた。
 その設定の出番はなかった。どの家でも居留守を使われた。暗い階段を降りながら宍神は昨夜のニュースについて話した。こないだの奴だと狼野は呻いた。
「水面下で流行中ってことか」
「世界規模でな。いつまで伏せておけるか。十年前のようになりかねない」
「万一の場合には死亡事故に至る畏れがあります……か」
 ふたりは傘を差して外に出た。集合住宅は鉄とガラスとコンクリートの墓標のようだった。鉛色の空は電線の網で寸断されている。十年間の酸性雨でどの建物も金属が錆び、血を思わせる黒い筋が壁に生じていた。これさっきも見たよなと宍神は言った。屏、建物、電柱……。至るところに奇妙な落書きがあった。酸化した脂のような塗料で荒々しく殴り書きされている。いずれも同じ文句のようだった。風雨や化学汚染物質で消えかけているのもあれば、比較的新しいのもあった。暴走族が縄張りを主張したのか。それとも地元住民にのみ符丁の通じるスローガンか。
 狼野は宍神の腕を肘で小突いて通りを指し示した。途方に暮れたようにずぶ濡れで歩く男。薄汚れたジャージに形の崩れたコート、足元はサンダル。傘の代わりに手にしているのは酒瓶か。ふたりは声の届く位置まで近づいた。失礼ですがと宍神が呼ばわる。男は瓶を抱きかかえて身を翻した。後を追ったが四つ辻で見失った。雨足が激しくなった。ふたりは戸惑いと疲労を浮かべた顔を見合わせた。どちらも濡れた髪が額に張りついていた。どうなってるんだと狼野が毒づいた。警官と勘違いされたんだろうと宍神は言った。
 三日も降り続けば人々は顔を合わせるたびに気象変動の噂を囁きあう。極地の氷が溶けているとも海水面が上昇しているとの噂もある。本当かどうかは誰も知らない。三十年前はこの街に運河などなかったのは確かだ。濁流の前に傘が見えた。十年は流行の過ぎた垢じみた服の男女。男は女の腰に力なく手を回していた。女の両手は手摺を固く握り締めている。どちらもそうしている自覚すらないかに見えた。宍神と狼野は視線を交わして静かに男女へ近づいた。足音は雨が掻き消した。両脇から挟み込むようにして声をかけた。何も聞こえないかのように無視された。こちらの存在に気づかぬかのように。宍神は男の肩に手をかけて揺さぶろうとした。もういい、行こうと狼野が制止した。
 角を曲がるとき宍神は振り向いた。男女はやはり微動だにしない。
 狼野は何事か考えていた。コートのポケットが振動した。信号が生き返ったのだ。彼は拍子抜けしたように画面を見つめ、立体地図の光点を宍神に示した。お出ましだと言った。
 地下のボイラー室にでも潜んでいたのだろう。人形は二ブロック先の四階の一室で充電を始めていた。棟内で電力の消費が感知できるのはその部屋だけだった。以前の違法居住者がどこからか盗んでいたのがそのままになっているのだ。階段には泥跡が残されていた。人形が履かされていた靴と一致した。
 部屋の前に行き着いた。ふたりは傘を壁に立てかけた。狼野は携帯を宍神に示した。光点は奥の居間でじっとしている。ほかに熱源がないところを見ると幇助者はいないようだ。宍神はノブをそっと回した。鍵も鎖もかかっていない。扉を静かに押しひらいた。足音を立てずに暗がりへ踏み込む。危険な業務は宍神の担当だ。安全なオフィスで報告書を眺めるだけで事足りるのに規定を遵守して現場に同行する管理者は狼野くらいだった。現代の多国籍企業はどこも宍神のような業者を口約束で雇っていた。正式な契約ではなく気まぐれな馘首も不払いも常態だった。似たような社会階層の出身なのに勝ち組に潜り込めた負い目を狼野は感じていて、宍神はそのことを自分の痛みのように知っていた。
 表示には誤差があった。手前の洗面所で大きな影が動いた。素早い。プラグが巻き取られる音と同時に、影は長髪をなびかせて獣のように跳躍した。ゴム球を構えたときにはガラスが砕け散っていた。雨混じりの風が吹き込む。ふたりは窓の残骸からベランダに出た。路上を見下ろす前に隣でガラスが割れた。
 廊下へ引き返すと隣の角部屋でまたガラスの割れる音がした。幸い施錠されていない。鏡の残骸だらけの洗面所へ駆け込んだ。隣室にはない窓があった。隣の建物と一メートルも離れていない。洗面台を足掛かりにして跳び移り、荒れ果てた部屋を抜けた。人形は突き当たりの窓へ肩で体当りした。ガラスが砕け散って地上でゴミ缶が騒々しく転がる。宍神は窓から身を乗り出して暗い路地を見下ろした。人形は腐ったゴミの山から転げ落ちて雨の中を駆け出した。ふたりは階段へまわった。路地を見まわす——いた。宍神は泥水を撥ね散らしてずぶ濡れで走った。狼野は喘いで立ち止まり両膝に手を突いた。
 黒いバンが宍神の目前に飛び出してきて人形は撥ね飛ばされた。人形は人形という名称そのもののようにあり得ない姿勢で地面に叩きつけられた。バンは速度を落とすこともなく走り去った。この地区へ入ってから動く車を見たのは初めてだった。スモークガラスで運転者は見えなかった。狼野が悪態をついた。これでシステムを入れ換えて片がつくという問題ではなくなった。記録情報のサルベージさえ成功するか怪しい。宍神は車のナンバーを記憶した。
 人形はねじくれた四肢を慄わせ、黒い液体を滲ませて這いずっていた。被覆が裂けて内部機構が露出している。ゴム球の出番がないのは一目瞭然だった。追い詰められた義眼が宍神の靴先を力なく捉えた。発声機構が虫の羽音のような雑音を立てる。人形は銃口ではなく宍神の眼を見上げた。視覚素子は何も映してはいなかった。宍神は引金を絞った。義眼の絞りがひらき、ハム音がやんで痙攣が止まった。黒い液体が雨と共に側溝へ流れた。壁にも派手に飛び散っている。宍神が型番の確認を行うあいだ、狼野は残骸を一瞥もせず、ただ壁の落書きをじっと見つめていた。

 暗いフロアは若者がひしめいて熱気で息苦しかった。ヘッドフォンを肩と耳に挟んだDJ。音に同期して伸縮する蜘蛛の巣や、ぶるぶる蠢く発光体が客の頭上に投影される。壁際で何やら交渉中の男女。腰を密着させて踊る人々を飲物を高く掲げて掻き分ける男。天然水の瓶を手放さぬ者や棒つき飴をくわえた者。重低音が床を揺るがし、耳元で叫ばねば会話もままならない。
 青ざめた男が額に汗を滲ませ、肩で人を押し退けて便所へ急いだ。今夜売人が現れるという噂を聞きつけなければ人混みで何をしていたかわからない。以前はいつでもどこでも無料同然で手に入ったのに。マスコミが連続猟奇殺人を騒ぎ立てたおかげでこのざまだ。たった六錠に半月分のバイト代をはたいた。おかしな男に掴まったせいでその幸運さえ逃すところだった。
 禁断症状で朦朧としていたのが悪かった。この店にはよく来るのか、との問いかけについまともに答えてしまった。相手が私服捜査官だったら薬を得る機会は永遠に失われていた。そいつは名刺をちらりと見せて手渡しもせずにコートの懐にしまった。読み方のわからぬ珍しい名字だった。手品のような手つきで数枚の写真を突きつけてくる。この連中に見憶えはないか。女子高の制服を着た長い髪の女が眼を惹いた。切り揃えた前髪と口元のホクロが印象に残った。吸い寄せられるように見入ったために勘ぐられた。コートの男はしつこかった。この店の常連なのはわかってる、顔くらい見憶えがあるだろう。解放されるまで何度も繰り返さねばならなかった。知らねえよ見たこともねえ、関係ねえって言ってんだろ。
 青ざめた男は扉から音楽を締め出した。鏡の前に立って苛立たしげに舌打ちした。個室から衣擦れと荒い息、濡れた肉を打つ音が聞こえる。こんなところでやるんじゃねえよ。シートを持つ手が慄えた。蚤でも潰すように数粒押し出して水もなしに嚥下する。来た来た来た……フロアから響く重低音にあわせて全身の血管が脈打ち、薄汚れた便所がまばゆく輝いた。鏡に映る男が笑みを見せる。視界が歪んで別の意味を持つ。肩からどす黒い陽炎が立ちのぼる。薬を知る前には経験したことのない衝動が押し寄せた。
 フロアでは飲み過ぎた女が仲間の輪を離れた。ただの顔見知りにすぎなかったが彼女の生活では親しい友人とさえ言えた。週末のダンスクラブは乏しい給料で酷使される日常からの逃避だった。千鳥足で化粧室へ近づき、扉へ手を伸ばしたとき異様な物音に気づいた。女は扉を凝視した。何今の……悲鳴? 螺旋をのぼり詰める和音や複合的なリズムとともに鼓動が高まる。薬の作用が無意識の警告を無視させた。突き飛ばすようにして一気に扉を押し開けた。幸いにも彼女は血まみれの室内や切り刻まれた遺体を眼にしなかった。彼女の悲鳴に誰も気づかなかった。
 数分間はフロアの熱狂に変化はなかった。突き飛ばされた者が悪態をついた。波紋が広がるように鮨詰めの客が動いた。悲鳴が上がって動揺が伝播した。我先に逃げようとする者が狭い戸口に詰めかけた。針が飛んで音楽が唐突にやんだ。悲鳴や怒号。錯乱して泣き叫ぶ声。殺到する足音は地響きのようだった。グラスや酒瓶が割れた。色鮮やかな映像が投影された壁に、腐った果物が潰れるような音がして血飛沫が飛び散った。

 報告書で残りの半日が潰れた。連続猟奇殺人の取材で伴源太も遅れ、いつもの店に三人が顔を揃えたのは深夜に近かった。小降りになった雨は雪に変わっていた。アシッド・ブルースの流れる地下の一室にはすえた臭いが籠っている。無口な店主は元ボクサーだった。大岩のような体は歳老いた今も衰えていない。厚い唇には裂けた痕があり、左眉は崩れて瞼を腫れぼったく見せていた。引退の原因は試合ではなく酔った末の乱闘だった。三人はカウンターの定位置に陣どり、頼まなくとも出てくるようになった酒を啜った。伴はラムコーク、狼野は黒ビール、宍神はライウィスキー。
「それで一週間も居座られたのか」と狼野が言った。「部屋なんて他にいくらでもあるだろうに」
「夜盗や追っ手が怖いんだとさ」
「客の部屋を泊まり歩いてるんだろう。はめられたのかもしれないぞ」伴は空のグラスを掲げてお代りを要求した。
「居候の条件について訊こうか」と狼野。
「娼婦なんだろ」と伴。
「ふざけるな。ソファーで寝てもらってる」
「喰い物にされたな」と狼野。「俺たちの新たな愉しみができたよ」
 店主が珍しく口を利き、ライのお代りを寄越した。「奢りだ」
 娼婦はいつまでも出て行く気配がなかった。朝から晩まで映画や音楽番組を観ている。組織から渡された携帯は逃走中に棄てたと言い、髪や爪の手入れをしながら端末で誰かと長話をする。宍神の前で平然と服を脱ぎ散らしてシャワーを浴びる。髪をタオルで拭いながら冷蔵庫を開けたまま缶ビールを干したりする。通販の下着や化粧道具を宍神の金で買い込む。食料は底をつき汚れた食器は放置される。宍神のゴム球で勝手に遊ぶことすらあった。
 友人たちは一片の同情も見せなかった。宍神は転居を検討しはじめた。
 伴が携帯をいじりはじめ、狼野が妻に電話するあいだ宍神は便所に入った。酔漢の落書きだらけだった。売春を斡旋する携帯番号や衛生状態への苦情(「たまには掃除しろ!」「ツケが利かなきゃこんな店来ねえ」)、店主への揶揄(「胸毛頭に移植しろ」「女雇え!」)などが至るところに鉛筆で殴り書きされている。これらを店主が消そうとしない理由が宍神には長年の疑問だった。手を洗いながら曇った鏡を見つめた。そこにも黒っぽいベッタリした塗料で何か書かれている。まだ新しくはっきり読みとれた。
 ——トリコは生きてる!

 雪は止んでいた。夜盗を警戒しながら黒く濡れた夜道を歩く。酔いは醒めた。ホテルの廃墟には複数の新しい足跡があった。床や階段の砂埃が泥になっている。照明を落とした続き部屋から会話が聞こえた。腐臭と紫煙が立ち込めていた。凍りついた人形たちが暗い森の樹々のように端末の青白い光に浮かび上がっている。声を潜めて囁きあうのは薄汚れた男女だった。いずれも眼の下に隈があり、膚は屍体のように蒼く灰色がかって見えた。
 若い男は煙草を吸いながら落ち着きなく歩きまわり大声で話していた。伸びっ放しの長髪と不精髭。垢じみたネルシャツに軍用ジャケット。裾が泥で汚れたジーンズに濡れて黒ずんだスニーカー。熱病に浮かされたかのように眼がギラついていた。ソファーの肘置きに尻の贅肉を乗せているのは崩れたスーツに緩んだネクタイの中年男。四角い頭にビア樽腹、短い手足。卑屈な小さな眼やチェシャ猫めいた愛想笑いを浮かべた口が、どこか油断のならぬ感じを漂わせた。赤いドレスと襟と袖にフェイクファーのついた白い上着の若い女は、苛立たしげに腕組みして煙草を吹かしていた。長い編み上げ靴は幾晩も歩き通したかのように汚れている。
 男が演説をやめた。敵意に満ちた視線が宍神に集中した。宍神はフロアライトをつけた。それでも部屋の現実感は戻らなかった。どこか調子の狂った光景に見えた。病院の廃墟が目の前にちらついた。目の前の集団は自分たちを拉致した連中に似ていた。
「ここは俺の部屋だ。断りもなく引っ張り込むな」そう言うのがやっとだった。
「何よ」トリコがソファーから立ち上がった。「友達とお喋りしてるだけじゃない」
 出てってくれと宍神は言った。三人は低く悪態をつきながら戸口へ向かった。若い男は振り返って唾を吐き棄てた。トリコは客を見送らなかった。宍神を睨みつけて突っ立っていた。扉が音を立てて締まった。
「束縛しないで。一銭も払わなかった癖に」
「寄生しているのはそっちだろう」
 つけっ放しの端末では取り澄ましたキャスターが連続猟奇殺人を報じていた。大型獣の鉤爪のような凶器、引き裂かれた遺体。新市街の繁華街、地下のダンスフロア。墨色の幻覚剤。犠牲者が増え続ける一方、捜査は進展していなかった。キャスターが眉をひそめるのは道義心よりも年収の桁が異なる負け組への蔑みと憐れみからに見えた。
「君の名前をある街で見た。至るところに落書きされている。君と同じ名の人物が生きていると」
「何よそれ」
「本名じゃないんだな」
「鳥みたいに落ち着きがないからそう呼ばれるようになっただけ。だからどうだっていうのよ」
 娼婦は吐き棄てるように言って部屋を出て行った。叩きつけられるように扉が締まった。ニュースの音声だけが何事もなかったかのように喋り続けていた。宍神は端末の窓を消した。部屋は静まり返った。宍神は丸めたコートとともに通勤鞄をソファーへ放り、床の吸殻を片づけて窓を開けた。凍りついた外気と往来の騒音が流れ込んだ。黒々とした闇。新市街の方角だけが煙ったように明るい。騒音の多くもそこからだ。濡れた路面の通奏低音。鉄路が刻む虚ろなリズム。クラクションや救急車のサイレンが混じる。宍神は娼婦の格好を思い出した。出逢ったときと同じ服装をしていた。成り行きを予期していたかにも思えた。
 トリコはそれきり戻らなかった。再会したときには別人になっていた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。