黒い渦

第1話: ずっと後になって宍神は

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.19

ずっと後になって宍神は泥のように堆積した歳月のにおいを思い出すことになる。スチール棚に詰め込まれたジャケットはどれも煙草の脂で変色していた。麻薬中毒の芸人が運転手やドアマンをして喰いつなぎながら、魂を記録した黒い円盤たち。狼野は口数の多い男ではなかった。酔狂な蒐集について洩らしたのは全員が酔っていたからだ。あとのふたりは笑った。なぜそんなものを? 著作権切れのデータなんかどこでも拾えるだろ。カストリ誌蒐集のほうがまだ理解できる。思えば狼野は既に渦を見出しつつあったのだ。そのことに気づいてさえいればと宍神は思う。そうすれば今もあの店のカウンターですりきれた冗談を肴に笑っていられたろう。すべては暗がりで色褪せるばかりだ。あのとき旧友は本気とも冗談ともつかぬ口調で答えたのだ。死への強迫観念かもな……と。無数の道筋があるかに見えて実は一本しかない。刻まれた過去を堂々巡りしながら着実に終わりへ近づく。
 渦を巻く微細な溝。まるで人生そのものじゃないか。

 その頃の宍神は多国籍企業の不始末を揉み消して日銭を稼いでいた。その日は仕事先から友人の新居へ向かっていた。途中でワインと花束を買うつもりだった。体は汗臭く、服は皺だらけで汚れていた。自宅に寄ってシャワーを浴びたかったが既に遅刻していた。
 彼はホテルの廃墟に住んでいた。きっかけは親友の転居だ。狼野は愛娘の小学校進学を控えて治安が悪化した地区を離れようとしていた。なじみの店が次々と撤退して知った顔もなくなった。今後は友人一家の夕食に招かれたり子守を引き受けたりすることもなくなる。空き部屋は山ほどある、移ってくるなら手伝うぜ。伴源太にそう誘われて宍神も引っ越しを決めた。体力と安全とを天秤にかけて三階のキチネットがついた続き部屋に決めた。それより低い階は夜盗に遭いやすく放火の傷痕も生々しい。エレベーターは略奪者たちを乗せたのを最後に動きを停めていた。四階は資料と称するガラクタを溜め込むために伴が占有していた。そこへレコードの山が加わろうとはふたりとも夢想だにしなかった。
 調度類はすべて持ち去られていた。荒れ狂う暴徒らに奪われたか権利者に運び出されでもしたのだろう。路上生活者の焚きつけになったのかもしれない。壁紙は黴や湿気で変色し剥がれかけていた。床は砂埃にまみれガラスの破片やゴミが散乱していた。火はこの部屋へ及ぶ前に消し止められたようだ。伴に手伝ってもらい、半月がかりで手を入れた。伴は電気やガス、上下水道まで使えるようにしていた。数キロ先の公共施設から引いたのだという。床を清めて壁紙を張り替えた。破壊をまぬがれた窓を上層階から運び降ろしてはめ直した。前のアパートから持ち込んだのは数冊の本とマットレス。それに蓄電池が干上がったかつての作品群だった。
 狼野夫妻はかろうじて「勝ち組」に属していた。狼野はOSを供給する寡占企業に、夏美は放送局に勤めていた。転居を決めたのは宍神より早かったのに、実際に落ち着いたのは冬が訪れてからだった。夏美は友人の引越し祝いも兼ねてささやかなパーティーを企画した。多忙な夫婦には料理の腕を披露する貴重な機会だった。彼らの幼い「お姫様」は宍神が同じ地区へ越さなかったのを恨んでいた。彼女にとって宍神はアパートの隣室にいて両親の不在時に面倒を見てくれる存在だった。小さな世界の前提が崩れるのは不可解で許しがたいことだった。
 宍神は名誉を挽回しなければならなかった。なのにその夜の仕事は長引いた。狼野は別件で営業に出ていた。宍神は独力で事に当たらねばならなかった。不具合を起こした製品は女性相手の風俗店で使われていた。宍神が駆けつけたときには既に閃光銃で機能停止されていた。初期化とデータ復旧に支障はなくログも無事に回収できた。手間どったのは接客されていた女のほうだった。彼を返してと女は半狂乱で泣き叫んだ。人形が記憶を失って「別人」になるのが許せないらしかった。人形に過度の感情移入をする女は珍しくなかった。現実の男と違って夢だけを見せてくれるからだ。店長の説得も営業妨害で訴えるとの脅しも女には通じなかった。金を握らせれば味をしめるだろうしクライアントは経費と認めない。別の業者が呼ばれて指と顔を潰された屍体が路地裏のゴミ溜めで見つかるだろう。用心棒とふたりがかりで女を羽交締めにして薬を注射した。女は二日分の記憶と引き換えに洞窟で緑色の子鬼と遭遇した。もう誰も彼女の言葉は信じない。
 免許を持たずに運転する者は珍しくないが宍神には車を買う金も維持する金もなかった。安心して停めておける街に住んでもいない。かつては副都心とされた街は今ではあらゆる交通路線が廃止されていた。封鎖された地下鉄駅の落書きを横目に最寄り駅からホテルまで歩かねばならなかった。気が急いて暗い集合住宅地を横ぎった。もとより強度を偽装した違法建築の多い界隈で、騒乱後に放棄されてから住み着く者は少なかった。倒壊した建物も目についた。非常階段が外壁から剥がれて隣の建物に倒れ込んでいるアパートがあった。この近辺では珍しい光景ではなかった。ふと誰かに呼ばれた気がして立ち止まった。酸性雨に蝕まれた建物の黒い影を見上げる。雲に切れ間が生じて月光が射した。空耳か。
 ぶつかる瞬間まで気配を感じなかった。咄嗟にそんな行動をした理由が自分でもわからない。女の悲鳴を手で塞ぎ、抱き寄せて路地へ引き込んだ。じめじめした壁に女を押しつけ、錆びた配管の陰で息を潜めた。女の扮装を見てとった。腰まである黒髪。チェックの襞スカート、ハイソックスにエナメル靴。紺ブレザーの襟には寄宿制女子校の徽章が刺繍されていた。小児性愛者御用達の娼婦だ。雇用者の暴力に耐えかねて着の身着のまま逃げ出したというところか。男たちが足音も立てず影のように通り過ぎた。五人。統率のとれた身のこなしから軍隊仕込みの同業者だと知れた。ドレッドヘアの男が指導者らしい。たかが娼婦ひとりにご大層なことだ。よほど稼ぎがいいのだろう。
 宍神は間を見計らい、娼婦の手を引いて駆け出した。下水臭い路地を裏手へ抜ける。騒乱前の家電品や古タイヤ、建築廃材が道を塞いでいた。女が接触して山を崩した。気づかれた。宍神は女を先へ行かせ、錆びて歪んだ冷蔵庫を押し倒した。先頭の男が飛び退いて銃を構えた。
 集合住宅の非常階段を駆け上がる音に宍神は振り向いた。風が娼婦の長い髪を乱すのが見えた。宍神は舌打ちして女を追った。あれじゃ袋の鼠だ。赤錆に覆われた階段はひどく揺れて壁との接合部が悲鳴をあげた。発砲音がして銃弾が宍神の耳元を唸りをあげて掠めた。屋上へ抜ける扉は施錠されていた。男たちが階段を駆け上がってくる。宍神は把手を揺する女を押しのけ、扉を蹴り倒して女を背中で押しやった。それから踊り場の接合部を踵で蹴った。非常階段は葦のように揺らいだ。先頭の男は振り落とされそうになりながら片手で手摺に掴まり、短銃で宍神に狙いをつけた。宍神は再び接合部を蹴った。ボルトが砕ける感触があった。外壁の接合箇所が連鎖反応のように砕けていった。階段は耳障りな音で軋んで外壁から剥がれて傾いた。男たちが脚をもつれさせて叫んだ。銃火が閃いたが発砲音は掻き消された。
 外壁が埃を舞い上げて崩落した。階段は煩わしい荷物を手放すように人間をばらばらと投げ落とし、隣の外壁へ突っ込んだ。女は宍神にしがみついてその様子を見下ろしていた。埃が地上から噴き上がった。

 暗い舗道にはゴミやガラス屑が散乱し、側溝の泥が異臭を放っていた。女は心許なげに宍神に寄り添って歩いた。暗視コンタクトをしていないのだ。商売道具に事欠くほど客がつかないようにも見えなかった。雇用主の方針か薬を欲しさに手放したのだろう。娼婦が初めて口を利いた。これまでに何人殺したの。低い声は洞窟を吹き抜ける風を思わせた。警察や軍隊にいたことはない、とだけ宍神は答えた。娼婦は独り言を呟くようにトリコと名乗り、足抜けしようとして揉めたと弁明した。宍神には驚くような物語ではない。名前に引っかかりを憶えた。なぜかは思い出せなかった。
 見返りを期待したならお門違いだと娼婦は言った。宍神は娼婦を見つめた。前髪を切り揃えた濡羽色の長髪。陶磁器めいた青白い膚。異様なほど長く伸びた細い手肢。血の色をした唇。暗い沼を思わせる瞳。生身の人間にしては容姿が整い過ぎているように感じられた。口元のホクロを除けば不自然なまでに左右対称だった。なぜついてくると宍神は訊いた。行き場がないのよと女は答えて自分の体を抱き締めて身慄いした。
 夜目の利かない人間を連れて歩くのは楽ではない。虫や小動物の死骸やゴミがペンライトに浮かび上がる。部屋の鍵を開けて灯りをつけた。娼婦が身を硬くする気配を宍神は感じた。
 人形は女の眼に屍体のように映ったに違いない。十数体が低い脚立に座らされたり、壁際で何かを言いかけていたり、床へ無造作に転がされていたりしていた。膚の弾力や質感ばかりか睫毛の一本に至るまで緻密に作られていた。それが手作業によるものだとは今では誰も想像しまいと考えることが宍神にはよくあった。無駄なことに人生を費やしたものだ。娼婦は何も問い質さなかった。宍神もあえて説明しない。
 娼婦はソファーに倒れ込んだ。制服の裾が乱れ、青白い太腿が覗いた。冷蔵庫のものを飲み喰いしていい、休んだら出て行ってくれと言い置いて宍神は戸口へ引返した。鍵はかけなかった。女はソファーに両脚を引き上げ、肘置きに両腕を投げ出して顔を埋めた。
 まるで部屋に前からある人形の一体のように見えた。

 姫君の機嫌を取り戻すのは「揉み消し」より骨が折れた。おじちゃんが暗い穴に行っちゃうの。怖かった。もういなくならないでねと彼女は言って宍神に指切りをさせた。昨夜の夢について話しているようだった。嫉妬した伴が悪態をついて夫婦は噴き出した。宍神が心から笑えるのはこんな瞬間だ。友人たちと共にいられる幸せに感謝する。疲れて眠り込んだ娘を母親が寝室へ運んでからは大人だけで四方山話に興じた。話題は集まりを重ねるたび過去よりも現在が占めるようになった。五分の一の重みを避ければそうなるのは必然だった。やがて狼野がソファーで眠り込む。愛娘そっくりの顔つきだ。夏美はその手からそっとグラスを取り上げる。それを潮に伴源太が、そろそろおいとまするよと立ち上がった。
 宍神は食器洗いを手伝った。片付けが済むと夏美は夫を揺り起こした。ほらあなた、こんなところで寝たら風邪ひくわよ。何だまだいたのかと狼野は焦点の合わぬ眼で宍神を一瞥し、妻に伴われて寝室へ退いた。居間へ戻ってきた夏美は宍神に苦笑してみせた。彼らに一度だけ関係があったのは狼野に知られていない。夫婦の交際が始まる以前の話だ。騒乱ですべてを失った宍神を夏美が慰めようとしたのだ。かつての自傷が再発したわけではない、深い意味に取らないでと彼女はその夜にいった。口にされることさえ二度となかった。
 ふたりは低い声で会話した。氷の溶けたグラスを片手に、記憶の交点を注意ぶかく避けながら。新生活。姫君の成長。そしてまだ五人全員が揃っていた日々……。誰ひとり未だ何者でもなく死が遠く感じられた時代。飽きもせず集まっては安酒を飲んで冗談を飛ばし悪事を計画した。週末ごとに浮浪者を襲う少年集団を返り討ちにした。あちらの金持からバルブをこちらの金持からマフラーを盗み、高級バイクを組み上げて売り飛ばした。嗜虐趣味の援助交際男を路地裏に追いつめてウェブ上に晒すと脅した。
「よくも捕まらなかったものよね」
「ツイてたんだよ。ツキが永久に続くと思ってた」
 薄まった酒は注ぎ足されずグラスは触れられない。それでも夏美は過去を持ち出すほどに酔っていた。音を低めたテレビは彼女の勤務するニュース局に合わせてあった。血まみれのダンスフロアが映った。合成麻薬の使用者が相次いで怪死を遂げているという。遺体の胃からはイーヴル、デスなどと呼ばれる黒い錠剤が見つかるのが常だった。夏美は気遣わしげに廊下を見やって耳をそばだてた。父娘は寝つきがいいようだ。宍神は疎外に似た感情を味わった。まるで他人の居間にいることに初めて気づいたかのように。
「不思議ね。こんな風になれるとは思わなかった」
「あいつと結婚したんだから当然さ」
「五人ともひどい家庭に育った。でもこの話ができるのは、あなたと雪乃だけだった」
 どの道をどうやって帰宅したか記憶にない。宍神は泥を詰めた袋のように居間のソファーへ倒れた。酒臭い服どころか靴も脱がずに眠りへ落ちた——毎夜のごとくうなされる悪夢へ。
 騒乱の夜。誰が呼び始めたか、いつしか定着した呼称だった。
 原型製作の請負を始めた十代の頃、自動人形はまだ高価な性具に過ぎなかった。彼の評判が広まる頃には性能が向上し、価格も下がって社会に普及しはじめていた。人形は安価で優れた労働力だった。厄介な人権もない。社会のひずみは個人の努力や性格のせいにされた。多くの職種が生身の人間から置き換えられた。原子炉の清掃のような使い棄ての職だけが「負け組」に残された。やがてモジョと呼ばれるウィルスが蔓延した。人形は充電のたびに家庭用電源を通じてシステム更新を行う。この仕組みが悪用された。感染すると対人防護規定が改変される。組織的なテロ集団によるものか、単独の犯罪者によるものか、現在も判明していない。被害は拡大し、メーカーの対策は後手にまわった。社会不安が煽られた。
 罵声、悲鳴、怒号……。
 燃え盛る炎、弾ける火の粉。逃げ惑う男女。はぐれた家族を捜す声。黒煙をあげて炎上する車。ガラス屑が炎を受けて路上できらめいた。人々は飾り窓を叩き割って商品を略奪した。狂った笑い声、勝ち鬨のような叫び。路上で公然と行われる輪姦に人々は眼もくれない。盾や防護服で身を固めた警官隊も暴徒になすすべもない。数が多すぎた。暴動は世界中で同時多発し一夜にしてあらゆる都市に拡大した。警察署や交番は襲撃された。警官の多くは制服を脱ぎ棄て民間人に紛れて逃げた。警察車両や消防車は火を放たれた。軍が制圧に乗り出したのは数時間後だった。人々は見境なく射殺され砲撃され、無限軌道で踏み潰された。騒乱は皮肉にも社会のガス抜きとして機能した。人権弾圧が正当化されるようになった。
 この夜を境に宍神は原型製作から足を洗った。その後十年で業界の主流は有機培養型へと移行した。復帰しようにもすべてが変わり果てた。彼は忘れられた遺物だった。
 夢に囚われた宍神の心臓を亡霊の声が引き裂く。
 彼は群集に揉まれて四つ辻に差しかかった。痛がる少女の手を離すまいとした。建物が爆発し大地が揺らいだ。劫火に炙られたアスファルトが飴のように歪んだ。暴徒が宍神と少女を指さして押し寄せてきた。宍神は熱いぬかるみと化した路面に足を取られた。少女が彼の名を叫んだ。群衆がふたりを引き離した。悲鳴は怒号に掻き消された。助けを求めて伸ばされた手は人波に呑まれた。彼が愛しさを込めて再現しようと努めたあの温かく柔らかい手は。
 火柱が噴き上がり黒煙と熱気が視界を歪めた。その向こうに巨大な影が見えた。鉤爪を持つ獣だった。宍神は声が麻痺して叫べなかった。熱い泥が彼を群集とは逆方向へ押し流した。人や車を巻き添えにしながら路面が陥没した。窓が砕け壁が裂けて建物が瓦解した。すべてが濁流に沈んだ。大地はどす黒い奔流と化した。燃える街、水晶のようなガラス屑、暴徒や逃げ惑う人々を渦へ呑み込んだ。
 黒い渦。彼はいわばそこで生まれた。
 ぴちゃ、ぴちゃ。獣が屍骸を舌でねぶるような音で目覚めた。人影が薄闇で彼を見下ろしていた。女は暗い叢から指を抜き、彼の腹に横たわるものを蛇のように探り当てた。彼のジッパーは降ろされ、シャツのボタンがはだけられていた。乳房を揉みしだいていた手が彼の頚へ伸びる。状況を理解する余裕も逃れる暇もなかった。屍体のように冷たい体がのしかかる。重みが頚に加わりソファーが軋んだ。熱い蜜の鞘に呑まれた。長い髪が覆い被さり息ができない。マニキュアされた爪が頚に喰い込み血が滲むのを感じた。浮き出た肋や腰骨は凶器のように硬かった。力強い腿に挟まれた彼の腰を絞られた湯が伝い流れた。
 宍神は急に喉が自由になって咳込んだ。娼婦は濡れた音を立てて乱暴に体を引き離し、寝室の闇へ消えた。彼女が泣いているのを宍神は見たように思った。彼は濡れたソファーに残された。全身が凍えている。悪夢の残滓に浸かっているかのようだった。坩堝のような後味の残る一点を除いて体温が奪われていた。彼はその暗い感覚を長い年月が過ぎたのちもまざまざと憶えていた。
 そしてついに記憶から消し去ることができなかった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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