シュウ君と悪夢の怪物

第6話: 新しい家族

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.19

ベーコンの焼ける匂いで、ノベルは目覚めた。ベッドを降りて、何気なく本棚へ視線をやる。大切なものがそこにあったような気がした。思い出せなかった。パジャマのまま部屋を出た。
 脂がフライパンではぜる音を聞いたような気がした。空腹を感じた。縁がカリカリの目玉焼きや、縮んだベーコンを想像する。どうしてそんなことを考えたのか、わからなかった。
 ダイニングキッチンでは、父親が新聞を読んでいた。コーヒーの匂いがする。ショートカットの女性が、背を向けて料理していた。
 ——母さん?
 チカ先生が振り向いた。父親が新聞から顔をあげた。
「おうノベル。おはよう。眠れたか?」
「なんでふたりが家にいるの」
「よく憶えてないが、どうも泊まってもらったようだ」
「忘れるなんて、ひどいわね」
 と言いながら、先生も覚えているようには見えない。大人たちは気まずそうだった。お酒を飲み過ぎると、そういうことがあるのだろう。
 ノベルは驚いたが、気まずくはなかった。むしろ三人でいるのが自然に思えた。まるでひと晩ずっといっしょに過ごし、力を合わせて何かを成し遂げたみたいに。
 父親が皿を用意した。チカ先生はベーコンエッグを食卓に並べた。
 ノベルはトーストにマーガリンを塗った。
「初めて担任になった日、先生のことまちがえて呼んだわね。お母さんって」
 父親はコーヒーにむせた。
「忘れたよ、そんな前のこと……」と、ノベル。
「何やってるのよ」
 先生はこぼれたコーヒーを拭いた。父親は面目ない、という顔をした。
 まるで本当の夫婦みたいだった。

 鮎香は家出した日の格好のまま、無事に戻ってきた。
 幽霊屋敷で数日を明かしたと彼女は説明した。それより詳しいことは思い出せないという。記憶喪失になっていた。両親は警察に報告し、娘を医者に連れて行った。だれかに危害を加えられた形跡はなかった。ただ疲れきっていて、記憶が抜け落ちていただけだ。
 奇妙なことがひとつだけあった。ワンピースだ。
 気づいたのは母親だ。娘を風呂に入れ、洗濯しようと裏返した。襟元のタグがない。もっと不可解なことに、縫い目も見あたらなかった。鮎香はその不思議な話を、ノベルにだけ打ち明けた。
 集団下校はひと月で終わった。鮎香は家出の理由を忘れたようだった。
 三人組は今でもマンションへ遊びに来る。みんなでゲームをしたり、マンガを読んだりした。以前はもっと楽しい遊びがあった気がする。でも、もう四年生なのだ。それまでとは遊び方も変わる。
 好みも性格も、教室さえ違う顔ぶれ。仲良くなったきっかけは、だれにも思い出せなかった。肝心なのは、四人が大親友だということだ。
 父親はマンションにいる日が増えた。調べ物に出ない日は、部屋にこもりきりだ。初めて児童文学に挑戦していた。仲良し四人組が宇宙人と出会い、悪者をやっつける。そんな空想的な冒険物だという。
 ある休日。遊びに来た三人組は、作家に出くわした。コーヒーを飲むため、部屋から出てきたのだ。ノベルの家に大人がいるのを、三人は初めて見た。部屋の奥からなつかしい声がして、彼らはさらに驚いた。
 チカ先生は毎日のように通ってきていた。夕食や、ときには朝食まで作ってくれた。朝に歯を磨く先生を、洗面所で見ることもあった。
 食事中に行儀を注意されるのだけは、ちょっぴりわずらわしかった。この点は父親も同意見みたいだった。どちらかが注意されるたびに、親子は居住まいを正す。それからこっそり苦笑を交わしあう。
 ノベルの家に先生がいることに、三人組はすぐに慣れた。鮎香は先生から、あれこれ聞き出した。ノベルが口にした寝言とか。給食は残さず食べるけれど、実は好き嫌いがあるとか……。
 頑太と秋彦は、ノベルに同情した。
「女って、恐いよな……」

 季節は巡る。
 教室の掲示も変わった。桜から鯉のぼり、アジサイとカエルを経て、今ではひまわりが咲き誇っている。生徒が陣内先生を手伝った。ひまわりの一輪は、ノベルがつくった。色画用紙を切り抜くのは楽しかった。
「来週、席替えをします」
 陣内先生が発表した。「えーっ」「やったー」と声が上がる。
 ノベルは隣の机を見つめた。ずっと空いていたこの席にも、ついにだれかが座る。自分も違う席から教室を眺めることになる。そう思うと、急に不思議な感覚にとらわれた。
 父親がある本から引用した言葉を思い出す。
「とてもよく書けた詩をなくして、二度と思い出せないような気分」
 ノベルは今まさにそんな気持だった。
 クラス替えがあり、陣内先生が担任になり、チカ先生は家へやってきた。留守がちだった父親が戻った。ノベルの背は伸びた。ただの同級生だった三人と、大親友になった。
 ただ変わるのではない。可能性でしかなかったものが、少しずつ形になる。親や先生や友だちとの関わりのもとで、育まれるのだ。そのことをノベルは実感した。
 放課後、家にランドセルを置いて外に出た。父親が見送ってくれた。ノベルの足はなぜか自然と、幽霊屋敷へ向いていた。朝、不思議な夢を見たのだ。
 その夢でノベルには、ふたりの友だちがいた。ひとりは謎めいた美少女。もう片方はしゃべるぬいぐるみだ。どちらもムカつくようなことを平気で言う。でも憎めないところがあった。
 夢の友だちは、幽霊屋敷に関係があるような気がした。なぜかはわからない。
 廃墟の塀を、ノベルは巡って歩いた。コンクリートが崩れた場所がある。
 ぬいぐるみを抱いた女の子が立っていた。まるで待ち伏せするみたいだった。
 明るい色のふわふわショートヘア。黒いタンクトップに七分丈のズボン、茶色のローファー。ぬいぐるみは口がチャックになっている。眠たげな目、生意気そうな顔……。夢で見たのと同じだ。
 自分はこの連中を知っている。ノベルはつぶやいた。
「シュウ君……」
「やあ」
 ぬいぐるみは片手をあげた。照れくさそうだ。
「やっぱり覚えてたんだね」
「私のことはどうなの」
 灰崎はいたずらっぽく尋ねる。
「忘れたよ。オメーみたいな、性格悪い女は」
 ふたりは互いに、ニヤッと笑い合った。
「時間がないの。お別れが言いたくて」
「テレパシーで呼び寄せたんだ」
 彼らの言葉に、ノベルはうなずいた。
「夢を見たよ」
 灰崎は手短に説明した。繭に閉じこめられ、送還される途中に、宇宙船が彗星に衝突した。その混乱に乗じて逃げ出したという。
「お尋ね者になった方がマシだもの。『いなかったこと』にされるよりね」
 彼女はノベルの手を握った。
「今度こそ本当にお別れね」
「そう願いたいよ」
 灰崎の瞳に、ノベルは自分の姿を見た。ノベルの瞳にも彼女が映っているのだろう。ふたりは固く握手した。シュウ君がその上に自分の手を重ねる。もこもこしたタオル地。小さな手だ。三年以上もなじんだこの感触を、もう二度と味わうことはない。彼のプラスティックの目玉にも、ノベルが映っていた。
「楽しかったよ、地球での冒険。なごり惜しいよ」
「もうこりごりだよ。平凡な日常がいちばんさ」
「どうかしら。あなたちょっと変わってるから……」
「波瀾万丈の人生が待ってるかもね!」
 そう言うなりシュウ君はギクッとした。遠くでふたりを探す声がしたのだ。
「やばい! 見つかりそうだ」
「そうね。早く行かないと……」
 灰崎は油断のない目つきになった。灰崎とシュウ君は、ノベルの手を放した。何もない空間に、黒い渦が現れる。怪物が消えたやつの小型版だ。空気が吸い込まれる。風がノベルや灰崎の髪を乱した。
「じゃ、本当にお別れよ」
「さよなら。元気でね。人生の大冒険を楽しみなよ」
「地球へなんか二度と来んな。絶対に捕まるなよ」
 ふたりは渦へ飛び込んだ。黒いモヤは、排水溝に流れ込む水みたいに収斂して消えた。
 風がやんだ。すべてが夢だったかのように何も残らなかった。
 おかしな扮装の男たちが、大挙して押しかけてきた。宇宙警察だ。
「ぬいぐるみを連れた女の子を見なかったかね?」
 ノベルは知らないと答えた。部下らしき男が、リーダー格に尋ねた。
「この子、感づいてますよ。われわれの正体。記憶を消しますか?」
「無駄だよ。前にも試したが、耐性があるみたいだ。それにこの子は信用できる」
 彼はノベルに向き直り、顔を近づけて言った。
「だれにも話すんじゃないよ。気が変だと思われる。では、さらば」
 黒い渦が出現した。さっきより大きめのやつだ。コスプレ集団は慌ただしく、その中に消えた。
 渦が消えた。ノベルは呆気にとられた。やがて苦笑し、肩をすくめて歩き出した。
 父親とチカ先生の待つ家をめざして。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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