シュウ君と悪夢の怪物

第3話: あいつぐ失踪

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.19

遅刻常習犯のノベルには、集団登校は苦痛だった。さすがに二十人も平気で待たせる神経はない。生徒の多い地区なのだ。早起きしないわけにいかなくなった。
 今朝の引率は保護者だった。厳しい表情のお母さんと、やけに張り切っているおじいさん。子どもたちはいつにも増して元気いっぱい。神経に障る騒がしさだ。大人たちの思惑など知らぬげにも、少なからず不安に染まっているかにも見える。それともノベルが神経質になっているだけだろうか。
 灰崎は親しげに身を寄せてきた。正体は人喰らいの手先……そんなシュウ君の推測が頭をよぎる。
「寂しそうじゃない。何かあったの?」
「うっせーな」
 不審者の正体は人喰らいかもしれない。だとしても、今はもう別人に乗り移っているだろう。
 保護者に取り憑いたかもしれない。生徒のだれかでないとも言い切れない。親、先生、近所の親切なおばさん……だれも信用できない。
 異様な扮装をしていれば、どうしてもそっちに目が行く。印象に残るのは格好だけ。顔の見分けなどつかなくなる。近所の住民や、娘の同級生の親御さんだったとしてもだ。
 まして転校生の親であれば、だれも気づかない。
 問題はほかにもある。ぬいぐるみとしてのシュウ君だ。
 その日ノベルは、三人組と顔を合わさないように努めた。休み時間には、なるべく教室から出ないようにした。トイレに行くのも控えめにした。会えばシュウ君の話が出る。真実を告白するわけにはいかない。
「シュウ君が自分の足で失踪した」
 いくらあの連中でも、そんな言いわけは通用しない。会わせたくない理由でもあるのか、と問い詰められる。無理に押しかけてきて、家宅捜索でもされかねない。猛烈な吊し上げにあうだろう。
 三人を避けていると、自然と灰崎と話す機会が増えた。何しろ隣の席だ。向こうもずっと教室にいる。それにシュウ君がいなくなった今、後ろめたいことは何ひとつない。
「休みは何してるの?」
「掃除と洗濯。あとゲームかな」
「家族で出かけたりとかは」
「父さんは年中仕事だよ。母さんは今どこにいるか知らない。去年はパリとイスタンブールとサハラ砂漠から絵葉書よこした」
「旅行家なの?」
「アイドル崩れの女優」
「ふーん。有名?」
「クイズとかバラエティーで半端な席の人。勘違いしてハリウッド行って消えた」
 灰崎が戸口を見た。その視線をノベルは追った。鮎香が走り去った。
 灰崎は含み笑いをした。
「あーらら。まずいとこ見られちゃったわね。ただでさえ噂になってるのに」
「どういう意味だよ」
「ぜったい誤解されたわよ。私たちの仲」
「嬉しそうだな」
「追いかけなくていいの?」
 教室中の視線を集めた。だれかがヒューとはやし立てた。ノベルは顔が熱くなった。
「バカ、よせよ」
「あら、かわいいわね。照れるなんて」
 女子たちがひそひそ話を始めた。勘弁してくれよ……。ノベルは肩を落として、ため息をついた。
 その日は何も起きなかった。三人組にもわずらわされなかった。「生きたぬいぐるみ」なんておかしなことも、忘れていられた。まるで不審者騒ぎさえなかったかのようだ。
「嵐の前の静けさ」
 ことわざ係で覚えた言い回しだ。考えすぎだ、とノベルは思った。
 集団下校は遠足みたいで、楽しくもある。けれども明るい気分にはなれない。空は鉛色だった。マンションの前でみんなと別れた。ベッドに鞄を投げ出すと、急に疲れを感じた。
 シュウ君のいない部屋は、静かだった。こんなに寂しくなるのは初めてだ。父親に電話しようかと思った。普段は向こうからかかってきてさえ、面倒に感じるのに。
 いつもの決まりきった、おなじみのやりとり——
「毎日元気にクソしてるか?」
「元気だよ。父さんこそちゃんと食べてる?」
「おう、おかげで毎朝快便さ」
 そんな会話が今では嘘みたいだ。座る気も起きずに、本棚を見つめて立ちつくした。つい最近までそこに、ぬいぐるみが収まっていたのだ。チカ先生の吹き替えそっくりの、特徴あるだみ声。父親の声と混じり合い、ノベルの頭にこだました。
 電話が鳴った。
 番号を見なくてもだれからかわかった。子機を取り上げる。懐かしい声が聞こえてきた。
「おぅノベル、毎日元気にクソしてるか?」
 喉の奥から熱い固まりがこみ上げる。あっと思ったときにはもう泣きだしていた。マンション中の住人を驚かせたかもしれない。
「どうした、何かあったのか?」
 間の抜けた声。その声が耳から全身へ染み渡った。じんわり温かくなり、ますます涙があふれた。
 この数日で何があったかを説明しようとした。声にならない。嗚咽が収まるまで、父親は黙っていてくれた。途中でだれかに話しかけられるのが聞こえた。身振りで遮ってくれたのがノベルにはわかった。打ち合わせの最中だったのだろう。こんなことで仕事をなくさなければいいが。
 やっとのことで声をしぼり出した。
「友だちが行っちゃった」
 父親は長いこと黙っていた。ちゃんと聞いてくれているのが、息づかいでわかった。
 背後でまた声がした。何か尋ねている。受話器が覆われ、父親が何か言った。四年生という単語が聞こえる。相手はとたんに激怒した。父親の手のひらから、漏れ聞こえるほどの声だった。
「そんな子どもを独りで? 早く帰ってあげなさい。先方にはこっちで話つけます」
 手のひらがはずされた。何もなかったかのように父親が言う。
「魔法の呪文を教えてやる。めげそうなときは、心の中で三回唱えろ。『布団が吹っ飛んだ』『布団が吹っ飛んだ』……いいな?」
 ノベルは笑った。ちっともおもしろくなかった。涙をぬぐってから言った。
「了解。もう平気。泣いてごめん」
「涙は心の汗だ」
「そのセンスで作家だなんて」
「廃業さ。今日からは詩人だ」
「言ってろよ。しばらく帰って来んな」
 親子は笑った。
 父親の声の調子が変わった。
「ほんとに大丈夫なんだな」
「うん。父さんこそ、ちゃんと食べろよ」
「おかげで毎朝快便さ。……じゃあな」
 子機を台に戻す。ノベルはもう元気になっていた。
 晩ご飯の魚を焼いていると、鮎香の母親から電話があった。
「うちの子そちらに行ってない?」
「今日は来ませんでしたよ。三人とも」
「思い当たる場所はない? あの子が行きそうな」
「さあ……」
 雨が降り出す音が聞こえた。ノベルはいやな予感がした。
「何かあったんですか」
「鞄置いて出てったまま、お夕飯になっても戻らないの。あの子の部屋をのぞいたら、書き置きが机に。秋彦君と頑太君にも電話したけど……。何か話してませんでした、あの子? 学校で何かあったとか」
「クラスが違うので。書き置きには何て?」
「『お父さんお母さんごめんなさい。探さないで』って……」
 母親は声を詰まらせ、嗚咽した。夫らしき男性のなだめる声が聞こえる。ノベルの心臓が高鳴った。何も残さずに消えたシュウ君のことが、頭をよぎる。
 険しい声の男性に替わった。普段は優しい人に違いない。
「ノベル君だね。いつも鮎香と仲良くしてくれてありがとう。本当に何も知らない?」
「鮎香ちゃんはみんなに好かれてます。家出なんて、あり得ない」
「そうか。ありがとう」
 切れた電話をノベルは見つめた。雨音が強まった。
 ただの家出ならまだいい。そうでなければ、もっと悪い可能性が待っている。
 不審者。
 その言葉が、不意打ちみたいに頭に響いた。怖ろしい想像を、ノベルは頭から振り払った。
「シュウ君、こんなときにどこで何やってんだ。宇宙刑事じゃなかったのかよ。人喰らいを捕まえるために地球へ来たんだろ? そいつが今、オレの友だちをひどい目にあわせてるかもしんないんだぞ!」
 魚は黒こげになってしまった。どうせ食欲は出ない。捨てた。心の中でごめんなさいを言う。魚がグリルへたどり着くまでに携わった、大勢の働く人たちに。命を無駄にした魚にもだ。
 窓を開けて部屋に風を入れた。雨は激しかった。
 お湯を沸かし、お茶漬けを喉へ流し込んだ。食器を片づけていると呼び鈴が鳴った。ドアフォンの画面には、恐そうな男がふたり立っている。警察の制服に見えた。それぞれ濡れた傘を持っている。
「どちら様?」
 縦開きの手帳を、片方が掲げた。たぶん本物だろう。ノベルは玄関へ行き、ドアを開けた。
「鮎香ちゃんのことですか」
「話が早いな」
 えらの張った仏頂面が言った。長い顔の方は退屈そうだ。雨音に耳を傾けている。濡れた傘の先が、コンクリートに黒い染みを作っていた。
「さっき彼女のお母さんから電話が。協力したいけど、何も知らない」
 話しかけた方が、ノベルの頭越しに部屋をのぞいた。
「お父さんかお母さんは?」
「父子家庭で。父さんは出張中」
「子どもだけ? 育児放棄ってやつか」
 ノベルはいらついた。わかりもしないくせに。うちはこれでうまくやってるんだ。母親がいないのがそんなに変か? 不器用な父親に任せず、家事を自分でやる。それが悪いことか?
 多くの大人にはそうなのだ。経験のない生き方だから。
 現実にはいろんな家庭がある。でも、許されるのはみんなが知っている生き方だけだ。
 不審者が子どもを狙うのも、あるいはそのせいかもしれない。他人の幸せが理解できず、おもしろくない。だから食い物にして養分を得るのだ。
 鮎香の母親に説明したのと、同じ話をくり返した。警官たちの質問はどれも的はずれだった。態度が偉そうなだけで、素人と大差なかった。子どもを相手にするのが、おもしろくない様子だった。
「不審者は捕まりました?」
 ふたりは顔を見合わせた。何のことかわからないようだ。それとも、そのふりをしているのか。
「集団登下校してるんです。上級生が恐い思いをして……」
「おじさんたちの管轄じゃない」
 黙っている仏頂面の代わりに、退屈そうな方が言った。
「担当の人に伝えてください。早く捕まえるように」
 仏頂面は制服の胸ポケットに手帳をしまった。何ひとつ書きとらなかった。疲れていらだった感じだった。
「そういうことは大人に任せておけばいい。宿題でもやりな」
 退屈そうな男に顎で合図した。ふたりは踵を返し、エレベーターへ去った。軍人みたいな歩き方だった。足跡の染みが黒く残った。
 失礼しちゃうぜ……。
 ノベルは心の中で言った。シュウ君の言い方を、無意識にまねていた。
 あの人たちにとってはこれが仕事なのだ。ノベルの父親だって、気持ちのいい仕事ばかりではない。営業に腐心し、変な読者に脅されたりもする。あんな変わり者とつきあう編集者にしても、楽ではないはずだ。学校の先生たちだって、きっと色々あるのだろう。
 汚いことも避けてはいられないのだ。生きて行くには。

 雨の中、集団登校は愉快ではなかった。
 狭い道に傘がひしめく。一年生はかん高い声で騒ぎ、わざと雨水を踏み散らす。上級生は「傘がぶつかった。肩が濡れた」とつまらないことで口論する。殺気立ち、つかみ合いのケンカさえ始まる。保護者はことさら大声で叱り飛ばす。だれも言うことを聞かない。
 ノベル自身、泥水を跳ねかけられてムッとした。相手が下級生だったので、こらえた。
 家出事件については、まだだれも知らないようだった。地区が違うせいだ。
 学校に着くと学年中が大騒ぎだった。噂が飛び交っている。
 同級生は少しでも情報を引き出そうとして、ノベルに群がった。
「あいつとつるんでただろ。何か知らねーのか?」
「警察に事情聴取されたってホント?」
 話せることはわずかだった。みんなは失望し、口々に不平を言った。ノベルは憤慨した。何も知らないからと責められても困る。
 陣内先生はまたも遅れて現れた。彼はわかっているかぎりの事情を説明した。
 だれも納得しなかった。当然だ。鮎香はだれからも愛されていた。家庭に不満もない。大好きな両親のことを、普段からみんなに自慢していた。学校生活も楽しんでいた。友だちも大勢いた。
 どうして家出なんかする必要がある?
 休み時間、秋彦と頑太に会った。興奮していた。彼らも警察に事情を聞かれたという。
「うちにも来ました」
「オレんちにもだぞ!」
 警官たちがどんな風だったかを、口々にまくし立てた。聞きつけた者が集まる。自然と人の輪ができた。ふたりはいつしか得意げに、聴衆に語っていた。身ぶり手ぶりや、大げさな誇張まで加わる。鮎香にはアイドル的な人気がある。彼らは対照的に、地味な存在だった。スポットライトが当たるのは、滅多にない経験なのだ。
 廊下は渋滞した。
 ノベルはそっと人垣を抜け出した。気づかれる心配はない。憂鬱な気分に逆戻りしていた。ふたりの意識がシュウ君からそれたのは助かる。けれどもその原因が、鮎香の失踪では喜べない。
「ほんとに好きだったのね」
 灰崎が声をかけてきた。こいつが転校してきてから、ろくなことがない。
「バカ。死んだみたいに言うな」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「いいんだ。わかってる。ちょっとイラついてるんだ」
「何か心当たりでも?」
「ないからイラついてんだよ」
「子どもの家出なんて珍しくもないじゃない。時期が悪すぎたけど……」
 ノベルは急に立ち止まった。灰崎が背中にぶつかりそうになる。
 秋彦と頑太は、必死で声をはりあげていた。聴衆が退屈して散りはじめたのだ。大した情報は得られないと、気づかれてしまった。引き留めるのはむずかしそうだ。
 ノベルはゆっくり振り向いた。互いの息がかかるほどの距離。灰崎をにらみつける。
「好きとか嫌いとかじゃない。三年間も同じクラスだった。心配して何が悪い?」
「悪いことないわ。でもそんなに心配してるの、あなただけよ。みんなどっちかと言うとおもしろがってる」
「不審者はまだ捕まってない」
「だれか襲われた? 変なこと言われただけじゃない」
「襲われてからじゃ遅い」
「あなたに何ができるって言うの?」
 注目を集めつつあった。女子数人が、好奇のまなざしを向けてくる。ノベルはトイレへ急いだ。灰崎はまだ何か言いたそうにしていた。
 帰りはまた集団下校だった。今朝まではどこか遠足めいた、非日常を楽しむ空気があった。今は何かが違っていた。くだんの上級生は早退したという。鮎香の失踪を聞き、気分が悪くなったらしい。
 帰宅するとノベルは、リュックの用意をした。チョコバーを数本入れて背負う。ちょっと考えて、父親の書斎に入った。机の引き出しから折りたたみナイフを失敬し、ジーンズのポケットに忍ばせる。
 職務質問でもされたら少年院行きだ。
 父親に使い方を教わったのを思い出す。幼稚園の年長組になったときだ。自分はジャガイモの皮むきさえ苦手のくせに、教えるのは上手だった。おかげで今や炊事もできる。
「持ち方が逆だ。それじゃ危ない。こうだよ」
 父親の声や、手の感触がよみがえる。ノベルは刃先を外側へ向け、力任せにリンゴの皮をむこうとしたのだ。刃物は皮むきや鉛筆を削るのに使うもの。人を脅かす道具じゃない。そのことを言葉ではなく体で覚えた。
 ——ごめん父さん。オレひょっとしたら、刃先を外側へ向けることになるかも。
 傘を差してマンションを出る。そのとき声をかけられた。
「抜け駆けしようったって、そうはいきませんよ」
「ずるいぞ。ひとりだけいい格好しようなんて」
 ノベルは振り向いた。秋彦と頑太が立っている。ランドセルを家に置き、急いでここへ来て、待ちかまえていたようだ。秋彦はブランドものの傘。頑太はゴム長靴に、透明のレインコートだった。秋彦の傘からしたたる滴が、頑太の肩に降り注いでいる。どちらもまるで気にしていない。
「何やってんだよオメーら……」
「幽霊屋敷へ行くつもりですね」
「オレたちも行くぞ!」
「な……なんでわかんだよ」
「鮎香ちゃんが家出するとしたら、行く先はあそこしかありません。夜露をしのげるし、簡単には見つかりませんからね」
「警察に話したのか?」
「ノベル君は?」
 ノベルはかぶりを振った。
「あのときは思いつかなかった。ひとにものを尋ねる態度じゃなかったしさ」
 秋彦はニッコリした。
「ぼくたちもです」
「すぐ思いついてりゃよかったぜ。鮎香の母ちゃんに電話もらったときによ……。そしたら少しは励ませたかもしんねえ」と頑太。
 秋彦はおかしそうに笑った。
「いつもとは逆ですね。ノベル君は止める係じゃないですか。子どもだけじゃ危ないって」
「まともに聞いてくれると思うか? あのお巡りさんたち」
「ガキの言うことなんか、相手にしちゃくれねーよ」
「あの人たちには聞こえないんですよ。思ってるのと違う話をされても」
 頑太と秋彦の言葉が、ノベルにはちょっと意外だった。彼らを甘く見ていた自分が恥ずかしかった。ふたりを前よりずっと頼もしく感じた。
「何か見つかったら通報する。それでいいよな?」
「携帯に一一○番を登録してあります」
「じゃ、行こうぜ!」
 三人は拳を突き上げ、声を合わせた。
「おーっ!」
 思い出が記憶を美化する、ということがある。ちょうどその逆だ。幽霊屋敷にノベルが抱いていたのは、おどろおどろしい印象だった。どす黒い腐臭が漂い、コウモリの群が乱舞する……とかそんな感じだ。けれども実際の建物は、ただのうち捨てられた民家だった。長いあいだ人の手が入っておらず、荒れ果てている。それだけだ。
 秋彦と頑太は、決然と建物を見上げていた。前回もこんな顔つきだった。彼らには超常的な場所に見えているのだろう。あながち、まちがいではない。あのときだって、宇宙生物が二体も潜んでいたのだ。
 ノベルと秋彦は傘をたたみ、塀に立てかけた。
「返すのを忘れてました」
 秋彦はノベルにペンライトを差し出した。頑太は自分のライトを掲げて得意げに笑った。
 三人は崩れた場所から敷地に入った。子どもの靴跡が続いていた。
「どうやら正解みたいですね……」
 三人は扉を開けた。小さな靴跡は居間へと続いていた。
 秋彦が押し殺した声で叫ぶ。
「あれ見てください!」
「おーっ、ポテチだ。ビーフコンソメ味だぞ!」
 ポテトチップの空き袋が、床に転がっていた。食べかすも散乱している。ここで野宿したのかもしれない。ノベルは声を低めた。
「まだ建物にいるはずだ。出てった跡がない」
「名前を呼んでみましょうか」
「不審者に気づかれるぞ」
 秋彦と頑太は、小声でささやきあう。それからノベルを見た。いつの間にかリーダーみたいに扱われている。ノベルは内心とまどった。ふたりの信頼を裏切りたくない。役に徹しようと決めた。
「頑太の言う通りだ。不審者が隠れているかもしれない。もし鮎香が捕まってたら……」
「縁起でもないこと言うなよぉ……」
 頑太が泣きそうな顔をする。秋彦は神妙にうなずいた。
「ぼくたちの声を聞いて、早まったことをしかねませんね。鮎香ちゃんを危険にさらすことになります。そーっと探しましょう」
 上の階で悲鳴がした。三人は青ざめた顔を見合わせた。鮎香の声だ。
 ノベルは引き返し、迷わず屋根裏をめざした。閃光を浴びて気絶した部屋を。
 シュウ君の言葉を思い出す。あの場所には不審者がひそんでいた。人喰らいに取り憑かれた男だ。
 あのときからすべてが変わってしまった。あの日ここへ来なければ、シュウ君は人喰らいを捕まえていた。そうすればぬいぐるみはぬいぐるみのままで、鮎香も同級生や家族と笑っていられた。
 警察や大人たちは、人喰らいのことを知らない。知っているのはノベルだけなのだ。シュウ君が姿をくらました今では。
 ノベルは段梯子をのぼり、戸を押し開けた。ライトをかざしてはい上がる。秋彦と頑太が続いた。
 ひと固まりの人影が照らし出された。男の動きが止まり、視線がこっちを捕らえた。
 男は鮎香を抱えて頭からかじりつこうとしていた。ノベルの背筋が凍ったのは、そのせいだけではなかった。絶望の淵からノベルにすがろうとする鮎香の目だ。
 救いようがないのがひと目でわかる相手が、助けを求めている。そんな目にあわせた張本人に。
 その男はまさに、三人が恐れていた不審者に違いなかった。服装は陣内先生の話と違う。ジーンズにチェックのシャツ、運動靴。別な人間に乗り移ったのかもしれない。
「その子を放せ!」
 ノベルの叫びに、男はひるみもしなかった。蛇みたいな瞳孔がライトをぎらりと反射した。秋彦と頑太が悲鳴をあげる。ノベルは吐きそうになった。自分の目にしたものが信じられない。
 男の顔は人間とは思えなかった。膚が葉脈みたいな血管で覆われ、濡れ光っている。鮎香の口を押さえる手には、鋭い爪があった。
 微生物に感染したせいで肉体が変化したのだ。
 男は牙をむき出し、シャーッと威嚇の声を発した。長い舌がべろりと垂れ、唾液が鮎香の髪にしたたった。腐った魚みたいな臭いが立ちこめていた。
 鮎香の目は正気を失いかけていた。このままだと、みんなの知る彼女は永遠に戻ってこないかもしれない。
 ノベルは間合いを計るように、じりじりと距離を狭めた。ポケットの折りたたみナイフが頭をかすめる。賢いやり方ではない。鮎香を傷つける恐れがある。
 敵は武器を持っていない。鋭い牙と爪だけだ。それでも大人相手に腕力で勝つ自信はない。
 我ながら役に立たないリーダーだ。
 秋彦と頑太が進み出て、ノベルの両脇に並んだ。
「一一○番しますよ!」
「仲間に変な真似したら、ただじゃおかないぞ!」
 鮎香の目に、恐怖とは別の涙があふれ出る。当然気づくべきだったことに、ノベルは思い当たった。
 ……そうだ、オレたちは仲間なんだ。友だちなんだ!
 男の顔に動揺が走った。少なくともノベルにはそう見えた。鮎香が身をよじって逃れようとする。
「こっちはその子がほしいだけだ。警察を呼ばれたくはないだろ」
 ノベルは三人とのあいだに、強くて温かい力を感じた。まるで一体となったみたいだった。
 怪物化した男は、明らかにひるんだ。何かに怯えたかのようだった。
 ノベルは鮎香に手をさしのべ、一歩近づいた。
 鮎香は手を伸ばして応じた。男の腕から身を乗り出した。
 蛇のような瞳がノベルをにらんだ。男の口が耳まで裂けた。血みたいに真っ赤だった。
 男は獣のような声で吠えた。
 三人の悲鳴が聞こえた。ノベルの視界はぐにゃりと歪んだ。まるで世界が飴細工になったみたいだ。部屋全体が、ねっとりと渦巻き始める。
 男の全身から黒いモヤが発散されていた。毛穴という毛穴から吹き出している。
 黒い渦はそのモヤから生じていた。その向こうに、ノベルは信じられないものを見た。
 それは表現しようがなかった。チカ先生の授業なら減点されそうだ。暗いせいばかりではない。根本的にこの世界とは異質なのだ。
 ひとが「何もない」と言うとき、普通は入れ物が空っぽだとか、上に何も乗っていないことを示している。皿や冷蔵庫や、机や引き出しは、そこにあるのだ。
 空中にだって空気はあるし、ちりひとつない真空だって、空間そのものは存在している。
 でもその黒い渦の向こうには、本当に何もなかった。
 魚の腐ったような臭いが強まる。男は再び吠えた。ノベルたちを嘲るかのように。
 すさまじい突風が吹き荒れ、三人は前が見えなくなった。ノベルはそのときのことを、どれだけ後悔したかしれない。風が弱まったときには、男と鮎香は部屋のどこにもいなかった。
 三人は呆然とたたずんだ。自分たちの身に起きたことが信じられない。屋敷の中をくまなく探した。見つかったのはポテトチップスの残骸だけだった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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