シュウ君は三歳だけど、車の免許を持っている。笛も教科書もおしゃれ着も、ベッドや布団も、立派な家さえある。一時は自家用ジェットまで持っていて、しかもそれをなくしてしまった。もらいものが多すぎて、引き出しはいつもいっぱい。ぜいたくな悩みだ。
教室か職員室に寝泊まりしていた。チカ先生の家へ帰ることもあった。お腹の手術をしたときがそうだった。内臓がはみ出て、縫い合わさなければならなかったのだ。
シュウ君はだみ声でしゃべる。カエルみたいなつぶれた声だ。おしゃべりが大好き。でも静かにするときは、ちゃんと口にチャックをする。みんなも負けずにシーンとする。
彼はポテチとジュースが大好きだ。虫歯になるのは嫌だし、学校でお菓子は食べられない。だからときどき、少しだけこっそり食べることにしている。みんなが帰ったあとに。自慢の歯が欠けてしまったのは、そのせいだともっぱらの噂だ。
シュウ君は三年間、みんなに引っぱられたり、頬ずりされたりした。入学式の日から教室にいたのだ。出欠を取って、勉強をして、給食を食べた。帰りの会では楽しかったこと、よかったことを言った。
「はーい、図工の時間でお絵かきが楽しかったでぇす」
先生とふたりでお見送りもしてくれた。毎日、下駄箱の前でさよならを言うのだ。上級生たちも嬉しそうにあいさつをした。
「かわいー、シュウ君ばいばーい」
「ばいばーい」
ノベルもさよならを言った。先生が恐いからだ。本当は幼稚だと思っていた。
「ノベル君ばいばーい。宿題忘れないでねぇ」
ノベルのときだけ一言多い。
彼をひと目見たら、だれだってつい、いろんなポーズをとらせてしまう。校長先生までもがそうするのを、ノベルは見たことがある。
シュウ君で遊ぶみんなの頬は、決まってゆるんでいる。
そんなシュウ君ともお別れの日が来た。クラス替えだ。チカ先生はよその学校へ転勤になる。
シュウ君はさすがにくたびれた。体中が手あかで汚れているし、お腹には手術のあとがある。魚のフライを食べさせられたことさえある。臭いがしなくなるまで、チカ先生は洗濯に苦労した。大きな口はカパーッと開いたまま。自慢のチャックが壊れてしまったのだ。
目を閉じて思い描いてほしい。
魚眼レンズで誇張されたような鼻面。眠そうな茶色の目。三角の小さな耳。ピンク色の口に、チャックの歯。二頭身半のタオル地の体。大入り袋の「大」の字そっくりの短い手脚で、くたっと座る。
身長十七センチの人気者。それが宇宙でいちばん賢い犬、シュウ君だ。
シュウ君は本棚で、寝坊したノベルの慌てぶりを見守っていた。
ノベルはランドセルに教科書を突っ込んでいた。
今度の担任は、馬面で垂れ目の陣内先生。チカ先生より優しいだけに、怒らせたくなかった。一学期が始まったばかりなのに。シュウ君ならきっと、あのだみ声で言うだろう。
「前の晩に用意しておけばいいのにー!」
どうして彼がノベルの部屋にいるかというと……。
離任式が終わったあと、ノベルは職員室に呼び出された。全校生徒でひとりだけだ。校内放送で自分の名前を聞くのは、いい気分ではない。せっかく宿題のない春休みなのに、叱られるなんて。
ところがチカ先生は、お説教の代わりにシュウ君をくれた。
欲しがったなんて思わないでほしい。先生はたぶん、壊れたぬいぐるみの処分に困ったのだろう。
「シュウ君、ノベル君の面倒を見てあげてちょうだい」
「任してよー」
先生はシュウ君に胸を叩かせた。
「なんでオレだけ。みんな欲しがるじゃないすか。恨まれますよ」
「黙っていればいいのよ。しっかりしてね、もう四年生なんだから」
ノベルはため息をついた。折り紙や工作の山を押しつけられなかっただけ、ましかもしれない。
シュウ君がノベルの家にいるなんてことが知れたら、大変だ。独り占めしたと思われる。目立たずに平穏な学校生活を送るのが、ノベルの望みなのだ。
けれども「シュウ君グループ」には隠し通せなかった。
外見も性格も、趣味もバラバラの三人。ただひとつの接点がシュウ君だった。同級生の中でも、とりわけ彼の大ファンなのだ。シュウ君のことなら、たちまち嗅ぎつける。
確かにノベルにも、シュウ君が生きているように思えた時期もある。傷ついたり楽しんだりして、本当におしゃべりをすると。でもそれは入学したての頃だ。そのときでさえ本気で信じたわけではない。チカ先生が動かして声を当てているのはわかっていた。空想を楽しんだだけなのだ。
今では、ただの不細工なぬいぐるみにしか見えない。
ノベルには三人組が幼く見えた。いまだにお人形遊びをやめられない、ガキっぽい連中に。
始業式のあと下校中に、ノベルは振り向いた。三人組がまっしぐらに近づいてくる。
身構えた。彼らとは口をきいたことさえ、ろくにない。クラスだって今日からは別々だ。
悪い予想は当たった。
「よう、周世ぇ」
冬でも半ズボンの頑太が、なれなれしく体当たりしてきた。太い腕をノベルの首に絡める。本気を出せばノベルの首なんか、簡単にへし折れてしまうだろう。体が六年生なみに大きいのだ。おにぎり型の坊主頭が、その上に乗っかっている。
「ひさしぶりだな。春休みのあいだ元気にしてたかぁ?」
ノベルの名前は「述」と書く。作家と女優を両親に持つと、おかしな名前をつけられがちだ。
「すっせ君!」
振り向けばすぐそこに、鮎香の元気な笑顔。ノベルに身を寄せてくる。他人との距離感がわかっていないのだ。彼女に話しかけられた男子の多くは、好かれていると勘違いする。
ノベルはふたりに、がっちりホールドされた。逃げられなかった。
「な……なんだよオメーら」
「ぼくたちに隠してることないですか?」
秋彦はなぜか敬語でしゃべる癖がある。逆三角形の顔にやせた体。髪は床屋ではなく美容室で切ってもらっているという噂だ。頬のあたりにそばかすがあった。
育ちのいいお坊ちゃんで、子どもとは思えない博識。洞察力も鋭い。なのに性格はどこか抜けているという、変わったやつだ。両親が仕事で忙しく、祖父母に面倒を見てもらっているせいかもしれない。
「隠してるって……何をだよ」
「シュウ君のこと。あたしたち、知ってるのよ」
「あー、あのぬいぐるみね。あれがどうかした?」
「とぼけないでください!」
「そーだ。とぼけんなよ」
「独り占めなんて許さないんだから!」
「どうしてそれを……」
「先生たちから聞き出したんですよ。離任式の日、チカ先生にもらったでしょ」
「ずるいわよ。あたしたちに黙って」
「そーだそーだ」と頑太。
「もちろん会わせてくれるわよね?」
マンションへ招かざるを得なかった。
母親は三年前、ハリウッド俳優と駆け落ちした。父親はそれから留守がちだ。いるときも息子に家事を任せ、書斎から出てこない。大人のいない家に、三人組は入り浸るようになった。日暮れまでシュウ君で遊び、満足して帰っていく。
ノベルは初めは迷惑に感じた。でもすぐに慣れた。シュウ君さえ与えておけば、放っておいても構わない。
遊ぶ三人の横で、ノベルは読書や宿題をした。掃除や洗濯をすることもあった。人生ゲームをやるときには、シュウ君の代わりに駒を動かした。買い物に出かけても、留守番がいるので安心だった。
都合でだれかが来られないと、寂しく感じるようになった。
はたからは仲良し四人組に見えたろう。でもノベルには、彼らが友だちだという確信がなかった。どちらかと言えば、シュウ君の持ち主としてつきあっていた。
……それがこの朝までの出来事だ。
ノベルは結局、出欠に間に合わなかった。それで温厚な先生にお小言をもらうはめになった。昼休み、最悪な気分で窓際にいた。校庭からは、ドッジボールや縄跳びをする生徒の声が聞こえる。
なんでオレだけいつもこうなんだろ。ノベルはため息を漏らした。
「ノ・ベ・ル・君!」
肩を叩かれて振り返る。鮎香の瞳が間近にあった。ノベルは思わずのけぞった。
「な……なんだよ」
「んもぉーっ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
鮎香は腰に手を当て、頬を膨らせた。それからニッコリ笑いかける。
「みんなで放課後の相談しよう」
戸口で頑太と秋彦がもじもじしている。よその教室に入る勇気がないのだ。
ノベルと鮎香は廊下に出た。
「相談って何だよ」
「探検の計画です」
秋彦が声をひそめた。
「探検?」
「おう。幽霊屋敷を探検すんだ!」
頑太が元気に答えた。
町はずれの幽霊屋敷といえば、生徒で知らない者はない。破産した持ち主が夜逃げしてからは、買い手もつかず放置されている。荒れ放題の廃墟だった。近所で不審者騒ぎがあり、近づくのを学校に禁止されていた。
「子どもだけでか?」
「大人がいたら冒険になりませんよ」
秋彦が指摘する。
「きっと遊園地のお化け屋敷よりおもしろいぞ。なんたって本物だかんな!」
頑太は早くもはりきっていた。
「危ないぜ。先生も言ってただろ」
「危ないから冒険なんです」
「ノベル君て臆病なの?」
「意気地なしは嫌われんぞ!」
鐘が鳴り、四人はそれぞれの教室へ戻った。
午後の授業は上の空になった。陣内先生はノベルを気遣っているように見えた。その優しさがノベルには味気なかった。チカ先生のおかげで、叱られるのに慣れてしまったのだ。
放課後、掃除を終えて校門を出ると、三人組が待ちかまえていた。
「なんだよ。言いたいことあんなら言えよ」
「べっつにぃ。仲間じゃない人には関係ありませーん」
鮎香はつんとそっぽを向いた。
「オメーなんかいなくても探検できるもんな!」
三人は「ねーっ」とうなずきあう。そしてノベルの反応を窺った。
「本当に行く気か? オメーらだけで」
ノベルは心配になった。
「探検隊に入ったら教えたげる」
「無理しなくていいですよ。勇気のない人は隊員の資格、ありませんからね」
「混ざるか?」
三人は答えを待った。下校する生徒たちが、怪訝そうに通り過ぎる。
陣内先生に相談すべきか、ノベルは迷った。告げ口したと思われたくない。でも三人だけで行かせるのは不安だ。ノベルは降参した。
「わぁーったよ。行けばいいんだろ」
三人はぱあっと顔を輝かせた。鮎香がはりきって宣言した。
「探検隊の隊長はシュウ君よ!」
「ええ? おもちゃまで持ってくのか」
「もぉーノベル君」
「シュウ君は物じゃありません。持ってくんじゃなくて連れてくんです」
「そーだ。おもちゃ扱いはひどいぞ」
「はいはい……」
要するに三人はシュウ君を借りたかったのだ。それで持ち主を誘ったにすぎない。そう思うとノベルはつまらなくなった。勝手にしろよ。不審者に襲われたって知らないからな。
四人は校門の前で再集合した。ノベルは小さなリュックを背負ってきた。シュウ君の顔を、チャックをひらいた口から覗かせてある。ノベルは人を楽しませるのが嫌いではない。三人は大喜びだった。
「可愛いー!」
鮎香の笑顔が輝いた。彼女は多くの男子から、アイドルみたいに扱われている。そのわけがノベルにも納得できた。リュックごとシュウ君を貸してやった。彼女はご満悦だった。
「だめ、あたしが持つんだから!」
「えーっ、ずるいですよう」
「オレにも持たせろよ。ちょっとだけ、なっ?」
取り合いになった。すぐムキになる連中だ。ノベルが割って入る。
「順番にしろよ。代わりばんこに持てばいいじゃないか」
「まずはあたしが先。ねーっ、シュウ君?」
熱心にぬいぐるみに話しかける三人。ノベルは胸をなで下ろした。やれやれ。
バブルという言葉を、ノベルは大人たちからしばしば耳にしていた。当時建てられた派手な館を見るかぎり、よほど変な時代だったのだろう。そんな建物が何十年も放置され、荒れ果てていた。
鉄柵の大きな門は、鎖で固定され錠前をかけられていた。「侵入禁止」と手書きされた札が、針金で縛りつけられている。コンクリートの塀がどこまでも続いていた。何もかも錆びついていた。
「塀の崩れたところがあります」
秋彦に案内されて敷地へ入った。雑草が伸び放題で、密林のようになっている。
「うぇークモの巣だ」と頑太。
「気持ち悪い庭ですねー」
鮎香だけが平然としていた。リュックを背負って庭を横切る。勇気があるというより、鈍感なのだろう。シュウ君はリュックから上半身を出している。揺れて弾む両手が、はしゃいでバタバタしているように見えた。
雑草は敷石の隙間にも生えていた。長い舗道を歩いて館にたどり着いた。どの窓も雨戸が閉め切られている。空はどんより曇っていた。建物の黒い影が、のしかかってくるかのようだ。
頑太と秋彦は、怖じ気づいたように建物を見上げた。
鮎香が急きたてた。
「ほら、入るわよ」
「ああ……おう」
「どうぞお先へ。レディーファーストです」
「こういうときは男の子が先でしょ」
また揉めだした。やれやれ、世話が焼ける。ノベルは心の中でため息をついた。
「オメーらが遠慮すんなら、オレが開けるぜ」
ノベルは階段をあがった。鍵がかかっているに決まっている。侵入できなければ三人とも諦めるだろう。
ところが扉はあっけなく開いた。
「早く入ってくださいよ」
「そこに突っ立ってると、オレたちがつかえるぞ」
「もしかして恐いの?」
ノベルは答える代わりに、鮎香に手を差し出した。
「ペンライト出せ。リュックに人数分入ってる」
鮎香はシュウ君を抱え、リュックをのぞき込んだ。
「あっ、チョコバーもある!」
「あとで分けて食おうぜ」
ノベルはライトをつけて建物へ足を踏み入れた。カビ臭い淀んだ空気。埃が舞い上がった。秋彦が咳き込む。
金をかけて建てられただけはある。内部に傷みは見当たらない。床がきしむこともなかった。
四人は固まって、周囲を照らしながらゆっくり進んだ。教室くらいある玄関。巨大なシャンデリアには、クモの巣がかかっていた。カーブする幅広の階段もあった。お姫様が降りてきそうなやつだ。かつてはこの広間に、壺やら絵やらが飾られていたのだろう。
ノベルは壁にスイッチを見つけた。電気が通っているはずはない。試さなかった。
「不気味ですね……」と秋彦。
「と、当然だろ。幽霊屋敷なんだから」
そう言う頑太も怖じ気づいている。鮎香はといえば、観光でもしているかのようだ。
暖炉のある居間は、サッカーができそうな広さだった。応接室らしき部屋もある。家具や絨毯、カーテンなどは取り払われていた。雨戸の隙間から、かすかに光がさしている。
ネズミやゴキブリの気配はなかった。天井の隅にクモの巣があるくらい。浮浪者が生活した痕跡もない。
やや狭い部屋で、頑太が悲鳴をあげた。
「落ち着け。ただの鏡だ」とノベル。
「もぉー。脅かさないでよ……」
鮎香が眉をひそめる。秋彦が教えた。
「ウォークイン・クローゼットですよ。うちにもあります」
ノベルは内心、胸をなで下ろしていた。どうやら無事にすみそうだ。
「何もないのがわかっただろ。さ、帰るぞ」
「ええーっ!」
三人は抗議の声をあげた。
「まだ二階を見てないじゃない!」
「隊長はシュウ君です。なんでノベル君が決めるんですか」
「ねーっ」
三人はシュウ君に同意を求めた。
しょうがねえな……。ノベルは三人を連れて引き返し、階段をのぼった。
二階には長い廊下が続いていた。燭台型の照明と扉が並んでいる。部屋をひとつずつのぞいた。客用の寝室らしい。家具は撤去されている。
廊下の奥には段梯子があった。屋根裏部屋に続いている。ここだけ異なる雰囲気だった。どことなく不吉な感じがした。そう思ったのはノベルだけらしい。あとの三人は、つまらなそうな顔をしていた。
「おい、オメーの番だぞ」
頑太がリュックを押しつけてきた。ノベルは受けとって背負った。ふと気になって屋根裏部屋を照らした。やはり何もない。がらんとしている。
頑太が振り向いた。
「何やってんだ、行くぞ」
「あ……おう」
一階に戻ると、鮎香が騒ぎだした。ペンライトで床を照らし、懸命に何かを探している。
「どうした?」
「指輪がないの! どっかで落としちゃったみたい……」
「指輪って、さっき——」
「シュウ君に見せてたやつか?」
秋彦が言いかけた先を、頑太が続けた。
「ママのを黙って借りてきたの。結婚記念日にパパにもらったんだって。どうしよー?」
鮎香はベソをかいていた。男子三人は途方に暮れ、顔を見合わせる。このときばかりは思いはひとつだった。そんな大事なもの、こんなとこへ勝手に持って来んなよ……。
「どこで落としたかわかりませんか」
「建物に入ったときは確かにつけてたんだな?」
鮎香はうなずいた。
「最後に見たのはいつ。階段のぼったときは?」
「たぶんつけてた……」
「きっとあのときですよ! シュウ君係を交代した……」
秋彦が嬉しそうに叫んだ。頑太も顔を輝かせる。
「おおっ。リュックを降ろしたとき、落ちたんだ!」
二階に戻って廊下をペンライトで照らした。ここで秋彦にリュックを手渡したという。
「本当にここで落としたのか?」とノベル。
「わかんない……」
「寝室のどれかかもしれませんね」
秋彦の言葉に、頑太が顔を曇らせる。
「どうすんだよ。いっぱいあんぞ」
「あきらめて帰ろうぜ」
ノベルの言葉に、三人は冷ややかな視線を返した。
「……ってわけには、いかないよな。もちろん」
「手分けして探しましょう!」
別行動は危険だ、とノベルは思った。なのに一刻も早く帰りたくて賛成した。
「じゃ、秋彦と鮎香は手前の半分。オレと頑太は奥をやる。何かあったら大声出せよ」
「わかりました。鮎香ちゃんはぼくが守ります!」
「ちぇっ、オレだって——」
不平をこぼす頑太に、ノベルは声をかける。
「ほら、探すぞ」
機嫌を損ねた頑太は、ひとりで探すと言いはった。やむなくノベルは屋根裏部屋へ向かう。恐くなんかないぞ。そう自分に言い聞かせ、段梯子をのぼった。天井の低い部屋を照らす。
大丈夫そうだ。お化けもネズミも変質者もいない。
そのとき視界の隅で何かが動いた。息を呑んで振り返る。
青白い光が炸裂した。
ノベルは目がくらんだ。太陽よりまぶしい光だった。
熟睡しているときでさえも、意識の一部は働いているそうだ。だから目覚まし時計なしで起きられる人がいる。ノベルはそう父親に教わった。なのにこのときノベルは、本当に何もわからなくなった。いきなりスイッチを切られ、人生が中断した感じだ。
「おい起きろ」
「しっかりしてください」
「大丈夫、ノベル君?」
次に気がついたときには、三人に助け起こされていた。頑太と秋彦は不安げだった。鮎香は泣き出しそうな顔をしていた。痛みに顔をしかめて、ノベルは立ち上がった。倒れた拍子に後頭部をぶつけたらしい。
「何があったんだ……?」
「それはこっちの台詞ですよ」
秋彦が怒ったように言った。
「鮎香ちゃんが指輪を見つけたんです。『あった!』ってふたりで叫びました。なのに来たのは頑太君だけ。ノベル君はいつまでも戻ってこない。みんなで様子を見に来たら、ここに倒れてたんです」
「もぉーっ、びっくりした。死んじゃったかと思った」
秋彦と頑太が、顔をこわばらせて彼女を見る。
「縁起でもないこと言わないでください。こんな場所で……。リアルすぎます」
「なにげにスゲーこと言うよな、ときどき」
「ありがとう!」
「ほめてないですよ……」
結局、指輪はワンピースのポケットから見つかったらしい。なくさないように自分でしまったのを、鮎香が忘れていたのだ。
世にも奇妙な現象が発生した。ノベルは朝が得意ではない。いつも気がつくと時計を握りしめていて、とんでもない時間になっている。それがその日にかぎって、自力で自然に起きられたのだ。
目覚ましをセットした時間より、一時間も早かった。
ノベルは普段から、朝食の支度をしない。
父親は午前中に一度、近所のカフェでベーグルサンドを食べる。出張してきた担当者と、打ち合わせがてらに食事をすることもある。夜になると再び仕事部屋から、よどんだ目をして出てきて、ノベルの作った夕飯を食べる。食べながら学校の様子を訊いたり、はやっているマンガやアニメ、ゲームの話をしたりすることもある。朝は遅くまで寝ていることが多い。
だからノベルは、自分の空腹と遅刻だけを心配すればいい。
その父親がトイレへ行った物音にでも起こされたのか。寝ぼけた頭でちょっと考え、そんなはずはないとわかった。打ち合わせら会合やらで、先週から家を空けているのだ。
ノベルは急に空腹を感じた。それで何が気になっていたかに気づいた。
なんだかいい匂いがする。
漂ってくる匂いに誘われ、パジャマのままで部屋を出た。カウンターで居間と仕切られたダイニングキッチン。そこで目にしたのは、テーブルに用意された朝食だった。
縁がかりかりに焼けたベーコンエッグ。トマトとレタスが添えられている。バターの塗られたトースト。カップでコーヒーが湯気を立てていた。オレンジジュースの満たされたグラスもある。
ノベルは目をこすった。できたての料理は消えない。
頭がおかしくなったのか? 幽霊屋敷で頭を打ったせいかも。それとも頭のおかしい侵入者のしわざか。
去年、チカ先生に読んでもらったホッツェンプロッツの本を思いだした。腹を空かせた泥棒が、ベーコンと卵を焼く場面を想像した。
ノベルは頭を振った。
世の中には確かに、他人の家へ勝手に上がり込み、冷蔵庫をあさる泥棒もいるそうだ。食べるものに困れば、自分だってやりかねない。父親が病気になって書けなくなるとか。得意先に嫌われて、本を出してもらえなくなるとか。そんな心配はいつだってある。
でもいくら泥棒でもあり得ない。朝食の支度をして立ち去るなんて。
ノベルは何かの気配に気づいた。となりの居間を油断なく見まわす。
別に変わったところはない。何もなくなっていない。位置の変わったものもない……シュウ君を別にすれば。
彼はソファーに腰かけていた。どうしてそこにあるかわからない。いつも通り、本棚に飾ってあったはずだ。
ノベルの部屋から勝手に降りてきた? まさかね。昨日、疲れて帰ってきて放り出したまま、忘れたのだろう。なにしろ人生で初めて気絶したあとなのだ。
気味は悪かったが、空腹には勝てない。スープとソーセージをおばあさんから奪いかねないほど、ノベルは腹ぺこだった。かの大泥棒を責められない。謎の朝食に手をつけた。
うまかった。たちまち平らげた。
満ち足りた気分で、シュウ君をどけてソファーに座る。早朝のつまらないアニメを見ていると、なぜか突然チャンネルが変わった。リモコンの調子が悪いのだろうか。
ニュース番組だった。容疑者の顔が映る。子どもを狙う犯罪が増えているそうだ。
「男は警察の調べに対し、『やったのは自分ではない。悪魔に取り憑かれた』と話しているとのことです」
いやな話だ。ノベルの学校でも、入学時に防犯ブザーを渡された。今もランドセルにぶら下がっている。ちょっとした拍子にすぐピンが抜ける。休み時間や下校中に、ピヨピヨという騒音を聞かない日はないくらいだ。
犯罪小説も書く父親が、よく言っていた。
「世の中には、根っからの悪人もいる。でも父さんはおまえが大好きだ。学校の先生や、友だちだってそうだ。そのことを思い出せば、大抵のことは乗り越えられる」
照れくさい思いでチャンネルを戻し、文句をつぶやく。父さんて、いつも口だけなんだよな……。
スポンジ・ボブが、容疑者のあばた面に切り替わった。まただ。テレビかリモコン、どちらかが壊れたらしい。そろそろ寿命かな。父さんが帰ったら、買い替えてもらおう。
ノベルはリモコンへ手を伸ばした。もこもこした布とぶつかる。見下ろすとシュウ君の手と重なっていた。
視線がかち合う。ぬいぐるみはニッタリ笑った。チャックつきのでかい口で。
ノベルは思わず悲鳴をあげた。
その大声に驚いたらしい。悲鳴は二重奏になった。シュウ君はのけぞって両手をバタつかせた。目をギョッと剥いたようにさえ見える。実際にはフェルトのまぶたは動かない。プラスティックの目に接着されていた。
「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだ!」
例のだみ声だ。シュウ君はいつのまにか、テーブルへ飛び移っていた。
ノベルは後ずさった拍子に、テーブルの角にすねをぶつけてしまった。
チカ先生が操っているに違いない。ノベルは大人が隠れられそうな場所を探した。三十万も出せば、リモコン式のロボットが買える時代だ。元生徒にお説教をするために、そこまでするとは。
窓越しにベランダをうかがった。枯れたプランターが、朝の光に照らされている。大葉かバジルでも植えなおすつもりで、そのままになっていた。人の姿はなかった。
「何を探してるの?」
背後からのだみ声に、ノベルは飛び上がった。
おそるおそる振り向いた。あの眠たげな目で、不思議そうに見上げてくる……。
まぎれもなくシュウ君だ。
「ははあ。だれかが動かしてると思ってんだね」
ノベルの背中が窓についた。もう下がれない。
「恐がらないで。きみとぼくだけだ」
シュウ君が憤慨したように言う。
「昨日だってずっといっしょだったのに。お近づきのしるしに朝ご飯まで作ってあげたじゃない」
倒れて頭を打ったせいに違いない。脳細胞は壊れたら戻らないのだ。同級生が喧嘩をして互いの頭をぶったとき、チカ先生がひどく怒ったのを思い出す。
さっきのベーコンエッグも幻覚か。存在しない料理を、食べたつもりになったのだ。
「そうか! 夢を見てるんだ」
一年生のとき、おたふく風邪で寝込んだ。父親が徹夜で看病してくれた。あのときもおかしな夢を見た。それなら気が変になったことにはならない。ノベルはソファーに戻った。
「変な夢だなぁ……」
「もう、どうしたらわかってくれるのさ!」
シュウ君は地団駄を踏んだ。
「これは現実。ぼくはテレパシーでしゃべってる。きみの記憶から声を抽出したんだ。チカ先生ってだれ?」
ノベルが答えようとすると、シュウ君は遮った。
「言わないで! 考えを読むから。……ふぅん、きみの恩人か」
「いつも怒ってばかりの先生だよ。そんなの、何の証明にもならない」
チカ先生はよく、話す前に考えなさいと言っていた。伝わりやすいように筋道を組み立てるのだ。ノベルは深呼吸してから、質問した。
「なんで急にしゃべれるようになったの」
「なんて説明したらいいのかな……。ぼくはきみの知ってるシュウ君じゃない。体を借りただけなんだ」
「取り憑いたの?」
「失礼しちゃうな。ぼくらは高等菌類。高度な文明を持つ、進化した種族なんだ。宇宙空間を漂って、素敵な隙間を探している。布とか土とか、動植物の組織とかね。きみたちには見えないくらいの隙間だよ。ヤドカリが貝殻に住むようなものさ。よさそうな隙間があると、入り込んで菌糸を伸ばす。細い枝を、網の目状に行き渡らせる。柔らかいものならこの通り、好きに動かせる」
シュウ君はピコピコ踊ってみせた。二頭身半の容姿では、ふざけているようにしか見えない。
「きみ、バイ菌なの?」
「高等菌類だよ」
「なんでそのぬいぐるみに? なんで地球に来たんだよ」
「指名手配犯を追ってたんだ。やっと追い詰めたと思ったら、横からきみが現れた。危ないとこだったんだぞ。『テレパシー爆弾』が一瞬でも遅れてたら、きみは襲われてた」
ノベルは動く影を思い出した。指名手配犯だって?
「青い光を覚えてるかい? あれでエネルギーを使い果たしちゃった。すぐにでも何かに取り憑く必要があった。でないと結合力が弱って、空中に拡散しちゃう。この布の固まりが手近だったんだよ。きみのおかげで犯人を取り逃がした。借りは返してもらうよ」
「つまりきみ……刑事なの?」
シュウ君は腰に両手を当て、胸を張った。
「そうさ。銀河警察の刑事だぞ。かっこいいだろう!」
「何をやらかしたんだよ、犯人って」
「やつは『人喰らい』なのさ」
「はあ……?」
「そいつも高等菌類の一種。でもぼくらと違って意地悪なんだ。きみたちの『可能性』を捕食する」
「次から次へとわけのわからんことを」
「子どもは信頼を水のように、愛情を肥料のようにして育つ。そうして可能性を現実にする。人喰らいはその畑を荒らすんだ。水も肥料もすっかり吸い上げる。そうして永遠に生き続ける」
「オレにどうしろと?」
「犯人はまだこの街に潜んでるはず。探し出すのに協力してよ」
「夢から覚めるまでのあいだに?」
「まだ言ってるのか……」
シュウ君はがっくり肩を落とした。気を取り直して続ける。
「人喰らいはだれかに取り憑いてる。八百屋のおじさん、煙草屋のおばあさん。だれかのお父さんやお母さんかも。先生のふりをしてるってこともある。ずっと同じ人間に憑いているとはかぎらない。人から人へと渡り歩くはずだ。そいつを見つけ出して、逮捕しなきゃいけない。地球人の助けが要るんだ」
「襲われた子どもはどうなる?」
「痩せて干上がった土地には、作物が育たなくなる。それと同じさ」
シュウ君は淡々と言った。
「死ぬの?」
「だめな大人になる」
「だめ……?」
「賭け事で借金をしたり、働かずに飲んだくれたりするようになる」
ニュースはとっくに終わり、陽気なコマーシャルをやっている。シュウ君の言っている意味が、ノベルの脳みそにじわじわと浸みてきた。子どもが襲われる事件には、人喰らいが関わっている。夢にしては筋が通っていた。
「人喰らいって、大人にしか取り憑かないの?」
「立派に見える大人が多いね。家族とか、お医者さんとか弁護士とか、政治家とか宗教家とか。そうすれば怪しまれないし、都合がいい」
「犯人の手がかりを得ようとしていたのか。テレビで……」
暗いことをクヨクヨ考えても始まらない。ノベルは気を取り直して尋ねた。
「カビだかキノコだか知らないけどさ。きみのことなんて呼べばいいの」
「シュウ君でいいよ。本名は音声で表せない」
「はぁ?」
「実際に教えた方が早いね。こういうことさ!」
とたんにノベルの頭の中で、極彩色の光が爆発した。思わず悲鳴をあげ、頭を抱えてうずくまる。脳みそが破裂しそうだった。苦痛は一瞬で去った。同時に「これは夢だ」という信念も、跡形もなく消し飛んでいた。頬をつねるより確実だった。
しゃべるぬいぐるみ。宇宙刑事に逃亡中の人喰らい。
どれも紛れもない現実なのだ。
「ごめんごめん。地球人には刺激が強すぎたみたいだね」
シュウ君はなんだか得意げだった。ノベルには教室での姿と重なって見えた。
見栄っぱりで、ちょっぴり意地悪なシュウ君……。