逆さの月

第8話: 種の保存に抗ってやっている

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.17

傷害致死の疑いで逮捕された犯行グループには見憶えがあった。案の定あたしを襲った連中だった。柿沢親子の死は「同盟」とは無関係だったようだ。ペドフィリアを父親に持てば見知らぬ他人と練炭自殺するまで追い詰められても無理はない。柿沢の娘は自死を選び、幸田は廃人のようになり、あたしは二十年後のいまも発狂せずに生きていて春ちゃんのようにもなっていない。だれがいちばんましかはわからない。だれにも答えは出せまい。
 事件後に何度か飯沢に事情聴取で呼び出された。警察署の狭い会議室で尾根川に紙コップのぬるいインスタントコーヒーを勧められた。特にわびしさを感じていないらしい彼らや老朽化した建物を見て、たくさん税金を払う大人になろうと決めたけれどもいまだ叶っていない。父親たちの様子を尋ねると飯沢はあっさり教えてくれた。「まるで手柄ででもあるかのように都合のいいことだけ喋る。肝心な細部が訊き出せない。お父さんは自分が計画を仕切ったつもりでいるが実際は滋君のお父さんに操られていた。対人操作の手腕を買われたんだろう。幸田には仲間に分け前をやるつもりなど元からなかった」
 あの切手ってそんなに価値のあるものだったんですかとあたしは尋ねた。飯沢はあたしの隣に視線を移した。幸田はずっと黙っていた。尾根川が手帳を見ながら解説した。
「本物なら状態のよくないものでも数千万の価値があります。トツクニスタン郵政省が一九一八年に発行した『逆さの月』と呼ばれるエラー切手です。赤い枠に国章である青い月を重ね刷りする際、四枚のシートが誤って逆に差し込まれたのです。三シートは廃棄され残りの一シート、百枚の切手が流出しました。所在がわかっていないのは盗まれた二枚を含む四枚。うち一枚には有名な都市伝説があります。ヒトラーの蒐集物として第二次大戦末期にUボートで日本へ移送され、そこから軍部へ渡った。敗戦の混乱を経て持ち主を転々とし、バブル期に証券会社の役員に購入された。その会社の倒産で再び行方知れずになったというのです。埋蔵金やM資金の類いですね。話を複雑にするのは四年前に広州市の小さな玩具会社が発売した『世界の希少切手シリーズ』です。一説には数種類の発行が予定されていたとも言います。『逆さの月』は第一弾でした。再現精度が高すぎて中国当局から販売を禁じられ、回収しきれなかった百部が世界中に出まわり詐欺の小道具に使われるようになりました。しかし本物と信じた挙げ句に奪い合いで殺人まで生じたのは今回がはじめてでしょう」
 妙な髪型のこの刑事は犯罪史マニアなのではないかとこのとき疑ったのだけれど当たらずとも遠からずだった。東大で犯罪心理学を専攻していたとのちに知った。連中はあたしたちのだれが切手を持っているか知らなかったんですねとあたしは言った。「それで手当り次第に家捜しした。あとの子たちとのつながりは?」
「洗脳の実験だったそうだ。お父さんは昔『人間開発研究所』なる自己啓発セミナーを主催していた。そこで『開発』した手法を確かめたかったと主張している。被暗示性の高そうな男に声をかけて子どもを殺害させる。最終的にはきみたちを標的にして切手を奪う計画だったらしい」
 そんなに貴重なものを幸田久治はどうして息子にあげたんですかとあたしは尋ねた。
「ただのペンダントだと思っていたらしい。ロケットになっているとは知らなかったそうだ」と飯沢。「路上に盗品を並べていた浮浪者から買ったと彼は主張している。女児向けの玩具に喜ぶ息子がおもしろかったのだそうだ。その浮浪者が後になって切手のことを知り、やつの立ち寄りそうな場所を熱心に嗅ぎまわりだした。そのことを知った彼は逆に浮浪者を捜し出して問いつめ、切手のことを吐かせた。浮浪者もきみらのお父さんたちも知らなかったようだが最近この贋物は話題になり、元値の数百倍で取引されているそうだ。価値のない紛い物をもてはやすとはインターネットとは奇妙なものだな」
 あたしは今後、机の掃除は素面でやろうと誓った。「日本円で相場は」
「数百円です」と尾根川が言った。
 謎の電話はやはりユカからだった。丸一週間ずっと無視されつづけてさすがのあたしも頭にきた。怒るほど他人に執着するなんて自分でも意外だった。水曜日の昼休みに胸ぐらをつかむ勢いで理由を問い詰めた。というかむしろ実際につかんだ。そうしなければ彼女は聞こえないふりをして量子論の専門書から顔を上げなかったからだ。教室が静まりかえった。あたしたちが口をきいていない事実は佐倉とその取り巻きに絶好の娯楽を提供していた。なかなかの見ものだったはずだ。ユカは自分の胸にでも訊いたらと無表情に吐き棄てた。
「黙ってて悪かった。でもただの友だちだよ」
「後ろめたいやつはみんなそういうね」
 正直に告白すれば幸田ごときに性的に執着する心理が理解できなかった。それを言葉にしたら余計にこじれるのは明白だったので、なんであたしってわかったのと代わりに尋ねた。毎日聞いてりゃ聞き分けられるよとユカは言った。写真を見せたときの反応を不審に感じてはいたらしい。一方で多忙を理由になかなか構ってくれない幸田にも疑念を抱いていた。非通知だったのは設定の解除を忘れていただけだった。非通知にするのにどんな理由があったのか想像もつかないけれど少なくとも本人はそう主張したし真相なんて知りたくない。幸田の携帯にあたしが出たりうちの電話に幸田が出たりして妄想は妄想ではなくなった。証拠なしにはどちらも問い詰められない。幸田の弁解など聞きたくないし従順に騙されつづけるのも自尊心が許さなかった。着信拒否にする以前に携帯を見るのも不快だった。電源を切って放置したと彼女は淡々と話した。
 普段と何ひとつ変わらず論理的な話ぶりで量子論の講義でも受けているかのような気分になった。にもかかわらず言葉数が多いのはのろけ話のときと同じで、ユカにしてみれば劇的なまでに感情的なふるまいと言えた。認めたくないだろう事実をあっさり話したことにあたしは驚き、幸田が単なる飲み友だちにすぎないことを言葉を尽くして説明した。教室中に聞き耳を立てられていることなど忘れていた。いま思えば叫ぶような大声をあげていたし意味の通らない大げさな身ぶりをしてもいた。他人にどう思われようがどうでもよかった。ただひとりの同性の友だちの信頼を取り戻したかった。あたしが心から何かを手に入れようと見苦しく望んだのはこのときが最初で最後かもしれない。人生にそれほど大きな意味を持つとはそのときまで自覚していなかった。年に数度しか連絡をとらない別世界の住人であるにもかかわらず、あたしにはいまでも幸田や春ちゃんと同じくらい重要な間柄でありつづけている。
 幸田とあたしとの関係が酒でしかなく、春ちゃんという別の飲み仲間までいたことを理解するにつれユカはますます不機嫌になった、依然として表情は何ひとつ変わらなかったけれども。あたしはあたしで彼女の話を聞くうち幸田にだんだん腹が立ってきた。後で判明するのだがユカはあたしより酒豪だった。にもかかわらず幸田は彼女を飲まない女と決めつけていた。そういう女としかつきあうつもりがなかったのだ。歴代の恋人も下戸か下戸を装う女ばかりだったらしいのはあたしも勘づいてはいた。三歩下がって三つ指つくような女を選んでおきながら飲み友だちとの時間を優先してきたのはあたしがだれよりも知っていた。世間には飲んだ仲しか信じないひともいる。サイコパスを父に持つあたしに言わせれば酒が語らせた言葉のほうが信用できない。理性の介在しない本音などない。あたしが飲むのは何も考えたくないからで幸田もそうだったはずだ。未知の他人など気にならなかったのでそれまでは何も疑問に感じなかった。ユカにしてみれば揮発性の液体に劣るかのように扱われて尊厳を否定されたも同然だった。親友をそのように扱われたことを二十年後のいまも許していない。
 さんざん口汚く言い争った挙げ句、というか口汚かったのは主にあたしで、後半はむしろ幸田を罵ることで意気投合していたのだけれど、ユカは専門書を閉じてまっすぐあたしを見据えた。気圧されてあたしは手を離した。彼女にもまわりのことなどどうでもよかったのだろう。何を言い出すつもりだろうとあたしは固唾を呑んだし、聞き耳を立てていた連中もそうだったに違いない。ユカが発したのはだれもが予想しない台詞だった。ピアス開けさせて、きっと似合うと前から思ってたのと言ったのだ。そうして彼女はアラスカの風のような冷ややかさから一転して笑みを見せた。あの笑顔は犯罪だと思う。あたしが男か同性愛者ならその瞬間に恋に落ちていた。四十路を目前にした彼女を世界中のセレブ美男子が夢中になって追いまわすのも肯ける。インターネットで見かけた噂にはハリウッド俳優や一流モデルの名前もあった。本人に確かめたことは一度もないけれど彼女ならありうる話だ。
 手術は翌日の放課後、日当たりのいい屋上で行われた。幸田のせいと考えると納得できないけれどユカの機嫌が直るならなんでもするつもりだった。走り込みのかけ声や呼子、吹奏楽部の音合わせ、体育館からのボールや上靴の音、講習中の教師の声が風に乗って聞こえていた。ユカはわざわざ道具を買い揃えてくれた。あたしの耳をアルコールで消毒しピアッサーをあてがった。恨まれてると知らずに友だちに頼んで、わざと変な位置にされる子がいるらしいよと彼女は言った。脅かさないでよとあたしは弱々しく抗議した。痛みで気を紛らす習慣はあっても耳に穴を開けられるのは別だったし、幸田と出逢ってから左腕に疵が増えることはひさしくなかった。白く華奢な手に力が入るのを感じてあたしは目をつぶった。がしゃん。二日酔いの頭痛や生理痛に較べたら蚊に刺されたほども感じなかった。ユカは手鏡を見せてくれた。次は右の耳ねと彼女は微笑んだ。数年後の誕生日に彼女からもらったピアスはいまもあたしの耳にある。
 すでに何度も書いてきたようにあたしと幸田の関係はユカが邪推したようには変わらなかった。年に数度の彼女とのやりとりではまだ結婚していないのと呆れられる。何度も説明するのにうんざりしていまではまぁそのうちねと答えるようになった。事件後の最初の日曜、あたしたちは土手の斜面に座って大瀬川の流れを眺めていた。まわし飲みしていたのはペットボトルのお茶だった。金曜の夜からずっと酒のない心細い週末をふたりで過ごしていた。おやじ狩りの夜にはじめて瓶を手にしたのは幸田に調子を合わせたにすぎなかった。なのに狂ったのはあたしのほうだった。罵倒や拳で苛立ちをぶつけられても幸田はあたしを受け入れた。二十年後のあたしは相変わらず仕事明けに前後不覚で見知らぬ男を連れ帰ったりして心配をかけているけれど、幸田は本当に一滴も飲まなくなった。酔ったあたしにどれだけ強要されても頑固に受け入れない。
 その日あたしは肩の出るワンピースを着て父から逃げたときとは別のミュールを履いていた。いまでは無意味な虚勢に思えるけれどあの頃のあたしにとってそういう服装をするのは雨の星祭りに立ち向かうことを意味した。そよ風になびく雑草の感触をいまでも憶えている。数日前までが嘘みたいに晴れ渡っていて水面が輝いていた。中洲には釣り人がいて左手の橋にはひとや車が行き交っていた。小さな女の子を連れた幸せそうな若夫婦が背後を通り過ぎた。
 心のどこかでは親父の嘘に気づいていた気がすると幸田は言い、石を放り投げて波紋を見つめた。認めたくなくて自分を騙してたんだとも言った。空高く旋回する鳶をあたしは額に手をかざして見上げた。幸田は大きく伸びをして仰向けに寝転がり、三人で飲んで騒ぐの愉しかったよなと言った。そうねとあたしは微笑み、もうあの時間は戻らないと思い知って足元が消失するような寂しさを憶えた。あたしたちはみんな変わってしまった。寝食を共にするいまよりもあの午後のほうが幸田を間近に感じられたのはなぜだろう。暴力の影に怯えた過去のほうが輝いて見えるのはなぜだろう。頭ではわかっていながらあたしたちはその魔法のような午後が永遠ではないことを実感できずにいた。何もかもが変わったいまでさえ事実を受け止めきれずにいる。まるで十七歳だったあの日に釘付けされたかのように。
 だれにだってそれぞれの十七歳がある。生きていれば通り過ぎるはずのその季節をひとはいつかきっと忘れる。この物語だって三十七歳の記憶によってどこかしら都合よく歪められているに違いない。それでもあたしはあの頃のあたしたちを貶めたりはしない。笑いものにしてなかったことにしたりはしない。携帯電話がまだふたつ折りだった頃。ツインタワーが倒壊する少し前。あたしと幸田と春ちゃんは確かにあたしたちだけの十七歳を、ほかのだれとも違う大切な時間を懸命に生きていた。あたしがいなくなれば想い出も消える。その前に知ってほしくてこの話を書いた。あなたにもきっとあなただけの十七歳があるはずだ。その物語をいつか聞かせてもらえたらと思う。
 さてあたしのお伽噺ではアル中の女の子がまず友だちを、最後には家族を手に入れる。生涯でいちばん幸せだった日を語って締めくくりたい。明治時代に建てられた青葉学院女子大の礼拝堂には、ステンドグラスから冬の陽光が射していた。湯川の力強いパイプオルガンが誇らしげに響き渡った。幸田が七五三みたいな礼服で案内係を、あたしはハイネックのワンピースで花嫁の付添人をつとめた。
 親族の代わりに大勢が集まっていた。少し大きくなったように見える春ちゃんと、彼のお母さんと妹。ユカも来てくれた。冴子ママの友人や職場仲間。飯沢と尾根川。遠山、根本、トンズラー、宮沢、タケカワアツシといった顔ぶれが見られたのは冴子ママもまた彼らに教わったからで、彼女の出身校が青葉学院だと知らなかったあたしは驚いた。病院で親切にしてくれた看護師もいて、彼女もまた学院出身だと後で陣内に教わった。冴子ママが意識を取り戻した日、あたしより先に病室に陣内がいたのはこの看護師に報されたからだった。浜口氏と幸田カルテットの三人もいたしヴィオラ弾きのアダムス・ママもいた。だれだかわからないひとたちは「金星の湖」の従業員であるらしかった。よく見るとあの日フロアワイパーに寄りかかって立っていた掃除係もいた。あのフレディ似の店長までうっとりした表情で参列していた。
 純白のドレスを着て赤絨毯を歩く冴子ママは本当に美しかった。祭壇の前で待つ陣内は貸衣裳の裾丈が短かった。イデグチが聖書を読み上げて訊くまでもない質問をした。ママと陣内は誓い合って指輪を交換した。鐘が鳴った。紅白の花束を抱えた新婦は新郎に手を取られて礼拝堂から歩み出た。ふたりは冷やかしの声と赤い花びらを浴びせられながら短い階段を降りた。珍しく背筋を伸ばした新郎が新婦のドレスの裾を踏みそうであたしはひやひやした。門前には黒塗りのハイヤーが待っていた。小径を歩むふたりにあたしたちは何度も花びらを撒いた。雨あがりの歩道に舞う紙切れみたいに花びらが舞い散った。喜びと晴れがましさに頬を染めた冴子ママは後ろ向きに花束を放り上げた。晴れ渡った空に高く舞い上がる。放物線を描くその先に女たちが嬌声をあげて押し寄せ、取り合いとなった。「金星の湖」の店長がつかみかけたかと思いきや、鼻唄めいた羽音に気づいた。
「きゃーっ蜂!」
 悲鳴と混乱。花束はあっちへこっちへとトスされた。あたしは離れた場所で傍観していた。いつだって厄介ごとの渦中に突っ込むよりも遠巻きに観察していたい。けれども往々にして厄介のほうがこちらへ飛び込んでくる。そのたびにあたしと幸田は春ちゃんの影を感じながら夜の街を駆けまわるはめになるのだけれど、それはまた別の機会に語りたい。花束は勢いよく人だかりから飛び出し宙を高く舞って、反射的に出したあたしの腕にすっぽりと収まった。蜂は花束から這い出してよその蜜を求めて飛び去った。幸田と視線が合った。ユカが皮肉っぽく笑い春ちゃんはきょとんとした。だれかが噴き出し、つられてみんな笑いだした。幸田もあたしもユカも春ちゃんも。冴子ママも陣内もほかのみんなも。
 あたしの新しい両親は笑顔を振りまいて旅立った。その瞬間の幸福をあたしはきっと死ぬまで忘れない。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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