逆さの

連載第7回: 命の大切さを学ぶ

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月17日

記憶からようやく悪夢を締め出せた。声も容姿も思い出せないし思い出したくもない。すると二次加害者たちはここぞとばかりしたり顔で「なかったこと」にしようとする。荒唐無稽だ。ありえない。非現実的だ。サイコパスにそもそも人間味などあるはずがないのに、その事実を逆手にとって多くのひとびとをペテンにかける。十七歳を嘘つきに仕立てさえすれば邪悪な存在を、あるいはその手先である事実を忘れていられるからだ。黙らされてもあたしの現実は変わらない。人生は戻らないし人並みの幸福が補填されるわけでもない。本来の自分どころか別人にもなれない。だれが信じようと信じまいと、これは十七歳のあたしに実際に起きたことだ。
 出てこないつもりか、そんなわがままは社会では通用しないぞ、親に迷惑をかけるんじゃないと叫びながら父は執拗に呼び鈴を鳴らしドアを叩きつづけた。あの声を聞いたら冷静な判断などできなくなる。ただ逃げることしか考えられなかったし覗き穴を確かめる勇気さえなかった。腰が抜ける、という表現があるけれど恐怖と絶望で立っていられなかった。背後から幸田に抱き支えられた。嫌悪感と安堵が入り混じったような気持になり、おかげで意識がはっきりした。幸田の腕を抱え込むようにしてドアを見つめた。彼も相当に動揺していたのだろう。飯沢警部のことは話してあったのにふたりとも電話することを思いつかなかった。
 ドアに激しい衝撃があった。二度、三度とつづいて蝶番や鍵のあたりがきしんだ。幸田が靴をつかんであたしにもそうするよう促した。あたしたちは競い合うようにベランダへ飛び出した。幸田はコンバースに足を突っ込んで手すりを乗り越えた。派手な身ぶりで手招きする幸田を見下ろしてあたしは躊躇した。地上のコンクリートは遠かった。ドアはいまにもぶち破られそうだ。ミュールを落として裸足でベランダを飛び越えた。身長より高いところを跳ぶのは男子に負けまいとした六歳のとき以来だ。若さのおかげか着地で少しよろけただけで骨折も捻挫もしなかった。足の裏を擦り剥きさえしなかった。ネックレスのロケットが飛び跳ねて危なくどこかへ飛んでいくところだったので胸のあいだに突っ込んだ。
 視線を感じて振り向いた。干し物を取り込もうとしていた中年女が一階のベランダで固まっていた。十七歳のあたしには中年に思えたのだけれどいまのあたしより若かったかもしれない。あたしは会釈してミュールを拾って履き、幸田を追って駆けだした。踵が高い音を刻んだ。サイコパスを親に持つ十七歳がひとと同じ格好をするのは命取りだと思い知ったのはこのときだ。「普通」とは逃げることを考えなくてもいい人生のことなのかもしれない。干し物を取り込む「普通」の女にとって、二階から飛び降りて走り去る十七歳はどのように映ったのだろう。あたしと彼女のあいだには見えない分厚い壁があるかのようだった。
 表通りで幸田に追いつくと同時に怒号が迫った。振り向きたくなかった。悪夢が現実になったのを認めたくない。あたしは幸田のシャツの背中をつかんでコンビニを指さした。大学生風の男が原付を停めるところだった。まだ鍵を抜いていない。運転できるんでしょ、借りてよ非常時なんだからとあたしは叫んだ。おれはふたり乗り運転も盗みもしないと幸田は振り返らずに応じた。まるであたしに背後から刺されたかのような声だった。あたしは恥ずかしくなった。知らぬ間に父の「超法規的措置」と大差ない考え方をしていた。
 琴台公園は露店やコンサートでにぎわっていた。交差点の信号が点滅していた。赤になってものんびりした歩調を変えない群衆に紛れて渡りきった。渋滞越しに父の姿を捜した。堰き止められた人波のなかで、怒り狂った象のような二メートル近い図体は容易に見分けられた。あたしたちは家族連れや寒そうな浴衣姿や団体客に紛れた。霧雨が降りだし夕闇にネオンが輝いた。アーケード商店街では吹流しが群衆の肩や頭に触れて小川のせせらぎのような音を立てていた。頭上のくす玉は藩の家紋や著作権のお目こぼしで彩られていた。中高年の団体が大声の関西弁で会話していた。肩車された幼児が和紙の感触にくすぐったそうに笑っていた。コンテストで毎年金賞を獲る老舗デパートの前では日本中どこでも買える土産物の露店に人だかりができていた。記念撮影する観光客さえ例年通りだった。そぐわないのはあたしたちだけだった。まいたかなと幸田が言った。そう簡単に逃げられるはずがないのをあたしは知っていた。
 女の悲鳴。子どもが泣きだした。抗議の声が聞こえた。父は何やら身勝手なことを叫んでいた。幸田はあたしの手をつかんで人混みをかき分けた。恐怖のあまり悲鳴さえ出ない。引っぱられる手が痛かった。騒ぎが迫った。悲鳴と罵声。人波が押し寄せる。その圧力から狭い路地へ逃れた。無造作に積まれた段ボール箱やぱんぱんに詰まった業務用ゴミ袋、プラスティック容器回収の黄色い籠がひしめいていた。霧雨に視界が煙った。そのふたりを捕まえろと父が叫んだ。すでに何度も書いてきたが当時は年齢が十七歳であるだけで犯罪者予備軍と見なされた。祭りのために雇われた警備員が血相を変えて追ってきた。その後から父が迫った。待て、止まりなさいと警備員が叫んだ。指先があたしの後ろ髪をかすめた。かわそうとして何かに肩をぶつけた。湿った段ボール箱の山が崩れた。警備員は下敷きになった。箱に埋もれたその上を父は踏みつけて迫った。
 刻文町は家族連れで訪れる場所ではない。エロ看板の林に迷い込んで困惑する観光客が目についた。城善寺通りの音楽は割れてひずんでいた。歓声や拍手、迷子のアナウンス。露店の前に傘を差すひとが増えてきた。裸電球の熱、脂っこい食べ物の匂い。すみません通してくださいと頭を下げて人波をかき分けた。投光機の照明で霧雨はレースのカーテンのように見えた。はりぼての改造トラックが星に見立てた電飾を輝かせ、子どもたちの行進を先導していた。聡美、しゃがめと幸田が叫んだ。頭上で風が切り裂かれた。拳があたしの頭上をかすめてだれかの頬を捉えた。悲鳴と怒号は音楽にかき消された。低い姿勢で突進し車道へ逃れた。何すんだよおっさん、と抗議した青年が父に殴り倒された。警備員の叫びや呼子が聞こえた。
 霧雨のなか一糸乱れず練り歩く子どもたちは唇を紫にして照明で眩しそうだ。流れ星がモチーフの衣裳は濡れて体に張りついていた。星座の神々の扮装をした地元の愛好サークルやリオから招いた踊り子の一団がその後につづいた。あたしたちの乱入にもブラジル人は笑顔を絶やさなかった。銀色の房飾りや褐色の肉体美をかいくぐってパレードを横ぎった。父はすぐに追った。霧雨は小雨に変わっていた。浴衣の女の子たちはずぶ濡れになっていた。路面は滑りやすく何度も転びかけた。対岸の見物客を押し退けて歩道をつっ走った。水たまりを撥ね散らしだれかを突き飛ばし非難や怒号を浴びた。幸田の背中を見失いさえしなければ助かるような気がした。その錯覚にすがった。あれからずっとあの瞬間に生きているような気がする。
 腕をつかまれて脚がもつれた。体当たりされた。十七歳の女が筋肉の塊のような二メートル近い中年男性に体当たりされるのがどのようなことかおわかりだろうか。全身の骨と肉がばらばらになりそうだった。水たまりへ押し倒され泥水が目に入った。観光客は悲鳴をあげて逃げ惑った。雨脚が強まった。父を引き離そうとした幸田は一撃でなぎ払われて水たまりに倒れた。すぐさま起き上がって組みついてきたが片手で顔をつかまれ、人垣へ突き飛ばされた。数名が巻き添えになって倒れた。幸田はもう一度突進してきて父に殴られ、そして今度は立ち上がれなかった。これが彼にとってどのような経験であったか想像のしようもない。仕事道具を奪われ職場から追放され、演奏家としての道を閉ざされた上に男としての尊厳も否定されたのだ。
 父は意味の通らないことをわめいた。あたしに理解できなかっただけで世間のひとびとが感動するような名演説であったのかもしれない。熱く生臭い息が首筋にかかった。のしかかられた重みに全身の骨が悲鳴をあげた。万力のような両手から逃れようともがいた。理解できない暴力に出くわしたひとは目の前の現実をねじ曲げる。この女子高生にはきっと組み敷かれてシャツの胸元を引き破られるだけの理由があるのだろうと信じ込み、被害者に好奇と蔑みのまなざしを向ける。通りを埋め尽くす二百万の観光客のだれひとりとして助けてはくれなかった。歪んだ音楽が陽気に鳴り響いていた。パレードへの歓声がよそよそしく非情に聞こえた。
 幸田はあたしに関わらなければよかったのだ。出逢う前にあたしはおやじ狩りで援助交際男もろとも殺されていればよかった。母や冴子ママがあんなことになる前に父と刺し違えていれば。飲み友だちがどのように育ったか幸田はそのとき知った。彼の知る女たちとは似ても似つかない汚らわしい生き方をしてきたことを。そのような人間がこの世に存在することを。医者や心理療法士はもっともらしい顔でそれぞれ別のことを言うけれど、あたしは知っている。あたしが彼の魂を殺したのだ。
 警官や警備員が父をあたしから引き離したのは単純にパレードの邪魔だったからだ。だれかがぶつかってきて揉みくちゃにされた。この時点で何かがおかしいことは見てとれたのだろう、携帯無線で援軍が呼ばれて大勢が集まってきた。だれかが殴られ別のだれかが水たまりに倒れた。数人が大声をあげてのしかかってきた。手足が入り乱れ、何がなんだかわからなくなった。そして突然、視界が晴れた。雨の白い糸を浮かび上がらせる投光機。ビルのあいだの暗い空から落ちてくる雨粒。覗き込む人垣。羽交い締めにされ大声で暴れる父。群がる警官や警備員。幸田が這い寄ってきて無数の視線からかばうように助け起こしてくれた。彼は泥と血にまみれていて顔はだれだかわからないほど腫れ上がっていた。雨のせいでまるで泣いているように見えた。後で知ったのだけれど歯も何本か折れていた。まともに殴られていれば花田道夫と同じく命はなかった。あたしたちは抱き合いながら冷たい雨に打たれて路面に座り込んでいた。服や髪は泥水を吸って重かった。
 父はまるで正常な人間であるかのように急に静かになり、恥ずべき点は何ひとつないとでも言いたげにパトカーへ連行された。春ちゃんの父親なら「毅然」と表現したろう。負傷した警官は十数名はいたようだ。増援の警官たちは十七歳の男女ではなく父に手錠がかけられているのを不審に思ったようだ。その戸惑いは次の瞬間に深まったことだろう。まともな見た目とは不釣り合いの禍々しさがそこにはあった。後部席に乗り込む直前に父はあたしを睨みつけてこう叫んだのだ。
「これで終わったと思うな。必ず取り戻してやる。親子の縁は墓までついてくるんだ!」
 群衆の非難がましい視線を浴びながらパトカーが遠ざかるのを茫然と見つめた。幸田の腕に血が滲むまで爪を立てていたことにずっと後まで気づかなかった。抱き締められる痛みも何も感じなかった。赤色灯の光が見えなくなりサイレンが聞こえなくなっても父の言葉は頭蓋に反響していた。
 父の予言は実現しなかった。していたらこんな文章を書いてはいない。あたしは父に似なかったし、五年後に出てきた彼は娘を見つける前に何者かに惨殺された。そうとも知らずにあたしは幸田との暮らしが破壊される日に怯えて暮らした。ばらばらに損壊され白骨化した遺体の一部が公衆トイレの浄化槽から見つかったのはさらに三年後だった。『金星の湖』の近くのあの公園だ。犯人は捕まらなかったけれどあたしと幸田は春ちゃんがやったのではと疑っている。だとすると彼の最初の被害者は父かもしれない。犯行を重ねるにつれ手口は洗練されていった。春ちゃんが実際に何人を殺害したのかだれにもわからない。彼自身も憶えてはいまい。それでもきょとんとした目だけはあの頃のままで、面会室の強化ガラスの向こうに手錠で繋がれているとは思えないほど屈託のない笑顔で、意味の通らないことをあたしたちに一生懸命に話しかけてくる。
 彼にとってあたしたち三人は毎晩のように飲んだくれていた十七歳のままなのだ。いちばん変わってしまったのは彼なのに。いや、それともあたしと幸田のほうだろうか。

 丸大公男は自殺し花田道夫は殺された。鈴木信忠とあたしの父は捕まった。父が連行されてから警察署で飯沢と再会した。護衛をつけることをまた提案されたけれども断った。残党がいるとしても首謀者が逮捕されたのに犯行をつづけるとは思えなかった。あたしたちは陣内の部屋を引き上げた。彼にはもうひと晩泊まるよう勧められた。冴子ママの家にひとりでいると余計なことを考えるのではないかと心配してくれたのだ。その推測は正しかったけれど父が逮捕されたのにいつまでも好意に甘えられない。幸田は家の前まで送ってくれた。あんなことは前にはいつものことだったのだから気にしないでとあたしは笑った。巻き添えにした事実に耐えられなかったし早く独りになりたかった。必要があれば何時でも電話かメールをくれと幸田は言った。視界から締め出すように彼の鼻先でドアを閉めた。ドアに背中をもたれて泣いた。自傷のために彼を利用したくなかった。
 火傷するほど熱いシャワーを浴びて擦り剥けるまで体をこすった。幸田にもらったジーンズは棄てることができなかった。朝まで眠った。夢は見なかった。翌日は気力をふりしぼって部屋を片づけた。居間で倒れていた冴子ママを思い出した。もう何年もそんなことはなかったのにまた手首を傷つけたくなった。幸田の視線を畏れて耐えた。月曜の朝に登校した。教室に足を踏み入れるなり視線を集めた。囁き合う声が聞こえた。欠席がつづいた理由を訊く者はなかった。教室のまん中で父に押し倒されているかのような錯覚を憶えた。ユカはカーボンナノチューブを概説した洋書を読んでいて話しかけても応じてくれなかった。女の友情がそんなものなのかは知らない。人生で同性の友人をほかに知らないからだ。でも酔い潰れて介抱したりされたりした仲でなければそんなものだろうという気はした。ある朝目覚めて毒虫になっていても幸田なら受け入れてくれそうな気がする。音楽をやめた彼から女たちは離れていった。あたしは廃人同然になる一方の彼とずっと暮らしている。彼のいない女ばかりの教室が孤独に感じられた。
 昼休みに屋上の湿ったコンクリートに仰向けになって暗い空を眺めた。もし食欲が少しでもあったとしても制服のスカートの下に体操着を穿いて塀を乗り越えたり購買部のパン争奪戦に加わったり食堂に並んだりする気力はなかった。空は画家が描写を放棄したかのような曖昧な灰色だった。携帯に着信した。階段を駆け下り教室で鞄をひっつかみ、職員室で担任の根本を捕まえて早退する旨を告げた。根本は何も訊かずに早く行けと言ってくれた。気がせいていたので何も感じなかったけれども規則にうるさい校風を思えば奇妙な話だ。陣内から何か聞かされていたのか、首の痕や教室での様子から何か察してくれたのか。浜口氏のような酸いも甘いも噛み分けた風の男が何も理解していないかと思えば、いかにも堅物に見える英語教師が可視化されにくい立場にさりげない配慮を見せたりする。両者の違いはわからないものの存在を認める度量かもしれない。理解する必要も好きになる必要もない。ただそういうものがあると認めるだけで世の中の風通しはましになる。
 病室に近づくと陣内の声が聞こえた。どうしてあたしより先にいたのかわからなかった。彼はパイプ椅子に長身を丸めて座っていた。冴子ママはベッドで背中を枕にもたれていた。ふたりは同時に振り向いた。冴子ママは顔の腫れはひいていたものの包帯や絆創膏が痛々しかった。こんなかたちで三人が顔を合わせるのは哀しかったけれどそもそもほかにどんなかたちがありえたろう。あたしたちが家族になった経緯はいまでも巧妙に避けて語られる。暴力で結びついた仲は核心に触れられないだけにかえって結びつきが深まるのかもしれない。あたしと幸田にしてもそうだ。あたしたちに潜在した暴力性をひとりで引き受けたかのような春ちゃんも。検査に異常がなければ来週には退院できると冴子ママは話した。後遺症が残る畏れもなさそうだという。もしその言葉が気休めにすぎなければあたしはどうなっていたかわからない。彼女をこんな目に遭わせたのはあたしではない。それでもサイコパスから受け継いだ血が全身に流れている事実は否めない。言葉にできない想いに押し潰された。抱きついて大声で泣きたかったけれども許されない気がした。家族らしいことを何も言えないまま逃げるように病室を後にした。
 学校に戻るつもりはなかったしだれもいない家に帰りたくもなかった。暗くなるまで街で時間を潰した。感情を受け止めてくれる相手はひとりしか思い浮かばなかった。コンビニに寄って幸田のアパートを訪ねた。彼の顔はまだ醜く腫れていた。左目はほとんどふさがっていたし唇は倍くらいになっていた。笑うと切れた唇が痛そうだった。体のどこかが痛むらしく歩き方がおかしかった。学校には行かなかったようだ。部屋はかつてなくすっきりしていた。本や辞書の多くが処分されていて書棚に空白が目立った。机にはパソコンがなかった。畳は疵だらけだった。気にすんな、また稼いで買い直すさと幸田は言った。手段もその気もないことをあたしは知っていた。彼は楽器と仕事とともに音楽への関心を喪っていた。彼は何も触れなかったけれども押入も荒らされたらしいことは襖が歪んでいることで想像がついた。あんなガラクタを父はどうするつもりだったのだろうとそのときのあたしは思った。うちでやったことにしても幸田の部屋でやったことにしてもただ腹いせに暴れたくらいに考えていたのだ。一方で何かが無意識にひっかかってもいた。
 ベッドに並んで座ってジャックダニエルをまわし飲みした。うやむやになった断酒の提案が小さな棘のようにひっかかっていた。春ちゃんがいないせいで会話も盛り上がらなかった。呼んでよとあたしは幸田に頼んだ。忙しいらしいんだと彼は口ごもった。忙しい? 春ちゃんが? バイトでもはじめたのとあたしは尋ねた。忙しく働く春ちゃんが想像できなかった。筋トレをしているらしいんだと幸田は変なものでも呑み込んだかのような顔で言った。あたしは噴き出した。つまらない冗談だと思いながらも何か本能的に心が冷えるような暗い感触を憶えた。ちょっと見ないうちに変わったんだよ、顔つきとかしゃべり方とか……と幸田は自分の言葉が信じられないかのように不安そうな顔つきでつづけた。そんなことを話す幸田が怖かった。やめてほしかった。あたしは黙って飲んだ。甘いはずの酒が苦く酸っぱいように感じられた。
 チュニジアの夜で気まずい空気がとけた。幸田は発信者を確かめて顔を輝かせた。親父いまどこと彼は言った。あたしは聞き耳を立てた。幸田の声や表情に尊敬の念が滲み出ていた。はじめて見る態度だった。これだけ一緒にいてもまだ知らない顔があることに驚いた。彼が心からの笑顔を見せたのは思えばこのときが最後だったかもしれない。あたしは本能的な妬みを憶え、その表情を自分に向けなかった幸田を憎んだ。このときに芽生えた独占欲がいまも彼を苦しめているのは知っている。彼のほうではこの夜を最後に世界の何に対しても執着をなくした。そのことも、かといって離れたら互いに一日たりとも生きられないのもあたしたちはわかっている。互いの足首を縄で繋がれて泥沼でもがくようなものだ。法律もひとの命も頓着しない春ちゃんがあたしたちには自由に見える。
「あの建設現場ね。いますぐ行く。楽しみだな」通話を終えた幸田は携帯をポケットに突っ込んで机の抽斗を開け、マグライトを取り出した。遠足前の子どものような顔をしていた。お父さんから、と訊くと彼は得意げに肯いた。「きっとあの爆竹みたいなやつだ。わざわざ人けのない場所に呼ぶんだから」
 連れて行ってとあたしは頼んだ。「取材のために紛争地を飛びまわってるんでしょ。さんざん聞かされたけど写真は一枚しか見たことない。逢ってみたい」
 幸田は照れ笑いを浮かべた。満更でもないらしい。
「しょうがねえな。ちゃんと挨拶しろよ。ほら口臭消し。酒臭えぞ」

 琴台公園で地下鉄を降りて建設現場まで歩いた。白く塗られた金属の塀は事故は防げても防犯の役には立っていなかった。裏側は鉄パイプで組まれた囲いだけだった。ひとや車が絶えるのを見計らって侵入した。携帯をいじるあたしを幸田は眉根を寄せて振り返った。ごめんと口先で謝って後につづいた。浮かれた幸田の保護者みたいな気分になっていた。けれども止めなかったのも事実だ。鈴木信忠に頸を絞めさせた仕返しに、現実を見せて目を醒めさせようと無意識に考えたのかもしれない。言葉で説得していたら信じてもらえなかった。
 暗かった。街の光が灰色の防音幕に透けて見えた。各階に床ができていた。樹木を思わせる金属管の集まりが何本か、緩やかに螺旋を描いて建物を貫き、棚のような構造を支えていた。マグライトで足元を照らして工事用の昇降機に乗り込んだ。無骨な操作盤の汚れたボタンを幸田が押すと昇降機は身慄いして動きだした。モーターが唸って金属のケーブルが頭上で巻き上げられた。城善寺通りの街並みがじりじりと下降した。乾いた血のような色の籠はまた身慄いして最上階で停まった。鳩の鳴き声と羽ばたきを聞いた。亡霊の呻きを思わせる音で風が吹き抜け、防音幕をばたつかせた。制服の裾や髪が乱れた。床も柱も剥き出しのコンクリートで四方に壁はない。外界との隔たりはナイロンの幕だけだ。塀に囲まれた一階よりネオンで薄明るかった。琴台公園の鳩が吹きさらしのフロアのあちこちで首を振りながら歩いたり羽ばたいたりしていた。その中央に背の高い影が立っていた。
 親父、と叫んで幸田が嬉しそうに駆けだした。あたしは遅れまいと後を追った。その男は写真よりずっと老けていた。暗い色のシャツにズボン、革靴。息子の頭骨を鋭く誇張して陽に晒した革を貼りつけたような顔だった。目は笑っていなかった。あたしの父とよく似た蔑みの表情がネオンの明滅とともに青白く浮かび上がっては闇に沈んだ。男の足元にいた鳩たちが騒々しく羽ばたいて飛び立った。舞い散る羽毛の向こうに男が何かを手にしているのが見えた。鈍い色に輝くレンチだった。作業員が残したであろうその工具を男は武器のように構えた。
 幸田は立ち止まって困惑したように笑い、それがお土産? と尋ねた。場違いな台詞なのは明らかだった。ふたりまとめて現れるとは手間が省けたと男は応じた。例のものをどこへやった、とつづけた。おもしろがるような色もあったけれど、どちらかといえばふざける余裕を装っているかのようにも響いた。彼にとってこれは「狩り」だったのだ、援助交際の中年を半殺しにしたちんぴら集団のように。幸田にはいつもの愉快な冗談のように思えたのだろう。なんのことだよと彼は半笑いで尋ねた。とぼけるなと男は叫んだ。幸田がびくっとすると同時に数羽の鳩が飛び立った。視界が羽ばたきに遮られた。
 男の動きは素速かった。あたしは幸田を押し倒した。レンチが唸りをあげて空を裂いた。マグライトは滑るように転がり地上へ堕ちた。鳩たちは恐慌をきたして飛び交った。幸田はあたしを押し退けて立ち上がった。事態を呑み込めないらしく見るからに動揺していた。どうしたんだよ親父と呟いた。おまえらのどっちの家にもないことはわかってると幸田の父は言った。どこに隠しやがった、肌身離さず持ち歩いているのかとも言った。一語一語、あたしたちの心臓に楔を打ち込むかのような声だった。風や幕のはためきにも掻き消されずに響いた。にもかかわらずまるで意味がとれなかった。あたしを弄ぶときの父と同じ狂人のたわごとだった。
 あたしは父親の正体から庇うように幸田の前へ進み出た。あなたが首謀者ねと言った。あたしの父も操られていた、あなたが何もかも仕組んだんだ。男は唇の端を下品に歪めた。息子が決してしない表情だった。渡辺大輔の娘かと男はおもしろがるかのように言った。血縁上はねとあたしは答えた。血は拭えないさ、だがあの優秀さは受け継がなかったようだなと男は言った。日本女性として恥ずかしくないのか、うちの息子と鈴木さんのご長男をたぶらかして、とも言った。挑発の言葉すら借り物のようだった。
 あなたは海外へなんか行ってなかった、とあたしは指摘した。「合鍵を使って幸田のアパートを荒らし、あたしたちが一緒に行動するよう仕向けた。父ならドアをぶち破ったはず。青葉建設に勤めていた丸大から鍵を入手して配電装置をいじり、あたしたちを最上階まで誘き寄せた。父は首謀者なんかじゃなかった。鈴木信忠は保身のために嘘をついたのよ。あなたとふたり、幼なじみの親同士で子どもを監視するうちにあたしの存在を知った。偶然を装って父に近づき仲間に引き込んで、思い通りに動かなかった花田道夫を片づけさせた。あなたは息子が巻き添えになることを期待した。うまくいけば手を汚さずにすべての罪を父に押しつけられる。父があたしたちの居所を嗅ぎつけるまでは思惑通りだった。ところが父はしくじった。あなたはついに自ら手を下そうとした。柿沢は筋書きにどう絡んでくるの」
 親子は仲良くしなきゃ。親は子どもを想うものだよ。偏執者はいつだってそうした人間らしい「道徳心」につけ込む。日当たりのいいわかりやすい場所で生きてきた連中はそのようにして騙され、まったくの善意でひとを追い詰める。幸田の父親はレンチを持ったままおざなりに拍手してみせた。「なかなかの推理だ。あの下半身の元気な先生はわが同盟を脅しやがったのさ。計画が滑り出したばかりだというのに」
「それでおやじ狩りの不良を雇ったのね。娘にはどんな手を使ったの」
 娘? 何のことやらと幸田の父親はとぼけた。
 息子は硬直したように曖昧な薄笑いを浮かべていた。冗談だろ、と呟くのが聞こえた。わかんねえよ、何言ってんだよとも呟いていた。幼い日の自分を見るかのようでつらかった。あの頃のあたしは母もまた異常だとは認めたくなかった。父が正常でないからには母にだけはまともでいてもらわなければならなかった。願望と現実を取り違えた。致命的な過ちであるのを知りつつ生きるためにそうした。そのようにして人生を台なしにした。だからここに呼んだのか、親父の冗談にしちゃおもしろくねえよ……と幸田は呻いた。母親に似たんだな、あいつは知能の低い薄のろだったと男は嘲笑った。だって親父は外国の色んな土産を、と幸田は言い募った。
「あんなガラクタを信じてたのか。まさかあんなものが紛れてるとは思わなかったが」
「市街戦の弾の下をかいくぐって、撃たれた子どもを安全な場所へ運んだりしたんだろ? 南米の密林ではマラリアで死線をさまよい、アラスカでは凍傷と戦い……」
「まさか信じるとはな。全部でたらめに決まってるだろ。幼稚園の頃、パチンコ屋へ連れてってやったのを憶えてるか。あれがおれの職業だ。パチンコ、麻雀、カジノ……」男は愉しむかのようにレンチを掌へぱしっ、ぱしっと軽く打ちつけながら近づいてきた。幸田をいやらしく誇張した戯画のような顔がネオンの光に浮かび上がった。あたしは暑かったので上のボタンをはずしていた。温もりの感じられない目があたしの胸元を捉えた。男の顔に貼りついた笑みがよこしまな悦びに歪んだ。男は低い声で痙攣するように笑った。「世論に応じて犯罪者予備軍を糾弾し淘汰するのがジャーナリストなら確かにおれは偉大なジャーナリストだ。それより浜口美佳のことじゃよくやった。それだけは誇らしく思うぜ。おまえみたいな薄ノロにもおれの血が流れてるんだってな。滋、母ちゃんがどうなったか知ってるだろう。あれは事故じゃない。おれが車に細工した。あの保険金にはがっかりさせられたぜ」
 幸田には彼の音楽を愛したひとたちがいた。あたしに変な目を向けてきたグルーピーばかりじゃない。「浜口屋」の常連もしかり「金星の湖」の客もしかり。あたしと違って価値がある人間がこんな風に奪われ踏みにじられるなんてあまりに理不尽だ。レンチが唸り、あたしは幸田をかばって彼とともに倒れた。鳩が狂ったように飛び交い羽毛が舞い散った。男は高く笑った。あたしたちは背後へいざった。自分はどうなってもいいから幸田だけは助けたかった。そうでなければこの世界はあまりに悔しい。レンチが唸って二度、三度と鼻先をかすめた。父に追われたときには幸田が手を引いてくれた。今度はあたしの番だと思った。
 世間の厳しさを思い知れと男は叫んだ。あたしたちは転がるように身を翻し、立ち上がって駆けだした。一瞬前にいた床が火花を散らした。おまえらにはニーズがない、と男は嘲笑うように言った。すぐ背後で髪の毛先を唸りがかすめた。親には現実を教える責任がある、とも言った。あたしたちは盾になるものを求め、螺旋を描く金属管の集まりをめざして走った。胸元でペンダントが跳ね踊った。鳩が横切った。おかげで男の狙いが狂った。レンチが耳元で金属管を打ち火花を散らした。男はまだ本気で息の根を止めようとはしていなかった。獲物を追い詰めるのを、死を目前にしたあたしたちの恐怖を愉しんでいた。レンチが制服の裾や髪先をかすめ、風圧が頬や首筋を撫でた。フロアは青白いネオンに段階的に照らされてまた闇へ沈んだ。
 金属管の陰から鳩が飛び出してきてあたしは転んだ。羽毛が舞い頭上で金属管が火花を散らした。幸田が振り向いた。男が腕を振りかざした。その盛り上がった筋肉が息子にそっくりなのをあたしは認めた。幸田があたしを立たせようとした。いいから逃げてとあたしは叫んだ。男がレンチを振りまわし、あたしたちはもつれるように抱き合って後ずさった。男は薄笑いを浮かべて愉しむように近づいてきた。あたしたちはフロアの端までじりじりと追い詰められた。鳩の群れはあたしたちをかすめて防音幕の隙間から先を争って飛んでいった。冷たく湿った風が背後を吹き抜け、灰色の幕がばたばた鳴った。振り向くと人や車の行き交う通りが眼下に見えた。羽毛が吸い込まれるように落ちていく。ネオンが稲妻のように輝き、つくりものめいた男の顔を青白く照らし出した。男は長く伸びたふたつの影を踏みつけて立っていた。吹き上げる風に髪や制服の裾が乱された。あと一歩退けば転落する。
 あたしたちは固く手を握り合った。
 そのときあたしは幸田のかすれた声を聞いた。あの切手だなと言っていた。あたしは幸田の顔を見た。それまでの活き活きとした豊かな表情が完全に消え失せていた。それは喪われたまま戻らなかった。ずっと前から何もかもわかっていたのだとそのとき察した。わかっていて気づかないふりをしていたのだ。父親との大切な想い出のために。息子の言葉に父親は乾いた声で笑った。「おとなしく返すつもりになったか。いつ気づいた」
「あれは偽物だ」接点のない過去を読み上げるかのように幸田は言った。
「命乞いのつもりか」
「二年前に調べさせたんだ。質屋に。よく出まわってる複製だって」
「そんなことで騙せると思うな。死んで親孝行しろ」男は低い声で宣告してレンチを振り上げた。
 聞き憶えのある声がフロアに響いた。「そこまでだ」
 警官たちが飛び出してきて犯人を囲んだ。制服のあちこちに羽毛がついていた。風音は確かに激しかったけれども階段を十数名で駆け上がりながら悟らせなかったのには驚いた。飯沢はほかのどの警官とも違っていたし、部下たちは心から彼を慕っていた。あたしの人生でただひとりの信じられるお巡りさんだった。彼は逮捕状を掲げた。「幸田久治。脅迫と殺人未遂の現行犯、及び花田道夫を殺害した容疑で逮捕する」
 男はスイッチを切り替えたかのように即座に人格を豹変させた。いかにも善人のように哀れっぽい声をあげた。「なんですって? そんな……誤解です!」放り出された工具が床で甲高い音を立てた。彼は脱力したように膝を突いて飯沢にすがりついた。「こいつら毎晩ここに忍び込んで不埒な真似を。毅然と注意しようとした私にふたりがかりで襲いかかってきたんです。助かった、お巡りさんありがとう!」涙まで流していた。その顔はまさに善良な被害者そのものであたしでさえ思わず信じてしまいそうだった。
 飯沢は逮捕状を部下に預けて携帯を男の耳元へ突きつけた。あたしは通話中の携帯をポケットから出し、あなたはもうお終いよと言った。男の目があたしを捉えた。顔から演技の薄皮が剥がれ、猛烈な怒りと憎しみが浮上した。幸田が口を半開きにしてあたしを見た。いまならソーシャルメディアにストリーミング中継するところだけれども当時やれたのはこの程度だった。あたしは飯沢に礼を言って通話を終えた。彼は携帯をスーツの内ポケットにしまった。これも仕事さ、ご協力に感謝すると彼は言った。
 出所してからの幸田久治の消息は知らないし知りたくもない。春ちゃんがこの二十年のあいだにやったことが報じられた後では、あたしたちに手を出せばどうなるかはあの男も当然知っているはずだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。