逆さの月

第6話: 反道徳の妄想

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.17

返答はなかった。映画でよくある展開を妄想した。幸田の屍体を見つけて半狂乱になるあたしを、家に潜んでいた父が背後から襲う。吐瀉物で制服を汚してはいても根拠のないパラノイアだと自覚できるくらいの理性は働いた。鍵は一年半前に替えたし帰宅する少し前まで警察だっていた、いま戻ってくることはありえないと自分に言い聞かせた。瀕死の野良犬のように体を引きずって居間へ辿り着いた。涎を垂らして眠りこける姿はどこにもなかった。玄関に彼のコンバースはなかった。当然のように施錠もされていなかった。茫然としてへたりこんだ。あたしの身の安全や恐怖をどう考えているのだろう。
 携帯は制服のポケットに入ったままだった。授業に出ているのかと思ったが意外にもつながった。おう聡美かと幸田は言った。まるで空き巣にでも入られたかのように情けない声だった。罵倒するつもりだったのに気勢をそがれた。いまどこと尋ねた。アパートだと彼は答え、やられたよとつづけた。鍵どうやって開けたんだろう、という独り言が切れる間際に聞こえた。
 期待するから裏切られるのだ。汚れた制服を紙袋に入れ、燃えるゴミの袋につっこんだ。床を掃除してエタノールのスプレーで消毒した。吐瀉物とアルコールの臭いを嗅いだらまた気分が悪くなってトイレに駆け込んだ。シャワーを浴びて幸田にもらったジーンズを穿き、普段あまり着ないキャミソールを選んだ。おやじ狩りブスの複製みたいになった。当時はこんな縁側で涼む婆さんみたいな服が本当に流行していたのだ。おまえはトム・ソーヤーかというような七分丈のスキニージーンズやら、ピンヒールのミュールやら、なぜあの頃はだれもかれもがあんなばかげた格好をしていたのか。首が紫色の痣になっていたので太いチョーカーで隠した。
 ふと思いついて携帯からロケットのついた鎖をはずした。盗んで以来ずっとつけているのに幸田には一度も気づかれなかった。考えてみればその頃は彼の前で携帯を使う機会はなかった。かける相手が彼だけだったからだ。
 濃いコーヒーを淹れて幸田を待った。言いたいことは山ほどあった。住所はずっと前から教えてあったし、だから留守番を頼めたのだけれど、家でふたりで逢って話すのははじめてだった。呼び鈴が鳴った。幸田は居間に入ってくるなり頭を抱えてソファに腰を下ろし、リュックを降ろして長々と溜息をついた。何かを待つような間があった。あたしはじっと幸田を見ていた。昨夜と同じTシャツとデニムの上下だ。ひと晩をこのソファで過ごしたのだから当然なのだけれども彼がまるで緊張していないのにあたしは失望した。幸田もまた失望したように眉根を寄せてあたしを見上げ、何があったか訊けよと言った。何があったのとあたしは言った。頭の中でさんざん予行演習した悪態はどこかへ消え失せていた。
「うちもやられてた。ご丁寧に布団まで切り裂かれてたよ。苦労して改造した愛機もお釈迦。これでしばらく何も書けない。部屋を空けてたのは不幸中の幸いかもな。命まで取られちゃかなわない」
 相手の都合に構わずに話す傾向が当時の幸田にはあった。あたしは何の話をされたのかわからずに的はずれな答えを返した。「あんたエロ小説なんか書いてたの」
「エロじゃねえよ……。痕が残ったのか」
「若い頃のイギーみたいでしょ」
「笑えねぇよ」
 どうせならチョーカーに重ねづけしたネックレスにも言及してほしかった。ここまであからさまに見せつけているのに気づかれないのが不満だった。この二十年間、幸田のためにやったことに気づいてもらえたためしがない。彼のコーヒーを準備していると家の電話が鳴った。顔を見合わせた。幸田があたしを制して受話器を取った。もしもしと言って険しい顔になった。受話器を置いて戻ってきた。「無言だった。やっぱりここも危ない」
「巻き込んでごめん」
「聡美のせいじゃない。春雄からはけさ電話があった。護衛を頼んだらしい。あいつん家はおれのアパートと大差ない狭さだしな……。だれかほかに匿ってくれそうな友だちは」
 ユカしか思い浮かばなかった。父親の転勤で家族が引っ越したのでワンルームマンションを借りて卒業までこの街に残ることにしたと聞いていた。彼女が同意したとしてもワンルームに三人ではあたしが居たたまれない。しょぼくれた眼鏡男が思い浮かんだ。できることがあればなんでもと言っていた。場に流されてつい洩らしたのであっても男に二言はなかろう。「陣内龍之介」
「確かに彼なら相談に乗ってくれるかもな」
「なんで知ってるの」
「『金星の湖』で演ってるの見たろ。有名人だよ。お義母さんの携帯にかけてきた。どんな関係だよ」
「現国の先生。冴子ママとつきあってるの」他人の電話に勝手に出るのはあたしだけじゃないと知って安堵した。「冴子ママの携帯は」
「警察に押収された。通信記録を調べるらしい。あとで判子持って取りに来いとさ」
「それじゃ連絡先がわからないよ。あんた知らないの」
「学校で直接話せよ」
「やだよ。ずる休みしたのに。警察のひとにも休めって言われたし」
「店長なら知ってるんじゃないか。開店の二時間前にはだれか来てるはずだ。それまで朝飯でも喰っていよう」
 最低限の着替えや洗顔用具をリュックに詰めて家を出た。教科書も辞書も入れなかった。それらが人生に役立ったことは一度もない。学校がもっと実用的な知識を授けてくれたなら。サイコパスに命を狙われたらスニーカーを履けとか。暑かったので深く考えずに踵の高いミュールを選んだのをのちに悔やむことになる。踵は太かったしストラップのおかげで脱げにくくはなかったものの、走るには纏足並みに不向きだった。父と離れて暮らすうちに危機感が麻痺してしまったのだ。門を出るとき冴子ママの家を振り仰いだ。実際にはそんなことにはならなかったのだけれど、なんだかもう二度と戻らないような錯覚がしたのだ。駅前のファーストフードで幸田に奢ってもらった。壁際のカウンター席でこれまでわかったことをかいつまんで説明した。柿沢はペドフィリアで『生死に関わる何か』を調べていておやじ狩りに遇って死んだ。臼井はお母さんとふたり暮らしで柿沢に狙われていた。臼井は花田佐久子と幼なじみだった……。
「つまり聡美の考えはこうだろ。その子の父親は『同盟』かもしれない。柿沢もそうかもしれない。少なくとも連中の企みを知っていた。阻止か強請のため証拠を集めようとして消された。端金で雇われたチンピラに」
「最後のは言ってない。援助交際の小学生を連れて刻文町を歩いてたらしい。それで狙われたのよ」
「おれたちがはじめて逢ったときの連中かもな……何を嬉しそうにニヤついてるんだよ。そもそも動機が納得できない。得られるものに対してリスクが大きすぎる」
 そこは確かにひっかかる。父は憎悪だけでわざわざ立場を危うくしたりはしない。もっと狡猾に立ちまわるはずだ。母のときだって金や社会的利益が絡まなければ殺さなかった。しかしサイコパスが何を考えるかなんてあたしたちにわかるはずがない。話しているあいだ幸田は携帯を何度も確かめた。店は会社員や学生で混みだした。これ以上の長居はできない。あたしたちは時間潰しに映画館へ行った。いま思えば滑稽だけれどもほかにどうしたらいいかわからなかった。ただの十七歳が犯罪に巻き込まれた瞬間からCIA諜報員のように行動できるわけがない。父親に殺されるかもしれない日常は子どもの頃から空気のように当たり前になっていて、それよりも幸田と学校をサボることのほうが非日常だった。学生がサボって行く場所と言えば映画館かラブホテルで、言うまでもなくあたしたちに後者はありえなかった。
 シネコンに押されて翌年に潰れる映画館では三つの映画をやっていた。サイコホラーと幼児向けのアニメと恋愛映画だ。他人に命を狙われているときほど恐怖映画に入り込める条件はないかもしれない。けれどもあたしも幸田もそんな気分を味わうのはごめんだった。恋愛映画は論外だった。ふたりで観れば気まずいに決まっている。消去法でアニメを選んだ。平日の昼間だったので貸し切り同然だった。幼児向けであるにもかかわらずその映画はアクション満載で、主人公は悪の組織の構成員を光線銃や機転によって次々に殺害した。落下した大岩に悪漢が押し潰される場面にあたしたちは気分が悪くなった。そこで語られる正義はあまりにも単純明快で、そして春ちゃんの父親が振りかざした理屈に似ていた。市場のニーズとはそのようなものなのだ。
 昼でも薄暗い公園を横切るのはいい気分がしなかった。店の電子錠には幸田が入力した。「浜口屋」や「金星の湖」で演奏する彼を見たときもそうだったし、いまでも何やら書いているのを見るたびに思うことだけれど、彼の指先が動くところにはごつごつした無骨さと繊細さが同居していて、なぜか目が惹きつけられる。このときもあたしは彼の指がEのキーを押すまでをじっと見ていた。解錠音の代わりに拒絶するような電子音が鳴った。幸田はCを押してもう一度やりなおした。同じだった。あたしたちは顔を見合わせ、それから鼻唄に振り向いた。口ひげの男がチラシの束を抱えて階段を降りてきた。ラメのパンタロンに先の尖った靴、翼みたいな襟のぴっちりした紫シャツ。大きく開いた胸元から剛毛が露出していた。あたしたちは彼のために電子錠の前からどいてあげた。男は新鮮肉、と呟きながら400029と入力して鉄の扉を開けた。あたしたちは彼につづいた。
 客のいないフロアは無駄に広く感じられた。セルジュ・ゲンスブールのダンス・リミックスが虚ろに響いていた。眠たげな目の従業員たちが掃除をしたり機材の調整をしたりビールケースを搬入したりしていた。最初に気づいたのは掃除係だった。フロアの会話がやんだ。チラシ束の男がカウンターに近づき、のんきな顔つきで店長に話しかけた。店長は玉虫色のタイトドレスに肘までの白手袋、ピンクのフェイクファーの襟巻で前より派手に見えた。店長はグラス磨きに没頭していて聞こえないかのようだった。チラシ男は戸惑いの目で仲間を見まわした。答えは得られなかった。
 フロアを横切るあたしたちからだれもが不自然に目を背けた。おそらく幸田は何もかもを喪った現実に気づいていながら認めたくなかったのだろう。いつ番号変えたんすか、だれも教えてくれないから面喰らいましたよと彼はカウンターに身を乗り出して朗らかに言った。相手の無反応に臆することなく彼はなおも陽気に陣内の連絡先を尋ねた。もう帰ろうよと彼の袖を引っ張りたかったがカウンターに近づくのさえも怖かった。あんたたちに教えることなんてないわと店長は一顧だにせず答えた。ユーモアのかけらもない冷ややかで厳しい声だった。幸田は聞きとれなかったかのように曖昧な笑みを浮かべた。ガキの来る店じゃないっていったのよ、と店長はものわかりの悪い人間に告げるかのように吐き棄てた。どうしちゃったんだよ店長もみんなも、と幸田はまるでおもしろくない冗談でも聞かされたかのようなつくり笑いで周囲に尋ねた。だれも視線を合わせなかった。
「ふん、すっとぼけちゃって。あの男あんたたちの連れでしょ」
 あたしも幸田と似たような表情をしたに違いない。掃除係は業務用フロアワイパーに組んだ両手を乗せ、顎を支えるようにして苦々しげに床を睨んだ。「渡辺聡美ってのはその子か。父親だと名乗ってたぜ。客に紛れて強引に入ってきやがった。どこで訊いたか知らんがおまえらを捜しに来たらしい。客は怯えてみんな帰っちまった。気の毒だけどな、滋。自業自得だ。つきあう女は選べよ」あたしたちにも自分たちにもうんざりしているかのようだった。
 最後の出演料は来月の十日に振り込んどくから、と店長はグラス磨きに没頭するふりをしながら突き放すように言った。「わかったらさっさと帰って。準備で忙しいの。きのうの稼ぎを取り戻さなきゃいけないんだから」
 幸田は微動だにしなかった。重いベース音と中年男の呟き声がフロアに響いていた。だれもが居たたまれない顔であたしたちから視線をそらしていた。チラシの男だけが状況が読めないかのようにキョロキョロしていた。だれも彼に説明してやらなかった。あたしたちにもその余裕はなかった。
 あたしは自分に価値がないのを知っている。だから厄介な客や熱くなった春ちゃんと向き合うとき、身の安全が急にどうでもよくなることがある。このときもすうっと体温が下がるように冷静になった。睾丸という器官は知能や根性を三歳児以下にするのではないか。店長のジェンダーがどのあたりにあるのかは知らないけれど、少なくともこの地下フロアに居合わせた人間で子宮を持ち合わせているのはあたしだけのようだった。社会的信用を喪った現実を認められない幸田も、たかだか迷惑客ひとりに動揺して十七歳の目を直視すらできない大人たちも、みんな愚かな意気地なしに思えた。あたしは幸田を押しのけてウォッカを注文した。酒は出てこなかった。無視しきれなくなるまで店長の目を見つめつづけた。陣内龍之介の連絡先だけ教えて、そしたら出てくとあたしは言った。
 大人の自尊心が許さないはずの恐怖が店長の目によぎるのをあたしは認めた。二十年後の事件で被害者の何人かがあたしの客だったこと、彼らが酸や手錠や刃物を隠し持っていたことをあたしが春ちゃんに話したせいでそうなったことが知れ渡ると、だれの目にもこんな色を見ることになる。決してそんな風にあたしを見ないのは春ちゃん自身と廃人同然の幸田だけだ。ひとたび見たり聞いたりしただけの情報を正確に再現できる店長の特技をあたしはこのときはじめて知った。店長は無愛想を装いながらも電話番号と、尋ねてもいないメールアドレスと住所までをも小鳥のように滑らかにさえずった。
 引き返すあたしたちを従業員たちは身をこわばらせて避けた。まるで伝染病を媒介する醜悪な虫に対する態度だった。さぁ仕事よ、開店に間に合わないわと店長が手を打ち合わせて声を張り上げた。その声には明らかな虚勢が感じとれた。あれから長いつきあいになるけれども店長ほどの小心者にして見栄っぱりには出逢ったことがない。店長が青年実業家と暮らしはじめて養子をとると言い出したときに反対したのは、彼ないし彼女がそう思いたがったような偏見からではなく、単に性格が親になることに向かなかったからだ。資格があるのは冴子ママと陣内のような夫婦だけだとあたしは考える。たとえ彼らが同性だったとしてもあたしは同じことを主張した。
 教わった番号にかけたが出なかった。陣内の部屋は小綺麗なマンションの二階だった。呼び鈴を鳴らして待った。冴子ママは集中治療室で面会謝絶。彼もまた仕事どころではなかったはずだ。もう一度鳴らした。あきらめて帰ろうとした頃にインターフォンから国語教師のはい? という返事があった。ファミリーピザです、養子の宅配にあがりましたとあたしは言った。錠がはずされてドアがひらき、無精ひげの生えた顔が見えた。一睡もできなかったのだろう、目は虚ろで隈ができていた。あたしの人生において他人に結びつきのようなものを感じる機会は少ない。この二十年で彼はすっかり老けてしまったし、顔を合わせる機会もほぼなくなったけれど、このときに感じた気持はいまも変わらない。この男は冴子ママを愛しているのだ。
 あたしは陣内を押しのけ、幸田の手を引いて勝手に部屋に上がった。居間のソファに幸田を座らせてその隣に陣どった。彼の部屋にあったのは十年あまりのちに絶滅するプラズマ方式のテレビだった。あたしは高そうなオーディオや書棚の本を値踏みした。書斎にはもっと本があるのだろう。講演に呼ばれたり書店に著書が平積みされたりする程度に名の知れた詩人なのをそのときは知らなかった。おれはすぐ帰ります、ただの付き添いですからと幸田が弁解した。睨みつけてもしれっとしていた。陣内が台所に消えるとあたしは小声で幸田を問いつめた。「男の部屋に置いてきぼりにするつもり?」
「聡美が勝手に押しかけたんだろうが。お義母さんとのことに立ち入れねぇよ」
「匿ってもらえって言ったのはあんたでしょう」
「教師になんて言ってない。まさかここに泊まるつもりか。会って話すだけだと思ったんだよ」
「冴子ママの彼氏なのよ。家族みたいなもんでしょ。事件が解決するまであたしたちはここで暮らす。陣内にもあんたにもいやとは言わせない」
「いやいやいやおかしいだろその理屈。法的にも社会通念上も他人だろ。向こうだってばれたら馘だぞ」
 三回も言ったとあたしは思った。「ははん。妬いてるんだ」
「おまえ最近めちゃくちゃだぞ。春雄の父親を罠にかける作戦だって……」
「ちゃんと助けてくれたじゃない。同意したのを忘れたの。いまさら弱気にならないで。一緒に暮らしてって言ってるだけよ」
「プロポーズみたいだな」
 あたしはばかと叫んで幸田を殴った。陣内が木のボウルと魔法瓶を手に戻ってきて茶托と湯呑みをテーブルに並べ、それからあたしたちの様子に気づいた。言葉が見つからなかったのか関心がなかったのか結局何も訊かれなかった。幸田は涙目で頬をさすっていた。頬は急速に腫れてきた。あたしの拳もだ。木のボウルにはチーズおかきと小梅飴が盛られていた。あたしたちは十分ほど無言で詩人の淹れてくれたほうじ茶を飲んでチーズおかきを食べた。別に食べたくはなかったし美味しくもなかった。それからあたしは説得にかかった。ふたりとも自宅にいると危険なこと、ほかに行くあてがないことを説明し、家事は引き受けるからしばらく置いてくれと懇願した。もちろん幸田か春ちゃんにやらせる腹づもりだった。冴子ママと結婚すればどうせあたしと同居することも示唆した。陣内は憔悴のあまり断る気力どころか思考力もないように見えた。ではぼくはソファで寝ますと肯き、幸田君はどうしますかと尋ねた。釘を刺すつもりであたしは幸田を睨みつけた。幸田は肩を縮めておれは床でと不承不承に言った。あたしはよくできましたという顔で肯いてやった。
 不自然な組み合わせの三人がマンションの一室で膝をつき合わせるのに耐えかねたのだろう。男たちはふたりとも様子がおかしかった。幸田は手汗を拭うかのようにジーンズの膝を掌でせわしなくこすった。トイレに行きたいのかと思ったら逆だった。彼はビールを所望した。チーズおかきにはビールでしょうと彼は開き直った犯人のように言った。未成年が法律違反を教員に要求するだけあって目つきが尋常ではなかった。近所のコンビニに買いに行きますと陣内はまるで台詞を読み上げるかのように答えた。国語教師が酒臭いのにあたしはそのときはじめて気づいた。はぁっなんでだよと幸田がすっとんきょうに叫んだ。大人だろ、なんで冷蔵庫にストックがないんだよ。下戸なんですと陣内は答えた。ワインならあります、料理に使うのでとつづけた。料理なんてするのと今度はあたしが叫んだ。しますよ独身なのでと陣内はあたかも独身なら自炊するのが当然であるかのように言った。この認識が誤りである事実は鬱病のひきこもりを抱えた三十路女のあたしが保証する。へとへとになって帰宅して他人を食べさせる気力はないし、ずっと家にいる癖に幸田はたいしたものをつくらない。コンビニのお総菜がなければあたしたちふたりはとっくに餓死していたろう。
 結局あたしがコンビニに買い物に行き、幸田が常軌を逸した調子で缶ビールをがぶ飲みしてチーズおかきを平らげるあいだ、陣内は湯飲みでワインを飲みながら手際よくパスタをつくった。手伝いを申し出たのだけれども足手まといになるだけだったのですごすごと引き返して幸田の観察に徹した。数時間後には陣内は書斎兼寝室のベッドで服を着たまま真っ赤な顔で鼾をかいていた。彼のつくったパスタは予想外に美味しかった。それまではきっとあたしたちみんな空腹で苛ついていたのだ。あたしと幸田はソファでジャックダニエルをまわし飲みした。幸田にはいつもの元気がなかった。しょっちゅう携帯を確かめては考え込み、外に出て行っては戻ってきて数分後にはまた携帯を見ていた。そのたびに彼はソファの端に少しずつ移動した。それがあたしの気に障った。あたしは彼を張り倒した。幸田を殴ったのはこの日がはじめてで、以来そういうことは珍しくなくなったけれども彼が殴り返してきたことは一度もない。本気でやればあたしが死ぬのをわかっているからだ。身長百八十センチ体重七十キロの男が百六十センチ四十八キロの女と暮らすのはそういうことだ。
 女のとこ行くんじゃなかったのとあたしは詰め寄った。自分でも何を言っているのかわからなかった。予告抜きで押しかけられるかよ、電源切ってるのかつながらないんだと幸田は抗弁した。着信拒否ならいいけどまさかあいつまで……との言葉を聞いて胸が締めつけられた。幸田もユカも春ちゃんも大人になっていく。あたしだけが怯えた幼児のまま取り残される。行かないでよと叫んだ。瓶をひっつかんで殴りそうになる衝動をこらえた。認めよう、あのときのあたしは飲み過ぎて父のように狂っていた。瀬戸際で踏みとどまった。考えるべきことはほかにもあった。たとえばの話だけどとあたしは切り出した。柿沢が発案者だったとしたらどう。あたしにのしかかられた幸田はまたそれかと顔をしかめた。柿沢は酒の席の冗談のつもりだった、とあたしは推理した。なのに仲間が実行に移した。やめさせようとして恨みを買った。
 だとするとそいつにも子どもがいなきゃ筋が通らない、と言って幸田はあたしをそっと押しのけ、座り直して服を整えた。そして赤ん坊をなだめるようにあたしの背中を軽く叩いた。あたしは幸田と反対側の肘置きにもたれて考え込んだ。いたかも娘が、と呟いて練炭自殺について幸田に教えた。娘が自殺の集まりに加わったのならこれ以上の皮肉はない。ある意味では似た者親子と言えた。
 飲むと痒くなる左手首をあたしは掻いた。幸田がじっと見ていた。おれたち飲むのやめないかと唐突に彼は言った。あたしはえっと叫んだ。聞き違いかと思った。ほかの遊びを知らなかったので心底びっくりした。「じゃこれからどうするのよ。なんでそんなこと言うの」
「わからない。ただなんとなくそうしたほうがいいような気がするんだ。おれたちは逃げるために飲んでいる。この件が片づいたらもう終わりにしよう」
「もう逢わないってこと?」
「そんなこと言ってない。ただ飲むのをやめるだけだ」
 幸田はふらふらと居間を出て行った。どこへ行くのかと思えば浴室に閉じ籠もった。扉の向こうから寝息が聞こえてきた。居間にひとり取り残されたあたしは低い音で深夜映画を観た。プラズマテレビを試したかったのだ。そんな贅沢を堪能したのは陣内の部屋に居候したこの時期と、彼と冴子ママが結婚してから赤ちゃんが生まれるまでのごくわずかな同居期間だけ。それ以前は薄型大画面テレビそのものがあまり一般的ではなかった。幸田とふたりで暮らすようになってからは彼がテレビの音を厭がったし、鬱で働けない彼のために生活のゆとりもなかったので、ブラウン管のテレビデオを故障で手放してから二十年あまりも流行と縁遠い生活をつづけることになった。ネットフリックスに加入した二年前は急に文化的になった気がしたものだ。
 映画は確か『砒素と古レース』なる題名だった。戦前のハロウィン喜劇で善良な老姉妹が主な登場人物だ。昔ながらの下町はドジャースのナショナルリーグ制覇で激変し、若者たちは恐怖映画に夢中。あんなのが流行るから若者がおかしくなるのよ、と世相に眉をひそめる老女たちは尊い社会奉仕のつもりで、独居老紳士を新聞の出逢い欄で招き寄せては殺害する。甥のひとりは逃亡中の連続殺人鬼。別の甥は自分をセオドア・ルーズベルト大統領と思い込み、地下室にパナマ運河を掘って黄熱病の犠牲者を埋め、身内の犯行を支えている。最後のひとりは劇評家で、牧師の娘とラスベガスで即席結婚した。おば姉妹の家へ報告に訪れたばかりに血筋に気づく。滑稽なドタバタのあげく自分が貰い子であると知った彼は、目を剥き奇声をあげて狂喜し、あたかも絞め殺すかのように新妻を抱き寄せてナイアガラへ旅立つ。
 何も知らずに結婚した牧師の娘が可哀想だった。純白のドレスも祝福もつまらない中身を覆い隠す包装紙でしかない。リボンをほどけば屍体が出てくるかもしれない。飾り立てた包装紙だけ味わいたいのか、つまらない中身こそがほしいのか。そのどちらかでなければ結婚なんてするもんじゃない。冴子ママと陣内のような夫婦は奇跡的な例外なのだ。だからこそあの幸福な家庭はそっとしておきたい。お盆や年末年始のたびに帰ってきなさいとふたりから電話をもらう。歳をとって感傷的になった冴子ママは昔話をしながら涙声になることもある。でも彼らが本心では望んでいないのも心の奥底であたしを畏れているのも知っているし、穏やかに歳を重ねてゆく彼らのためにも、狂気や暴力を知らずに成人しようとしている彼らの子どものためにも実家には近づかない。優しい想い出だけで充分だ。
 あたしはリモコンを握ったままいつの間にかソファで眠りに落ちた。

 陣内のマンションに転がり込んで幾日か過ぎた。商店街のアーケードには竹竿が設置され吹流しや短冊が吊るされている。軒を連ねた露店には小遣いを握り締めた子どもが群がるだろう。琴台公園では無料コンサート、夜は城善寺通りでパレードがある。いずれも震災の煽りでなくなったけれども当時は夏の風物詩だった。地元民にとっては混雑で日常生活に支障が出るだけとはいえ見られないのも寂しい。あたしは窓辺に寝転がって空を見上げていた。快晴なら吹流しが夕焼けに映える時刻なのに空はいまにも降り出しそうだ。ジンクスになるほど毎年そうなのだ。冴子ママは集中治療室からは出たものの意識が戻らなかった。陣内はあたしたちが転がり込んだ翌朝から内心はどうあれ憔悴した様子を見せなかった。あたかも当然の日常であるかのように病院と学校とマンションを行ったり来たりした。おかげで顔を合わせる時間はほとんどなかった。
 あたしは家庭の事情でしばらく休むと学校に連絡した。このまま冴子ママがよくならなければ学校は辞めねばならない。もともと父の見栄で通わされていたにすぎない。中学からの五年間でできた友だちはユカくらいだし別に未練はない。事務の女はしつこく探りを入れてきた。詳しい事情は警察に訊いてくれと言って飯沢警部の電話番号を教えてやった。他人の権力を利用するのは悪くない気分だ。
 臼井幸代もずっと休んでいるらしかった。幸田のつくった夕食を珍しく三人で囲んだとき陣内に訊いたらそのことを教えてくれた。「お母さんの話では幼なじみの事故死にショックを受けたそうです。遠方の親戚宅にいるとのことでした」
「事故死」
「ええ、バスで」
 遠くにいるのなら身の危険はあるまい。自分たちだけの心配をすることにした。父には信者が大勢いたのでどこでだれに見られて密告されるかわからない。あたしが買い物に出たのは最初の一度きりで、あとはすべて陣内に任せ、逃走中の犯罪者よろしく幸田とふたりでマンションにひきこもった。幸田は商売道具を手に入れる算段どころか音楽への情熱すら忘れてしまったかのようで、浴室のカビ取りをしたり換気扇を重曹に漬けたり窓枠の汚れを掻き出したりあたしと陣内の食事をつくったりするほかに何もしていなかった。彼自身はほとんど食べていなかった。高校教師の給料だけでは買えなさそうな真空管アンプやら骨董家具のようなスピーカやらにも関心を示さなかった。携帯で話すのを何度か見たけれど相手は女ではなく春ちゃんと浜口氏らしかった。
 幸田は数日間でまるきり別人のようになった。針鼠のように逆立った頭でさえペタッとなって元気をなくした。二十年後のいまではあたしが切ってやらなければ浮浪者のように伸ばしっぱなしだ。変わったのは彼ばかりではない。父親を瓶で殴ったあの夜から春ちゃんは明らかにあたしたちに関心をなくしていた。潜伏生活がはじまってから彼とは一度も話していなかった。
 あたしは陣内の半袖シャツとおやじ狩り事件の夜に幸田にもらったジーンズで毎日を過ごしていた。持ってきた下着では足りなくなったので一度浴室で手洗いし、タオルで囲むようにしてベランダに干した。陣内の半袖はあたしには七分袖のようで裾はワンピースのように腿まであった。そんな格好でごろごろしていたら幸田から邪魔だと苦情が出た。彼は蜜蝋でフローリングを磨いていた。同じ銘柄のオレンジ油でギターの手入れをしていたのを知っているので哀しくなった。あたしは渋々立ち上がって寝室兼書斎へ移動した。それぞれの寝場所は最初の夜からなんとなく決まっていた。ベッドは陣内が、居間のソファはあたしが使った。幸田はいつも浴室というわけにもいかず台所の床に毛布を敷いて寝ていた。初夏だったからどうにかなった。こんな生活を素面の陣内がどう受け入れたのかはわからない。酒が抜けた頃には後に退けなくなっていたのだろう。浮き世離れした男なので何も考えていなかった可能性もある。逆にすべて考え抜いた上であたしたちに気を遣わせまいとふるまったのかもしれない。冴子ママがあたしを引き取ったときのような決意がそこにはあったのかもしれない。いずれにせよ彼は生活を犠牲にしてあたしたちを護ってくれた。その恩は忘れない。
 昼間は書斎を自由に使わせてもらっていた。壁一面の重厚なつくりの書架に本がぎっしり詰め込まれていた。日本文学や詩の全集、研究書や専門誌、さまざまな辞書。これを全部読んだのかと思うと気が遠くなった。あたしは机に向かい、五年ほどのちに中国企業に買収される赤いトラックポイントのついた黒いノートPCを起ち上げた。陣内は当時まだ珍しかった常時接続を使っていて、すでに廃れつつあったネットスケープというブラウザに海外の掲示板がいくつもブックマークされていた。あたしはヤフーのリンクをたどって素人の日記を読んだ。別におもしろくはなかった。毒にも薬にもならないバラエティ番組を惰性で眺めるようなものだった。
 どうして被害者が逃げ隠れて生きねばならないのだろう、いつまでこんな生活を強いられるのかと考えた。どうせ暇を潰すなら背後の書架からどれでも一冊選べばよかったのにといまは思うけれど、当時は小説なんてものを読むのはユカのような優等生がやることだと思っていた。共感できる本にまだ一度も出逢えていなかったせいだ。学校で読まされる本やマスコミで紹介される本はどれも普通の人生を想定していた。もしくはそういう読み方を生徒は強制されていた。もっと早くジョン・アーヴィングの小説に出逢えていたら、『人間失格』があんな話だと知っていたらと思う。そうしたらあたしは独りではないと知ることができて、立ち向かう勇気を持てたかもしれない。世間はそんな力を十七歳に持ってほしくないのだ。踏みつけにして笑うことができなくなるから。
 父の言い分にそっくりな政治家のツイートを先日読んだ。優れた遺伝子をのこせない人間は社会のニーズがないから淘汰されてしかるべきだという。物事を「わかりやすさ」で計る連中はひとそれぞれの事情を許さない。目の前の弱者を踏みつけにしてでも単純明快な暴力に喝采する。幸田と春ちゃんに出逢うのがもう少し遅ければあたしは父か社会に殺されていたろうし、そうでなくともいま以上に魂が殺されて芯から腐っていたろう。あれだけのことが明るみに出て二十年も経ったいまでさえ何も変わらない。かつての支持者に渡辺さんのお嬢さんですねと挨拶され、まだそんな風に捉えているのかと呆れるようなことを面と向かって言われたりする。この社会では愚かな暴力に従うのが正義なのだ。浜口氏はあまりにも「普通」の人間で、だからこそそのニーズに忠実だった。
 居間で「チュニジアの夜」が鳴った。ええ、いますよと幸田が言うのが聞こえた。居間へ戻ると携帯を差し出された。浜口さんからと言われた。一度顔を合わせただけの彼が何の用だろうと訝った。「ああ、お嬢ちゃん。さっきどなたがいらしたと思う? 当ててごらん」浜口氏の声は何かの熱に感染したかのように嬉しそうだった。まるであたしが感極まって礼を言うのを期待するかのようだった。「お父さんだよ。渡辺大輔さん」
 あたしを見守る幸田の顔色が変わった。春ちゃんの父親に絞殺されかけたときと同じ目つきだった。あたしの表情から何かを察したのだ。浜口氏はひとことずつ噛みしめるようにしみじみと語った。
「きみたちの立ち寄りそうな場所をしらみ潰しに訪ね歩いたそうだ。仕事も放り出してね。きみたちの年頃は親の偉大さや愛情がわからないんだろうな。家出なんかしてどれだけ心配させたか考えてみなさい。あんなに立派な優しいお父さんがいてお嬢ちゃんは幸せだよ。再会したらよく話し合うといい」
 あたしのような育ち方をしてさえもこのときまで大人というものに幻想を抱いていた。渋い雰囲気を漂わせるジャズバーの店主でも暴力については何ひとつ知らない。いくら社会経験を積んでもわからないことはわからないのだ。どちら側の人間か嗅ぎ分けようとする癖はこのときについた。浜口氏は自分が何をしたかを理解しないまま亡くなった。あんなことになるなんて思いもしなかったんだよと顔を合わせるたびに聞かされたが謝罪というより幼稚な弁解にしか聞こえなかった。「あんなこと」がどんなことかまるで理解していない。むしろそんな些事を十五年も根に持つほうがおかしいとでも言いたげな態度だった。父があたしを本気で殺害しようとしたこの日、父が公衆の面前で、幸田の目の前であたしを辱めたこの午後、浜口氏はマンションの住所を最後まで正確に口にした。そして人生の先輩として教え諭してくれた。
「控えといてよかった。合ってるね? そこにいるって伝えといたから。男親ってのは娘の幸せを願うあまりつい余計な口出しをしちまうものさ。どんな事情か知らないが、あんまり困らせちゃ駄目だよ」
 事情を知らないならなぜわかったような態度で父を助ける。道徳を押しつけたいあまりどんな目に遭わせても構わないのか。しどろもどろに挨拶して切った。浜口氏の声には悪意が微塵も感じられないばかりか親切心に溢れていた。これが「普通」ということなのだ。純粋な善意でサイコパスの犯行を幇助するのが。社会はこんな大人のために構築されている。隙があったとか薄手の服を着たからだとか、その気にさせるようなそぶりを見せたのだろうとか言うたびに、世間のひとは父と渾然一体となって、あの十七歳の午後のあたしたちを貶める。数日ソファで寝た疲労が一度に襲ってきた。幸田に携帯を返し、いますぐここを出なければならなくなったことを説明した。すまんと幸田は青ざめた顔で茫然と呟いた。浜口さんになら居場所を伝えても大丈夫だと思った、相談に乗るかのような態度に騙されたとうわごとのように呻いた。反省を聞かされたところでもう何もかも遅かった。あたしには破滅が迫っていた。それはインターフォンを鳴らした。あたしたちは顔を見合わせた。
 呼び鈴は執拗に鳴りつづけた。ドアが叩かれた。その音が激しくなる。暗い記憶を揺さぶる声があたしの名を呼んだ。
「いるのはわかってる。出てきなさい!」


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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