逆さの月

第5話: 制服少女たちを選択

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.17

悶々として眠れなかった。いま思えば制服を着たまま畳で眠れるほうがおかしいのだが当時は慣れてしまって何とも思わなかった。ウォッカの残りを干して始発のバスで帰った。冷蔵庫の前でコントレックスを飲んだ気もする。夢かもしれない。居間に冴子ママと陣内がいて三人でおはようを交わした。ベッドに倒れて記憶をなくした。目が覚めて階下へ降りたときにはだれの姿もなかった。テレビをつけた。月曜の朝の番組をやっていた。事態を呑み込むのに時間がかかった。二階へ駆け上がって身支度をして鞄をつかみ、駆け下りて家を飛び出した。礼拝には奇跡的に間に合った。ユカの顔を見つけておはようと声をかけた。無駄話をする元気はなかった。逆に寝すぎたせいかもしれない。土日が消失した経験ではじめてアルコールに恐怖を感じた。授業がはじまってもまだ意識に靄がかかっていた。まるですぐに解決しなければいけない問題を忘れて思い出せないかのような気分だった。
 一限目の化学は自習とお喋りの時間と見なされていた。しょぼくれた老人の宮沢は虚ろな目で独り言のように喋った。騒然とした教室ではほとんど聞きとれず、板書も悪筆で判読できない。元教え子と結婚して公立校から転職した彼は孫にデレデレだと噂されていた。たまに駄洒落を呟くことがあるのを最前列の席だったときに知った。聞きとれた数名はそのたびに顔を見合わせた。前方の数名が動揺したそんな瞬間、消しゴムが落ちてユカの椅子の下に転がった。身を屈めて手を伸ばし、拾い上げながら違和感をおぼえた。いつもなら拾ってくれるのに。ユカは「ウルドゥー語会話入門」に黙々と打ち込んでいた。礼拝堂でも会話を交わさなかったのを思い出した。それどころか挨拶にも反応がなかった。そのことに気づかないほど当時のあたしは他人に関心がなかった。
 無言電話が急に脳裏によみがえりパラノイアにとらわれた。あの長いのろけを聞き流したのを後悔した。歳上の男に連れられて訪れた店で一目惚れし、バイトが終わるのを待ち伏せて口説いたとか、確かそんなことをユカは言っていた。浜口氏が忠告のつもりで何か余計なことを話した可能性はある。幸田が一笑に付したとしてもユカが信じるとは思えない。非通知だったのは美容室に予約でも入れて解除を忘れたのかもしれない。けれどもし仮にあの電話がユカだとしてはい、もしもしのふた言だけであたしだと特定できるものだろうか。荒唐無稽な関係妄想をあたしは振り払った。詩の朗読男を陣内と思い込んだように何もかも結びつけすぎだ。たとえ妄想が的中したところで後ろめたいことは何もないし、疑われたかどうかも定かでないのに申し開きはできない。
 どうせパラノイアに陥るのならあの小男の仕業と考えるのが自然だ。何しろつきまとわれた揚げ句に殺されかけたのだ。個人情報にルーズな幸田はファミレスの接客アンケートにも気軽に携帯番号や住所やメールアドレスを書いていた。ああいうものを入手するのはそう難しくあるまい。では動機は何か。まるで記憶にない相手だ。恨みを買う謂われはない。あたしたち三人のだれを狙っているのかもわからない。最初はあたしのせいで幸田を巻き込んだと思っていた。でも無言電話は幸田の携帯にかかってきたし、訊いてもまともな答えは得られないだろうけれど、挙動不審なあの態度からして春ちゃんも尾けられていたように思える。幸田の意見を聞こうにも電話に勝手に出たことまでは話せない。もどかしかった。ただの飲み友だちだったはずの彼に頼ろうとしている自分に驚かされた。
 悶々としていると教師の独り言が急に途切れて意識が引き戻された。彼は視線を宙に漂わせて教科書を閉じた。何か妙なことを言い出しかねない雰囲気だった。彼が駄洒落を言うことを知っている数名が耳をそばだてた。彼の呟きと同時に鐘が鳴った。あたしは頭のなかで声を増幅し雑音を除去した。もうすぐ星祭りですねと彼は言ったのだ。週番が数学の問題集から顔をあげて号令をかけた。老教師は商売道具を小脇に抱えて去った。しょぼくれた背中だった。佐倉と取り巻き連中が知らないだれかの噂話に興じながら出て行った。老いと若さの対比が際立った。どうしてあの手の女たちはトイレにすらひとりで行けないのだろうと考え、幸田の声で安心したがっている自分を恥じた。ひとのことは言えない。
 屋上は自殺防止のために施錠されていた。あたしは半年ほど前にヘアピンで解錠する方法を編み出していた。昼休みに侵入して幸田に電話し、小男のことで警察に相談すべきか議論した。ようやくその話題に触れる勇気が出たのだ。幸田も二日間ずっとそのことを考えていたらしい。やめておくべきだと意見が一致した。十七歳が何を言ったところで証拠がなければ信じてはもらえまい。あべこべに疑われて不快な思いをさせられた揚げ句、実際に被害に遇うまで動けないと断られるのが落ちだ。今後の対策を長々と話した。渇きが癒やされるような感じがした。あのふたり組と出逢うまであたしはだれとでも適当につきあいながら距離を置いていた。まるで別種の生物のように接点を感じなかった。家族について語る同級生を見るたびにその思いを強めた。親友と呼べるはずのユカに対してでさえそうだった。変わったのがいいことなのか悪いことなのかわからない。人心地がついたような気もしたし弱い生き物になったような心細さも感じた。
 幸田は青工生の知人からいくつかの事実を聞き出していた。丸大留吉は死の数日前から一睡もしていなかった。別居する父親から夜ごと電話がかかってきて何時間も説教をされていたという。学校でもふらふらしていて小さな段差で転ぶのを何度も目撃されていた。「丸大留吉は花田佐久子と一時期つきあってたそうだ。それだけの情報でたっぷり恩着せられたよ。おまえサッカー観戦に興味ある?」
「ないし、あってもひとりで行く」思いのほか険しい声が出た。
「固いこと言うなよ。いいやつなんだぜ……」
「あんたたちと遊べなくなるよ。それでもいいの」
 いつもの反射的な軽口の応酬のつもりだったのに幸田は急に無言になった。まるで本気でその可能性に動揺したかのようだった。面喰らってこちらも動揺した。幸田と春ちゃんと遊べなくなる未来が訪れるかもしれないとはその瞬間まで考えもしなかった。互いにしどろもどろになって通話を終えた。これまでもこんなやりとりは日常的にしていたはずなのにどうしてこんなおかしな空気になるのかわからなかった。薄暗い空を見上げて鼓動と呼吸を落ち着けた。それから近所のコンビニへ買い出しに行った。食堂は混むし購買のパンはすぐ売り切れるので、制服の下にジャージを穿いて施錠された裏門を乗り越える生徒はあたしだけではなかった。
 その一日は長かった。ようやく古典の講習を終えて外へ出ると小男が自販機のそばで競馬新聞を読んでいた。これでもパラノイアかよと思いながら同級生たちから離れ、小さな神社や中古盤屋を過ぎた。ガソリンスタンド前の横断歩道を渡って古本屋街へ向かった。資源ゴミ収集の前日らしく黄色いプラスティックの籠に瓶や缶が入れられていた。人けのない脇道に入って歩調を速めた。足音とマスク越しの荒い息が一定の距離を保ってぴったりついてくる。走り出したくなるのをこらえた。暗い路地は曲がりくねって狭まった。枯れた鉢植えを乗せたエアコンの室外機や、錆びた自転車、野ざらしの洗濯機、白茶けてひび割れたポリバケツなどが並んでいた。背後の息遣いと足音が距離を狭めた。ブロック塀とコンクリート壁に行く手を阻まれた。袋小路だ。街灯の下で立ち止まって振り向いた。小男が競馬新聞を投げ棄ててイヤフォンを耳から外し、手袋をはめた両手にコードの端を巻きつけた。
 小男は飛びかかってきてあたしの首を締め上げた。悲鳴をあげる暇もなかった。あたしは鞄を取り落として喉を掻きむしった。小男の鳥打ち帽が落ちて薄い頭が露出した。サングラスの奥の目がほくそ笑んだように感じられた。どぶのような体臭と熱い鼻息を感じた。殺されることより殺された後にされることのほうがもっと厭だった。早く解放されたかった。死んでしまえばこの男にされることも父親にされたことも関係なくなる。
 意識が遠のいて白い閃光に包まれた。天国の扉がひらいたのではなくLEDのフラッシュだった。人工のシャッター音と同時に飛び出してきた幸田が小男の脇腹を殴った。ゆるキャラの子が轢き殺されたときと同じ音がしてコードが緩んだ。幸田は小男をあたしから引き剥がすなりそいつの顔に拳を叩き込んだ。あたしは喉を押さえて咳き込んだり喘いだりしながら涙を流してうずくまった。打ち合わせでは証拠を撮ったらすぐに拘束して警察を呼ぶ予定だった。その選択肢が消えたのをあたしは知った。予定通りに運んだとしても十七歳が通報すればあべこべに疑われただけだったろう。
 男たちが助けに入るタイミングは明らかに遅かった。幸田のあの執拗な怒りはあと一歩であたしが殺されるところだったこと、危険を承知していながらその状況をお膳立てしたこと、何より撮影を春ちゃんに任せたことの恐怖によるものだった。あたしがすがりついて懇願しなければ確実に殺していた。あたしは帽子とサングラスをなくした小男を幸田の背後から見下ろした。それはぐにゃぐにゃの砂袋とトマトソースたっぷりのピザの合成物のようになって転がっていた。そのようになった人間を見るのは怖ろしかった。幸田はそれまで見たこともない目つきをして荒い息をついていた。拳は擦り剥けて血が滲んでいた。親しい男のそのような一面は知りたくなかった。おやじ狩りの加害者たちは見知らぬ他人だったし、あのときは幸田もここまでやらなかった。
 それより怖ろしかったのは春ちゃんだ。彼は水銀灯の光の輪から離れてまったくの無表情で棒立ちしていた。幸田の携帯をまるで撃ったばかりの拳銃であるかのように両手で構えていた。あたしは彼を直視できなかった。物陰から飛び出す前の苛立ちと焦りで幸田も気づいていたはずだ。目の前で親友が殺されかけたことに春ちゃんは何も感じていなかった。心があるはずの場所は空洞だった。そこにはもしかしたらはじめから何もなかったのかもしれない。のちにあたしたちはあの瞬間を変化の間隙に生じた真空のように見なした。あたしたちの知らない春ちゃんになる寸前の、あれは最後の姿だったのだ。
 あたしは通学鞄を拾い上げ、昼休みにコンビニで買った梱包用の紐を取り出した。電話で計画を話した時点ではこんな気分にさせられるとは思ってもみなかった。幸田はまるでだれかで練習でもしていたかのように手際よく小男を縛り上げた。あたしは後ずさるように離れて電柱に寄りかかり、血の汚れでも落とそうとするかのように首を強くこすった。痕が残りそうだった。男たちのそばにいたくなかった。数日前まで一緒に飲んだり雑魚寝したりしていた彼らが別の人間に見えた。幸田は小男を憎むことに気をとられてあたしを見ていない。護れなかった相手より自分の屈辱を気にしている。男はそういうものなのだという絶望的な理解にそのときあたしは至った。
 幸田は後ろ手に縛った小男を乱暴に座らせた。両膝のあいだに左手を垂らして屈み、小男の顔を覗き込んで、泥だか血だかわからないもので汚れたマスクをつまみ下ろした。そしてうんざりしたように顔をしかめた。ひさしぶりだなおっさん、と吐き棄てるように幸田は言った。小男は折れた歯を西瓜の種のように吐き出し、この悪ガキどもめが、おやじ狩りとはご家族が知ったらどう思われるか、と不明瞭なだみ声で言った。そんなもんいねえよ、親父は外国だと幸田は答えた。春ちゃんは身動きひとつしなかった。呼吸さえしていないかに思えた。そんな彼を見上げて小男はおう息子よ、元気にしてたかと嘲笑するように呼びかけた。春ちゃんは答えなかった。
「足場を落としたのもあんただな。なぜ聡美を殺そうとした」
 幸田の質問に小男は答えなかった。鼻を鳴らして笑っただけだ。幸田は顔を見もせずに春ちゃんから無言で携帯をひったくった。小学校からの親友に接するにしてはいささか乱暴に思えた。幸田は撮影したばかりの画像を小男に突きつけた。幸田は渋ったが後でせがんで見せてもらった。女子高生を絞殺しようとする小男の顔はフラッシュを浴びてホラー映画の一場面のようだった。あたしの顔は絶望に歪んでいて醜かった。いつかその日が来たらあたしはあの顔で死ぬのだ。春ちゃんは夢遊病者のようにどこかへ消えた。無理もないとあたしは思った。心優しい彼には父親が親友を殺そうとしていたなんて耐えがたかったのだろうと。
 匿名掲示板に投稿されたいか、役場の上司や同僚がこのことを知れば……と幸田は尋問をつづけた。実際にはそんなことをしたところで話題になることはまずないし、なったところで困るのはむしろあたしたちなのだが小男には効いた。まだ一般家庭に普及しきっていなかったインターネットが何か呪術的なものに思えたのだろう。頼まれたんだよ! 言われた通りやっただけだと彼は叫んだ。だれに、と幸田に問われて小男は、そのあばずれのお父様にさ、と説教するかのような態度で語りだした。「二週間前、刻文町でカウンターで隣り合わせて意気投合した。互いの子どもが知り合いとわかり縁を感じた。同じ時代の荒波に揉まれてきた父親同士で熱く語り合った。子どもは親の所有物だ。なのに身勝手な個人主義が跋扈しておまえらは一家の主のために身を犠牲にしようとしない。だから凶悪な少年犯罪が増えるんだ。親として毅然と教育せねば。道義を知る世代が社会を正すのだ」
 ひとはそれぞれの事情に生きていて他人の世界は知りえない。加害者らがどんな動機で何をしたか、どれだけ言葉を尽くしてもだれひとり理解してはくれなかった。助けてくれた飯沢警部にしてもただ職務を遂行しただけで、どちらかといえば被害者であるあたしたちを薄気味悪く感じていたはずだ。親が子どもにそんなわけのわからないことをするはずがない。「普通」になれなかったあたしたちでさえそう思う。でもいくら否定してみたところであたしは現に殺されかけた。あたしやあなたが何をどう望もうが、わけのわからない狂った人間は世の中に確かに実在するし、そういう人間は往々にしてやりたいように生きる。そいつにしか理解できない意味不明な理屈で犯したり殺したりする。たまたまそんな狂人のもとに生まれることだってある。ありえないと笑うのはあたしの生命を軽んじるのと同じだ。
 親たるもの社会に対して道義的な責任がある、と小男は語った。主に従わない所有物は欠陥品だ。社会に迷惑をかけぬよう処分せねばならない。小男によればあたしの父も同意見だった。よくぞ言ったと小男を励ました。改悪されるまでは刑法も子が親を殺す罪をその逆よりも重いと認めていた、民法だって子への懲罰を正当な権利と定めていると父は熱く語った。それが日本の伝統的な価値観なのだと。父を知るあたしには想像できた。あの声や目つき、芝居がかった身ぶりや馴れ馴れしい接触には、ひとを暗示にかける力があった。だれもが彼に夢中にならずにいられなかった。あの知的で冷静な冴子ママでさえ騙された。
 父は小男に「同盟」なるものの存在を打ち明けた。考えを同じくする父親の集まりだという。足がつかないよう、またいざというとき怯まないように、互いの子どもを代わりに粛正し合う。個人主義に歪められる前の美しい日本の心を取り戻すのだ。小男は甘美なヒロイズムに酔い痴れた。
 超法規的措置、とあたしの父は表現した。
 綿密な打ち合わせを経て計画が実行に移された。最初の標的は丸大の息子だった。改心の機会を与えるべく父親は連夜、電話でじっくりと人生訓を語り聞かせた。その甲斐虚しく息子は駅のホームから転落した。花田佐久子も父親の慈悲に報いずに天誅が下った。ここまでは計画通りだった。ところが丸大が自首の可能性をほのめかしはじめた。あたしの父は電話で厳しく突き放した。おまえひとりの心の弱さのためにみんなが迷惑する、気の迷いは独りで背負って消えろと。丸大は動揺して小男に弱音を吐いた。小男は心を鬼にし、渡辺さんが正しいときっぱり答えた。勤務先のビルから丸大が身を投げたのはその直後だった。いまさら引き返せない。なのに今度は花田が臆病風に吹かれた。厄介ごとをひとに片づけてもらいながら責任を果たしたくないとごねた。秘密は守るというが信用ならない。小男は手本を示そうとした。丸大に複製させた鍵で建設現場へ忍び込み資材を落下させた。
 虫の息だったはずの小男は場末のカラオケスナックでマイクを離さない男のように饒舌に語った。二度までも殺害にしくじったくだりまで聞いたとき春ちゃんがだしぬけに近づいてきて、あたしたちを押しのけるとビール瓶で小男の顔を殴った。瓶は高い音を立てて砕け散った。ぼくの人生を目茶苦茶にしやがって、と春ちゃんが叫ぶまで何が起きたか一瞬わからなかった。あたしも幸田もびっくりして春ちゃんをまじまじと見た。街灯が逆光になって表情は見えなかった。見えなくてよかったのだと思う。そんな台詞が彼の口から出るとは信じられなかったし、割れたビール瓶をふりかざしているのが彼だなんてますます信じられなかった。小男にも信じられないようだった。逆手に持ち替えられた瓶の切っ先が街灯の光で輝くのを、血まみれの顔で目を丸くして見上げていた。
 父親だけあって理解するのはあたしたちより早かった。剥き出された目に怯えの色がよぎり、小男は音を立てて失禁した。自分の首から鮮血が噴き上がる未来を見たのだろう。湯気をあげて広がる尿の悪臭であたしはわれに返り、春ちゃんに大声で呼びかけた。鞄で身を守ることもできたけれど自分が殺されるかもしれないとは考えなかった。いまもつづくその錯覚はいつか命取りになるかもしれない。春ちゃんは驚いたようにこちらを見た。いつもの彼だった。行くぞと幸田が促してさりげなく彼とのあいだに割って入り、あたしの背中に手をまわした。春ちゃんは割れた瓶をなぜそんなものを持っているのかわからないかのように不思議そうに見て、投げ棄てた。あたしたちは小男を放置して逃げ出した。ぐずぐずしていたので危うく靴を汚すところだった。
 柿沢や臼井について小男に訊きたかったが叶わなかった。
 春ちゃんは父親を一度も振り返らなかった。かつての意味を喪ってどうでもいい存在となり、彼の世界から永遠に退場したのだろう。ふたりとは駅前のバスターミナルで別れた。幸田は春ちゃんのシャツの背中をずっとつかんでいた。そうしないと幼なじみの魂がどこかへとんで行ってしまうかのように。ほとんど怯えているかに見えた。むしろ春ちゃんのほうが落ち着いていた。幸田の気遣いをよそに独りで生きているかのような顔つきで遠くを見ていた。そんなふたりの後ろ姿が記憶に焼きついている。
 家に帰ると車があるのに窓は全部まっ暗だった。玄関の鍵は開いていた。ハイヒールが左右ばらばらに転がっていた。脱ぎ散らかすひとではないし、脱ぎ散らかしたとしてもこうはならない。呼びかけたが返事はない。現実を明るみに晒すのが怖くて暗い廊下を手探りで進んだ。居間のドアは開いていた。不安に逆らって壁のスイッチに手を伸ばした。蛍光灯がついた。局所的な大地震があったかのようだった。ソファが倒れて低いテーブルはひっくり返っていた。戸棚はガラスが割られて抽斗が部屋中にぶちまけられていた。割れた湯飲みが転がりお茶が飛び散っていた。固定電話はケーブルを引きちぎられて部屋の隅に落ちていた。壁にぶつかった痕がある。テレビは画面を叩き割られていた。床には瀬戸物屋ガラスの破片が散乱していた。
 倒れたソファの向こうに横たわる人影に気づいた。鞄を放り出して駆け寄った。脈や呼吸はあるが呼びかけに反応はなかった。携帯で一一九にかけた。動揺して何をどう話したか自分でもわからなかった。下手に動かすのは危険に思えた。服の乱れをできるかぎり直してあげた。本当は着替えさせてあげたかった。遅い救急車に苛立った。丸めた紙屑が落ちているのを見つけた。拾って皺を伸ばした。離婚届だった。毒虫がのたくったようなサインと捺印。腹いせに力を込めてやったらしい。紙が破れそうになっていた。
 あたしは幸田に電話し、いますぐ来てとわめいた。
 サイレンが近づいた。救急車ではなかった。どれだけ相談してもこれまで一度として助けてくれなかった警察がなぜ呼びもしないのに先に着いたのか。消防が通報したのだと気づいたのはずっと後になってからだ。のちに知り合う警官たちはみんな有能でいいひとばかりだったけれど、このときはくじ運が悪かった。婦警ではなく無神経な中年男ふたり組だった。男というのはどうして肝心なことは遮って聞こうとしない癖にどうでもいいことばかり偉そうに何度もくり返させるのか。おれが訊いているんだと言わんばかりのとんちんかんで傲慢な態度だった。職務よりも、ひどい経験をして目の前に倒れている女よりも、十七歳の女の子相手に優位に立つことのほうが何より大切なのは明らかだった。
 強面お巡りと優しいお巡り、という組み合わせが映画や小説にはよく出てくる。このふたりには口数の違いしかなかった。相棒があたしたちの家を無遠慮に検分するあいだ、聴取役はあたしの全身を舐めるような目で疑わしげに見ながらばかげた質問をくり返した。あたしが冴子ママを気にして視線をそらすとそいつはあからさまに機嫌を損ねた。救急の受付は冴子ママを助けるために必要なことを何も教えてくれなかった。提供した情報が少なかったせいかもしれないし、救命班が到着するまでできることが実際になかったからかもしれない。そのことが気がかりで、でも注意が逸れるとお巡りさんに怒られるし、あたしにとっていちばん大切な大人がすぐそばでこんなことになっているのに、あたしはいったい何をやらされているんだろうと泣きたくなった。
 必死に説明していると救急車が着いた。警官たちは聴取を中断させられて露骨に迷惑そうな顔をした。彼らはわざと邪魔をするかのように救命班のまわりをうろついた。何年ものちにこのときの話を飯沢警部にすると担当はだれだったかなと彼は言い、名前なんて憶えていないので容姿を教えてやると「あぁ」と眉根を寄せて肯いた。何が「あぁ」なのかはわからなかった。冴子ママは酸素マスクをあてがわれてストレッチャーに乗せられた。友人が来るから後はそいつに訊いてと言い棄ててあたしは救急車に同乗した。ぼんくら警官コンビはあたしを公務執行妨害で逮捕したそうな勢いだった。ほとんど振り払うようにして逃れねばならなかった。車内で白衣の男から状況を訊かれた。冴子ママを助けるために必要な質問だったが答えられることはほとんどなかった。発見してから経過した時間さえ警官たちに混乱させられたせいでわからなくなっていた。明かりがついていなかったので被害にあったのは暗くなる前だろうと話した。同じ説明をどうでもいいことのように取り合わなかった警官たちにあらためて怒りが湧いた。
 幸田に電話するため病院の外へ出た。救急車に乗る前に逢えなかったのが心細かった。家のことは心配するなと幸田は言った。声を聞いただけで泣き出しそうになった。礼も言わずに切った。疲れが押し寄せてきた。冴子ママの勤務先にかけるのは明日の朝にした。彼女の高校時代からの親友に教えるべきか迷った。仕事を放り出して九州から飛んでくるに決まっている。冴子ママなら心配かけたくないと言うだろう。黙っておくことにした。ほかに報せるべき相手はいなかった。冴子ママは若いときに両親を亡くしていて近い親戚もなかった。だから父に騙されたのかもしれない。あのタイプは本性を現すまではそういう欠落を埋め合わせてくれる存在のようにふるまう。入籍前に何度も警告したのだけれど冴子ママは笑って取り合わなかった。思春期のありがちな反抗と取り違えたのだ。彼女は過ちを認めなかった代わりにあたしを引き取って父から護ってくれた、顔が変わるほど暴行されたこの日まで。
 集中治療室の前に戻った。そこにいたところで何もできることはない。ベンチに座って携帯を握り締め、灰色のリノリウムを見つめた。自分で家のことを頼んでおきながら幸田がいないことが耐えられなかった。安易な場所へ逃げ込もうとする自分が恥ずかしく惨めだった。奴だってそんなことに利用されたくはあるまい。看護婦の足音やストレッチャーを搬送する音、人々のざわめきが色を失って遠ざかった。春ちゃんの父親を避ける方法なんていくらでもあった。講習に出ないで早く帰っていれば。後悔してもしきれない。冴子ママがあんなことになったのにだれも頼れる大人がいなかった。もし後遺症が残ったら。医療費はどうなる。仕事に戻れるのか。はじめて逢った日から冴子ママはあたしの憧れだった。あんな颯爽とした美人が……。あたしは自分に流れる血に責任がある。でも彼女は騙されて巻き込まれただけなのだ。あたしが護らなければ。
 慌てふためいた足音に物想いから引き戻された。顔を上げた。痩せた長身の男が近づいてくる。何か打ち明けようとする冴子ママや夢だと思い込んだ光景が重なって焦点を結んだ。両開きの扉を憔悴した顔で見つめる陣内に声をかけた。「意識さえ戻れば後遺症は残らないだろうって医者が」
 陣内は全身の力が抜けたようにベンチへ腰を下ろした。ふたりともどうして黙ってたんですかとあたしは尋ねた。
「隠すつもりはなかったのです。話しそびれているうちにこんなことに」
「やったのは父です。離婚に同意したようです」陣内は無言で肯いた。もうひとつ教えてくださいとあたしは言った。何もこんなときでなくてもとは思った。でも訊かずにいられなかった。「柿沢先生の死因は本当に……」
 大きな影が落ちた。肩幅の広いがっしりした男がジャケットを抱えて立っていた。ずっと後で学生時代にラグビーをやっていたと聞いて腑に落ちたものだ。長方形の頭、白いものが混じる短髪。目つきは哀しげで鋭かった。長く厳しい冬を先祖代々歯を食いしばって耐えてきたかのような口をしていて、この初対面のとき想像したように言葉は節約する性格だった。スーツも靴も時代遅れの型でくたびれていた。十七歳のこのときは警官と親しくなるなんて夢にも思わなかったけれども、数年前に癌で亡くなるまで彼には本当に世話になった。奥さんとはいまだに交流がある。このときは尾根川という東大出の若手刑事と組んでいた。妙な寝癖の痩せた青年で、本人が気にしているらしい名前を聞いたときには冗談を言われたのかと思って驚いて訊き返してしまった。逢うたびにまじまじと観察するのだがどういう髪型なのかついに理解できなかった。彼とはもう何年も逢っていない。飯沢の退職後ずいぶん出世したと聞いている。
 県警捜査一課の飯沢です、と言って大男は警察手帳を掲げた。自分から先に名乗る警官は珍しいとのちに知った。尾根川も彼に倣って名乗った。「渡辺聡美さんですね。そちらは」
「陣内と申します。渡辺冴子さんの友人です。聡美さんの学校で国語を教えてます」
「座ったままで構わない。遅い時間に帰宅したようだね」
「講習があったんです」
「青葉学院で最後の生徒が帰宅してから通報まで二時間弱。それまで何を?」
「本屋に寄ってバスを待っていました」
 飯沢はあたしをじっと見下ろした。「鈴木信忠を知っているかね」
 あたしは飯沢の目を見上げた。すべて知られていると直感した。本人か目撃者に通報されたのか。騙せる相手ではない。隠しても立場が悪くなるだけだ。正直に話すことにした。「友だちのお父さんかも。鈴木春雄という子です」
「首のその痕はなんだね」
 あたしは息を呑んで首に手をやった。痣になっているとは気づかなかった。残らないことを願ったが叶わなかった。めざとい客にはいまもときおり指摘される。「春ちゃんのお父さんにイヤフォンのコードでやられました。学校を出たところで襲われたんです。ずっとつきまとわれていて金曜の夜には建築資材を落とされました」
「どこで」
「城善寺通りの……」
 飯沢は部下と視線を交わした。すでに知っているのだ。
「お義母さんが襲われるまでなぜ通報しなかった」
「あなた方は父の味方しかしなかった。小学生の頃から何度も相談したのに。記録に残っていませんか」
「そのようだね。差し支えなければ聞かせてほしい」
「もう話しません。少なくとも男の警官には」
 尾根川はどう出るかを観察するかのように上司を見た。飯沢は顔色ひとつ変えずに肯き、あなたの権利だと言った。そんな警官ははじめてだった。それであたしはこの男を信用することに決めた。小男に聞かされた話を伝えた。ほかにも仲間がいるのかと飯沢は尋ねた。
「春ちゃんのお父さんの話では父はそうほのめかしたようです。それ以上は知りません」柿沢については触れなかった。同じ名字をニュースで見ただけでは話せない。
「朝刊に載るだろうから教えておく。花田道夫の遺体が大瀬川で発見された。頭部を殴打されて転落したらしい。死因は溺死だが頭蓋骨陥没と脳挫傷でどのみち助からなかった。お父さんと連絡がついたら教えてくれ。君とお友だちはしばらく学校を休んで外出を控えなさい。必要なら護衛を手配する」
 結構ですと断った。飯沢は去り際に携帯番号を教えてくれた。名刺は切らしていると言われた。彼はいつも名刺を切らしていた。しまいにはそれがあたしたちの挨拶のようになり、逢うたびにあたしが名刺をせがんで彼が切らしているからと断るのがお気に入りのやりとりとなった。悪用されないために持たないのだろうと理解してはいた。魔法が解けてしまいそうで本人にはついに一度も確かめなかった。
 年配の看護師が、このときはまだ看護婦と呼ばれていたはずだけれど、慌ただしく治療室から出てきてあたしに気づいた。おろおろするあたしに受付でどのような手続をすればいいか親切に教えてくれた女性だ。容体は安定している旨を彼女はあたしに告げ、何かあれば連絡するからと帰宅するように促された。陣内が家まで送ってくれた。バイクを運転する彼は背筋が伸びていた。背中は広くて温かく幸田と似た匂いがした。腰にしがみつくと不安が紛れた。家の前で降ろされた。陣内は予備のヘルメットを座席下の物入れにしまいながら、独りで大丈夫か、何かぼくにできることがあればとあたしに尋ねた。陣内のほうこそ憔悴しきっていてだれかの助けが必要に見えた。友だちがいるんでとあたしは断った。幸田君ですねと陣内は言った。冴子ママの携帯に出て病院を教えてくれたという。
 あたしは礼を言って家に入ろうとした。唐突に陣内が言った。「柿沢先生は犯罪の被害に遭われたようです。刻文町で若者の集団に暴行されたとか。外傷性ショックによる心臓麻痺と聞いています」
「生徒でも連れてたんですか」
 陣内は一瞬、黙った。「……小六の女子児童だそうです」
 麻痺した頭にはどうでもいいことに思えた。幸代は理想の父の幸せな記憶を胸に一生を終えるだろう。居間では幸田がソファで眠りこけていた。家具の位置が戻されて破片や残骸は片づけ荒れていた。戸棚のガラスは抜き取られていた。春ちゃんの手を借りずに幸田ひとりでやったのだ。固定電話のケーブルはつなぎ直されていたけれど画面の砕けたテレビとカーペットの染みはどうにもならなかったようだ。指紋を採取したらしい粉も拭いきれずあちこちに残っていた。冴子ママのブランデーがテーブルで半分空になっていた。幸田を責める気にはなれなかった。瓶を持って二階へ上がった。あたしの部屋も荒らされていることに幸田は気づかなかったようだ。机の抽斗やクロゼットの中身がぶちまけられていた。ベッドと机のほかに家具がないおかげで階下ほどの被害はなかった。シーツが引き剥がされたベッドで酒を呷った。むせた。
 父の姿がちらついた。目をしばたたいて煙を払うように手を動かした。鮮明になるばかりだった。過去から逃れようとして飲んだ。「人間開発研究所」の看板が見えた。なぜ塾にそんな名称をつけたのかだれにもわからない。パイプ椅子と折り畳み机の並ぶ教室。教育理論を専攻する院生たち。連日ここで独自テキストをやらされた。父の革新的な理論を証明するために。あたしは数学や物理学の高度な数式を証明したりヴァイオリンの超絶技巧で世界中の聴衆を魅了したりするスーパー小学生になって殺到する取材をさばきながら父のために日々億単位の金を稼ぐはずだった。あたしがいまどのような職業に就いているかを考えれば成果は明らかだ。
 自閉症児と不登校児の家族を父は主な顧客とした。人望があった。教育学部の院卒というだけで教員免許さえ持たないにもかかわらずだれも疑問に思わなかった。父は多くの家庭や学校に土足で踏み込んだ。マスコミの注目を集めて事態をひっかきまわし、一家離散や子どもの発狂を招いて恩に着せ、多額の金を巻き上げた。父にとって世界は自分のためだけに上映される影だった。好きに利用し、利用できなければ踏みにじった。ひとたび彼に疑いを抱けば取り巻きやマスコミに悪い噂を流され悪者へ仕立て上げられた。狭い街ではそれだけで破滅だった。
「いまの子どもたちは甘やかされて育ち、些細なことで傷ついて不登校になる。親もどう躾けたらいいかわからない。そこで専門家である私が……」
 母の顔はもう思い出せない。祖父の金目当てで結婚した父は期待を裏切られた。彼を畏れた実家に母は絶縁されたのだ。当てがはずれた父にあたしは小学校に上がる頃から捌け口にされた。父はそのようにして母を侮辱し苦しめようとしたのだろう。母は自衛のために人間としての感情を遮断した。あたしは両親のどちらからも都合のいい穴のように扱われた。母は愚痴をこぼしつつも夫への批判を許さず、不幸な人生の原因をすり替えてあたしを責め詰った。父がその気になるたびにあたしを提供して見て見ぬふりをした。そうしてさえいれば母は殴られず悪評も広められずに済んだ。どのみち家族も親戚もひとりの友人さえも彼女はすでに喪っていた。
 あたしはあらゆる窓口で訴えた。そうするのが正しい行いだと信じたのはあたしだけだった。学校も行政も警察もマスコミも父の味方だった。男性教師はあたしを不穏な目で見るようになり女性教師からは汚らわしいもののように扱われた。警官たちはあたしをふしだらな嘘つきのようにあしらい黙らせようとした。マスコミは父を賞賛しつづけあたしを相手にしなかった。ボランティアの電話相談窓口では貞操観念の説教をされた。
 中学二年の夏もだれも信じてくれなかった。父は薬をアルコールで過剰服用するよう母に強要した。精神科医は父の信者だった。お経、線香の煙、回り灯籠……遺影を前に黙祷する父が見えた。平然とした顔は厳しい自制心の表れとして彼らには映った。母の死は事故として処理された。父はささやかな保険金と、精神病の妻に先立たれた気の毒な善人という評判を手にした。愛しても愛されてもいなかった家族の死をどう捉えればいいかわからなかった。わかるのは次は自分の番だということだけだ。空の瓶が手から滑り落ちた。頭蓋で父の声が爆発し渦を巻いた。あたしはベッドから転げ落ちて虫のように床を這った。
「あんたのわがままであいだに立っていつも苦労を……」
 のしかかる巨大な影から逃れようとした。腕をねじ上げられ押さえつけられ殴られた。恐怖で声も出ない。罵声が頭上で爆発した。母は台所で皿を洗っていた。これがくり返されるたびに執拗に磨き立てるので家の食器はどれもピカピカだ。あたしはどこか別の場所にいるのだと想像し、終わるまで声に出さずに九九を暗唱した。
 母を始末して間もなく父は冴子ママの持ち家や人脈を狙った。母が勘当されて目論見が叶わなかったようにこのときも当てがはずれた。冴子ママには人望も金も狡猾に立ちまわるだけの経験や才覚もあった。人権団体やDV専門の弁護士が彼女を助けた。厭わしい夫と一緒に当然あたしをも切り棄てるだろうと思ったのに彼女はそうしなかった。あたかも同志であるかのように護ってくれた。父は戦略を変え「狂った妻子に追い出された気の毒な夫」を演じて別居した。冴子ママは夫を騙し義理の娘を洗脳した悪女とされた。どれだけ陰口を叩かれてもあたしの前では気にする様子を見せなかった。よそに攻撃対象でも見つけたのか父の誹謗中傷はやがて収まった。
 冴子ママとの生活は薄氷のような善意の上に成り立っていた。一時的な気まぐれでやれることではないにせよいつかは終わるとわかっていた。でも二年もその暮らしに浸かったあたしは父との生活を過ぎ去った悪夢であるかのように思いはじめていた。幻想だった。
 ひとはあたしが十七のときにはそんなことはありえないと妄想扱いし、二十年後のいまは過ぎ去ったことを十代の子どものようにいつまでも騒ぎ立てるなんてと嘲笑う。いくら黙らせてもあたしの現実は変わらない。十七歳の夜に起きたことはあたしのいまなのだ。死ぬまでいまでありつづける。そのことに責任を持たない他人の言うことになど耳を貸せない。わかりにくい物語だと何度も断ってきたのはこういうことだ。過去か現在か未来において十七歳であるはずのあなたは、あたしを笑うだろうか。
 カーテンから漏れる朝の光で目を醒ました。あたしは吐瀉物にまみれてフローリングの床に転がっていた。魂が肉体に引き戻されるかのように感覚がじわじわと戻ってきた。目眩はもうなかったが激しい頭痛がした。視界の隅に壁時計があった。八時半。登校はあきらめた。身をよじり戸口へ這い寄った。幸田を呼んだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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