逆さの

連載第3回: 道徳心の涵養

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月17日

幸田とはじめて出逢った日の回想からあたしはわれに返った。いまのあたしがではない。二十年前のあたしが世界史のセンター対策プリントに集中できずに一年前を思い出していたのだ。あたしには時系列をややこしく語りたがる悪い癖があるようだ。教室は湿って膚寒かった。窓から見える空は鉛色だった。校庭から中等部が走り込みをする声が聞こえていた。あたしには得意な教科なんてひとつもなかった。歴史はとりわけ苦手だった。教科書のどこをひらいても社会病質者たちが権力争いをしていた。太古の豪族も中世の王もあたしには現代の暴力団と大差なかった。原人がほかの種族を滅ぼしたり強姦したりしていた時代からいまに至るまで何ひとつ変化がないように思えた。きっと暗記必須の偉人たちのために無数の人生が台なしにされてきたに違いないのにそんなことは試験で問われない。それはなんというか、男の子用の歴史に思えた。
 それでも地理ではなく世界史を選択したのは遠山の人柄が理由だ。公立の男子校でサッカー部の顧問をしていて生徒を殴り、その親に訴えられて転職に追い込まれたと噂されていた。真偽はともかく苦労人であることは濃い眉を八の字にして笑う顔に滲み出ていた。説明に熱中するとトラベリングの合図のように両手をぐるぐるさせる癖があった。現国の新任とは対照的にスーツもネクタイもきっちりしていて誠実な感じがした。やっ、ちゃんとやってるな、ん、と独特の口調で言いながら彼は机のあいだを巡り、何人かの質問に答えていた。入試傾向が変わって現代史からの出題が増えた、と彼は答え合わせで説明した。ベルリンの壁が崩れて十年以上が過ぎ、ツインタワーが倒壊する日も迫っていた。
 彼に親しみを抱いたのはしばしば脱線して歴史のこぼれ話を披露してくれたからだ。そんな物語には男の子向けの血なまぐささを感じなかった。過去にもいまにつながる人間の営みがあったのだと感じさせてくれた。囲い込み運動への抵抗がサッカーの起源だとかいう話がおもしろかったけれど、ぐぐったらそんな事実はなかったので冗談だったのかもしれない。小中高の教育でもっとも役立ったのは英語の構文でも数学の公式でもなく、年若いあたしたちに大人たちが向き合ってくれたこうした時間であったように思う。どんなに授業をばかにしている生徒でも雑談には熱心に耳を傾けた。
「柿沢先生もみんなの進路を心配していた。生徒想いの熱心な方だった。成績の落ちた生徒を家庭訪問したりね。寸暇を惜しんで指導に打ち込んでらした」と遠山はその日しみじみと語った。気のせいか目に涙が滲んでいるようにさえ見えた。遠山は柿沢と同世代で、公立から移ってきた経歴も似ていたので身につまされたのだろう。遠山の雑談にしてはいまひとつ受けが悪かったし、正直あたしには柿沢はそれほどいい先生に思えなかったけれども、どの教師も避けているかに見えた話題にはじめて触れてくれた遠山には好感を抱いた。
 休憩時間にはまたしても佐倉が噂を吹聴していた。知り合いのお姉ちゃんから聞いた確かな話だという。思春期の悪意は情け容赦ない。単に声や顔つきが気にくわなかったというだけで故人が変質者扱いされていた。被害者は全員が何年も前に卒業したそうで、だれにも確かめるすべがないのが味噌らしかった。佐倉も聴衆もだれともわからない被害者までをも揶揄して愉しんでいた。自分たちが同じ目に遭っても笑っていられるかどうか。同性に向けるああした残酷さにはいまだに怯まされる。他人を貶めれば安全な高みにいる気分を味わえるのだろう。かくいうあたしだって佐倉のことも柿沢のこともばかにしていた。ソーシャルメディアのタイムラインに見知らぬだれかの共有が流れてくるたびに、この日の佐倉や取り巻きの薄笑いを、そして窓際の席で耳を傾けていたあたしを思い出す。
 臼井幸代は朝からずっと様子がおかしかった。青ざめてうつむき、唇を噛んで肩を慄わせていた。こらえきれない様子で席を立った。詮索好きの佐倉を含めてだれも気に留めないことに驚いた。さすがのあたしも同級生に自殺でもされたら寝覚めが悪い。臼井の後を追った。校舎の裏には使われなくなった焼却炉があった。規制が厳しくなる前はそこでゴミを焼いていたらしい。ひとけのないその場所で臼井は啜り泣いていた。柿沢先生はそんなひとじゃない、と憎々しげに呟くのが聞こえた。それから臼井は背後に立つあたしに気づいて狼狽した。あたしも負けずに動揺した。他人の暗い内面を盗み見たように感じたからだ。驚かせたことを謝り、臼井の背中に手を添えてわけを訊いた。そのときにはもう首を突っ込んだことを後悔していた。彼女はあたしの胸に顔を埋めて泣きだした。何かよくないことに巻き込まれた予感がした。
 親しくもない相手の悩みを打ち明けられる機会があたしには妙に多い。おかげでいまも同僚の無断欠勤や失踪のたびにマネージャーに心当たりを訊かれたりするけれど彼女たちが本当のことを語るわけがない。連中は単にその場かぎりの安いカタルシスや同情を得たいだけで、たまたま居合わせたあたしが利用されたにすぎない。臼井もその類いだったのだろう。臼井は地味な顔立ちにふさわしく何事にも控えめで無口だった。こんなやついたっけと同窓会で思われるタイプだ。その彼女がこれほど喋るものかと驚かされるほど饒舌に語った。だれかに聞いてほしかったのだろうし、ユカにしか相手にされないあたしになら話しても差し支えないと踏んだのかもしれない。真偽はともかくこんな話だった。遠山の言葉どおり柿沢は指導熱心で生徒想いだった。母子家庭の彼女を心配し、訪ねてきては勉強を見てくれた。スーパーの袋を手に現れ、鍋料理をふるまってくれたこともある。あんないい先生がなぜ離婚したのか。夫に辛酸を舐めさせられた母親でさえそう訝った。いつしか幸代はふたりの結婚を夢見るようになった。彼が父親になってくれたらどんなにいいか。でも幸福な日々はつづかなかった……。
「先生は疲れてたのよ。進路指導で残業や休日出勤ばかり。最近はほかの仕事も抱えてた」
「ほかの仕事?」
「詳しくは知らない。大事な調べものがあるとか、教育者としての責任とか言ってた。生死に関わることだなんて冗談めかして。でも本当になっちゃった」幸代は顔を覆ってまた嗚咽した。
 案の定なんだか胡散臭い話だとあたしは感じた。当時すでに個人情報保護やらハラスメントやらには厳しいご時世になっていた。高度経済成長期の学園ものじゃあるまいし、女子生徒の私生活にそこまで干渉し、あまつさえ家庭にまであがりこむ教師がいるものだろうか。そういうのは人権意識が欠如していた時代のファンタジーであって、漫画やドラマにおいてさえ固定電話の緊急連絡網や家庭訪問とともに滅びたはずだ。トーストを咥えて遅刻、遅刻と叫びながら角で転校生にぶつかる女子高生と同様にありえない。しかし臼井は現にあたしの前でそのような経験を語ったのであり、柿沢はもう死んでいて本当に何があったのかは確かめようがない。鐘はすでに鳴っていたが臼井を保健室に送り届けてから教室に戻った。臼井が体調を崩した旨を伝えて弁解した。内心で何を考えていたかわからないが教師も同級生たちも何も言わなかった。噂に新たなトピックを加えたことを確信してげんなりしながら板書をノートに写した。
 臼井は早退した。あたしも帰りたかったが放課後のセンター対策講習までしっかりこなした。さすがに進学までは甘えられまい、とも、かといって幸田や春ちゃんと飲んだくれているばかりでは出してもらった学費が無駄になる、とも考え、悩むのを先送りにするためにとりあえず勉強していた。いまとなれば何の役にも立たない時間だった。夜の街に職を得て卒業と同時に家を出るなんてこのときはまだ想像もしなかった。解放されたのは七時過ぎ。座ってノートをとるだけの生徒がこれだけ疲れるのだから柿沢が過労死するのも当然だと思った。同級生のかまびすしいお喋りに囲まれ、施錠されていない北門を出た。通りの向かい側の自販機の陰に立つ小男が気になった。目深に被った鳥打ち帽、マスクとサングラス。丸めた競馬新聞を片手に持ち、ナイロンジャンパーのポケットから耳へイヤフォンのコードが延びていた。こんな人物が実在するのならトーストを咥えた女子高生や家庭訪問の熱血教師もありえない話ではない。高架通路をバスプールへ向かった。バスがなぜか遅れていて停留所は長蛇の列だった。携帯でメールを打つOLの後に加わった。ふと視線を感じてネオンの照り返しを受ける曇り空を見上げた。高架通路を小男が遠ざかるのが見えた。妄想が生じるほどの疲れを自覚した。
 帰宅する頃には融けて床に吸い込まれそうなほどクタクタだった。暗い玄関は太古の洞窟みたいに虚ろだった。携帯には今夜も残業で遅くなるとメールがあった。見棄てられたように感じた。本当の母娘や姉妹や恋人のように大声で泣きわめいてなじることができたらどんなによかったろう。湿気と汗で全身がベタベタしていた。シャワーへ直行した自分を褒めてやりたい。パスタを茹でてレトルトのソースをあえて食べ、ブランデーを失敬して冴子ママを待った。深夜の地方ニュースが若い男女の練炭自殺を報じた。青少年犯罪の増加と凶悪化が論じられる一方で、実際に増加していたのはそんな事件だった。匿名掲示板や地下サイトで知り合って車や練炭を持ち寄るのだ。県境の山中に停められた不審車両から遺体が発見されたという。所持品から身元が判明していた。大学院生と無職青年、それに女子高生だった。娘だったりして、と呟いたところまでは憶えている。少女の名字が柿沢だったのだ。カーテンから漏れる朝日と占いのアニメ声で目覚めた。慌てて空き瓶を片づけ、身支度を済ませて家を飛び出した。ラップをかけた皿は手つかずのままだった。
 懲りたはずの翌朝がこうだ。排ガスまみれの湿った空気を吸い込みながらバスを降りた。ソファで眠りこけているうちに降ったらしく、行き交うタイヤが濡れた路面で粘つくような音を立てていた。水たまりを踏まぬよう心がけた。二日酔いの頭痛を含めて普段と何ひとつ変わらぬ朝だった。すぐ前に公立高の女子がいた。憶えているのはその子が手にしていた携帯のストラップだ。当時の携帯には紐を通す孔があってだれもが何かくだらないものをつけていた。その子のは当時流行っていたゆるキャラだった。二台のバスが乗客を吐き出した。大人たちの群れで身動きがとれなくなった。肥った中年男が強引にまわりを押し退けて近づいてくるのが見えた。歩き煙草なんていう信じがたい習慣が当時はまだ残っていた。会社員風の中年とすれ違いざまに火傷しかけた。そっちに気を取られていたし背中しか見ていないから彼女の顔も知らない。どんな表情をしていたのだろう。でもそのゆるキャラだけは忘れられなくて、しばらくのあいだは目にするたびに吐きそうになったり、わけもなく大声で泣きたくなったりした。その子はそのときまで目の前にいて呼吸して、温かい血が通っていて、あたしと同じ十七歳で、昨夜のテレビとかその日をどう過ごすかとか、やり忘れた予習のこととかを考えていたのだ。
 むちむちした掌が横から目の前に突き出された。鉛が詰まった頭には起きたことが理解できなかった。女子高生のからだが不自然な衝撃で急に揺れた。使い込まれて塗装のはげたピンクの携帯が手から離れ、ゆるキャラのストラップが宙に泳いだ。髪をなびかせて転倒する少女がスローモーションのように網膜に灼きついた。そこへバスが滑り込んできた。クラクションを鳴らす暇さえなかったのに無限につづくかに思える一瞬だった。ブレーキが軋んでタイヤが路面を滑った。本人にも何が起きたかわからなかったろう。目撃したOLの悲鳴のほうが早かった。鈍い衝撃音がして倒れた少女に車体が乗り上げ、巨大な卵が潰れるようなグシャッ、ボキボキッという湿った音がした。車体の下からの声は激痛よりも恐怖と絶望から叫んでいるように聞こえた。バスは彼女を巻き込んだまま数メートルは進んだ。おろし金を思わせる音が鼓膜にこびりついた。バスは妙に傾いで停まった。泣き声のような唸りは気のせいに思えるほどに弱まり、ついにやんだ。
 バスは狂犬のように身慄いしていた。停車したのにいつまでもひらかない昇降扉がいま起きたことを実感させた。乗客らは見えるはずのない床下を覗き込もうとするかのように窓に顔を押しつけていた。運転手の顔は恐怖で蝋人形のように青ざめてこわばっていた。まともな人間はこんなときあたかも社会病質者のような怖ろしい顔つきになる。本物の社会病質者は逆にどんなときも平静でいかにも善人のように見えるものなのだけれど、それはともかくまわりの車は恐怖と苛立ちと好奇心が入り混じるかのように徐行して通過した。バスの車体から太い脚が突き出ていた。直前まであたしの前で歩いていた脚だ。青葉学院では禁じられているワンポイント入りの靴下を穿いていた。車体の下から黒っぽい液体が重油のように広がってその靴下を鮮やかな赤に染めた。泥のような汚らしい軌跡が肉片だとは髪の毛らしきものに気づくまでわからなかった。排ガスに混じってムッとする臭いが漂った。血と便の臭いだった。
 そんな場面で予期されるほどの悲鳴は上がらなかった。最初に叫んだOLは過呼吸に陥ってうずくまり、数人の高校生や大学生らしき男女に手当てされていた。あとはだれも声を上げなかった。ショック状態に陥っていたのだと思う、あたしを含めて。往来の騒音が際立って聞こえた。その音だけはいつも通りだった。さっきのデブが人混みを掻き分けて離れていくのが見えた。昂奮した面持ちで嬉しそうですらあった。おいだれか救急車を呼べ、と初老の男性が叫んだ。おまえが呼べよと思うまでもなく十代から三十代くらいまでの数人が携帯で通報していた。人工のシャッター音が聞こえて驚かされているうちにデブは混雑に紛れた。撮ったのは五十代くらいの女性で、神主が笏を持つような格好で携帯の画面を見つめ、奇妙な半笑いを浮かべていた。
 多すぎる情報が二日酔いの頭に一度に押し寄せて混乱した。バスに轢かれた女子高生、突き飛ばしたデブ、記念撮影するおばちゃん、ふんぞり返って無責任に叫ぶじじい。もしあたしが子ども向けのミステリ漫画の登場人物ならデブの消えた方角を指差して叫ぶだろう。事故じゃない、これは殺人よ、あいつが突き飛ばしたの! だれもが振り向き、そして……気違いに接するような目であたしを見る。重い頭から非現実的な考えを振り払った。あの手のつくり話が喜ばれるのは暴力があたかも読者とは異なる側に存在するかのようにわかりやすく描かれるからだ。この朝にあたしが目撃したような現実なんてだれも知りたくない。向こうは社会を背負って立つ大人、こちらは十七歳だ。あたしに何ができる。ゆるキャラの子はもう助からない。関われば遅刻するだけだ。何も見なかったことにして停留所を離れた。膝が慄えてうまく走れなかった。吐き気は二日酔いのせいだけではなかった。
 休み時間に携帯でニュースサイトを見た。小さな事故の扱いだった。花田佐久子という名前であたしと同じ十七歳だった。あのストラップは本当に気に入ってつけていたのだろうか。何かの景品で間に合わせにつけていたのかもしれないし、だれかにもらった大切なプレゼントだったかもしれない。今朝まではその子にも友人や家族や彼氏とのありふれた日常があったのだ。いまは警察に検屍され葬儀屋に縫い合わされてドライアイスで冷やされ、焼き場に運ばれるのを待っている。残されたひとたちは何を思うのだろう。たまたま真後ろを歩いていた他人のあたしは何を思えばいいのだろう。このわずか数行の記事を読むひとは単に不注意な子だと思うに決まっている。故意に突き飛ばされた可能性など頭をかすめもしまい。あのとき、あのむちむちした掌が突き出されなければ、あの子は見知らぬ他人として接点のないまま大人になり、あたしもこんな無益な考えを巡らせることはなかった。警察に話さないというあたしの判断はまちがっていたのだろうか。その後に起きたことを思えば正しかったとは言えないが、かといって何かできたとも思えない。当時の大人たちは決してあたしを信じなかったろうといまも確信している。
 数学の授業中にメールが届いた。授業中の振動音にはいつも苛つかされる。土気色の顔でいつも目の下に隈がある数学教師トンズラーは耳が遠いのか、長ったらしい数式を板書していたせいか振動音に気づかなかった。数人が机の陰で携帯を確かめた。あたしもそうした。幸田からだ。謎めいた数字列のみが表示されていてほかに説明はない。誤操作だろうと思った。ユカが意味深な笑みを向けてきた。声を出さずに唇が言葉を形づくる。お、と、こ? あたしは蠅を追い払うような手つきで否定した。普段はクールなのにどうしてこんなところだけ子どもじみているのだろう。ジェンダーは身体構造や性的嗜好よりも恋愛するかしないかで分けるべきではないか。する側にとってみればすべてが恋愛中心にまわっている。当然だれもが美男美女でお伽噺みたいな出逢いや別れを経験するものと決め込んでいる。しない側は社会慣習による義務感からパートナーなり家庭なりを持つか、それすらしないかで、あたしのような人間は干し葡萄のように皺くしゃの老人になるまで、あたかも欠陥品のように感じさせられながら生きていくことになる。けれどもしユカが言った「男」が、生涯の多くを共有する異性を指すのなら、確かに幸田はいずれあたしのただひとりの男となる。
 また携帯の振動音がした。今度は意外にも臼井幸代だった。こけしのような地味な顔で同じ学級にいたことさえ忘れられるほど存在感のない彼女にも、わざわざ授業中にメールをよこす相手がいたのかと驚いた。彼女はおずおずと挙手した。どうした臼井、とトンズラーが言った。臼井は立ち上がって教師の耳元に何か囁いた。いま母からメールが、と聞こえた。メールとの言葉に眉をひそめた彼はしかしすぐに表情を変えた。「幼なじみが亡くなった? しょうがないな。急いで帰りなさい。早退届は後でいい」臼井は小さくお辞儀し、荷物をまとめて教室を出て行った。ひそひそ話が残された。いつもは何かにつけて厭味を言いたがる偏屈な男だったのに、この日どうしてこんなにものわかりがよかったのかは、綽名の由来と同様いまもってわからない。はい静かに、授業つづけるぞと彼は言った。その不機嫌な顔はまったく普段通りに見えた。
 春ちゃんは携帯を持っていなかった。幸田といつも一緒にいたので連絡に不自由はしなかったものの二十年前でも普通ではなかった。彼もまた母子家庭であったのでお金もなかったのだろうけれども携帯を持たないのはそれが理由ではなかった。電話回線をひくことが高い社会的地位を示していた時代の『となりのトトロ』で描写されたような感覚で生活していたのだ。そのような家庭でそのような価値観を当たり前として育った子だった。彼と話していると時代感覚が怪しくなり昭和に生きているかのような錯覚に陥った。いまとなってみればそうした些細なことも拘置所で裁きを待つ猟奇殺人者としての彼に確かにつながっているのだと気づく。けれどもまだこの頃の彼にいまを予想させる兆しはなく、むしろ何か小動物のような可愛げであるかに見えた。彼が放課後に公衆電話からかけてきたとき、あたしは英作文の講習を放棄して鞄を駅のロッカーに放り込み、指定場所へ向かっていた。うん、チケット二枚もらったと彼は言った。あたしはおかしな数字について尋ねた。
「691104ね。意味は教えてくれなかった」
「きっとおもしろい冗談だと思ってんのよ」
 珍しく会話が噛み合って嬉しかった。あたしの言った意味は彼に伝わらなかったかもしれないけれど。
 ひとりで店へ行くのが怖いと彼が言うので待ち合わせにCD屋を指定してギターポップバンドの新譜を試聴した。エレクトロ寄りになっていて失望した。これはドラマーが辞めて解散する流れだなと思った。事実その通りになってドラマーは実家に帰って地元企業に就職した。あとのメンバーは音楽やらファッションやら文筆やらで成功した。春ちゃんは場違いを畏れるかのようにキョロキョロしながら店に入ってきた。彼が挙動不審でなくなるのは幸田といるときだけだ。彼らの通う進学校は私服通学だった。ダイエーでお母さんが買ったポロシャツ、チノパンに肩掛け鞄という見慣れた格好だった。強引に侵入してくる車を避けながら、路地の人混みをはぐれないよう手をつないで公園へ向かった。言葉にしてみれば変だけれどあの頃の春ちゃんと歩けばだれでも無意識にそうしたろう。子どもの手を引くようなものだった。
 脂っこい熱気を噴き出す換気扇や、駄洒落の店名をあしらった電飾のあいだを抜けた。公園の鬱蒼とした木々が見えてくると春ちゃんが落ち着かなくなった。また父親に似た男でも見かけたのだろうと思った。色褪せた鉄柵にはピンクちらしが貼り並べてあった。錆びた遊具のあいだを横切った。夜間労働者がベンチで眠っていた。コンクリートの小山で瓶の破片が輝いた。強姦事件の多さで知られる公園だった。公衆トイレの壁にはわけのわからない文字がスプレーされていた。ここの浄化槽から夫に殺された中年女が前月に見つかったばかりだった。怖がらせるつもりで春ちゃんにその話をしたら妙に関心を示されたのを憶えている。あたしはそのことにもっと注意を払うべきだったのかもしれないけれど、そうしたところで何かを変えられたとも変えたほうがよかったとも思えない。
 目的の雑居ビルは公園を抜けた真向かいにあった。地下への階段を降りようとした。春ちゃんが身をすくませて立ち止まった。また背後を気にしていた。どうしたの、と尋ねた。ううん、なんでもと彼は首を振った。階段は急で手すりもなかった。壁はビラや落書き、ぶら下がったちらしの束でいっぱいだった。軍艦色に塗られた鉄の扉があった。電子錠がついていた。手塚治虫風のレタリングで「金星の湖」と店名が掲げられ、その下に小さくウェブサイトのアドレスが記されていた。ノブを試したが施錠されていた。
 691104。卑猥な語呂合わせだと気づいた。幸田の好きそうな冗談だ。電子錠に番号を入力するとカチッと音がした。重い扉を開けると騒音と熱気が溢れ出てきた。暗いフロアが人間でいっぱいだ。お腹に響く重低音。うねる女性ヴォーカルにタブラ。アルコールの汗と煙草。氷がグラスにぶつかる音や談笑。怖じ気づく春ちゃんの手を引いて幸田を探した。彼は鞄が人にぶつかるたびにもごもごと謝っていた。テディボーイやパンクス、臍ピアス女が蛍光色の酒を片手に駄弁っていた。重低音の合間に言葉の切れ端が聞こえた。『ネイチャー』で読んだんだけどさあ。でもそれって量子論的には。などと聞こえたが何を言っているかわからなかった。舞台では白塗りの男がくねくね踊っていた。アダムス・ファミリーみたいな女が黒ドレスの裾を引きずって通過した。
 アーラいらっしゃい、滋ちゃんから聞いてるわと野太い裏声が聞こえた。黒革ボディコンに網タイツ、ハイヒール、顎が割れていてひげの剃り跡が青い人物が現れた。晩年のフレディ・マーキュリーそっくりで大胸筋が発達していた。春ちゃんが券をおずおずと差し出した。ンマ可愛らしいお坊ちゃん、それ教科書入ってんの? とフレディーは叫んだ。春ちゃんは真っ青になった。紙切れと引き替えにフレディは毒々しい飲物をよこし、楽しんでって、と投げキスをし腰をくねらせてカウンターへ戻った。あれは春ちゃんの反応がおもしろくてわざとやっていたとしか思えない。春ちゃんは怪訝そうにグラスを嗅いだ。林家パー子みたいな色の液体はブラックライトで蛍光を発していた。あたしはひと口試して子ども扱いされたことに気づき、不機嫌になった。幸田があたしたちに気づいて取り巻きから離れ、混雑を掻き分けて近づいてきた。嫉妬深い視線が束になって突き刺さるのを感じた。公道を歩けば逮捕されそうな露出度の女たちだった。その何人かと幸田が寝ているだろうことをあたしは察した。のちに彼はそれが事実であると認めた。邪魔じゃね、と彼は春ちゃんの鞄を見て笑い、今月の番号いいだろとあたしに言った。「『ロック愛しい』ってな……どうした聡美」
 異国風の音楽とスポット・ライトが消えた。店員が椅子とマイクを設置して次の出演者が照らされた。痩せた長身、猫背、髪ぼさぼさのメガネ男が自作らしき詩の朗読をはじめた。増幅されたぼそぼそ声がフロアを満たした。そっくりな教師を知っているあたしにとっては現代文の授業を受けているようにしか感じられなかった。幸田はファンや顔なじみに愛想を売りつつ奥へ消えた。春ちゃんは困り果てたようにあたしを見た。飲んじゃいなよそれと言ってやった。酒を出す店にわざわざ呼び出されて砂糖水を飲まされたのが業腹だった。
 アダムス夫人は幸田の共演者だった。後で聞いたところでは音楽専攻の院生で、マリリン・マンソン風の化粧は客に口説かれるのを避けるためだとの話だった。ソヴィエトの兵隊を畏れて顔に煤を塗った敗戦直後の女を連想した。どんな店にもそういう目的の男は入り込むものだ。その女のヴィオラと幸田のディストーション・ギターの取り合わせは悪くなかった。あたしはジントニックを注文した。フレディはあたしがさもおもしろい冗談でも言ったかのように口元を手で隠してオホホと笑った。出てきたのはただの炭酸水だった。今度は砂糖すら入っていなかった。しかもしっかりジンの分の金を取られた。幸田の演奏中も出番を終えて会話しているときも女たちはあたしを睨んでいた。愛想よく笑顔を交わしたのは幸田に互いを紹介されたときかぎりだった。男どもは無言の悪意を何も感じないらしくいつものようにふたりでいちゃついていた。学校でも一緒にいるのにどれだけ仲がいいのか。フレディだけが本日最大の演目だとでも言いたげに横目でこちらを眺めてニヤついていた。
 取り巻きの女たちはその後も何かと厭がらせをしてきたものだが幸田の鬱が悪化すると潮がひくようにいなくなった。その事実から考えて彼の人間性と音楽のどちらも愛していたようには思えない。恋愛や性的執着はどうやらその場かぎりの気分のために他人を使い棄てるものであり、たとえばむかついたから刺した、だれでもよかったと語る犯罪者の心理のようなものであるらしい。幸田の笑顔には女たちに利用されている自覚は窺えなかった。まるで無頓着に見えた。開けっぴろげでありながら肝心な部分は必ずしも見せまいとするところが幸田にはこの当時からあった。あるいはそれもあって女たちは離れていったのかもしれない。その彼があたしには初対面からあの陳腐な宝物を見せてくれたし、この時期はとりわけ努めて自分が何者であるかを見せようとしてくれていた。もっと早く、もっと関心を持ってあげればよかったと後悔している。この後すぐに彼は音楽を、そして人生に関心を持つのをやめてしまうからだ。
 家に帰ると明かりがついていて車もあった。幸田が舞台で演奏するのを聴いたのは生涯で二度きりで、いずれも大切な想い出となるのだけれど、このときはただ早く帰れなかったのを呪った。アナウンサーの単調な声が廊下に聞こえた。ダイニングキッチンで冴子ママが梅酒を呑んでいた。振り返りもせずに彼女はお帰りと言った。あたしは鞄を床に降ろして椅子に座った。珍しいじゃん、こんな早く仕事終わるのと平静を装って言った。冴子ママは化粧を落として白ブラウスとジーンズに着替えていた。いまに至るまでこの頃の彼女ほど美しい女性を知らない。意志を貫く強さが感じられた。考えてみればいまのあたしよりも何歳か若かったのだ。胸元には細い銀の鎖。だれにもらったのやらと思った。自分の知らない彼女をだれかが知っていること、自分の知らない世界を彼女が生きていることに嫉妬した。
 あたしも勝手にご相伴することにした。店でお預けを食らったせいもあり気分が昂揚した。冴子ママがぼんやり眺めているニュースは「精神障害者の行動の抑制」を特集していた。あたしは甘い酒にむせそうになった。公共放送が本当にそんな言葉を使ったのだ、事件を防ぐのに対策が必要だと。小学校に乱入して子どもを無差別に殺した社会病質者が逮捕され、心神喪失を装って罪を免れようとしているのは知っていた。心神喪失を装うことと精神障害にどんな関係があるのかいまだに理解できない。犯罪者が裁かれないのも責任を負う権利が奪われるのも勘弁してほしかった。ましてや一部の悪人のために生活を制限なんてされたくない。自分が精神障害者ではないという確証があたしにはなかった。むしろそんなものがある連中のほうがどうかしていると思う。番組では特別立法が成立の見通しだと語られていた。街の声が紹介された。「野放しになってると思うと怖いですから。さっさと取り締まってもらわんと」「おかしい人はどんどん閉じ込めて、健全な世の中にしてほしい」
 つい二十年前までこんな番組をだれもおかしいと思わなかったのだ。だれもが似たような考えを平然と公言していた。愚かな女には猟奇殺人はセクシーに感じられるらしく、くだんの無差別殺人者には求婚が相次ぎ、被害者の遺族には心ない言葉が浴びせられていた。政府やマスコミの狂気もまた大衆にはセクシーに感じられるようで、改革には痛みが伴うと称して強者を優遇し弱者を切り棄て、社会格差を押し広げる政治家が拍手喝采されていた。ひとびとは自らを虐げる制度や言葉にいつだって歓喜する。ナチスがそうだったし佐倉と取り巻きにしてもそうだ。いつ自分が同じ被害に遭うかわからないのに同性を貶める。小学校を襲った無差別殺人者や、それを口実に差別を正当化する政府やマスコミと同様に、自分を絶対の正義と信じる社会病質者をひとりあたしは思い返した。彼のセクシーさにも多くのひとびとが騙された。目の前の女性もまた一時期はそうだった。彼女は気遣いと警戒の入り混じる目であたしを見つめ、何かあったのと訊いた。あたしは彼女を安心させてやるべきだった。なのに実際に口走ったのは真逆のことだった。
「なんであたしをひきとってくれたの。ほんとの親じゃないのに」
「急にどうしたの」
「あたしのせいで冴子ママは……」
「後悔させたいの? 決めたことなのよ。あなたまであたしがまちがっているようなこと言わないで」
 一度出た言葉は取り消せない。せっかくのふたりの時間を台なしにしたことを悔やんだ。冴子ママは気に留めていないかのようにテレビを眺めた。表情からは何も読めなかった。次は地方ニュースだった。
「青少年の犯罪が凶悪化する一方、中高年の自殺が問題化していますが、また不幸な事件です。青葉市中央区の建設会社『青葉建設』勤務、丸大公男さん四五歳が、血を流して道路に倒れているのを通りかかった人に発見されました。目撃者の話ではきょう午後四時頃、『青葉建設』の前で大きな物音があり、丸大さんが倒れていたということです」現場のビルが映った。「丸大さんは全身を強く打っており、救急車で近くの病院へ運ばれる途中で死亡が確認されました。丸大さんの長男で青葉工業高校一年生、留吉さん十七歳は先週ホームの転落事故で亡くなりました。丸大さんは家族と別居中で、留吉さんが亡くなったことを苦にしていたということです」
 冴子ママが何か言いかけた。丸大公男(四五)の写真が映し出された。陰気な笑み、猪首、むちむちした肩。あたしは心臓が締めつけられるかのように感じて息を呑んだ。ゆるキャラの子が殺害される光景が脳裏に鮮明によみがえった。ブレーキの軋み、血の匂い。弱まる声や野次馬のざわめき……。まちがいない、あのデブだ。警察では丸大さんが屋上から飛び降りたとみて捜査していますとアナウンサーは言った。鼓動が高鳴った。あたしは平静を装って振り向き、何と尋ねた。冴子ママはかぶりを振って溜息をついた。急に老けて見えたので驚いた。理由を尋ねることはできなかった。内面に踏み込めるほど近しくも大人でもなかった。
 変なのは彼女だけではなかった。それまで礼拝や休み時間に喋るのはもっぱらあたしで、ユカは気の利いた皮肉を挟む役割だった。それがあの朝の前後から変わった。ユカは『アンナ・カレーニナ』を読みはじめた。読書と言えば学術書やルポルタージュでフィクションをばかにしていた彼女がだ。だれの影響かと尋ねてすぐさま後悔した。少女漫画のような逸話を詳細に聞かされるはめになり、本当に訊きたかった転落事故については機会を逸した。いわく大人びたところと子どもっぽさが同居していて、文学とサブカルチャーに精通し、楽器が弾けて喧嘩は負け知らず……云々。体細胞クローンのゲノム異常について話すかのような口調に変わりはなかったものの、そんな白馬の王子様が実在するかよ、どうせ数ヶ月後には幻滅してぼろくそに言う癖にと辟易した。礼拝が終わって一限目がはじまるまでのろけ話はやまなかった。だめ押しに携帯で写真まで見せられた。吐きそうになった。
 当時の携帯はいまのスマートフォンと較べれば原始的な代物だったけれども人物の顔を判別できないほどの画質ではなかった。弟や妹の出演するポルノを観た気分と言えば伝わるだろうか。見慣れた男の見慣れない表情と、あたしが生涯けっして知ることのない男女の気配とがそこには確かに写り込んでいた。陣内は今度はちゃんと戸口をくぐった。ユカは携帯を引っ込めて涼しい顔で姿勢を正した。起立、と週番の号令がかかってもあたしは動けなかった。みんなが礼をしているときに立ち上がり、着席の号令を聞きながら礼をして茫然と座った。あたしの挙動不審をおもしろがる囁きが波紋のように広がった。陣内は気にするような視線をあたしへ向けたがそれについては何も言わず、挨拶だけを口にした。不合理な感情だった。他人と自分を較べる習慣はなかったし、とりわけユカがあたしたち凡人とは違う次元で生きていることは知っていた。そもそも幸田はただの飲み友だちでしかない。ふたりがつきあっていたからどうだというのだ。
 先生、気分悪いんで帰ってもいいですかという言葉を喉の奥で呑み込んだ。佐倉や取り巻きにどれだけ笑われてもいい。ユカにだけは悟られたくなかった。授業はまるで頭に入らなかった。指名されたユカが立ち上がる音でわれに返った。時計を見るとあと数分で休み時間だった。陣内と目が合った。スーツもネクタイも安物で長身に合っていないが初日よりはまともな格好をしている。「金星の湖」の朗読男に見れば見るほどそっくりだ。教科書を詩集に持ち替えてそのまま舞台に立ったかに思えた。次に当てるつもりなのか、こないだの激突をまだ根に持っているのかとあたしは動揺した。妙なことに彼も気まずそうに視線をそらした。それともあれは実際に彼本人で副業をばらされるのを畏れているのか。そんなはずはない、とユカの朗読を聞きながらあたしは考えた。いくらなんでもそんなに狭い範囲でだれもがつながっているわけがない。
 はい結構、と陣内はユカを座らせた。そしてあたしに何か言いかけた瞬間に鐘が鳴り、彼は何事もなかったかのように挨拶の号令をかけた。彼の猫背が視界の外に消えるまで、振り向いて何か言うのではないかとあたしは気が気ではなかった。まだまだ語り足りない様子のユカと口を利く気にはなれなかった。あの画像を見た瞬間から見知らぬ他人のように感じていた。幸田に対しては不思議とそのように感じなかった。あたしもまた被害者を笑う同級生や「金星の湖」のグルーピーと同じだと気づいた。怒りと混乱と畏れを同性にばかり向けてしまう。弱い者のせいにしたほうが都合がいいから、元凶であるはずの男たちへ向ける勇気がないからだ。渦巻く感情を悟られまいと演技して昼休みまでにはすっかり疲労困憊した。のろけ話に関心がないだけに見えたはずだ。ユカがトイレに入るのを見届けてから幸田に電話した。相談があるんだけどとあたしは言った。放課後空いてる?
 食事中だったらしい。恋の悩みなら任せろと口にものが詰まった声で彼は答え、バイト入ってるけど店まで来てもらえればと付け加えた。背後が騒がしかった。いいよな幸田はもてまくりで。この野郎おれにも紹介しろなどと野獣のような吠え声が聞こえた。笑い声は春ちゃんだろう。うっせえなただの友だちだって、それすげえ勘違い、どんな女か知らないからと弁解がましく幸田が言うのが聞こえた。ふーんどんな女なの教えてとあたしは言った。
「こっちの話。店の場所は前に教えたよな。七時半から演ってる。じゃ」切られた。まるであたしの存在が恥であるかのようだった。彼には礼儀を教えてやらねばと誓った。
「そう花田佐久子」いきなり耳に飛び込んできた名前にあたしは振り向いた。佐倉が例によって机に腰掛けて仲間に取り巻かれていた。「別に意外じゃないけどさ。中学んときも暗かったから」
「幽霊みたいだったよね」「知ってんの」「クラス違ったけど有名。いつも成績トップ」「へー」
 佐倉は効果を狙って声を潜めた。「同級生の話じゃ元彼が死んでからずっと寝不足だったって。しかも空き巣に家を荒らされて別居中のお父さんが心配して、毎晩何度も電話してきたらしい」
「うっそ超くらーい」「きもー」「そりゃ死ぬよねー」取り巻きが唱和した。つきあいのいい連中だ。
 あたしは授業の準備をしながら臼井の席を盗み見た。彼女は欠席していた。
 長い一日だった。数学の講習を終えて北門を出たのはまたも七時過ぎだった。前にも見た小男が塀にもたれて競馬新聞を読むふりをしていた。女子高脇の細い通りはわざわざ立ち止まって街灯を頼りに新聞を読むような場所ではない。お腹空いたご飯食べてこう、疲れたから帰るわ、などと騒ぐ同級生たちと駅へ向かうと小男は新聞を小脇に挟んでついてきた。あたかもあたしが大金でも持ち歩いているかのようなねちっこい視線を感じた。
 自意識過剰だ、パラノイアだと自分に言い聞かせようとした。
 いつでも通報できるように携帯を握り締めてコンビニへ入った。小男は同級生らを追わずに店の前で車の流れを観察していた。一階が消費者金融になった巨大パチンコ店の電飾がその横顔を毒々しく染めていた。せめて靴紐を結び直すとか携帯でだれかと話すふりをするとかすればいいのにと思った。あたしは催涙スプレー代わりに制汗消臭剤を買い、店の前のゴミ箱に包装とキャップを棄てて、いまや変態であることが明らかな小男の前を過ぎた。じろじろ見てやったがあくまで素知らぬ顔を決め込んでいた。撮影してやろうかとも考えたが当時はまだツイッターはなかったし逆に騒がれそうな気がしたのであきらめた。十メートルほど離れてから振り向いてやった。小男は不自然に視線をそらした。「金星の湖」へ行ったとき春ちゃんが怯えて何度も振り返っていたのを思い出した。
 ずっと尾行されていたのだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。