逆さの月

第2話: 終わってる非日常で死んだ

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.17

あのふたりと知り合うまで飲酒の習慣はなかった。きっかけはおやじ狩りの夜だった。次に逢ったとき幸田が春ちゃんを連れてきて、気がつくとしょっちゅう集まっては飲んでいた。春ちゃんは下戸だったし幸田も発泡酒を数缶とウィスキーを瓶の半分でも空けたら酔い潰れた。あたしは彼らのつきあい程度に飲んでいるつもりだった。アル中の自覚は幸田の断酒までなかった。幸田の部屋に向かう前には決まってコンビニでジンかウォッカを一本買っていた。ライムを垂らして飲むのが好きだった。幸田と春ちゃんの学校は当時はまだ男子校だったし、彼らもあたしも合コンに興味はなかったから、本来であれば知り合う機会なんてなかったはずなのに、何がどうまちがったのか幸田とあたしは二十年来の腐れ縁がつづき、春ちゃんともときおり面会に行ったり手紙のやりとりをしたりしている。そのすべてのはじまりがあの放課後だった。
 雨が五日も降りつづいていた。部活にも所属しておらず受験もまだ先、酒はたまに料理酒を盗み飲みするくらいだったあたしは、放課後に読めもしないバンド・デシネを丸善で眺めたり、中古盤屋で餌箱を漁ったりするのが日課だった。LINEどころかツイッターすらなく、数年前に消滅した「前略プロフィール」さえサービス開始前だった当時は、メル友なる謎の風習があって、社会生活を円滑にするために同級生の紹介を断り切れず、見知らぬ異性とつまらないテキストメールのやりとりを、ふたつ折り携帯電話の豆粒みたいな物理ボタンをぷちぷち叩いて交わしあったりしたものだけれど、結果として「会ってくれなきゃ自殺する」などとモンスター化するのが常で着信拒否したりして、同級生たちの善意の押しつけにはすっかりうんざりしてしまった。無駄な労力だと気づいたのでそれ以来、関心を持てない相手とは仕事でしか関わらないことにしている。その日はちょうどうざい男を着信拒否にしたばかり。タワレコやHMVは経営破綻する前だったけれど、ポップにも品揃えにもフリーペーパーにも中学生の頃に感じたような魔法はなくなっていた。ヨーカドーのCD売場と大差ない試聴機にげんなりし、ただの広告ちらしに成り下がったフリーペーパーを入手すると、もうやることがなかった。帰って予習でもしようと殊勝に考え、バス乗り場へ抜ける路地へ入った。
 いまではもうそいつの顔も想い出せない。身なりのきちっとした男でスーツも靴もネクタイも高そうに見えた。そのときはかなりのおっさんに思えたけれどもいまのあたしと同じか少し年上にすぎなかったろう。標的に選ばれたのはあたしに何か隙があったからだとそのときは考えたがそんなわけはない。隙があろうとなかろうと変質者がそのような人間であるのはあたしのせいじゃない。いま冷静に考えれば二十年前にだって出会い系サイトはあったはずで、地方都市のごく普通のアーケード街で、事前の意思確認もなしにいきなり見ず知らずの子どもを買おうとする男は当時であってさえ異常だった。しかしその一方で子どもがおかしな大人に絡まれていて、それがどんなにあからさまでだれもが気づいていてさえも、助けようと動く大人がひとりもいなかったのも事実だ。ありえないとか信じられないとか切って棄てるのは簡単だ。戦争でもなんでもそうだけれど、二十年も経つとひとはそのときの状況や実感を忘れてしまう。だれに否定されようがそれは実際にあたしの身に起きたことなのだ。
 そいつは保護者であるかのようにスッと近寄ってきて平然と隣を歩いた。横目で品定めされるのを感じた。当時あたしは教師の目を気にして、生まれつき色の薄い縮れ毛を黒く染め、毎朝時間をかけてヘアアイロンでまっすぐ伸ばし、靴下もスカートの丈も校則通りにしていた。化粧もしていなかったしなんなら少し肥っていた。売春婦のような格好とは正反対で、劣情を催す要素など微塵もなかった。要するに、だから見くびられたのだ。逆らわず声も上げず、ただいいなりになると思われた。そして事実その頃のあたしはそんな子どもだった。この事件の後やたら飲むようになり、いろいろ面倒になって髪の色もウェーブも自然のままになったら、変質者や痴漢は激減した。卒業と同時に家を出て夜の店に勤めはじめ、それなりの格好をしたら完全に寄りつかなくなった。若い女の価値は幼く愚かで支配しやすいことにある。そこにあるのは性欲ではない。暴力への欲求であり支配欲だ。世間は被害者の落ち度を言い立てる。不注意だとか気を惹いたとか。そういうことにしたほうが都合がいいのだ。それが秩序を形づくるから。
 十七歳であるとはそういうことだ。あたしはそういう話をしている。
 低い声で耳元に息を吐きかけられた。「小遣い欲しいだろ。二万で食事につきあわないか」
 あたしは視線を合わせず歩調を早めた。変質者は執拗についてきた。バス停が遠く感じられた。怖かった。周囲の大人たちに目で助けを求めた。スーツの中年、初老の女、カップルや家族連れ。だれも視線を合わせなかった。男だけではなく女もそうだった。ばかにするような薄笑いを浮かべた男もいた、そう見えただけかもしれないけれど。その蔑みは変質者にではなくあたしに向けられていた。警官に助けを求めていたら補導されていたかもしれない。追い詰められてはじめてその路地が、狭く、暗く、立て看板や商品のワゴンなどの障害物でひしめいていて、変質者から逃げるには適さないことに気づいた。そんな道を選んだ自分を呪い、ひとりで立ち向かうしかないと悟った。追い払うつもりで「十万」といった。軽率の極みだ。これを読んでいる若い子たちに忠告しておく、まともではない人間にタゲられたら決して会話に応じてはならない。防犯ブザーを鳴らすなりだれかに助けを求めるなり、バッグを武器のように振り回して全力で逃げるなりすべきだ。あたしの経験だけで語るならば、そのようなことをしても被害者が咎められて終わるのも事実だし、世間の圧力に従うほうが楽かもしれないけれど、だからといって黙るのはまちがいだ。いちいち全力で抗うことで世の中を少しずつでも変えられると信じる。
「おやおや、大した自信だね。美味しいものをご馳走してあげるよ」
 男は馴れ馴れしく肩に手をまわしてきて、歩く方向を無理に変えられた。体温と湿気と体臭を感じた。昂奮して汗をかいているのだろう。抵抗してもどうにもならないしだれも助けてくれない。すでに人目を惹きすぎた。これ以上、公衆の面前で恥を晒したくない。急に何もかも面倒になった。どうでもいいやと思った。価値のない人間にふさわしい扱いを受けるだけだ。これまでずっとそうだったように。商店街のスピーカーが警察の広報を流していたのを憶えている。
「青少年による暴行、ひったくりに気をつけましょう」
 驚くなかれ、当時の地方都市のアーケード街では実際にこんな放送が流れていたのだ。警察も商店街も、大人が子どもに性暴力をふるうのは看過していながら、あべこべに公然と子どもを罪人のように扱っていた。現実に目の前で起きている事態からは目をそらす癖に、つくりごとの犯罪は声高に糾弾する。そのようにして世間は被害と加害を逆転させ話をすり替える。「若者の皆さん。麻薬や刃物の誘惑に屈するな」と商店街の放送はなおもあたしに説教した。このような状況でもっとも役に立たない助言だ。こういう絶望に名前をつけて大人たちの口へねじ込んでやりたいと、自分自身が大人になって三十路も後半にさしかかったいまでさえ思う。そしてこんな時代を経験していながら何ひとつ気にしなかった同世代を薄気味悪くさえ感じる。
 アーケードを出ると男はあたしの肩を引き寄せ、強引に自分の傘へ入れた。頭頂部や首筋に鼻息を感じた。交差点のひとの流れを薄気味悪く感じた。十代の女の子が、体の大きさも年齢もずっと上の中年男にいいように扱われ、見るからに厭がっているのに、これだけ多くの大人がだれひとり気にも留めない。連れられていった先は刻文町のイタリア料理屋だった。時間が早いせいで空いていた。奥の薄暗い個室へ通された。男は常連らしかった。明らかに親子には見えなかったろうに従業員は眉ひとつ動かさなかった。こういう客ははじめてではないのだ。男は品書きも見ずにあたしの分まで注文した。男の話は壮絶につまらなかった。すべてが自慢話だった。職場や役職はごまかしていたけれども本当は言いたくてたまらないようだった。あたしは適当に相槌を打って自尊心を満足させてやった。逆らうと何をされるかわからないからだ。靴下に撥ねた小さな泥の染みをそのあいだずっと気にしていた。ワインが甘すぎたのは憶えている。死ぬまでワインなんて口にするものかと心に決めた。その誓いは幸田たちと飲むようになってすぐに破ったけれど。男はカードではなく現金で支払った。財布に札束が見えた。半年後に公金横領のニュースを見た。逮捕された男はこいつだった。テレビに映し出された顔は鼻筋が醜く歪んでいた。なぜなのかはこれから説明する。
 男の傘で店を出た。あたしは夜の街が好きだ。人混みもぎらつく電飾も暖かく受け入れてくれるかに思える。でもこの夜は知りたくもない虚ろな裏側を急に見せられたかのようによそよそしく感じた。風俗店へ向かう酔った会社員たちもそこで働く女の子たちも、客寄せのお兄さんもみんな帰る家があり待つ人がいる。いまはいなくてもいつかはいたしこれからも出逢うだろう。あたしだけが何もなかった。冴子ママだって所詮は他人だ。あたしには変質者だけがまとわりついてくる。そんな感覚が忍び寄るとき、いまのあたしならウォッカで薬を多めに流し込んで寝てしまう。幸田が吐かせてくれて救急車を呼んでくれなければ危なかった夜もある。けれどもこの夜のあたしに幸田はまだいなかった。熱く湿った手が背中にまわされ、ねばつく汗が制服に染みこんだ。スマートフォンとソーシャルメディアが世の中を変える以前のことで、電柱やもうすぐ撤去される公衆電話ボックスを、裸の女と電話番号が印刷された小さなちらしが鱗のように覆っていた。どうでもいいことをよく憶えているもので、ぱんぱんに詰まった業務用ゴミ袋が積まれている上になぜか手錠が棄てられていたのが記憶に残っている。派出所の警官が棄てたと思おうとしたが無理があった。
 男は世界が自分に魅了されているとでも信じているかのように上機嫌で喋りつづけ、あたしが少しでもよそ見をしたり愛想笑いが鈍ったりすると相槌を強要した。逃がす隙を与えないためだったのだと思う。気づくと入り組んだ路地にいた。ありもしない視線を背後の暗がりに感じた。愚かな女の子。指を差して笑われてもおかしくない。妄想でないことはすぐにわかるのだがそのときはそんな風に考えた。中の見えにくい玄関や、休憩宿泊サービスタイムの料金が記された看板、入口に目隠しの垂れた駐車場が目についた。築年数の古さをごまかすために奇抜な改装を施された建物も多かった。男は口数が減り、何かを探すように目を泳がせた。口元が緩んでいていまにも涎があたしの髪に垂れそうだった。風呂には入るんだろうかと思った。毛深そうな突き出た腹の重みを考えた。怪我しないようにローションを使わせてもらえたらいいんだけど。無理なら仕方ない、いつ終わるか知れなかったあの頃よりはましだ。終わるまで頭の中で数学か英語を復習することに決めた。どちらの教科も苦痛だが、それなら知らないおじさんにやられるのと違って、同級生の大半が同時刻に当たり前にやっている。冴子ママを心配させずに病院へ行ったり学校を休んだりする段取りを考えた。
 SMの設備で有名なホテルを男は選んだ。男もあたしも無言だった。その頃にはすでに腕をつかまれていた。数日後まで跡が残った。自動ドアがひらいて凍えるような冷気を感じたときおやじ狩りに遭った。
 おやじ狩り。いまとなってはそれも説明が必要か。くどくど語るより現物を示したほうが理解が早い。地元でも流行っていると聞いてはいたけれど自分が巻き込まれるとは思わなかった。店を出たあたりからずっと尾行し、襲撃の機会を見計らっていたようだ。礼拝堂を思わせる建物の角から狂喜して飛び出してきた。だぶだぶの服をはためかせ泥水を撥ね散らし、クロームの首飾りがじゃらじゃら鳴って、ごつい指輪が街灯やネオンの光にギラついた。二十代前半くらいの男が全部で四人。いずれもいかにもバッドボーイ風のコスプレというか、この当時からさらに十年遡ったギャングスタラッパーみたいな格好で、この頃にはこんな連中がよく深夜のコンビニ駐車場にフェイクファーで飾った黒いワンボックスカーを停めて重低音の浜崎あゆみを轟かせていた。加齢による肥満をネットで弄られるようになるなんて想像もつかなかった時代の浜崎あゆみだ。金髪カラコン付け睫毛の色黒女がふたり少し離れた場所で見物していた。どちらも臍を覗かせたキャミソールにローライズの七分丈スキニージーンズ、踵の高いミュールという格好で、偽物だとひと目でわかるブランドバッグを抱え、コンビニの透明傘をさしていた。服装や化粧のせいか大量生産のバービー人形のように区別がつかなかった。
 ホテルに入ろうとしていた変質者は突如として猛然と群がってきた若者たちに目を剥いた。あたしは後ずさった。男は金髪男に襟首をつかまれ、頬を殴られ腹に膝蹴りされた。傘が水たまりに転がった。変質者は目を剥いて体を折り、路面に膝をついて膨れた舌先を突き出した。さっき食べたものが出てくるのかなとあたしは思った。その頭をモップみたいな茶髪がつかんで勢いよく路面に叩きつけた。蛙みたいな悲鳴があがり、叩きつけられた顔はピザみたいになった。暗くてよく見えなかったけれど鼻がありえないかたちに潰れていた。整形医療でも救えなかったことは全国放送の写真でのちに知った。胎児みたいに丸まった男に四人が群がり、滅茶苦茶に蹴った。ブスふたりもミュールの踵で参加した。ひとたびああなった人間には気持いいほど爪先や踵が入るものだ。逆向きキャップとだぶだぶジャージのデブが男の後ろ髪をつかんで持ち上げ、勢いをつけて振り落とした。そしてまた全員で蹴った。つかめるだけの頭髪が残っているのは中年男にとって善し悪しだなと思った。顔が陥没しても脳は崩れないものだろうかとそのときは思ったけれど血と泥でそう見えただけだったようだ。
 降りしきる雨。若者たちの元気な声、肉に食い込む鈍い音。撥ねる泥水。
 爪先や踵が入るたびに痙攣していた男はしだいに静かになり、苦悶の呻きも荒い息も聞こえなくなった。あれだけ精力旺盛でなければ死んでいたろう。でもあれだけ精力旺盛でなければそもそもこんな目には遭わなかった。というかあれだけ精力旺盛であっても普通は死んでいるので鼻が歪んだだけの顔をテレビで見たときはびっくりした。轢かないよう徐行する車のライトがその様子を舐めるように照らしては過ぎた。どの運転手も同乗者も携帯電話で通報する様子はなかった。この界隈を訪れる大人たちには当然それぞれの事情がある。そうしたすべてをあたしはただずぶ濡れで茫然と眺めていた。この騒ぎに乗じて逃げるべきだとわかってはいたが動けなかった。男のせいで差せなかった傘を手に持っていることさえ忘れていた。ひょろ長い奴に腕をつかまれて我に返った。嬉しそうなそいつの顔を見る勇気はなかった。助けられたわけでも善意でもないのは承知していたが、その事実が逃亡を阻止されたことで確定した。
 男は血まみれで水たまりに転がり雨に打たれていた。ずいぶん離れた場所に書類鞄が放り出されていた。脂ぎった初老の男と退屈そうに携帯をいじる女子大生風の車がそれを轢いて通過し、男へ泥水をぶっかけた。襲撃者たちは飛びのいて飛沫をかわし、それから男のスーツを探って財布を抜き出した。血で汚れるのは平気だけど濡れるのは厭なんだなと思った。当時このような犯罪が狩りと呼ばれた理由はこれでおわかりかと思う。倒したマンモスに群がる原始人も、外国の村で女子ども老人を虐殺をした軍隊も、達成感と喜びでこのように顔を輝かせたのだろう。獲物を襲って略奪する。太古よりつづく男たちのシンプルな営みだ。オッケー中は濡れてない、すげー金持ちじゃんと彼らは喜びを共有した。モップ茶髪が紙幣を仲間に分け与え、まだ残っている財布を尻ポケットにねじ込んだ。彼らは濡れて張りついた髪を爽やかに掻き上げたり、関節をぽきぽき鳴らして体をほぐしたりした。いいことしたあとは気持いいぜ。一日一善。それじゃもたねえよ。ばか一膳じゃねえ。などとくだらないことを言い合っている。つかまれた腕が痛くなってきた。雨水が目に入った。
 取り囲まれ腕をねじり上げられた。暴力をふるわれたとき声をあげて得をしたことはない。それが正しいと思ったこともないけれど。このときのあたしは父との過去に押し流されていた。何もかもが二重写しになっていた。茶髪が顔をすり寄せてきた。ヤニ臭い息。「青葉学院のお嬢様がエンコーかよ」と蔑むようにそいつは吐き棄てた。仰向けに突き倒され、群がられて手足を押さえ込まれた。平手打ちされた。ああやっぱりそうなるんだと思った。一生こんな場所から逃げられないんだ。乱暴な子どもが包装紙を剥ぐように制服を引き裂かれた。ブラウスのボタンが弾け飛んだ。産まれすぎた仔猫が水に漬けられるのを眺める子どものようにブスたちは薄笑いを浮かべていた。男たちが父親に、女たちが死んだ母親に見えた。かつての感覚が津波のように押し寄せてきて足をさらった。電波状態の悪い遠隔地から自分を眺めるようなあの感じだ。重みも痛みも何もかも、滑稽な記号でも上映されているかのように感じられた。
 冴子ママを騙した気分だった。とんだ厄介ものを押しつけてしまった。
 ブスの片割れが悲鳴をあげた。もうひとりのブスと男三人が振り向いた。茶髪だけはあたしの上で固いベルトをはずそうと躍起だった。ブスAは剥き出しの肩甲骨を気にしながら、なんかぶつかったと怯えたように言った。ブスBが急に傘を放り出し、虫、変な虫が入ったと奇声を発して半狂乱で飛び跳ねた。虫? とブスAは狂気が感染したかのように叫んで傘を投げ棄てた。イイイイイィーッ! と彼女は叫び、背中へ両手をやろうとして蒸気機関のように暴れた。腕が短すぎて届かなかった。ふたりの絶叫は殺人音波さながらだった。板でふさがれた建物の窓がいっせいに割れてもおかしくなかった。金髪男が手を緩め、腰を浮かして苛立たしげに振り向いた。ブスBは猛烈な勢いで垂直跳びをくり返した。エチオピアの少数民族が観光客向けに演じる儀式のようだった。
「挟まってる挟まってる挟まってる」Bは髪を振り乱し胸元を指して天を仰いだ。「取って早く早く早く!」
「背中で動いてる、お尻に入ったやだやだやだ!」とA。「早く取って取って取って!」
 ひょろ長とデブは困惑した顔を見合わせた。助けてやろうとした金髪は助平どこ触ってんのよ、と音高く平手打ちされた。茶髪はキレて振り向き「うるせえ集中できねえだろ」と叫んだ。ジッパーに手をかけたままだった。その瞬間あたしに何かが起き、轟然たる血流に鼓膜が圧倒された。あたしは茶髪の手をつかんで思い切り引き上げた。頑丈そうなジッパーだったのを憶えている。金属の歯が肉を噛み切る感触がした。間髪をいれずに股間を膝で蹴り上げてやった。茶髪は息を呑み、顔をどす黒く膨らませた。その鼻を狙って頭突きした。どうしてそんなことがやれたのかいまもってわからない。何も考えず一連の動作を流れるようにやった。茶髪の鼻は卵のパックを折るような音を立てた。彼は股間を押さえてよろめき、ボクシング漫画の登場人物がスローモーションで宙に舞うように仰向けに倒れた。顔に集中した血が鼻から噴き出して放物線を描いた。撥ね上がる水しぶきに仲間らはようやく振り向いた。
 ひょろ長が背後に忍び寄った何者かに蹴り倒された。前に立っていたデブが巻き添えになって水たまりに頭から突っ込んだ。そのあいだもブスたちは踊りつづけた。あたしと同年代に見える男の子がかったるそうな顔つきで立っていた。デニムの上下に「ラヴレス」のTシャツ、臭そうなコンバース、針鼠のような頭。色黒で背が高かった。断っておくが当時デニムのセットアップは相当にださい格好とされていた。
 金髪が雄叫びをあげて殴りかかった。針鼠頭は腰を落として攻撃をかわし、相手の腹に拳を叩き込んだ。数学の美しい証明のように無駄のない動きだった。起き上がったひょろ長はナイフを構えた。こわばった顔から本気で刺すつもりだとわかった。わあっと叫んで突進してきた彼の足を、針鼠男はだるそうに身をかわして払ってやった。ひょろ長は爽快なまでに勢いよく転倒した。ナイフは濡れた路面を回転しながら滑っていった。針鼠頭は背後から襲いかかるデブに肘鉄をくれるなりすぐさま飛びのいた。そうしたわけはすぐにわかった。デブは腹を抱えて仰向けに倒れながら噴水のように吐いた。顔もだぶだぶジャージも吐瀉物まみれになった。窒息死していれば一年後に逮捕されることはなかったはずで、デブにとってどちらが幸運だったかはわからない。
 金髪がナイフを構えて挑発するように刃先をちらつかせた。針鼠頭はうんざりした顔で何もせずにただ立っていた。金髪は見るからに苛立って吠えると、駄々をこねる子どものような動きでナイフをでたらめに振り回しはじめた。せっかくできるやつ風に見えたのが台なしだ。あたしはそばで倒れているデブを見下ろした。だぶだぶズボンのポケットから携帯がはみ出ているのが見えた。それを拾って金髪の顔に投げつけた。金髪はぎゃっと叫んでムスカのように片目を押さえてよろめいた。仲間の体に躓いた拍子にナイフの先が垂直跳びをしていたブスの胸元を切り裂いた。ナイフを取り落とした手が支えを求めて空中でもがき、もう一方のブスの腰に指先をひっかけた。そのまま金髪は水たまりに倒れ、ブスのジーンズを膝まで引き下ろした。下着の股間には熊のキャラクターがプリントされていた。
 急に静かになり雨音が際立った。ブスはそれぞれでかい胸とニキビだらけの尻を露出していた。まだ目を潰されていない男たちがそれを見た。あたしも見たし針鼠頭も見た。ブスたちも自分で見下ろした。そして見られているのを見た。
 だれもが失笑してそれはないと思うようなことばかりが当時あたしの身に起きた。事実をそのまま語れば信憑性を損なう。かといって体裁を整えて語ればあなたを欺くことになる。だれが信じようと信じまいと実際に経験したことをそのまま語るしかない。金髪は倒れたままおずおずと顔をあげた。ブスどもと視線が合った。彼の顔がサーッと青ざめた。ひょろ長も同様だった。彼らの喉がビールの広告のように鳴るのが聞こえた。ブスどもの尻と乳房のあいだから同時に黒い涙滴型のものが落ちた。
 毒々しい塗料とラインストーンで飾り立てられた爪が肉をえぐり引き裂いた。金髪は鮮血の噴き出す顔を両手で覆ってのたうちまわった。こいつがその後どんな人生を歩んだにせよ五本の溝が刻まれた顔でやっていかねばならなくなった。さらには大工道具でも入っていそうなハンドバッグが彼の肩や背中を強打し、柔らかいものなら容易に貫けそうなミュールの踵が脇腹に食い込んだ。ひょろ長も容赦なく次の標的とされた。彼らのほうが体が大きく腕力もあるのだからその気になればやり返せたろうにそうしなかった。倫理観が押しとどめたのではなく単に恐怖で何も考えられなかったようだ。転がるように逃げる彼らをブスたちが追った。その滑稽な光景は奇妙な印象を残した。あたしを見世物のように愉しんだ屑どもであるにもかかわらず、女は男に対してそういうこともできるのだという指標となった。
 去勢された茶髪とゲロまみれのデブが水たまりに残された。彼らはまだ死んでいなかった。あたしを食事つきホテル別二万で買おうとした変質者もだった。茶髪はけなげにもラブホの壁伝いに立ち上がろうとしていた。色黒男はしばらくその努力を眺めてから股間を蹴り上げてやった。茶髪はひゅっと息を呑んでくずおれた。まだ破裂していなかったのかとあたしは驚いた。茶髪は股間を押さえて尻を突き出し、顔を水たまりに突っ込んで動かなくなった。針鼠頭は平然と暴力をふるうところから見て正常ではないようだったが性犯罪者でもなさそうだった。立つのに手を貸してくれた上に傘と鞄を拾って手渡してくれた。あたしは制服を整えようと無駄な努力をした。冴子ママに余計な心配をかけたくなかった。知られる前にどうにかしなければと思った。針鼠頭は突き出された茶髪の尻から財布を抜き、ほらおっさん立ちなよと変質者に命じた。
 あたしはブスどもが垂直跳びをしていたあたりで涙滴型の黒いプラスティック片を二枚、拾い上げた。針鼠頭はギターピックを建物の影から遠投して命中させたのだ。実際に経験したあたしでさえそんなばかなことがと思う。でも覚悟してほしい、このばかげた一幕はまだ序の口なのだ。これからさらに異常な話を語らねばならない。あたしは二枚のギターピックを制服のポケットに収め、半年後に紛失するまで机の抽斗に大切にしまっていた。そして酔って部屋を掃除すべきではないと学んだ。
 針鼠頭はあまり関心がなさそうに財布をあらためた。ふーん教育委員会ね、偉いんだと彼は言った。朦朧としていた変質者がたちまち覚醒した。スーツは泥まみれで破れたり縫目が裂けたりしている。元がネクタイであった布きれはかろうじて首にひっかかっていた。針鼠頭は変態の襟をつかんで立たせ、いくらの約束とあたしに尋ねた。十万と答えると変質者はギョッとなった。やったのかと問われてまだと答えると、じゃ勘弁してやれと針鼠頭は言った。制服代だけ弁償しろよと彼は変態に言い、数枚抜いて財布を返した。変質者は地面に尻をついて信じられないような顔で受けとった。
 針鼠頭は何事もなかったかのように平然と歩きだした。学院の礼拝堂を思わせる建物の角を折れ、そのまま消えるかと思いきやボスッと消音器をつけた銃声みたいな音がした。傘をひらく音だった。赤茶の革の大きなギターケースを担ぎ、傘を差して戻ってきた。あたしに傘を差し出して住所を尋ねた。うちのが近いな、来いよ、そのままじゃ風邪ひくと彼は言った。やっぱりこいつも性犯罪者だったのかと落胆したがもう拒む気力はなかった。
 アパートは予想を裏切らぬ古さだった。赤錆の浮いた階段を二階へ上がった。ペンキのはげた合板の扉は歪んでいてたてつけが悪く、小学生でも肩で破れそうだった。針鼠頭はコンバースを脱ぎ散らし、部屋にあがって蛍光灯の紐を引いた。あたしは彼にならって傘を玄関の隅に立てかけた。荒廃した六畳間は嗅いだことのない臭いでムッとした。弁当の容器。脱ぎ棄てられたジーンズとパーカー。教科書や辞書。つまみとペダルのついた色とりどりの装置はエフェクターと呼ばれるものだと後に知った。壁際にはCDの山が築かれていた。小学生時代から使っているだろう学習机には仔犬のような画面一体型の小さなコンピュータがあった。同じ林檎印のレーザープリンタも鎮座している。ベッドはぐちゃぐちゃだった。女を招き入れる気がないのは明白だった。
 彼はギターを畳に下ろして窓を開けた。街の喧騒とともに夜の湿気が流れ込んできた。汚れた靴下のそばにジャックダニエルが転がっている。彼は軋むベッドに腰かけて瓶をつかみ、瓶の首で浴室を示した。
「温度調節に気をつけろよ。ガス釜の調子が悪いんだ」
 彼はぐいっとひと口飲んでから手近な布でギターケースを拭いはじめた。父に感じたような気配は微塵もなかった。男はみんな同じだと思っていたので拍子抜けした。全身の何かが緩んでほどけ、どっと疲れが押し寄せてきた。生まれてはじめて安全地帯にたどり着いた気がした。ずっと耐えてきた積み重ねが一度に揺り戻され、その痛みがすっかり受け入れられたかのように大声で泣きだしそうになった。よく誤解されるけれどあたしたちはいわゆる男女の仲ではない。この二十年間で一度もそういう関係に陥らなかった。正直に認めると危なかった瞬間は何度かある。踏みとどまれたのは互いに何を喪うかよくわかっていたからだ。通学鞄を置いて背を向け、濡れたぼろ切れのようになった制服を脱いだ。裸であることに無防備を感じなかった。大勢に襲われた直後に知らない男の部屋にいるというのに。
 浴室はさすがに建物が古いだけのことはあったけれど、予想に反してよく片づいていて清潔だった。ボディーソープやシャンプーにも問題がなかった。むしろ冴子ママとあたしが交代で掃除しているあたしの家よりきれいだった。柔軟剤の広告に出てきそうなバスタオルを体に巻き、落差に首をひねりつつ部屋に戻った。掃除や洗濯をしてくれる女でもいるのだろうと考えた。男子校の同級生であるとは思いもしなかった。針鼠頭は乾いた布でカントリージェントルマンの手入れをしていた。長年連れ添った妻をいたわるように磨き上げていた。親父のパーカーとおれのジーンズを貸してやるよと彼は振り向きもせずに言った。どの服のことを言っているのかはすぐにわかった。ベルトが通されたまま脱ぎ捨てられていたジーンズはお尻や太腿が窮屈だった。ウェストはベルトでしぼってもまだ余裕があった。裾を二度も折り返した。パーカーの袖を通すとかすかに煙草臭かった。
 あたしは立ったまま楽器の手入れを眺めた。針鼠頭には客人をもてなす発想がないようで作業を終えるまで気づいてもらえなかった。彼は柔らかなベッドに寝かせてやるかのようにギターをケースにしまいながら「座れよ」と言った。どこに、とあたしは言い、嫉妬したような声の調子に自分で驚いた。それではじめて針鼠頭は部屋の惨状に気づいたようだった。彼は壁際のスタンドに楽器を立てかけてギターアンプを示した。あたしはゴミを足で押しのけ、坂角総本舗の紙袋そっくりのアンプに腰を下ろした。空手でも習ってたのと訊いた。まさか、この辺で育ったんだよと彼は答え、それだけですべて説明がついたかのようにウィスキーを飲んだ。それからあたしの熱っぽい視線に気づいて瓶を手渡してくれた。あたしはぐっとひと口呷った。熱い。口のなかの傷に染みた。そんなものを飲むのははじめてだった。あたしは独り暮らしかと訊いて部屋全体を示した。
「親父が帰国したら泊まってくこともある。フリーの報道記者なんだ」
 写真立てに気づいた。小三くらいの男の子と、その肩に手を置いて笑う男。メイプルシロップのようなこの酒をあたしは気に入りはじめていた。喉が渇いていたのだ。「お母さんは」
「おれが三つのとき死んだ。車のブレーキがいかれてたらしい」針鼠頭は空になる前に瓶をあたしから奪い返した。
「この部屋にふたり寝るの」
「その気はねーって」
「お父さんの話よ。生活費は」
 彼は表情をくもらせ口を尖らせた。「『中学出たら自立』が親父の教育方針なんだよ」
「いい父親ね」
 彼は皮肉に気づかずに肯いた。「帰国のたびに土産を持ってきてくれるんだ。見たい?」得意げに押入れを開けた。深夜の通販番組で羽毛布団のおまけになるような半透明の衣裳ケースが並んでいて、まだ新しい除湿剤が置かれていた。このときは知らなかったけれど言うまでもなく春ちゃんが整理してくれていたのだ。針鼠頭は衣裳ケースからガラクタをひとつずつ大事そうに取り出しては講釈した。「アボリジニのお面。いい味だろ。これはナバホ族の飾り羽。鮮やかな色は虫とか土の染料だって。こっちの薬莢はタリバーン。先の潰れてるのがチェチェンゲリラ。モンゴルの遊牧民がミルクティーに使う茶碗。バリ島の魔よけの矢尻は麻酔薬が塗ってあるから気をつけて。あとこいつは……」
 どれもゴミにしか見えない。せいぜいがどんな子どもをも落胆させる百円ショップの玩具といったところだ。あたしは石ころのひとつを手にした。「これは」
「ストーンヘンジの一部」
 あたしは驚いた。「いいの? そんなの持ってきて」
「ほんとは駄目。これは王家の谷で拾ったって。これはベルリンの壁の一部。こっちは南アフリカの。ここがキラキラしてるだろ。ダイヤモンド鉱山で採れたんだ」あたしには雲母にしか見えなかった。「これ何だかわかるか」
「爆竹の燃え滓」
「ただの爆竹じゃない。二ヶ月ぶりに帰ってきたんだけど、夜中にいきなり電話で起こされて呼び出されたんだ。何かと思ったらこれさ。もの凄い爆発だった。電話ボックスが吹っ飛んだよ。警察が来る前に逃げた。ニュースにもなった」
 あたしは感心するふりをしつつ木彫りの変な顔を裏返した。小さな金色のシールが貼られていた。メイド・イン・チャイナと記されていた。彼は最後に一枚のCDを取り出した。目を細めて感極まったように呟いた。「十歳のときにもらったこいつでおれの人生が決まったんだ!」
 当時ホームセンターや潰れかけの書店のワゴンで中古ビデオなんかと一緒に五百円で売られていた海賊版だった。流出音源集ですらない。ストックフォトらしき英国旗の写真に「ビートルズ・ベスト」と記された、あのなんとも反応に困るやつだ。人生を決定するような重要な逸話には本来それなりの名盤が登場するものではなかろうか。ビートルズという時点で笑うひともいるかもしれないけれどあたしはそこまで偏狭ではない。せめてラバーソウルとかリヴォルヴァーとか最悪、赤青盤でも構わない。あんな高そうな楽器を所有する男がこんなものを大切にしているのかと驚き呆れて相手の顔を見た。冗談を言っているようには見えなかった。そいつの名前すら知らないのを想い出した。話題を変えるのに自己紹介はちょうどよかった。
 あたしはそのようにして幸田滋と知り合った。数日後には春ちゃんと引き合わされたように記憶している。そして少なくともその翌年には三人でしょっちゅうつるんでは飲んだくれていた。春ちゃんがいなければあたしと幸田は早い時点で不幸になっていた。だからこそ幸田は会わせるのを急いだのだと思う。本人に確かめたことはない。
 その夜の彼の言葉に嘘はなく、あたしは冴子ママより先に帰宅できた。この頃すでに彼女は毎日のように帰りが遅くなっていた。その原因があたしと父親にあることはすでに気づいていたけれど、このときはただ服のことであれこれ訊かれずに済んでほっとした。自分の服に着替えるときパーカーのポケットに細い鎖が入っていることに気づいた。鎖には錆びたロケットがついていた。
 剃刀の刃で錆を落としてこじ開けた。剃刀なんてものがなぜ机の抽斗にあったのかは訊かないでほしい。枠と図柄が逆に印刷された外国の古切手が一枚、花びらのように落ちた。ロケットに戻そうとしたけれど、どうしてもうまく収まらなかった。面倒になって抽斗に放り込んだ。この切手もピックと同じときになくした。ゴミにしか見えなかったので気にも留めなかった。もしこのときすぐに幸田に携帯なりメールなりで告げていたらそのあとの騒動には巻き込まれず、彼は何も知らぬまま父を尊敬しつづけ鬱にもならず、あたしはだれかと知り合って一児の母になっていたかもしれない。そんなことはわからない。現実にはあたしはロケットを返さなかったし幸田はいまもあたしの部屋にいる。そしてあたしたちは子どもをつくらず、だれもあたしたちのような目に遭わせなかった。それは元はと言えばあの夜の出逢いを、恋愛のようなつまらない関係に還元したくなかったからで、その判断を悔いたことはこの二十年間で一度もない。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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