血と言葉

第28話: 報いと赦し(4)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.31

自動小銃を連射するかのような乾いた打鍵音が暗い部屋を満たす。持ち主を喪った画面が輝き、流れるように言葉が打ち出される。機械に温もりがないなんて嘘だ。アルミ筐体に並ぶ黒い鍵はしっとりと指に馴染み、吸いつくように軽やかに反応する。文章はそれ自体が生きているかに思えた。ちありは耳元に低い声を聞き、膚と内臓に懐かしい息遣いを感じた。教わった技術のすべてを物語へ注ぎ込んだ。
 二ヶ月たった現在でも学校は封鎖されていた。辻凰馬が殺害され、軽傷者が数名出たほかは生徒や教職員、来客に被害はなかった。それでも多くの生徒が心的外傷を負い、いまだ自宅から出られない者もいた。新垣は銃弾が頭部をかすめた衝撃で脳震盪を起こしていた。跡が残るほどの負傷ではなかった。彼女が救急隊員によって発見され、病院に搬送されたのは警察突入の二時間後だった。
 ちありは授業が再開されたとしても登校する必要を感じなかった。もはや身の振り方を指図する者もない。Ωの本は莫大な利益を稼ぎつづける。台風の近づく午後に始まるこの物語にも、すでに群生舎から巨額の前金が支払われていた。凰馬の体臭が残るこの部屋から出るつもりはない。いずれ家賃や給料の交渉をせねばならない。店の電話で何度か短いやりとりをした限りでは、田崎老人も容認してくれていた。
 海堂宗介を発見したのは邸宅に二十年も通いつづけた家政婦だった。宗介は書斎兼応接室で首を吊っていた。事前に知り得た身内の犯行を隠蔽したとして糾弾され、数日前に失職していた。
 ちありは父の元部下からその報せを聞いても帰宅しなかった。そばにいてやるべきだったのはわかっている。しかしサンドウィッチを食べたあの日すでに親子の関係は終わっていた。今さら戻っても待つ者はない。丘の上の邸宅は追憶だけの場所になっていた。母の事務所と同様に。
 ちありは電話での短く素っ気ないやりとりを思い出した。あれが最後だった。人生の条件が少しでも違えば幸福な父娘でいられたのだろうか。葬儀が終わったのは留守電で知った。カーテンを閉ざしたΩの二階で眠るあいだに着信していた。
 将大が訪れたのはその数日後、開店前の掃除をしているときだった。彼はひと言も発さずに紙袋を置いて去った。袋には料理を詰めた密閉容器があった。味も見た目も悪く、母親に作らせたようには思えなかった。それから将大は毎日通うようになった。彼は汚れた容器を回収し料理を置いて帰った。あたかも贖罪のように。
 会話は一度も交わさなかった。

 季節は過ぎ、国語教師との日々は落ち葉が積もるように言葉に刻まれた。ときには県警に呼ばれ、作文のために同じ話を繰り返させられた。未成年であり元本部長の娘でもあるせいか配慮が感じられた。出入りには裏口を案内され、報道関係者には煩わされなかった。ふたり組の刑事には会わなかった。署内で顔を見かけることもなかった。代わりに飯沢と名乗る老警部が親切にしてくれた。
 飯沢はある晩ふらっと現れてウィスキーを一杯だけ飲んでいった。常連客が声をかけ、想い出話で意気投合した。最後に書いていた本はどうなったんだろう、と彼らが話すのを聞いてちありは驚いた。お嬢ちゃん知ってるかい、と振られたが言葉が出なかった。常連が帰ったあと飯沢は空のグラスを見つめて黙った。皺に憂いを刻んだ顔が急に怒りを湛えた。背後にだれかが立ったかのように老警部は冷たく呟いた。腐れやくざめ、連れてっちまいやがって。とちありの耳には聞こえた。
 凰馬は新聞をとっておらず部屋にも店にもテレビはなかった。ちありはニュースサイトすら見なかった。自分たちがどう報道されようと関心はない。学校関係者の多くは凰馬が災いを招いたと信じていた。しかし忌むべき存在として捉える者ばかりではなかった。目撃者の言葉は共有され拡散された。ソーシャルメディアの通知数は爆発的に膨れ上がった。その数字はちありにとって何の意味もなかった。ただ記憶に残る言葉を書き記し、世界に伝えたかった。
 辻凰馬は搬送先の病院で心肺停止が確認された。死因は最後の銃弾だが、それがなくとも出血多量で助からなかったと医師は語った。報道で警察の発表を知る前からわかっていた。凰馬が教室から運び出されるのを自分の目で見たのだ。そのときから彼女はこの四畳半に、文机に、書くための道具に縛りつけられた。
 先生がやるはずだった仕事を引き継ぐのだ。
 万年床で目を覚まし、密閉容器の料理を食べ、日が暮れるまで文机で仕事をした。夜には顔馴染みとなった常連客に酒を出しながら文庫本を読んだ。開店の支度は将大がした。仕入れは田崎の部下がやってくれた。ちありは明け方に垢染みのついた寝床に着き、染みついた体臭を嗅いで眠った。そしてまた書くために目覚めた。
 凰馬を愛した人びとを、ちありの指先は鮮明に描き出した。絵梨子を、新垣を、青山を……そして彼女自身を。命を吹き込まれた登場人物たちは、やがて世界中へ言葉を伝え広める。

 凰馬には身寄りがなかった。遺体の焼却に立ち会ったのはふたりの警官と青山だけだった。絵梨子は凰馬の死を信じたくないといい、参列を拒否した。ちありはΩの二階で凰馬の匂いを嗅ぎ、執筆道具に触れていた。高い煙突から立ちのぼる白い煙をふたりの警官が見送った。
 凰馬の遺骨は共同墓地に埋葬された。青山は離れた位置からその様子を見守った。だれにも似ていない男も骨になればだれとも同じだ。おそらく凰馬自身もそうあることを望んだろうと青山は思った。石が元の位置に戻され、従業員が立ち去ったあとも青山は留まった。
 青山は両切り煙草にジッポで火をつけた。深々と煙を吐き、高い秋空を見上げた。
「どこがフルーツタルトの味だよ」と彼は呟いた。

 ピースの煙はうっすらと立ちのぼり、高い煙突の煙と混じり合って空に吸い込まれる。雲は街を離れるにつれて重く垂れ込めた。雪を予感させる空だ。
 県境の山道を漆黒のクラウンが走っていた。紅葉や路面がタールのような色に湿っている。無口な刑事が運転していた。喋るほうが後部席に話しかけた。
「本部長のお嬢さんはお咎めなしだ。海堂千里の短銃が暴発したんだ。犯行集団がひとつだけ本物を持っていた。入手経路はわからない。争った際にあんたとお嬢さんの指紋がべったりついた。そういうことだ」
 後部席の男は流れる景色を見ていた。胸に巻かれた包帯が襟元から覗いている。
「本は春には店頭に並ぶらしいぞ。映画化も決まったって話だ。事件が追い風になった。売名の批判もあれば家族を喪った悲劇の少女って声もある。書店には予約が殺到しているそうだ。過剰防衛の末に犯人と相打ちになった教師の物語。気になるだろう」
「いや」
「薄情だな。脚本を書いたんじゃないのか」
「だとしたらどうする。死人を逮捕するか」
「結婚するつもりだったんだろう」
「生徒と? ばかいえ」男は土気色の唇を歪めた。「警察の発表を疑う理由はない。あの子も世間も。送ってくれて感謝している」
「礼なら向こうで本部長にいうんだな」
「もう本部長じゃない」
「おれたちには彼以外は考えられない。職のあてはあるのか」
「呼んでくれた老人がいるんでね。彼の屋敷や庭の手入れでもしながら書くさ」
「優雅なご身分だな。虫酸の走る野郎だ」
「いい第二の人生がはじめられそうだ」
 無口なほうがクスリと笑みを漏らした。
「ほらな。こいつはあんたが好きなんだ」喋るほうが苦々しげに呻いた。
 車は速度を上げて青葉市を離れた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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