血と言葉

連載第27回: 報いと赦し(3)

アバター画像杜 昌彦, 2022年07月30日

血や脳漿や骨片が飛び散った。四方から発狂したような悲鳴が上がった。別の少年が廊下の角を走って逃げるのが見えた。銃を手にしていた。凰馬を狙ったつもりだったのだろう。凰馬は屍骸を投げ出し、顔を手の甲で拭って敵を追った。水瀬は魅せられたかのようにあとを追った。
「なんでついてくるんだ」
「わからない」本心だった。水瀬はやがて同じ自問自答を繰り返すこととなる。
 少年は理科実験室に飛び込んだ。隠れていた男女が銃を見て絶望の声を上げた。凰馬は声と身ぶりで机の陰に伏せさせた。標本棚でホルマリンの瓶が次々に砕け散る。鼻を衝く臭気が充満した。
 荒く呼吸しながら水瀬はここで死ぬのかと覚悟した。心臓が早鐘を打ちアドレナリンが血流に流れ込む。隣で凰馬は平然としていた。廊下で初めて顔を合わせたときと何も変わらない。あたかも他人には聞こえない声に耳を傾けているかに見えた。
 それが事実であるとは水瀬には思いもよらない。
 装弾数は十五発、薬室に一発……と亡霊は凰馬に囁いた。耳を澄ませ。位置を見極めろ。
 凰馬は銃声を数えた。撃ち尽くされたところで机の陰から立ち上がり、躊躇なく発砲した。弾倉を入れ替えていた少年は胸を撃ち抜かれて倒れた。理科室は静まりかえった。机に隠れた男女が息を呑むのが水瀬の耳にも聞こえた。長い息が漏れるような一定の音も聞こえた。
 事件発生直前まで化学愛好会による実験の実演中だった。そのためガスが開栓されていたのだ。少年の乱射によって配管が破損していた。凰馬は大声で男女を追い立てた。水瀬も転がるようにつづいた。

 学校の周囲には騒ぎを聞きつけた野次馬が群がっていた。警察車両が集まって交通が閉鎖されていた。校門で警官が立ち入りを制限していた。校舎から避難する人びとが溢れ出てきた。人々の顔には怯えよりも戸惑いの色が濃かった。子どもと再会できない家族が声を荒げて教師を問い詰めた。だれもが何が起きているのか知りたがった。青ざめた顔でうずくまって泣き出す女子生徒もいた。慰める友人も泣き出した。
 飯沢が無線で指示を出そうとしたとき爆発が起きた。ガラスの破片が降り注ぎ悲鳴が上がった。黒煙が校舎から噴き上がる。炎が見えた。人々の悲鳴は恐怖よりも、非現実的な事態を受け入れかねて思わず漏れたかのようだった。
 事情聴取していた警官が戻ってきた。犯人は女子生徒を人質に取って図書館に立てこもっているという。複数の犯人が銃殺されたという情報も入っていた。
 犯人? 最悪の事態を予期していた飯沢は驚いて訊き返した。ええ間違いありません、と生真面目な若い巡査は断言した。殺害したのは天然パーマの教師だそうです。複数の目撃証言があります。
 あいつだ、と飯沢は苦々しく思った。急に背筋がこわばるような気配を感じて振り向いた。だれもいなかった。
「衷さん……?」

 凰馬は書棚越しに犯人と撃ち合っていた。本が吹き飛ばされ、埃や紙片が舞う。弾丸が唸って空気を裂き、水瀬のこめかみをかすめた。
 水瀬は倒れた書棚の陰で、ノートPCを収めた鞄で頭を守って慄えていた。逃げるべきだった、どうしてついてきてしまったのだ。命がけで執着するなんてわれながら常軌を逸している。後悔しながらも目だけはバセドウ病のように見ひらき、凰馬の動きに釘づけだった。あれだけの本を書いた作家がどうして平然と人間を、まだ子どもといっていい若者を殺せるのか知りたかった。
 凰馬は振り向きざまに撃った。書棚の陰で銃を手にした少年が吹き飛んだ。背後から狙われていることにどうして気づいたのか水瀬にはわからなかった。まるでだれかに知らされたかのようだった。
 凰馬は書棚を蹴り倒した。将棋倒しになり本が降り注いだ。下敷きを免れた少年が凰馬に狙いをつけた。発砲する前に少年は突き飛ばされるように倒れた。遺体の胸からどす黒い血が滲み出ていた。
 ジャージの少年が女子生徒を捕らえ、楯にするかのように羽交い締めにしていた。凰馬が仲間を次々に殺害するあいだ何事かわめいていた。凰馬は急に振り向きざまにその少年の肩を撃ち抜いた。
 自由になった少女は腰が抜けたように這って逃げた。銃が床を滑った。拾い上げようと手を伸ばした別の少年を凰馬は射殺した。それから人質が安全な場所にたどり着くまで数発撃った。頭や胸を見えないハンマーで突き飛ばされたかのようにひとり、またひとりと倒れた。
 銃撃がやんだ。水瀬は目で敵を探した。ほぼ全員が殺害されていた。血だまりで喘ぐ者も助かるとは思えなかった。呻き声が弱まって絶えた。水瀬は凰馬に話しかけようとした。
 銃声がした。
 凰馬は磔にされるように書棚へ倒れた。本が雪崩のように落下する。貸出カウンターに身を潜めていた女が立ち上がった。
 海堂千里だった。

 なぜ黙っていた、と凰馬は祖父に悪態をついた。
 亡霊は彼を見下ろしてニヤリと笑った。先に行くぜ、とでもいうかのように薄れて消えた。
「あたしが死んだら遺書が公開される」千里は薄笑いを浮かべていた。「娘を強姦した担任教師への復讐を綴った。マスコミはあなたの出自を暴く。学校や教育委員会は糾弾される。ちありの今後を見届けられないのが残念だわ。どうして生きていくのかしら」
「なぜ実の娘に……」凰馬は咳き込んだ。鮮血が散った。肺を射貫かれていた。
「実の娘だからよ。子どもを持たない男にはわからない。あんなもののために体も人生も変えられるなんて。世界の主役はあたしなのよ」ヘリのローター音が近づいた。重く低い音が大気を圧迫し窓ガラスを鳴らした。「憎いのね。撃ちなさい。そうしてあたしの芸術が完成する」
「ただの自己愛だ」
「神は美しさを愛するの。だれだって美しいものが好きでしょう」
「神が赦すのは届かない祈りだけだ」
 千里はその答えが気に入らなかった。凰馬の眉間に狙いをつけ、引金を絞った。高い炸裂音が図書室に響いた。
 ちありが絶叫した。戸口で凰馬の銃を母親に向けていた。
 水瀬は一部始終を見ていた。海堂千里の最期が記憶に焼きついた。それは奇妙な表情だった。届かない鏡を見つめるかのような諦観。その額に黒い肉の薔薇が咲いた。千里は背後の壁にもたれるように倒れ、血の筋を描いてくずおれた。ちありは目を見ひらき声もなく泣いていた。役目はこれだったのだと水瀬は思った。伝え広めるのはおれにしかできない。
 室内が暗くなった。外に巨大な蜘蛛のような影がいくつも降りてきたかと思うと窓が砕け散った。白い霧が充満し、窓と戸口から特殊急襲部隊が突入してきてちありと水瀬を組み伏せた。彼らは犯人たちと凰馬の頸動脈に触れ、死亡を確認した。全視界制圧オール・クリア、と黒ずくめの隊員がマスク越しにくぐもった声でいった。
 救急車のサイレンが迫った。ローター音は鼓膜を破るほどに轟いた。水瀬には何も聞こえなくなった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。