血と言葉

第25話: 報いと赦し(1)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.28

同居をつづけるうちにちありは母親とうまくいかなくなった。千里は目新しさが薄れた玩具に飽きる子どものように娘への関心を失った。多忙を口実に視線すら合わせない。興味があるふりをしていただけなのではないかという疑念をちありは抱いた。目的はわからないが何か知りたいことを聞き出して用済みになったのだ。そもそも同居を提案されたのもそのためだったのかもしれない。
 収入は順調に増えていたし、就職せずにやっていく自信もついていた。しかし執務室で生活するからには職員や保護者の目に晒される。「理事長の娘が何もせずにぶらぶらしている」と見られるのが癪だった。母親が冷淡になったのは家業を手伝わずに居候しているせいではないかとも思えた。ちありは不登校児に化学実験や粘土細工を教える手助けをするようになった。
 自閉症児に絵を描かせたり目の見えない子どもに詩の朗読をさせたりする合間に、千里は日に何度も携帯で不登校児たちとやりとりしていた。やがて一部の生徒を選り抜いて特別授業を行うようになった。センターには入室が禁じられた部屋があった。母親の説明では化学実験に使う危険物を保管する倉庫とのことだった。関係者は首から提げた身分証をセンサーにかざして出入りしていた。千里は選抜された生徒とそこにこもりきりになった。
 防音が効いていて中で何をしているのかわからない。大学教授や院生たちもその業務からは締め出されていた。奥様には何か考えがあるに違いない、と彼らが会話するのをちありは見た。新理事長の娘が職場に住まうことをある日急に知らされても異論を挟まなかった連中だ。教育者としての千里に心酔するあまり何の疑問も抱かないようだった。
 ボランティアの教授や院生をちありは好きになれなかった。選抜生徒はそれ以上に信用できなかった。どの少年も他人を見る目つきが尋常ではなかった。碌に通ってもいない学校の同級生や教師を悪しざまに罵った。社会に虐げられていると信じているのが言動の端々から窺い知れた。何の努力もせずに崇拝されるのが当然とでも思い込んでいるかのようだった。その態度が「千里先生」の前では露骨なまでに変わる。自分だけが気に入られようと競って媚びへつらう。理由はちありの目にも明らかだった。
 ありのままのあなたが正しい、悪いのは価値を理解しない社会だと千里は彼らに吹き込んでいた。性格的な問題を正当化し、責任を社会になすりつけることで信頼を得ていた。褒めるときにはさりげなく手に触れたり頭を撫でたりした。信頼が憧れを経て崇拝へと変わるのは必至だった。思春期の男子に及ぼす効果を知っていて故意にやっているかに見えた。ちありは母親を深く愛していた。疑いたくはない。しかしその行動はあまりに不審に感じられた。
 ちありは休憩室として使われている部屋に、音声メモを作動した携帯をスポーツバッグに入れて放置した。不登校児たちの会話が録音された。ところどころ聞き取りにくかったが劇場テロ事件について話しているようだった。彼らはそれを「リハーサル」と呼んだ。これから行う本番のための予行演習だったというのだ。ちありの高校の名前がたびたび口に出された。同じ手口で襲撃する計画のように聞こえた。
 荒唐無稽な妄想に思えた。その一方で細部に奇妙な真実味も感じられた。銭湯の脱衣所で見たニュースが脳裏をよぎった。製造された銃の多くが発見されていないと報道されていた。
 本人に直接問い詰める勇気はなかった。失望され疎まれればまた母を喪う。父親に相談すべきか悩んだ。家出同然に関わりを断ったにもかかわらず今さらと思うと躊躇した。夜、母親が入浴している隙に思いきって電話した。父親は素っ気なかった。今は忙しい、あとでゆっくり話そうと一方的に切られた。もとより不器用な父ではあったが娘との接し方を見失ったかにちありには思えた。自分の人生を選んで彼を傷つけた事実に胸が痛んだ。
 翌日、県警本部に出向いた。顔馴染みの警官に訴えたが取り次いでもらえなかった。いつものふたり組には会えなかった。ちありは凰馬のことを考えた。助けを求めたいが巻き込みたくない。母親と一緒くたに蔑まれるのも怖かった。独りで対処するしかない。

 海堂宗介もまた妻の計画を嗅ぎつけ、穏便に阻止しようとしていた。
 世間や警察に知れたら自分の地位が危ない。腹心の部下ふたりを使って密かに妻の足取りを追ううち、劇場テロ事件との関連に気づいた。辻凰馬に接近したのは人間開発研究センターの情報を得るためだった。空振りだった。肉親との接触を長いあいだ断っているとの主張は事実だった。父親が詐欺罪で逮捕されたときの報道以上には凰馬は何も知らなかった。その報道でさえ関心がないように見えた。
 凰馬は父親より祖父に似ているように思えた。悪人かどうか宗介には判断がつかなかった。
 調べるほど妻への疑惑は揺るがなくなった。一方で問い詰めるに足る証拠はどうしても押さえられない。宗介もまた娘と同様に再び千里を喪うのを畏れていた。明確な根拠なしに向き合う勇気がなかった。県警本部の執務室で深夜まで報告書の山と格闘した。だれもいない邸宅に帰宅したくなかった。
 家を出た娘から電話があった。甘やかすつもりはない。宗介は喜びが声に表れないよう気をつけた。担任教師の顔が思い浮かんだ。千里について話し合うべきだと彼ならいうだろう。百も承知だ。だがまずは証拠を固めなければ。ちありはまだ子どもなのだ。不用意に打ち明けて傷つければ今度こそふたりとも喪う。もうそんな想いはしたくなかった。
 今は忙しい、あとでゆっくり話そうと電話を切った。その機会が訪れないとは考えもしなかった。まだ時間が残されていると思っていた。肚の底では妻を疑うことができなかった。職業上の経験と理性が何を示していても。妻と子を愛していた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告