血と言葉

第23話: 集う日(3)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.26

昼休みに職場を抜け出した凰馬は喫茶店で深く煙を吐いた。依存症だな、と思う。仕事が溜まりつつあった。たかだか数十分の息抜きとはいえ、いい傾向ではない。
 喫煙者で店は混んでいた。窓に面したスツールに空きを見つけた。だれにも邪魔されたくない。しばらく絵梨子と顔を合わせていなかった。友人を喪うことを若い頃は何とも思わなかった。思いのほかこたえたのは歳のせいか。身の程を忘れて甘えていた、ということか。知らず知らず寄りかかっていたのだ。なくてはならぬものであるかのように。
 年配の女と入れ替わりに隣に別の客が座った。新垣だった。英語教師は給仕にコーヒーを頼み、凰馬に微笑した。「辻先生のご本、大変な騒ぎになってますね」
「海堂のやったことです。おれは知らない」
 凰馬は会話を交わすようになるまで新垣を無口な女と思っていた。遠慮する理由がなくなったのだろう、蔑みの対象であることが明確になったからと考えた。凰馬は友人だった女のことをまた思った。押しつけがましさは絵梨子にもあった。しかし彼女は拒絶をも当然の権利として尊重する。新垣は他人を通じて自己実現する女に思えた。
「もう隠せませんよ」新垣は態度に優位を滲ませた。「わたしだっていつまでも黙ってはいません」
「嘘じゃない。出版はあとで知らされました。あいつが勝手にやったんです」
「辻先生の力を借りずに全部ひとりでやったと?」
「『子どもらしい作文』から逸脱すると親の関与を疑うタイプですか」
 新垣は黙ってコーヒーをかき混ぜた。そうするためだけにクリームや砂糖を使う人間を凰馬は理解できない。他人を理解できた試しはなかった。自分自身でさえわからない。読んで書いて教えて生活している。何のために。いつまでつづく。どこへ行くのだ。往来を眺めて二本目のピースに火をつけた。
「お辞めになるんですか」
「だれに聞きました」
「みんな噂してます。海堂さんが原因だと。誤解を正してください」
「誤解?」
「悪く思われたままでいいんですか」
「そう評価されているのなら、そういう人間なんでしょう」
「もっとご自分をお大事になさって……」
「そのつもりですよ。出版の件はそれまでごまかせればいい」
「本当だったんですね」
「引き継ぎでみなさんに迷惑をかけます。申し訳ない」
「もう一度改稿のこと考えてみてください。読ませていただいた原稿はどれもご自分を傷つけているように思えます。まるで死にたがっているみたいに」
 凰馬は鼻で笑った。雲が垂れ込めて空は暗い。急に冬が近づいていた。
「辻先生には幸せになる権利があります。少しはご自分の優しさに目を向けてください。ご家族や過去の恋人はもう忘れて」
「だれかとまちがえている」
「何度もお書きになってます」
「ただの創作だ」
「海堂さんとのあいだに何があったかは訊きません。知りたくもない。これから書くものについて考えましょう。辻先生は今を生きてるんですよ」
 またお店に伺いますと宣言された。新垣は伝票をつかんで去った。その後ろ姿を凰馬は窓越しに眺めた。新垣の予告は実現しなかった。代わりに訪れたのはちありだった。

 文化横丁には敗戦直後に建てられたコンクリートの長屋が並んでいた。古くからの精肉店、鮮魚店、中華料理店、小料理屋と、専門学校を出たての若者が経営する雑貨屋や古着屋が隣り合わせにひしめく。日中でも陽は射さずジメジメして、魚と香辛料と香、小便や機械油の臭いが饐えたように立ち込める。自宅と職場を往復するだけだった日々を凰馬は思った。どうしてこの路地に立ち寄ろうと考えたのか。ふとした気まぐれが今この瞬間に繋がっている。
 Ωは公衆便所に近い横町の外れにある。凰馬が扉に手をかけると鍵がかかっていなかった。音を立てずに店に入り二階へ上がる。書棚から本が抜き出され紙の山はひっくり返されていた。ネオンが射し込む部屋で小柄な黒い影が動きを止めた。凰馬は電球に手を伸ばしスイッチをひねった。ちありは目を細めて凰馬を睨み上げた。教え子は本や紙束が散乱した万年床に力なく座っていた。手には書きかけの原稿があった。
 声をかけようとした凰馬はちありに紙束を投げつけられ殴りかかられた。ほかの女に先に読まれたことをちありは獣じみた嗅覚で知ったのだ。
 ちありの華奢な腕を折りそうで凰馬は抵抗を躊躇した。その隙を突かれた。胸に頭突きをされ股間を膝で蹴り上げられた。よろめいてうずくまった凰馬をちありは万年床に押し倒した。文机にぶつかり、埃が舞い上がり電灯が揺れた。筆立が倒れて中身が散らばった。ちありがナイフを逆手に持って振り下ろした。頸動脈を貫かれる寸前で凰馬は身をかわした。ちありはナイフを布団から引き抜き、自分の胸に突き立てようとした。凰馬がナイフを奪って部屋の隅へ投げ棄てた。
 抽斗が開いているのに気づいたが遅かった。ちありは銃を構えて身を離した。凰馬は手を伸ばした。あたかも抱き寄せて罵詈雑言を封じようとするかのように。撃たれることを意に介さぬ態度にちありは怯えたように見えた。「来ないで!」身を震わせて叫んだ。
 いつから抽斗の中身が知られていたのか凰馬にはわからなかった。ちありは座ったままあとずさり、書棚に背中を押しつけた。凰馬は体を起こして座り直した。互いに荒い息で対峙した。埃が漂う部屋は揺れる電灯に照らされていた。ちありが闇に沈み光に浮かび上がるのを凰馬は見つめた。
 ちありが銃口を咥えることを、次いで自分のために罪を負うことを凰馬は畏れた。使うとき躊躇しないよう弾丸は一発だけ入れてある。ちありが安全装置の外し方を知らない可能性に彼は賭けた。
「そんな持ち方じゃ暴発するぞ。手を持って行かれる」嘘をついて脅した。
「書くのはこの手じゃない」
「読者が求めているのはΩだ」
Ωは先生だよ」
「もう違う」
「先生の考えがわからない」
「勝手に書き足したろう」
「あたしは、ただ……」
「あれでよくなった」
「独りにしないで」
「書かれたら手を離れる」
 ちありの目に動揺が走った。「先生の言葉を広めたかっただけ」
「何度もそんな経験をする。それが糧になる。書くんだ」
「壁に手をついて。動かないで」ちありは泣いていた。
 荒い息と湿った体臭が凰馬のそばをかすめた。階段を降りて店を出て行く音が聞こえた。凰馬は長いあいだ街の騒音を聴いていた。部屋が冷えて外気と同じになり、体温の高い生物がいた痕跡が消えるのを待った。乱雑な部屋が急に空虚に感じられた。ずっと望んでいた静寂。
 凰馬は階下でグラスにウィスキーを注ぎ、ピースに火をつけた。深く煙を吸い込み、長く吐いた。床と便所を掃除し、カウンターを拭いて古い電化ブルースをかけ、客を待った。読みかけの文庫本に手をつける気にはなれなかった。女たちが触れた原稿は棄てようと決めた。煙の向こうに新しい言葉を思い描いた。終わったのだと思った。
 本当の終わりはまるで違うかたちで訪れた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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