人間開発研究センターではワークショップが行われていた。緑のカーペットが敷かれたフロアに会議用長机と折りたたみ椅子が並び、旧帝大教育学部の教官や院生が、不登校の小中学生に家庭用立体プリンタの使い方を教えている。机のあいだを見回る海堂千里は、スタッフや保護者から女神を前にしたかのような崇拝のまなざしを浴びていた。
辻直継にはずっと以前から目をつけていた。ひとを騙す術に長けた社会病質者は往々にして、己の能力を過信するあまり騙されやすいものだ。千里は劇団での活動と平行してボランティアに関わり、週に二日は青葉市へ通い詰めて、センターの組織に入り込んだ。理念に心酔した女優を演じ、直継をはじめとする関係者の心を掌握した。その甲斐あって直継の逮捕後もスタッフや保護者は千里を信頼しきっていた。むしろ心を許してすがることで、理事長の不在を乗り越えようとするかのようだった。青葉市に居を移すことで千里はその期待に応えた。非営利の社会活動を装った宗教は、千里にとって人心を操るのに絶好の手段だった。
子どもたちが合成樹脂のいびつな塊にやすりをかけ、色を塗るのを眺めながら、千里は娘がオンデマンド出版の話をしていたのを思い出した。一冊受注するごとに印刷し製本するという。あのときは聞き流したが今思えば啓示のようなものだった。ウェブ上に公開された情報をプリントし世界を変える。それこそまさに千里がやろうとしていることだった。
何人かの生徒は完成した人形でチェスをしていた。
「ポーンをそっちへ動かすといいわよ」と千里は口を出した。
「取られちゃうよ」生徒は驚いて抗議した。
「あえて犠牲にするのよ。クイーンがキングを取るために」
千里は参観の保護者たちに質問された。そのオーブンみたいな機械は劇場テロ事件のあれですか。まさか、これは家電量販店で売られている汎用品ですよ。合成樹脂の糸を射出して積層成型するんです。難しい話題を嫌う保護者らはそれ以上の詮索をしなかった。東京の凶悪犯罪と地方の慈善事業とを結びつける発想はないのだ。ばかなやつら、と千里は思った。巻き上げられた金が何に使われるかも知らずに。
練習場所にさえ事欠く貧乏劇団が、中古で六千万もする装置を導入できたのは、千里に魅せられた支援者らのおかげだった。偶然の出逢いを装って大勢の実業家に近づいたのだ。当初はセンターでも使っているような汎用プリンタを検討した。執務室に飾られているオブジェはその試作品だ。調査を命じた劇団員の報告によれば、合成樹脂では強度が足りず、精密な金属部品を使ってようやく数回の使用に耐え得るという。しかもそのためには旋盤などの熟練した加工技術が必要だった。それでは意味がない。たらし込んだ男たちのコネと金を駆使し、工業用の金属プリンタを値切りに値切ってどうにか手に入れた。
計画は幸運に恵まれた。欧州の銃器メーカーがクラッキングの被害に遭い、設計図が流出したのだ。その設計図を改変した立体プリンタ用データが出回った。千里はそれをもとにステンレス粉末で三十数種類の部品を作らせた。問題なく動作するだけの精度を実現するのは簡単ではなかった。試行錯誤に半年かかった。銃弾はまずクラウドソーシングの孫請けを通して空薬莢、弾頭、雷管をそれぞれ別の人間に装飾品として個人輸入させた。それから別に入手した火薬を使って小道具係に再充填させた。
そうして手に入れた小道具の一部は青葉市にも運び込まれた。使われた小道具が製造した一部に過ぎないことは警察にも知られているはずだった。しかし自分との繋がりが嗅ぎつけられるとは思えない。騙す相手によって偽名はもちろん化粧や服装、髪型を変え、人柄まで演じ分けていた。県警本部長の妻という身分も隠れ蓑になる。万が一の場合も夫が揉み消してくれるだろう。
「先生」参観者が帰ったあとで選抜生徒に声をかけられた。「『練習』してもいいですか」
おれもおれも、と十数名が集まった。
かわいい子どもたち、と千里は顔ぶれを見渡して微笑んだ。あたしの晴れ舞台のために命を散らす駒。道具は揃った。世界中があたしに注目するのだ。
「いいわよ。さあ、いらっしゃい」
千里は彼らを防音設備の整った倉庫へ案内した。
遊田将大にとって女子は煩わしい異物でしかなかった。話も通じないし何を考えているかわからない。わかったところで関心の持てるような考えとも思えない。唯一の例外である幼馴染も遠く理解の及ばない場所へ行ってしまった。所詮は女だった。それ以外に至っては名前すら憶えていない。男同士で肩を組んだり背中を叩いたりして笑い合った仲間さえ疎遠になった今では、ひとりひとりの個性が見分けられない女子など、ましてやどうでもよかった。
掃除当番も部活もさぼって隠れるように帰宅しようとした放課後、そんなどうでもいい女子のひとりに呼び止められた。下駄箱の周囲にだれもいなくなった隙を狙われた。話したことはおろか顔さえ見憶えがない。同じ学級ではないようだった。不審のまなざしを向けられても女子はひるまなかった。思い詰めたように将大の手をつかんで足早に歩き出した。汗ばんだ熱い手は不快だが振り払うのも億劫だった。悲鳴でも上げられたら今度こそ停学だ。処分そのものより幼馴染と一緒くたに嗤われるのを将大は畏れた。以前なら他人の目など気にならなかった。水族館の日が彼を変えた。
ひと気のない校舎裏で携帯を見せられた。黒を基調にした画面が表示されている。「Ωの世界」とあった。反応を示さない将大に、女子は母親のような口調で説明した。「やっぱり知らないんだ。ネットですごい話題になってるの。出版社を通さない本なのに販売数首位をずっと独占して……」
「それがどうしたんだよ」
「見て。うちの制服でしょ」
「こんな制服どこにだってあんだろ」
ちありがΩだという噂が女子のあいだで広まっていると女子は将大に教えた。「クラブでフライヤー配ってるのを見たって子もいる。読めばわかる。あの女おかしいよ。ブログもツイートも歳上に片想いした話ばかり。きっとオーマのことよ。授業中ずっと見てたの知ってるでしょう。親が知り合いだか知らないけど気持悪い。あんな女に振り回されないで」
「振り回されちゃいない」
「嘘。今だって気にしてる。あれ以来ずっと変だよ」
将大に憧れていた子たちは海堂ちありが邪魔で近づけなかった、と女子は語った。幼馴染の結びつきには立ち入れないと半ば諦めていた。しかしちありの暴力沙汰から将大はおかしくなった。それまで以上に過剰にちありへ肩入れするようになり神経質になった。ちありの停学処分で目が覚めるかと期待した者もあったが悪化するばかりだった。乱闘事件で多くが幻滅し離れていった。その子たちは本当のあなたをわかっていないと女子は熱く訴えた。自分はそうではないと。
女子は都合のいいことばかり将大に語った。新垣に告げ口した事実は伏せていた。ちありと別れさせてくれることを期待したがままならず、それがゆえに行動に移した事実も伝えなかった。あの日彼女もまた将大に失望し、忘れさせてくれる手軽な男を求めた。制服を着て繁華街で枝毛を探していれば数分で男が寄ってきた。軽薄な会話など要らなかった。郊外へ連れ出してくれる車さえあればよかった。運転席の男が空き室のランプを探していたとき、別の建物から出てくる将大とちありを女子は目撃した。そのあとは終始上の空で、男に何をされたかどうやって帰宅したか憶えていない。確かなのは相手の男を将大と思い込もうとしたことだ。実物との違いが彼女に決意させた。奪う方法はあるはずだと女子は思った。
そんな想いを将大は知りようもなかったが、勝手な決めつけに同意を強要されるのは不快だった。本当の自分が何であろうと他人にとやかくいわれる筋合いはない。早く解放してくれと願いながら従う自分もどうかしていると思った。女子は目に涙を溜めて都合のいいことばかり訴える。不動産会社の住み替えキャンペーンやスポーツ飲料の広告に出ていそうな顔だと将大は思った。大人たちの考える都合のいい「女子高生」の記号。整ってはいるが印象に残らない。明日には廊下ですれ違っても思い出せまい。
部活の声が風に乗って届く校舎裏で、代わりでもいいと女子は訴えて将大に抱きついた。将大は怒りが込み上げた。ちありを悪し様にいうばかりか、便所に連れ立つ仲間を貶めてまで「かわいい女子」を演じたいのか。何が本当のあなただ。観客はだれだっていいんだろう。将大は女子の髪をつかんで上を向かせた。女子の目に苦痛と怯えが宿るのを見て満足し、校舎の壁に手をつかせた。ベルトを外し、スカートをまくり上げて後ろから犯した。
幼い時間をともに過ごしたちありにとって自分は何の価値もなかった。自分にとってのこの女のように。ブラウスに手を入れて女子の胸をつかみ、冷たい尻に腰を打ちつけながら将大はその事実を受け入れた。受けた傷を他人への暴力で埋めているのを自覚した。
なんで泣くんだと耳元で尋ねた。遊田君にこうされるのが嬉しいのと女子は啜り泣きながら答えた。空っぽの胸を侮蔑が満たした。その自己欺瞞には憶えがあった。ちありにつきまとって裏切りを感じた過去の自分を見るかのようだった。何者でもない事実を覗き込みたくないのだ。訊かなければよかった。特に関心もなかったのに。
今はもう友人とは呼べない仲間のひとりが、この女子を清純でかわいいと評したのを思い出した。別の仲間が卑猥な冗談を口にするとそいつは本気で怒った。乱暴に突かれながら豚のように啜り泣くこの女を見たらどう思うだろう。だれかにとって大切な女が別のつまらない男から粗末に扱われている。恋愛は搾取であり暴力の循環だと将大は悟った。捌け口にされて喜んでいるこの女は、ばかだ。この女を好きな男も。この女を育てた家族も。男をひっかける口実のためだけに貶められた女の仲間も。
恋愛は、人間は、なんて愚かで惨めなんだろう。