文化祭が迫っていた。教職員は指導に追われた。普段は部員を放置している青山でさえ日に一度は様子を見に行った。校内では昼休みや放課後に楽しげに活動する生徒の姿が見られた。階段に貼るパネルを描く美術部員。衣装を縫い、大道具を製作し、舞台練習をする演劇部員。騒音で苦情をいわれる軽音楽部員。籤に負けた生徒会役員は不平をいいつつ、駐車場の誘導や会場案内の打ち合わせを楽しんでいた。
職員室でその日数十回目の電話が鳴った。政治経済の男性教師が舌打ちした。周囲を見回すがだれもがそれぞれの作業に没頭している。あるいはそのふりをしている。社会科教師はこれ見よがしに溜息をついて受話器を取った。もはや校名を名乗りさえしなかった。
「そちらにΩさんという女子生徒はいますか?」
「そんな者はおりません」
「知らないはずないでしょう。有名なインディ作家ですよ。おたくの制服を着ている。深夜の繁華街でチラシを撒いてるって情報もある」
「知りませんってば。いい加減にしないと警察に通報しますよ」
教師は受話器を叩きつけるように戻した。だれが仕組んだ厭がらせだろうと教員たちは愚痴を囁き合った。凰馬は青山の視線を感じた。何かいいたげに見えたが凰馬に答える言葉はなかった。視線を交わすふたりを新垣がじっと見ていた。
連日のように匿名掲示板やブログ、ソーシャルメディアに校名が書き込まれていた。そうした投稿を見つけるたびに教職員は教頭に報告することが義務づけられた。しかし教頭によればどのウェブサービスも削除要請にまともに応じないという。応じたところで次々に書き込まれるのできりがない。ただでさえ忙しいのに問い合わせや悪戯の電話がひっきりなしに鳴り、だれもが対応に疲れきって苛立ちを募らせた。
生徒に対するストーカー紛いの行為も増えていた。女子生徒が尾行されたり声をかけられたり、携帯で写真を撮られたりした。不審者に下校中に腕をつかまれ話しかけられた生徒もいた。携帯で写真を見せられ、この子を知らないかと訊かれたという。振りきって逃げたので写真も犯人の顔もよく見なかった、と生徒は担任に語った。警察やマスコミはどうして公立高校の被害を無視するのかと教員たちは憤った。老人が小学生に挨拶する「事案」であれば騒ぎ立てるくせに、と。
警察はともかくマスコミは熱心だった。Ωの読者が放送局にいたのかもしれない。夕方の地方ニュースでこの件が取り上げられた。教職員への取材は一切なかった。ネットで話題沸騰中の匿名作家、Ωの正体が地元公立高校の女子生徒だという噂が広がっている。そんな切り口で面白おかしく話題にされていた。勤務中の放送だったので翌朝、生徒に投稿共有サイトの動画を見せられるまで発覚しなかった。ある瞬間から電話が鳴り止まなくなったので翌朝まで回線を抜いていたのだ。
地方局であってもテレビの影響力は大きい。生徒のあいだで犯人探しがはじまった。何年何組のあの子が怪しい。模試で全国上位だったあの子に違いない。いかにも援助交際していそうなあの子に決まっている……。
海堂ちありを怪しむ声が広がるのは必然だった。騒動が起きたのは海堂母娘の事件からだ。関わりがあるに違いない。若者らしい思い込みでそう決めつけながらもΩの何たるかは理解の埒外だった。動画配信で素人芸を披露するネットアイドルと混同して語られた。「先生」への執着は凰馬に対するちありの常軌を逸したふるまいと重ねられた。生徒は教室や廊下で凰馬を目にするたびにクスクス笑った。
臨時の会議がひらかれた。警察に相談した結果を教頭が報告した。実際の被害が出てからでなければ動けないという。つきまといや肖像権の侵害は被害に入らないのかと問い詰めたが納得のいく答えは得られなかった、と教頭は説明した。
文化祭は準備が進んでいて、案内冊子に乗せる広告もすでに集まっている。今さら非公開にするには地域住民や保護者に対して説明会をひらかねばなるまい。年に一度の催しを生徒は楽しみにしている。準備にかけた労力を思えば中止にもできないとひとりが発言した。多くの教員が頷いた。安全の確保が、との声は中止すれば安全なのかとの意見に沈黙した。
来年度から考えましょうと校長がいつもの台詞を口にし、例年通り強行することになった。警察とは連携を強めて何かあればすぐ駆けつけてもらうよう手配します、いいですね? 意味のない台詞だったが中止を提案した教師も渋い顔で同意した。多くが安堵の表情を浮かべた。中止になれば対応で仕事が増える。生徒を納得させるのも骨だ。
解散の合図で教員たちは会議室を出て行った。凰馬を白い目で一瞥する者も数名いた。勘のいい者もいれば生徒の噂を耳にした者もいる。実際にΩのブログを読んだ者もいるはずだ。青山は何か気づいたように去り際に気遣わしげな目つきをした。
凰馬は校長を呼び止め、同僚がいなくなるのを見計らって退職の意思を告げた。無給で手伝っている店を本業にするつもりだと。校長は嘆息した。「きみは教育をなんだと思っているのかね」
「仕事です。十年以上それで喰えたのは幸運でした」
校長は怒りを呑み込んだように見えた。「代わりの手配や引き継ぎもある。年度末まで待ちなさい。教委に疑われたくはないだろう。本来なら査問にかけられていておかしくなかった。海堂君のことだが……噂は本当なのかね?」凰馬が見つめ返すと校長はいたたまれないように視線をそらし、まるで立場が逆であるかのようにいい淀んだ。「その、つまり……例のブログに書かれているのはきみたちのことなのか」
「さあ。読んでいないので。本人からも何も聞いていません。教えたのは書き方だけです。では年度末までお世話になります」
たかが転職で揉めるのは面倒だった。自発的な退職は校長としてはむしろ好都合だったろう。好かれていないのは知っていたが上司として面倒を見てくれた校長に凰馬は感謝していた。
職員室に戻ると視線を浴びた。それでいて目を合わせたのは青山だけだった。だれもひと言も発しない。校長との会話を察したのだ。青山は励ますようにかすかに頷いた。凰馬は頷き返した。
また電話が鳴った。今度は凰馬が取った。群生舎の編集者と名乗った。それまでの電話の多くは陰気で粘着質な若い声ばかりだったが、この男には精力的で活発な印象があった。「ウェブ上でカルト的な人気を誇る匿名作家がそちらの生徒だという噂がありまして。そのことで二、三お伺いしたい」
「何かのまちがいでしょう」
「著者とされる少女がプロフィール写真でおたくの制服を着用している。深夜の繁華街でビラを撒く姿も目撃されている。つまり画像は流用じゃない。そちらも事情を知りたいはずだ。放置していいんですか。ことが大きくなる前に情報を交換しましょう」
「話すことなどありません」凰馬は受話器を戻した。
遥か三百七十キロ離れた東京都千代田区の編集部では、獲物を見つけた猛禽のように水瀬が目を光らせ、ほくそ笑んだ。職業上の直感だった。今話した相手はΩを知っている。おそらくは核心に迫る何かを。
そしてそのことを周囲から隠している。
生徒は良くも悪くも移り気だ。通常はどんなに憎まれていても十日も姿を見せなければ名前すら忘れ去られる。海堂ちありは違った。ちありは停学を解かれた後も欠席したままだった。窓際の空席は異様な存在感を放った。その不在は将大の不祥事と結びつけられた。悪意と関心はふたりの関係に集中した。
将大はかろうじて停学処分を免れていた。殴られた側が彼の謝罪を受け入れたからだ。とばっちりで殴られた教師も偶発的な事故として処理されることを望んだ。介入にしくじったせいで生徒の将来が左右されてはかなわない。他人の人生の重みを背負いたい教員などいようはずがなかった。将大の母親も掛け持ちするパートを休んで同席した。疲れ果てた涙声で詫びを繰り返し、机に顔をこすりつけんばかりに平身低頭した。ほかの男子ならマザコンだのなんだのと物笑いの種になるところだが、この件が蒸し返されることは決してなかった。本人に陰口を聞かれるのをだれもが畏れた。
将大は事件以来だれとも視線を交わさずひと言も発しなかった。つるんでいた仲間も潮がひくようにいなくなった。ただ黙って憎しみを育てるかのように授業を聞き、放課後にはだれにも気付かれぬうちにひっそりと下校した。部活にも参加しなくなった。燠火のような苛立ちは周囲を汚染した。だれもが怯えて近づかず、彼のいる場では物音さえ立てぬよう気を遣った。
そんな将大を教室の片隅から窺い見る女子がいた。