血と言葉

第19話: 洗脳(3)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.22

昼休み。教室の一隅に男子生徒が五、六名集まって盛り上がっていた。話題は休学がつづいているちありの陰口だった。机に腰かけた男子が大声で話し、仲間がニヤニヤ笑いながら合いの手を入れる。非難がましく見る者や聞こえないふりをする者もいたが、同級生の多くは共感して耳を傾けていた。
 海堂千里は現代文の授業を見学していった。辻凰馬の授業にはここ最近ずっと張り詰めた空気があったが、それを差し引いても異様だった。たったひとりのために認められた突発の授業参観。なぜそんなわがままを許したのかと教師たちはぼやいた。情報公開もいいが振り回される現場はいい迷惑だ。人手が割かれれば業務に支障が出るし防犯上のリスクもある。子が子なら親も親だ……。
 教職員の非難がましい態度は生徒にも伝播した。ちありへの不信感が広まった。噴出する悪意を教職員のだれも咎めなかった。彼らもまた人間であり、災いを招き入れた女子生徒への憎しみを抑えられなかった。
 あの子はおかしい、と校内のだれもがいった。熱病に浮かされたような目つきや、でたらめに鋏を入れた髪が貶された。些細なふるまいが、他人と違うとの理由で取り沙汰され、あんなことがあった、こんなこともあったと針小棒大になじられた。集団に適応しようとしない。陰気で反抗的だ。碌な大人にならないだろう、わがままを通したあの母親のようにと彼らは評した。
 責任を凰馬へ負わせる声も聞かれた。海堂ちありが辻凰馬に執着しているのは周知の事実だったし、家庭に出入りしていることも知られつつあった。並んで歩く様も何度か目撃されている。同僚との交流が少ないのも、最低限の分掌しかやらないのも仇となり、ふたりの間柄を勘ぐる者は増えた。新種の珍獣を扱うかのようにおもしろがっていた生徒たちも冷淡になった。
 いったい何を教えているやら、とだれもが嗤った。
 男子グループの爆笑はときおり周囲を巻き込んだ。気違いって遺伝すんだな、と男子が笑った。金持ちだからって調子に乗ってるけどさ。空気読めないって最悪だよな。親の顔が見たいってよくいうけど、まさかあんなにそっくりなんて。親子揃って気色悪すぎだろ。
 将大が立ち上がって幽鬼のように近づいた。仲間の笑いが不意に途切れた。聴衆の戸惑いに気づくのに語り手は遅れた。驚いて振り向く隙も与えず将大は同級生を殴り倒した。男子生徒は机ごと転倒した。女子の悲鳴が上がった。仲間は驚いて飛びのいたり助け起こそうとしたりした。
 仲間が怒りの声を上げて将大を制止しようとした。将大はその生徒も殴り倒し、別の仲間をなぎ払うように押しのけて倒した。起き上がろうとする男子の胸ぐらをつかんで将大は二発目をお見舞いした。相手も殴られっ放しではなかった。何すんだこの野郎、と叫んで将大を押し倒した。床で揉み合うふたりを野次馬が取り囲んだ。仲間は巻き添えを畏れて近づかなかった。
 悲鳴を聞きつけた教師が集まってふたりを引き離そうとした。将大は体育教師を振り払おうとして横面を殴り飛ばした。野次馬も教師たちも息を呑んだ。教師に手を出した以上ただの喧嘩では済まなくなる。
「遊田!」
 青山が怒鳴るのを聞いたのは生徒も教職員もそのときが初めてだった。

 進路指導室はまるで物置だった。丸めた地図や巨大な三角定規が無造作に置かれている。スチール棚の入試過去問集は赤い表紙が色褪せ、薄く埃が積もっていた。禁帯出の丸いシールは図書室に置かれていた頃の名残だ。窓を開けると校庭から生徒の声が穏やかな風に乗って届いた。
 合板に木目が印刷された長い折りたたみ机を挟んで、青山は将大と向き合った。担任らしい仕事をするのは久しぶりだった。
「どうしてあんなことをした」将大が黙っているので青山はつづけた。「理由があるんだろう」
 逆に質問された。「先生はいいと思ってんのかよ」
 青山は言葉に詰まった。凰馬とちありについて問われたのだ。この子を相手にごまかしやはぐらかしは通用しない。正直にいった。「思うわけがない。辻先生は友だちだ。高校時代から知っている」
「じゃあなぜ止めないんだよ」
「関わりたくない」
「許すのか。いいと思うのと同じだ」
「遊田ならどうやって止める」
「性犯罪者として訴える。社会的に抹殺してやる」
「海堂は……」
「あいつは変わった」
「遊田も入学したときより大人になった」
「幼稚園から一緒に育った。これからもそうだと思ってた」
 ああ、僕もそう信じていたよと青山は思った。世界は何も変わらないと思い込んでいた。それでも辻がおかしな生徒と暗がりへ堕ちるのは止められない。いつかは僕も父親になって彼のことなど忘れる。みんな老いて独りになり人知れずどこかへ消える。
 あいつはばかだから騙されてるだけだと将大は主張した。海堂ちありの生々しい剥き出しの憎悪が脳裏をよぎり、体温がすっと低下するのを青山は感じた。同じ年齢の子どもでありながら目の前の少年が急に薄っぺらな遠い存在に思えた。こいつも僕も偽善者だ、と数学教師は思った。信じてもいない言葉を交わして僕たちは何をしているのか。ここにいる意味はない。代わりの人間を座らせて同じ台詞をいわせればいい。
「努力せずに一緒にいられるのは学生時代だけだ。僕は奥さんと一緒にいるために結婚した。デートに誘えよ。海堂を救えるのは遊田だけだ」
 関心の薄れた脚本を読み上げるかのように青山はいった。これでいいと思った。結局のところ、これは仕事なのだ。

 駅のステンドグラス前でちありの顔を見た将大は、おう、とだけいった。ちありは会釈のように小さく頷いた。ほかに何をいえばいいか将大にはわからなかった。カーディガンとデニムのワンピースは中学時代と変わらない。化粧さえしていなかった。にもかかわらずよく知る幼馴染とは別人のように大人びてよそよそしく見えた。電車からシャトルバスに乗り継いで水族館へ向かうあいだ会話はなかった。
 将大は何度も話しかけようとしては口ごもった。今さら過去の想い出を語り合える空気でもない。高校に上がってから生活が変わりすぎ、共有できる話題がひとつもなかった。ちありは無表情に窓に流れる景色を眺めていた。目的地を尋ねさえしなかった。
 マボヤの水槽をくぐり、三陸海岸を再現した巨大水槽でマイワシの群舞を眺めた。青い光を浴びてヨシキリザメを見つめるちありに将大は見惚れた。家族連れよりも仲睦まじげな男女ばかりが目立った。その光景の一部になれたとは将大には思えなかった。
 ちありは体験会でアシカに触れるときようやく関心を示した。ガラスの階段を散歩するペンギンを将大は見上げた。ちありにも見せようと振り返ると彼女は群れにはぐれてうずくまるペンギンの一羽を見つめていた。あまり熱心に見つめるので声をかけそびれた。
 将大がバックヤード見学の予約時間を気にしているとちありがいった。「用事って何なの」
「これが用事だよ」
「意味わかんない」
「高校に入ってからあまり話してないじゃないか。だから」
「わざわざこんなとこで何を話すの。さっきから黙ってばっかじゃない。聞いてあげるから早くして」
「何って。学校の話とか。昔は何でも……」
「昔はね。今はクラスも違うし話すことなんかない。用があればいつだって話せるでしょ。男同士でつるんで疎遠になったのはそっちじゃない」
 将大はうつむいて黙り込んだ。その顔をちありは驚いたように見つめた。「あたしと寝たいの?」
 将大は答えられなかった。恥辱で傷つき死にたくなった。ちありは呆れたように将大を眺めた。それから急に彼の手をつかんで水族館を出た。
 どこまで歩かされどこへ連れて行かれるのか将大は不安になった。怒っているのだろうか。言葉に出して尋ねることも声をかけることもできなかった。商業施設がまばらになり、物流会社や工場、パチンコ屋が並ぶ区画を抜けてラブホテル街に入った。ちありは毒々しい色の奇抜な建物に入り、写真パネルから部屋を選んでエレベーターに乗った。ブラックライトに照らされるちありの横顔を、将大は知らない女を見るかのように見た。
 ちありがシャワーから戻るのを待ちながら将大はベッドで固まっていた。服を脱ぐ勇気もなかった。ちありは体にタオルを巻いて出てくるなり溜息をついた。「早く済ませて」煩わしげに将大を押し倒した。将大はまごついた。いうべき言葉を知らず声も出なかった。ちありは焦れたように将大の手をつかんだ。「ほら早く。六時の電車で帰りたい」
 数分後ちありは耐えかねたように将大を振り払い、押しのけた。「そんな風にする意味がわからない。……あぁもう。いちいち教えなきゃわからないの? 今度は自分でやってみて。そうじゃない」
 将大の焦りはやがて恐怖に変わった。得体の知れぬものに挑んで何かを証明せねばならぬかのような義務感にとらわれた。その努力は貶められた。将大はちありの不満げな呟きに身をこわばらせた。聞き違いではなかった。先生ならそんな風にしない、とちありはいったのだ。
 将大はちありを押しのけ、ベッドを降りた。ちありは一瞬、驚いた子どものような表情をした。それから無言で服を身につける将大を傷ついたように見つめた。身支度するあいだ会話どころか視線も交わさなかった。将大は惨めな表情を見られたくなかった。ちありもそうだったのかもしれない。
 自動会計機の使い方がわからずまごつく将大を押しのけ、ちありが精算を済ませた。もう将大にとっても一緒にいたい相手ではなかった。今日まで女の膚に触れたことのなかった彼にさえ身代わりにされたことがわかった。ほかのだれかでないために罰される気持は二度と味わいたくなかった。
 ホテルを出るところを同級生に見られていたとは将大は想像もしなかった。ずっとあとになって彼は、ちありは気づいていたのかもしれないと思うようになった。そうした些事を気にかけない女だった。ちありは同級生のだれよりも早く大人になり、あの事件でだれよりも先に老いた。そして教師から教わった言葉でそのことを語りはじめるまで、だれよりも深く死んだのだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告