血と言葉

第18話: 洗脳(2)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.21

職員室に固定電話は一本しかない。朝はどの教職員も余裕がなく、欠席の連絡は往々にして担任へ取り次がれる前に忘れられる。この情報化社会に時代錯誤も甚だしいと教職員のだれもが苦々しく思っていた。
 コミュニケーションアプリの活用はたびたび会議の話題にのぼるがいまだ導入に至らない。携帯を公的な道具として認めるからには授業時間を割いて利用マナーを教える必要が生じる。万が一にも宗教的な理由や貧困などで携帯を買い与えられない家庭があればその対応にも追われる。個人情報がとやかくいわれる昨今で緊急連絡網も扱いにくくなり、電話機そのものが忌まわしい存在となりつつあった。
 その電話が昼過ぎに鳴った。一般企業なら呼出音を何度も鳴らすことはないが職員室では違う。外れ籤を引いたのは新垣だった。受話器を取るなり表情がこわばった。だれ、と教頭が声をかけた。新垣は青ざめて答えた。「海堂さんのお母さんです。授業を見学されたいとおっしゃっています」
 事情を知らない教員たちが顔を寄せ合った。ほら新垣先生とトラブったあの子。今お母さんのとこにいるらしいよ。ああ県警本部長の娘か。凰馬を蔑みのまなざしで非難がましく見る者も数名いた。不信感を持つ同僚は明らかに増えていた。凰馬にとっては幼い頃から慣れ親しんだ視線だ。
 教頭が電話を代わった。長々と話し込んだ。やがて弱り果てた表情で校長室に電話を繋いだ。
 十数分後、教頭が内線で呼ばれた。校長とふたりで戻ってきた。教頭は居合わせた教職員に説明した。海堂さんのお母様が今から学校見学に訪れます。強引に押し切られたのだろうと凰馬は思った。いかにもセンターの関係者らしい行動力だ。ちありの押しの強さは母親譲りなのかもしれない。
 凰馬が校長室に呼ばれた。校長はうんざりした顔だった。厄介事は厄介者に、といわんばかりの投げやりな態度を隠さなかった。「辻先生は海堂さんのご両親と親しかったね。案内役を頼む」
 父親と知り合いだとは確かにいった。辞意を伝えるつもりでいたが急に面倒になった。職員室に戻るとまた電話が鳴った。だれも受話器に手を伸ばさなかった。凰馬が取った。校門まで来ているそうです、校長に一任されたので迎えに出ます。そう告げて視線を浴びながら職員室を出た。
 気をつけろ、と祖父が耳元で囁いた。わかってると凰馬は呟いた。
 海堂千里はちありを大人にして背を高くし、胸を縮めて高級ブランドのスーツを着せ、世慣れた微笑を浮かべさせたような女だった。髪型まで似ていた。工作用の鋏で切ったとおぼしき娘の髪とは異なり、一流美容師の手になる洗練されたおかっぱではあったが。千里はまっすぐに凰馬を見つめた。娘とよく似た目だが瞳の奥底にあるものが違った。社会病質の家庭で育った凰馬は憶えのある何かを嗅ぎ分けた。
 祖父の助言は正しい。この女には関わるべきではない。
「辻先生ですね。娘がお世話に」
「こちらこそ父がお世話になったそうで」
「あら、やっぱり。似ているわ」
「校内を案内します」
「なぜわたしが来たか知りたくない?」
「話したければどうぞ」
「包み隠さない方なのね」
「どうとでも取ってください」
 海堂千里は体育館を見たがった。生徒がバスケットボールをしていた。千里は鉄骨や照明、扉などを熱心に携帯で撮影した。舞台に上がって緞帳や袖の様子も確かめていた。
「そんなもの撮って何に使うんです」
「うちの子たちに見せるのよ」
「センターの不登校児やひきこもりですか」
「学校に来たくても来られない子たちなの」
「親父の後釜を立派に務めていらっしゃるようだ」
 千里は凰馬の皮肉を無視した。あたかも酔って歌うかのようにいった。「慕われてるの。わたしのいうことなら何でも聞く男の子たち。でもそれもおしまい」
「おしまい?」
「資産を売却して解散するの。お父様から指示があった」千里は悪戯を仕掛けた子どものような横目で凰馬を見た。「あなたにはあげない」
「意識不明なのに? うまくやりましたね」
「ぱあっと使い切るの。花火みたいに豪勢に。パーティよ」
「楽しめるといいですね」
「あら、辻先生も来るのよ」
 職員室へ寄っていくつか鍵を借り、理科室を案内した。かつて化学担当の同僚がこぼしていたのを凰馬は不意に思い出した。実験をやりたいのは山々だが、授業が遅れるし綿密な指導案を作成しなければいけない。安全のため普段より生徒に神経を尖らせなければならない。おかげで理科室を使う機会は滅多にないという。彼の領域を荒らすような罪悪感を凰馬は憶えた。自らの手で鍵を開けて邪悪なものを招き入れたかのような気分だった。
 千里はガスバーナーに関心を示した。準備室に元栓があると凰馬は説明した。ホルマリン漬けの標本は数十年前に卒業生から寄贈されたものだった。埃を被った案内板で凰馬も初めて知った。普段の業務でこの部屋に入ることはない。在校生時代にも気に留めなかった。
「有毒なんでしょう」千里は鼠の胎児に目を輝かせた。「地震で落ちて割れたらどうするの」
「生徒を避難させて消防を呼ぶでしょうね。今は保護者が心配するから」
「大変な騒ぎでしょうね」千里は夢見るようにいった。「避難は校庭かしら、それとも体育館?」
「そんなとこでしょう」
「学校の先生は大変ね。大勢の子どもたちの命を預かってるんですもの。次は美術室が見たいわ」
 生徒の作品が飾られた部屋は松精油の臭いがした。絵の具のこびりついた画架を見ながら、千里は学生時代にヌードモデルで小遣いを稼いでいた思い出を饒舌に語った。
「むさ苦しい美大生に囲まれてね。粘りつくような視線に曝されるの。むしろ終わって服を着るときが恥ずかしかった。仕事帰りによく口説かれたものよ。芸術家って貪欲で情熱的よね。あなたもそうでしょう? 芸術家が好き。美しい姿でずっと残してくれるから。世界中が見てくれなきゃ我慢ならない。主人公はわたし。もちろん賛成してくれるでしょ。作家なんだから」
「おれはただの教員ですよ。上司の命令で案内してるだけだ」
「嘘」千里はニヤリと笑い、凰馬の胸を突き飛ばした。細い体からは想像もつかない腕力だった。千里は凰馬を柱に押しつけて迫り、凰馬の顔を見上げた。生温かい息がかかった。「娘から全部聞いたわ。辻先生は立場を濫用して娘を支配した。そうして本を宣伝させてる。ポン引きみたいに」
「あなたの娘の意思だ」
洗脳グルーミングよ。わかってる癖に」千里は凰馬の耳元に囁きかけた。指先を彼の頸筋から胸板、ベルトへかけて滑らせる。「先生の意思はどうかしら……」
 その腕を凰馬はつかんだ。「あなたが親爺の女だったことはよくわかりました。何が望みなんです」
「書くのよ。わたしを」千里は蛇のような笑みで凰馬を見つめた。「旬を過ぎて衰える一方なんて耐えられない。美しいまま芸術に閉じ込めてほしいの。いなくなったあとも永遠に残るものに。そうすればだれもわたしを忘れない」
「話が見えない」
「冴えない高校教師が美しい主人公に恋焦がれる。どう? 傑作になりそうじゃない」
「お子さんに朱を入れさせるためにそれを思いついたんですか」
「拒めば叫ぶわ」
「生徒に見られる」
「見せつけてあげましょう」
「凡庸なポルノを世間にもう一冊、ですか」
 千里の表情が消えた。彼女は鼻白んだように凰馬から身を離した。「それもそうね。もっと斬新な舞台と演出が必要だわ。世間が驚いて夢中になり、目を離せなくなるような。それまでせいぜい有名になっといて頂戴、先生」髪を直し、スカートの裾を伸ばしてまた歌うようにいった。「施設見学は飽きちゃった。あなたの授業を観せて。退屈させたら今のことちありにいうわよ。校長先生や教育委員会にも」


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告