血と言葉

第17話: 洗脳(1)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.20

その格好で行くつもりですか」絵梨子はジャージ姿の同僚をまじまじと見つめた。
「ええ仕事ですから。やだなぁ青山先生、プライベートならお洒落しますよ」
 言葉とは裏腹に独身の体育教師は明らかに浮かれていた。デートか何かと錯覚している。繁華街のダンスクラブに中学生が出入りしているとの噂があり、会議で見回りが決まったのだ。
 絵梨子は籤運に恵まれなかった。当番の組み合わせが発表されると体育教師は男たちの嫉妬と羨望のまなざしを浴びた。女たちの蔑みが自分にまで向けられるのを絵梨子は感じた。望まぬ好意ほど迷惑なものはない。子を持たぬことで同僚や保護者から陰口をきかれているのを絵梨子は知っていた。人生につきまとう厄介のひとつ。諦めこそすれ慣れることは決してない。
 子どもの頃は便所にまで連れ立つような女子とはつるまず、泥と擦り傷だらけになって男子と表を駆け回っていた。中学に上がると性の対象として見られるようになり友人がいなくなった。女であることを喜びとすら感じられるようになったのは夫と出逢ってからだ。それが当たり前の日常となった自分は幸運だと思う。
 うちの生徒ではないと思うが念のため、と教頭は決まり文句を口にした。その言葉を絵梨子は反芻した。うちでさえなければいいとはもちろんだれも考えない。他人の子どもを学級単位なら数十人、全校では数百人も預かる職業だ。辻凰馬と海堂ちありのことが絵梨子の心に重く沈んでいた。どこの子であれ鉢合わせはしたくなかった。他校の生徒を見つけたら引き継ぎにも難儀する。
 居場所のない家へ連れ戻すのが正しいとも思えなかった。彼女自身、街で大人になった。世間はそれを搾取と呼ぶ。事実そうなのだろう。しかし歳上の男たちとの経験がなければ夫ともうまくやれなかった。だれしも遅かれ早かれ生きるすべを学ばねばならない。たった独りで、代償を払って。
 次のお店はお決まりですか、としつこく喰い下がる客引きを体育教師が愛想よく追い払った。これから仕事なのでと誇らしげに繰り返していた。悪い人間ではない。明るく社交的で容姿も好ましいとさえ思う。そうであっても並んで歩くのが苦痛だった。体育教師は眩しいほどに実直だった。自分が男であることに何の引け目も感じていない。そこが苦手なのだ。
 心の狭さは自覚していた。
 夫はどんな場所でも物怖じせず自然にふるまう。その親友の凰馬は極端な人見知りだが、最初の壁を乗り越えれば空気のように馴染めた。対照的なふたりの共通点は、自分や他人の弱さを自然に受け入れる強さだった。生身の女を勲章のように崇めることも、勝手に失望して毀損することもない。世間とずれたあのふたりがいるからこそ、絵梨子は均衡を保ってやっていけた。
 入り組んだ路地に雨が降りはじめた。体育教師がコンビニで煙草と透明傘を買うあいだに絵梨子はトートバッグから折畳傘を出した。ネオンが路面に滲む。同僚の先に立って地下の店へ降りた。暗く湿った階段に泥まみれのフライヤーが何枚か落ちていた。十代前半の記憶がよみがえり懐かしさと気恥ずかしさを憶えた。傘立ては空いていた。絵梨子は傘を畳んでケースに入れた。重い防音扉から腹に響く低音が漏れていた。
 扉を開くと音の洪水が溢れた。受付の店員は免許証をろくに見なかった。三千円を払って荷物を預けた。狭い暗がりに蛍光色が明滅し、大勢がうごめいていた。人体が発する熱気と湿気でむっとした。フライヤーが床に散乱している。バーカウンターのテーブルやゴミ箱にもあった。
 バーカウンターを素通りして店内に視線を巡らした。生徒が紛れていても見つかりますかね、と体育教師が耳元で叫んだ。熱く湿った呼気に身の毛がよだち、虫を払うように手を上げかけて寸前でこらえた。どうかしらね、さっさと済ませて帰りましょうと絵梨子は答えた。ぶっきらぼうな声になった。こうした物腰が同性の反感を招き、男たちの征服欲を募らせる。身勝手な期待も応えられない自分も重荷だった。
 さっさと済ませよう、と自分の台詞を心のうちで繰り返した。Ωのカウンターと黒麹焼酎のロックを思い浮かべた。辻君の選んだ音楽を聴きながら夫と一日の出来事を笑い話にするのだ。
 そちらをお願いします、わたしはこっちを見回りますと宣言して同僚を追い払った。体育教師は光に引き寄せられる虫のように膚を露出した女と酒のほうへ向かった。どこにでもある地方都市のつまらない小屋だ。いわゆるナンパ箱でこそなかったが音楽の趣味は今ひとつだった。歳下であろう男が視線を合わせようとしながら寄ってきた。舐められたものだ。睨みつけると男は肩をすくめて退散した。
 若さを持て余した平凡な男女が退屈な音楽で投げやりに踊っている。どの客も似たようなファッションで区別のつかない顔をしていた。乱れた生活で老けた顔のようにも、世間知らずの幼い顔のようにも見えた。同僚のいう通り中学生を見分けられる自信はない。
 彼を呼び戻して店を出ようかと考えたとき、紙束を抱えたパーカの女がしつこく男に絡んでいるのが視界に入った。何かの交渉をするうちに揉めたように見えた。違法薬物や売春が絵梨子の脳裏をよぎった。ひとりで近づくのは危険だと知りながら勝手に体が動いた。
 パーカの女が振り向いた。
 自分が相手と同じ表情を浮かべたのが絵梨子にはわかった。もっとも遭遇したくない相手と状況だった。絵梨子は海堂ちありの手を引いて奥の便所へ連行した。途中で同僚を盗み見た。ジャージの体育教師は蛍光色の酒を舐めながら若い女のふたり連れを眺めていた。
 絵梨子は扉を締めて鏡の前でちありと対峙した。「何やってんのあんた!」
「フライヤー配ってた……先生の本の」ちありは動揺した顔で今にも泣き出しそうだった。どうしたらいいかわからず不安になっているように見えた。まずいことをしていた自覚はあるようだ。
 絵梨子は紙束を奪いとって文面を見た。ちありが嘘をつかなかったのが逆にショックだった。あーもうこの子は! わたしのほうがどうしたらいいかわからないわよ。「とにかく近くのディグバーガーで待ってて。二十四時間営業の。十五分後に行くから」
 同僚は若い女のふたり連れと盛り上がっていた。ジャージで注意を惹きつけて教師ネタで笑わせていたようだ。絵梨子が近づくとあからさまに狼狽した。
「もう充分楽しまれたでしょう」と絵梨子はいった。
 体育教師はしどろもどろに抗弁した。そうですね、やっぱりそれらしい子はいませんでしたね、教頭の思い過ごしでしょう、帰りましょう帰りましょう。ふたり連れは顔を見合わせて苦笑し、離れていった。
 絵梨子は受付で荷物を回収し、ないないと騒ぐ同僚を傘立てから引き離した。コンビニの傘なんか盗られて当然だ。表通りへ出て同僚をタクシーに押し込み、急いで引き返しながら凰馬に電話すべきか考えた。傘と重いトートバッグを持って携帯を操作するのは厄介だった。指先が選んだ番号は夫だった。今終わったとこ、と告げた。
「お疲れ。迎えに行く?」
 ディグバーガーの看板が見えた。窓際席にちありが所在なげに座っていた。髪型が変わった彼女は大人のように見えた。その目つきに絵梨子は動揺した。知りたくなかった。凰馬が本当に生徒に手を出すはずがないと、その瞬間まで自分がどこかで信じたがっていたことに気づいた。いや正しくは「手を出す」ではない。前後の見境なく我を忘れさせる。人間として駄目にする。
 凰馬はちありを女にしたのだ。
Ωにいて。飲まなきゃやってられない」絵梨子は電話を切って店に入った。ちありと向かい合う席にトートバッグを置いた。
「コーヒー買ってくるから。逃げないでよ」
「逃げるならこんなとこで待たないよ」
 絵梨子はマグカップを小さなトレーに乗せて戻ってきた。座席に腰を落ち着ける。「あなた停学中なのよ。謹慎してなきゃいけないの。深夜にあんな店で何やってたのよ。どうやって潜り込んだの」
「辻先生の本を宣伝してたのよ。関心持ちそうな客層だから。ソーシャルメディアで影響力あるひとも多いし。あそこの店員、目が悪いから身分証チェックがザルなの。意外にああいう店は反応があるのよ。ほらこのQRコードで販売ページに……」
「そんなこと訊いてない。自分の状況をわきまえて。お父さんが偉いひとだからって世のなか甘く見てるんでしょう。バレたら退学よ。辻君だって……」信じていた友人が異常者だった。その重みに絵梨子は言葉を喪った。「……大人が気づかないなんて思わないで」やっとの思いでいった。
 ちありは視線を落として答えなかった。
「あたしは辻君を知ってる。自分を傷つけても平気な男なのよ。あなたからはじめたんでしょう。どうしてわかろうとしないの」
「辻先生にはいわないで」
「は?」
「知られたくない。書くのに集中してほしい」
「そういう問題じゃないでしょ! あなたは性被害……」
「あたしたちの何がわかるのよ!」
 ちありは突っ伏して啜り泣いた。絵梨子は腰を浮かせて店内を見回した。同業者や保護者らしき客はいなかった。雨脚が強まった。行き交う酔客が足早になり、若い女の嬌声が聞こえた。
 唐突に夫への不信感が沸いた。職場で両者を知っていてなおかつ平然としている。絵梨子は自分だけが除け者にされた気がした。成長した体のせいで疎外された子ども時代のように。日常は目の前の闖入者に壊され二度と戻らない。八つ当たりだとわかってはいた。それでも打ちのめされた惨めな気持はどうにもならなかった。

 日付が変わる前に降り出した雨は激しい雷雨となった。青山夫妻が最後の客だった。凰馬は店じまいをはじめた。絵梨子は仕事で厭なことがあったらしく不機嫌だった。嫌悪と哀しみが沈む目で一度こちらを見たきり視線を合わせようとしなかった。何があったのかと問う夫にも答えず黒麹焼酎を飲んでいた。そんな絵梨子を凰馬は初めて見た。目で問いかけると青山も戸惑った視線を返してきた。
 凰馬はグラスを洗い、あちこちに埃除けの白布をかけ、照明を落としながら絵梨子の目つきの意味を考えた。まるで重篤な感染症に冒された友人を見棄てることに決めたかのようだった。遠雷を聞いた。ちありが初めて訪れた嵐の夜を思い出した。
 携帯が振動した。ちありからだった。「どうした」
 返事はない。息遣いと雨音だけが聞こえる。暗い店内で耳を傾けた。
「先生は……」空耳かと思うほどかすかな声がした。「自分の本をどう思ってるの」
 答えられなかった。電話は切れた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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