八秒、栄光のとき

第7話: 第七章 ~競技当日

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.07.15

色褪せた縦じま模様のパジャマ姿のコーリッツが洗面台の鏡の前に立つ。コップに並々と入った水道水の中には虹彩が青い義眼が沈んでいる。コーリッツは鏡に向かって顔を近付けるとコップに手を伸ばし、プラスチックのコップは皺が寄って筋張った手をすり抜け、青い欠片が排水口の仄暗い穴の中に吸い込まれる。声を出したコーリッツが穴の中に手を入れるものの、タルワール(※ ムガル帝国で使用された湾曲した刀)のように湾曲した白んだ爪に苔のような泥がこびりついただけだった。

 厩舎の前では既に準備を終えたカスティロとビリーが馬に乗っていた。麦わら帽子を目深にかぶったコーリッツを見たカスティロが不思議そうな顔でコーリッツの顔に斜めに巻かれた黒い眼帯を見た。
「おはよう、ベンジー。それ、オシャレ?」
 コーリッツは喉を鳴らし「手が滑ったんだ」
「義眼は一つしかないのかい?」とビリー。
「昔はいくつか持っていたんだが、これで全部、なくなった」
「また、作ればいい」
麦わら帽子を撫でたコーリッツが曖昧な様子で首を振った。
「お前たちは先に行け」
「ベンジーは?」
「車で行く」
「片目じゃ危ないよ」
「いつも片目だ」
 カスティロが口を曲げると、ビリーが「先に行ってエントリーを済ませておこう。ベンジーなら大丈夫さ」と言い、カスティロが黒いカウボーイハットのつばを撫でた。二人が馬を歩かせ、見えなくなるとコーリッツは裏に停めたトラックに乗り込み、キーを回した。作り笑いのようなエンジン音が響き、シートベルトを締めた老人がゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 赤茶色をした柔らかい土を囲むように組まれた移動式の観客席の上では黄色いヘルメットをかぶった男たちが手で合図をしており、作業員たちはパントマイムをしているように見える。電光掲示板には赤い文字の数字や出資者たちの名前が代わる代わる映し出されていく。カスティロとビリーはコンテナのような馬房に馬を休ませると、実行委員と刺繍されたテントに入った。テントの中にはテーブルが一つだけ。テーブルの両脇には扇風機が二つ置かれており、バラバラに首を振る扇風機はジョークグッズのヒマワリの玩具のように見えた。テーブルの上に毛だらけの太い腕を置いた大男の口からは爪楊枝が出たり入ったりしている。大男は脂肪で膨らんだ瞼をぱちくりさせ「お前は?」と尋ねた。カスティロはポケットから紙を一枚とり出し、テーブルの上に置いた。書類が扇風機の風圧で波打った。青年は黒いカウボーイハットのつばを撫で
「マルケス・カスティロ。今日の出場者だよ」
「あぁ、そうか。隣はギブンスの倅だな?」
 帽子を脱いだビリーが「えぇ、リッチモンドさん」と言った。リッチモンドは膨らんだ涙袋に指で触れ
「この坊主の補助というわけか……いいだろう。坊主はどこの牧場で働いている?」
カスティロが口を曲げ、ビリーが「ベンジーのところです」
「あそこは牧場じゃない」
「彼はベンジーに教わったんです。彼の折り紙付きです」
「たしかにコーリッツはいいカウボーイだった。それに、いいレンジャーだった。だが、昔の話だ」
 身を乗り出したカスティロはテーブルに両手を置く。扇風機の風圧で黒いカウボーイハットが揺れる。カスティロが言う。
「ぼくはベンジーに教わった。馬の乗り方、世話のやり方。どうやって馬の気持ちを理解したらいいのか。ベンジーは馬に乗らないけれど、ぼくは彼の次ぐらいにいいカウボーイだよ」
 リッチモンドは卵型の頭を一撫でして
「大した自信だ。もし、情けない姿を見せたら、二度とここに戻ってこれないようにしてやる」
カスティロはチョッキのボタンを指で弾き「そんなことにはならないよ」と言い、リッチモンドがオペラ歌手のような巨体を揺さぶった。

 円錐形の標識が並べられただけの駐車場にトラックを停めたコーリッツはバックミラーで自身の顔を確認すると顔を歪め、バックミラーを捻ってトラックから降りた。見知った顔の人びとが老人に親しげに声を掛けていく。コーリッツはコンテナのような急ごしらえの馬房の前でカスティロとビリーと落ち合った。カスティロが感謝の言葉を早口で喋る。老人はカスティロの肩に手を置き
「お前にとって、今日という日は重い意味を持つだろう。結果がどうなるのか、不安を感じているかも知れないが、お前は投げ出さなかった。まず、それを誇るといい」
 スタンダードブレッドが首を上げ、尻尾を高く振ると隣のクォーターホースが歯列を見せた。コーリッツが慣れない眼帯に触れる。カスティロはコーリッツを正面から見据えて「ありがとう」と言った。喉を鳴らした老人が
「礼を言うにはまだ早い。競技が終わってからだ」
 カスティロが笑みを浮かべ「客席で見ていて。失望させないよ」と言った。

 観客席に向かったコーリッツが腰を下ろすなり、後ろから声を掛けられた。振り返ると、白いカウボーイハット、胸にサークル・スターを装着したエミールが紙コップ片手に立っていた。
「昼間からレンジャーがビール片手にロデオ見物なんてな」とコーリッツ。顔を顰めたエミールが
「コーヒーだ。マルケスの仕上がりはどうだ?」
 コーリッツは手をヒラつかせ「お前の顔に泥を塗るような仕上がりじゃない」
「自信があるようだな」
「そうじゃないのなら、意地でも辞退させたさ」
 エミールはカウボーイハットのつばを撫で、腰ベルトに手をやり
「いい答えだ。それから、ベンジー。おれは見物に来たわけじゃない。これは仕事だ」
 手をヒラつかせたコーリッツが「そういうことにしておこう」と言った。エミールはコーリッツの肩を叩くと「その眼帯、似合っているぞ」と言って、その場を離れた。
 観客席は人で埋まり、あたりにフライドバターやドーナッツ、フライドチキン、ポップコーン、オーデコロン、熱気が充満している。おもちゃのラッパが吹かれ、小さく切り刻まれたエメラルドの色紙が舞い散る。円形のグラウンドを囲むように設置されたスピーカーからはニール・ヤングが歌う『国のために用意はいいか?』が流れ出す。防弾ベストのような厚手のジャケットを着た子供が羊に乗りながら登場すると歓声が上がり、コーリッツも拍手した。羊に乗った子供の背中にはラミネート加工されたゼッケンが貼られており、ゼッケンが反射する。コーリッツの隣に腰掛けていた若い男が立ち上がり、携帯電話の動画機能を起動させる。グラウンドに子牛が放たれ、羊に乗った子供が子牛を追い、慣れた手つきでロープを投げると子牛の首にロープがかかった。子牛が飛び跳ねても子供は手を放さず、ピエロのような恰好をした男が子牛を押さえてロープを解いた。子供は羊に乗ったままコーリッツのほうを見て片手を挙げた。コーリッツの隣に立っている若い男は胸に携帯電話を押し付け、子供に向かって手を振り、大事そうに携帯電話を撫でた。
「大した倅だ」とコーリッツ。若い男は目を大きく見開き
「自慢の娘だよ」
 喉を鳴らしたコーリッツが「すまない。あの子はいいカウガールになる」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。マール・ジェニングス。あなたは?」
「ベンジャミン・コーリッツ。ベンジーでいい」
「よろしく、ベンジー。今日は何を見に来たんだい? ベアバック・ライディング?」
 首を横に振ったコーリッツが「ステア・レスリングだ。知り合いが出場するんだ」
「そりゃあ、凄い」
 グラウンドでは羊から降りた子供がヘルメットを脱ぎ、クシャクシャになったベビートウが風になびく。子供がジェニングスに向かって小さな手を振る。コーリッツが「早く行ってやるといい」と言うと、ジェニングスは水色のシャツの襟を撫で
「家に帰ったらパーティにするんだ。晴れ舞台だからね。車のシートにはプレゼントを隠してある。ぬいぐるみ。『ウォレスとグルミット』のグルミット。準備万端さ」
 無精ひげを撫でたコーリッツが「一大事だ。尚更、早く行ってやるといい」と言うと、ジェニングスは笑みを浮かべ「ありがとう、ベンジー。機会があったら、また会おう。それじゃあ」と言って、その場を去った。トラクターがコーヒーに混ざるミルクのようにグラウンドを走って整備すると、スピーカーからスポンサーたちの名前が読み上げられ、星条旗を抱えたカウガールが馬に乗りながらグラウンドを一周した。観客席の人々が立ち上がり、一八一四年九月一四日に捕虜交換の交渉のためにイギリス帝国艦隊に乗り込んだ詩人にして弁護士であるフランシス・スコット・キーが目にした砲撃されるボルティモア、マクヘンリー砦。曙光の中、砦に聳(そび)える一五の星と縞模様の詩を大衆向け飲酒歌『天国のアナクレオンへ』のメロディにのせる。(※ 米国国家『星条旗』のこと)拍手した人々が腰を下ろすとスピーカーからアナウンスが流れる。ゲートが開き、腹帯をきつく締めたことで興奮した馬が飛び出し、跳ね回る。鞍を装着しない暴れ馬の上で片手を放した男が上下に揺さぶられ、勢いよく地面に叩きつけられる。そして、歓声と拍手が上がる。
 ベアバック・ライディング(※ 鞍を装着しない暴れ馬に乗る競技)が終わると、優勝者にトロフィーが与えられ、観客たちは立ち上がって拍手した。その後、グラウンドに三つの樽が置かれ、馬に騎乗したカウガールが猛スピードで樽のまわりを走り抜けた。(※ バレル・レーシングという、女性が行うロデオ競技)歓声が上がり、指笛、会場を拍手が溢れる。電光掲示板に点数が表示され、スピーカーからアナウンスが流れる。コーリッツは麦わら帽子を撫でた。競技が終わると、ゲートから出てきた係員たちが樽を運び出し、トラクターが赤茶色の土を慣らしていく。キーボードによる金管楽器の音を模したファンファーレがスピーカーから流れ、観客たちはビールを一口飲んでから拍手する。二つのゲートが同時に開き、若い牛が飛び出す。馬が苛ついた顔で急発進すると、馬はバリアーを飛び越え、鞍から落ちたカウボーイの上を牛が通り過ぎた。立ち上がったカウボーイは恥ずかしそうに帽子に手をやり、手を挙げると、汗で湿った音のまばらな拍手が会場に響いた。電光掲示板に〈失格〉の文字が浮かんだものの、人々は拍手を続けた。コーリッツは喉に手をやり
「馬を満足に御すこともできないなんて、カウボーイの名折れだ」とつぶやいた。

 ゲートの近くでカスティロとビリーは壁に寄りかかっていた。二人とも腕を組んだまま、ゲートの先に広がるグラウンドを見つめている。ビリーが首を鳴らし、ネッカチーフが揺れた。
「後悔しているのかい?」とビリー。
「そんなことないよ。でも、緊張している」
「今更聞くが、どうして、ステア・レスリングをやろうと思ったんだ?」
「学校で言われるんだ。メキシコ人ってね。ぼくはエルパソで生まれた。ここ以外を知らないのに。だから、見返したい。それに、ぼく自身に何か芯とか、柱みたいなものが欲しい」
「アイデンティティ?」
「そうだね」
「うらやましいもんだ」
「どうして?」
「ガキの時から親父の手伝いばかり。いい加減、ここを離れたい。でも、いくら遠くに行ったとして、結局はここに戻って来るんだ」
「それはここが好きだからでしょ?」
「ここ以外がないんだ。知ることはできても、そこが居場所とは限らない」
「それなら、これが終わったら一緒に旅行に行かない? 二人で色んな場所を見て回るっていうのはどうかな?」
「馬に乗ってか?」
「ベンジーが貸してくれれば」
「貸してくれるさ。ベンジーのことはガキの時から知っているが、遠くにいる男という感じだった。しょっちゅう見かけるし、その度に話もするのに、霞んでいるような男。そんなベンジーが熱心に馬の乗り方を教えているのを見て、親父がベンジーみたいな男だったらと思ったよ」
「きっと、自分にないものばかりが輝いて見えるんだろうね」
ビリーは折れ曲がったカウボーイハットのつばを撫で「そろそろみたいだ」と言った。二人は馬房に向かい、カスティロはスタンダードブレッドを撫でながら顔を近付けた。
「ブーファ、よろしくお願いするよ」
 カスティロは鞍に手を置き、鐙に足を掛けずに飛び乗った。ビリーはブーツのつま先を鐙(あぶみ)に掛け、伸びをするように乗った。
「牛が同じじゃないのは残念だよ」とカスティロ。
「しっかり誘導する。練習通りにやればいい。バリアーに気を付けろよ。急発進させたまま追い越すとペナルティになるぜ」
「その練習はできなかったね」
「おれに合わせればいい」
カスティロは黒いカウボーイハットのつばを撫でると「気を付けるよ」と言い、馬の腹をブーツで圧迫し、馬が歩き出した。ゲートに入ったカスティロはスタンダードブレッドの肩を撫で、隣のゲートに入ったビリーは前方を見つめている。カスティロの膝は震えており、ブーツの踵についた拍車が回転している。カスティロは言い聞かせるように「ぼくたちならうまくやれる」と言い、目を瞑って大きく息を吸い込んだ。青年は背中を丸めながらすべての息を吐き出し、背筋を伸ばして黒いカウボーイハットのつばを撫でる。青年の瞳は先史時代の人間が獲物を倒すことを願いながら磨いた黒曜石のような輝きを放っていた。
 黄色い鋼鉄のゲートが開き、肩甲骨を上下させた牛が一気に走り出した。隣のゲートのビリーは既に馬を発進させている。カスティロは下唇を強く噛み、馬を急発進させ、ゲートから飛び出した。観客席のコーリッツは立ち上がって叫ぶ。
「姿勢を崩すな! 放り出されるぞ!」
 青年は若牛とクォーターホースの後ろに追いつき、若牛はスタンダードブレッドの前を走ろうと首を捻る。
「前を走らせるな!」とコーリッツ。
 バリアーが地面に落ち、ビリーが若牛に横づけする。カスティロは鐙から片足を引き抜いて馬の背中をブーツの拍車で強く蹴る。首を上下に振ったスタンダードブレッドが尻を振り上げ、カスティロは若牛を目掛けて飛び掛かる。牛の背中から滑るように首に腕を巻き付けると、牛の角を片腕で掴み、柔らかい赤茶色の土に両足を突き刺し、泥だらけになりながら仰け反って牛の首を捻る。カスティロの切れた下唇から一筋の血が粘土質の湿った土に滴り落ちた。牛が倒れ、四本の脚が太陽の方角を指し示す。観客席から歓声が轟き、ビリーが馬を急停止させた。カスティロは牛を倒したままだった。馬上からビリーが「大丈夫かい?」と尋ねてもカスティロは何も言わなかった。ゲートの隣に控えていた係員たちがカスティロの肩を叩き、牛を立ち上がらせた。牛は耳を振り、何事もなかったかのように係員たちと歩き去った。電光掲示板に〈八秒〉という数字が浮かび上がり、スピーカーからアナウンスが流れる。我に返ったカスティロが土をはらい落とすこともなく立ち上がった。観客席から拍手が鳴り響き、カスティロは円形のグラウンドを見渡す。胸を撫で下ろしたコーリッツが麦わら帽子のつばを撫でるのが見えた。カスティロは黒いカウボーイハットのつばを撫で、コーリッツに向かって手を振った。それから、興奮したままのスタンダードブレッドに近付いて首筋を撫でた。
「ありがとう。無茶なことをさせたこと、謝るよ。帰ったらパンをあげる。だから、機嫌を直して」
 ビリーはつばが曲がったカウボーイハットを撫で「ゲートまで戻ろう」と言った。
 スタンダードブレッドの手綱を引いたカスティロがゲートに戻ると、係員たちは二人に向かって短い労いの言葉をかけた。汗ばんだ後頭部を撫でたカスティロが礼を言い、ビリーは馬から降りた。
「どうだったかな?」とカスティロ。
 髭がない顎に手をやったビリーが「予定とは違ったな」
「ごめん」
「責めているわけじゃない。でも、まさか尻っぱねをさせて、そのまま飛び掛かるなんて、サーカスみたいだったぜ」
「咄嗟に思いついたんだ」
「だろうな。そうじゃなければ、あんなことはしない。とりあえず、馬を戻そうぜ」
 手綱を引いたビリーが歩き出すと、カスティロも歩き出した。二人が簡易の馬房に馬を入れると、出場者のカウボーイがすれ違いざまに「さっきは良かったぞ」と言って手を振った。カスティロは会釈し、切れた唇をシャツの袖で拭った。カスティロは焼き印がされた木箱に腰を下ろし、ビリーは壁に寄りかかった。観客席からの拍手と歓声、スピーカーから流れる陽気な音楽と〈六秒半〉〈七秒〉というアナウンス。馬房の前で二人は敗残兵か亡霊のような顔で押し黙っている。コーリッツがやって来ると、カスティロは肩を竦め、苦笑した。眉間に皺を寄せたコーリッツが言う。
「何て顔だ。まるで葬式じゃないか」
「負けちゃったからね」
「負けたぐらいでそんな顔をするな。マーク、立つんだ」
 カスティロが立ち上がるとコーリッツは青年の肩に手を置いた。コーリッツの片方の瞳に青く染まった青年の姿が映る。
「お前がやったことは危険なことだった。普通のカウボーイなら絶対にやらないようなことだ。二度とするんじゃないぞ。いいか?」
 カスティロは細い顎を上下に振り、ため息をついたコーリッツが
「それじゃあ、帰るぞ」と言うなり、回れ右をして廊下を歩き出した。カスティロが
「まだ、大会は終わっていないよ?」
「お前の出番は終わった。帰ったところで問題ない。リッチモンドには話を通してあるから安心しろ」
 ビリーは首を傾げ「そういうことなら、帰ろうぜ」と言って馬留から手綱を外した。

 トラックは砂埃をかぶったアスファルトの上をゆっくりと走っている。脇では二頭の馬が黄土色をした地面を踏み歩いている。三人は何も言わずに、ただ前方を見ている。咳払いしたコーリッツが言う。
「二人とも、よくやった」
膝に手を置いたカスティロが「お世辞?」と言うと、コーリッツはトラックの開け放たれた窓から片腕を垂らした。
「お世辞じゃない。お前の拍手が一番大きかった」
「気のせいだよ。第一、比べる対象がない」
「お前一人が上手くいかなかったと気落ちするのは構わないが、そいつやビリーの前でそういう態度をとるんじゃない。そもそも、お前はトロフィーを持ち帰りたかったのか? テレビの上にアンテナみたいに飾っても邪魔なだけだぞ。一週間もしたらクローゼットか物置にしまうのがせいぜい。名誉や栄光は心の中にあればいい。形あるものは失われるだけだからな。マーク、お前はテキサス人、カウボーイに恥じない出来だった。危険で粗っぽかったし、一歩間違えれば大怪我をしていたかも知れない。それでも、お前なりの会心の出来だった。こういう時にとる態度は昔から決まっている。胸を張れ」
「ベンジーは怒っていると思った」
「お前が勝ち誇った顔で自慢するような男だったらな」
 カスティロは黒いカウボーイハットのつばを撫で
「ウチ、テレビは壁に掛けるタイプなんだ」
 ネッカチーフに触れたビリーが笑みを浮かべた。

 厩舎の前でビリーは馬から降りた。コーリッツが首にロープをかけられた牛を連れてくると、一週間以上もの間、追い掛け回され、引き倒され続けた若牛は観念したような目つきで三人を見た。コーリッツは牛の背中を擦り
「ビリー、本当に世話になった。アーサーにもよろしく伝えてくれ」
 ビリーはポケットに手を突っ込み「どうせ、親父は寝ているだけさ。今頃、新しいライフルが増えていなければいいんだけど」
 笑みを浮かべたカスティロが「約束、忘れないでよ?」と言い。ビリーがうなずいた。ビリーは牛の首から伸びるロープを鞍に結び付けると鐙に片足を置き、地面から垂直に飛び上がって馬に乗った。
「カスティロ、次はお前に補助をして欲しい」
 喉を鳴らしたコーリッツが「お前も軽業師の真似がしたくなったのか?」と言い、ビリーはネッカチーフに触れた。
「マークには徹底的に馬術を仕込まないとな」とコーリッツ。手をヒラつかせたカスティロが
「努力するよ」と言った。ビリーは笑みを浮かべ、折れ曲がったカウボーイハットのつばを撫でるとクォーターホースの腹をブーツの踵で圧迫し、馬を歩かせはじめた。
 ビリーの後ろ姿が小さくなると、静かに息を吐いたコーリッツが
「さぁ、今度はそいつの面倒を見てやろう。大仕事をさせたからな。念入りにブラッシングするぞ」
「こういう時は一休みしてからじゃないの?」
黒い眼帯に指で触れたコーリッツが「カウボーイは休まない」と言った。
カスティロがスタンダードブレッドの手綱を引き、コーリッツは厩舎の吊り扉を引く。砂を踏んだレールが軋み、戦車のような厳めしい音が響いた。厩舎の天井から夕陽が差し込み、天井に巣食うクモの糸が虹色に輝いている。コーリッツは馬房の木柵を持ち上げると、逆さに立て掛けた鍬で馬房に落ちている緑がかった馬糞をバケツに放った。その間、カスティロは馬の腹帯を緩めてバックル、鞍、ゼッケンの順番で手際よく外した。カスティロは巨大なボビンのようなテーブルの上に鞍を置くと、黒いカウボーイハットを脱いでフェルトを撫でた。コーリッツは鍬でおがくずをならしながら「それは、お前にやる」と言った。
「どうして?」
「テキサス人ならそれぐらい持っていてもいいだろう。それに、また必要になる」
 カスティロはカウボーイハットの縁を指でなぞり「ありがとう、ベンジー」と言った。喉を鳴らしたコーリッツが
「礼はいいから、さっさとそいつをここに連れて来るんだ。ブラシも持ってくるんだぞ」
白い歯を見せたカスティロは三つのブラシが入ったバケツを手にすると、手綱を引いて馬を馬房に誘導した。
馬はバケツに並々と注がれた水を、喉を鳴らしながら飲んでいる。カスティロは外したハミを壁に掛け、ブラシの先を撫でる。ブラシに挟まっていた鹿毛が数本、落ちた。二人は会話を交わさずに馬をブラッシングしている。馬の前に干し草を置くと、鼻を鳴らした馬が干し草を食べはじめた。コーリッツは腰を拳で叩き
「次は食事だ」
「今、食べ始めたばかりだよ」
「人間だって、何か食べるだろう?」
 肩を竦めたカスティロが「まぁね」と答えた。

 コーリッツは茶色い紙袋に入ったフライドチキンを皿に並べ、ペースト状のマメのスープをかけると、そのまま電子レンジに放り込んだ。紙を擦り合わせるような音が響いた。
カスティロが「会場で買ったの?」と尋ね、コーリッツは脂が染み込んだ紙袋をゴミ箱に放ってうなずいた。
「パンも買ってきたぞ」
「ブーファが好きなパン?」
「そう、大麦のパンだ。お互いが好きなものだから一石二鳥。何か問題があるか?」
 首を振ったカスティロが「ないよ」と言った。コーリッツは冷凍庫から楕円形のパンをとり出して指で突いた。

 食事を終えた二人は家の外でコーヒーを飲んでいる。コーリッツは揺り椅子に腰掛けており、カスティロは手摺に寄りかかっている。暗闇の先では、時折、自動車のライトが明滅を繰り返した。湿り気を帯びた夜風がカスティロの縮れた前髪を撫でた。
「お前はよくやった」
「そうだね」
「ちゃんと話を聞くんだ」
カスティロは片足をブラつかせながら「聞いているよ」と言った。
「ズブの素人だったお前が、それなりに馬に乗れるようになった。たった二週間でだ。中々にできるものじゃない。もしかすると、お前は結果に満足していないかも知れない。人は目に見えるものばかりを欲しがるからな」
 コーリッツは黒い眼帯を指でなぞり、言う。
「明日からどうする?」
「どうって、何も変わらないよ。それよりもベンジー、ぼくをカウボーイとして雇ってくれない? ビリーみたいに犬を育てたりはできないけれど、ブーファのお世話はできる」
「牛を飼っていない」
「これから飼うのは?」
 コーリッツは首を横に振った。
「これだけできたんだ。お前は何でもできる。何にでもなることができる。わざわざ狭い世界に飛び込む必要はない」
「ベンジーは?」
「変わらない。ここにいる」
「また来てもいい?」
「構わない。それに、たまにあいつも人を乗せないと勘が鈍るからな」
 カスティロはコーヒーを飲み干し、アルミ製のカップを手摺に置いた。
「明日から、ちゃんと学校に行くんだぞ?」
 手摺から降りたカスティロが黒いカウボーイハットのつばに触れ「ベンジーの言うことは守るよ」と言った。 


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。
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