八秒、栄光のとき

第6話: 第六章 ~グリット

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.07.15

カウボーイハットの顎紐を結んだカスティロが馬に飛び乗り、後橋こうきょうに手を置いた青年が白い歯列を見せる。コーリッツは首を傾げると腕を組み
「足に力を入れるな。膝で馬体を挟むな。頭、肩、腰、踵が地面と垂直になるようにするんだ」
「覚えることが多い」
「長時間、乗ってもお互いが疲れないようにするための知恵だ。あぶみは親指の付け根に引っ掛ける。それじゃあ、駄目だ。踵は下げる」
「これじゃあ、やりづらい」
 コーリッツは突き立てた人差し指を上下に振り「踵を上げて馬に乗る奴がいるか」
「このままじゃ駄目? こっちのほうが楽なんだ」
「踵を下げるのは重心を整えるためだ。上げると前橋ぜんきょうにのめるぞ。地面と垂直にするんだ」
「固定観念じゃないの? 今までがこうだからって」
「これは一日や二日の話じゃない。何十年、何百年も前からの話で、これ以上がないという意味だ」
「改善の余地は?」
「あるとしたらとっくにやっている。年寄の冷や水だと思っているのなら間違いだ。これは馬の動作、感情を感じ取りやすくするための形なんだ。意地悪をしているわけじゃない」
「疑っているわけじゃないよ」
「そう聞こえたぞ」
「謝るよ。ごめん」
 コーリッツが「はじめは速歩からだ」と言うと、カスティロは馬の腹を圧迫し、馬が歩き出した。
「しばらく歩かせたら戻ってこい」
「どれぐらい?」
「自分で決めていい。馬の性格、機嫌を肌で感じるまで」
「コツは?」
「話し掛けてやれ。馬はちゃんと理解する」
 弧を描くように黒いカウボーイハットのつばを撫でたカスティロが笑みを浮かべ「やってみるよ」と言った。馬は首を地面と水平、カスティロは片手でだらりと垂らしただけの手綱を握っている。老人は麦わら帽子に手を伸ばすと地面に腰を下ろした。メキシカンブルーの空には幾層にも重なった雲が浮かんでいた。

 地面に腰を下ろしたまま眠っていたコーリッツが目を開けた時、太陽は麦わら帽子の頭頂を照らしていた。老人が麦わら帽子を脱ぐとこめかみから汗が滴り落ちた。カスティロは馬上から老人を見下ろしていた。
「ベンジー、お昼だよ」
コーリッツは「そいつを戻して一休みさせたら、こっちも食事にしよう」と言い、膝に手をかざして立ち上がった。
「今日は母さんが食事を持たせてくれたんだ」
「冷蔵庫に入れたか?」
「保冷剤が入っているから大丈夫だよ」
 カスティロが軽業師のように馬から飛び降りると、馬は険しい目つきで青年を睨んだ。コーリッツが馬の首筋を撫でながら「見世物じゃないんだぞ」と言った。カスティロは肩を竦め
「乗る時と変わらないよ」
 ため息をついたコーリッツが馬の手綱を引き
「こいつはそう思っていない。見ろ。すっかり腹を立てているじゃないか。カウボーイは馬を雑に扱わない。まったく、相棒になんてことを」
 コーリッツがぶつぶつと文句を言っていると、カスティロが口笛を吹いた。

 二人は馬房に馬を戻すと家に向かい、カスティロがテーブルにプラスチックの容器が並べていく。容器を開けるとトルティーヤとペースト状になった豆の煮込みが入っていた。カスティロはカウボーイハットの顎紐を解こうとしたものの、キツく結びすぎたのか、舌打ちして後頭部にずらした。
「これ、暑いんだよ」
 豆の煮込みが入った容器にスプーンを突っ込んだコーリッツが「フェルトだからな。間違っても顎紐を切らないでくれ」と言った。カスティロはトルティーヤを一枚、手にとり
「そんなことしないよ。スプーンを貸して」
コーリッツがスプーンを渡すとカスティロはトルティーヤに豆の煮込みをのせて口に放り込んだ。コーリッツが言う。
「食事が終わったらビデオを観よう」
「映画?」
 コーリッツが食べる手を止め、カスティロは手をヒラつかせた。
「冗談。そんなわけないよね」
「お前が出場するステア・レスリングのビデオだ」
「あるなら、最初に観せてくれれば良かったのに」
「臆病風に吹かれて逃げ出すんじゃないかと思ってな」
 仏頂面をしたカスティロが「逃げないよ。ぼくは逃げない」と言った。
食事を終えると、カスティロは流しで容器を洗った。その間にコーリッツはクローゼットの中にしまっていた靴箱を引っ張り出し、テレビの前でしゃがんだ。靴箱から黄ばんだテープが貼られたビデオテープをとり出したコーリッツはビデオデッキにテープを突っ込んだ。
カスティロが「何それ?」と尋ねる。
「ビデオだ。知らないのか?」
「ウチになくてさ」
 小さくため息をついたコーリッツがビデオデッキの再生ボタンを押す。カスティロはテレビの前に置かれたソファに腰を下ろす。薄っすらと埃をかぶったブラウン管にカウボーイたちが映り、カウボーイたちは撮影者に向かって笑みを浮かべながら手を振る。目隠しのようなマスクをつけた男が舞台に上がり、参加者たちの名前を次々に呼んでいく。その日限りの風変りな愛称や二つ名で呼ばれたカウボーイたちは大笑いしたり、眉をひそめながら一列に並ぶ。カウボーイたちは腕を組むか腰に手をやっている。
「これ、ベンジーも出ている?」
「あぁ」
「誰が撮ったの?」
「多分、アーサーだ。そういうことが好きな奴だからな」
「アーサーって誰?」
 喉を鳴らしたコーリッツが「静かに観ていられないのか? まったく……アーサーは隣の牧場主だ」
ブラウン管の中、カウボーイたちは神妙な面持ちで馬に乗っていく。己を鼓舞するためにきつく結ばれた唇、アリーナを舞う砂埃、陽気なアナウンス。電気式の三つのゲートが同時に開き、若い牛が走り出すと、馬に乗った二人のカウボーイが牛を追い掛け、すぐに追いついた。カウボーイは牛に飛び掛かり牛の角に片腕を、もう一方を牛の顎の下に巻き付けた。カウボーイは足を地面に食い込ませ、仰け反りながら牛の首を捻ると牛が倒れた。
「これをぼくがやるの?」
「そう。お前が希望したことだ。やめるか? 退くことも勇気だぞ」
「やるよ。ぼくはやる。ところで、牛を転がすには腕力が必要?」
「腕力だけで牛を引き倒すことは難しい。テコの原理だ。学校で習っただろう?」
 カスティロが肩を竦める。コーリッツが喉を鳴らす。
「ステア・レスリングはすぐに牛に追いつく技術、馬を操る技術がないとできない。急ぎ過ぎても駄目だ。ゲートが開いて二秒ぐらいの間、ロープが見えるだろう? あれはバリアーと言うんだが、あれを追い越すとペナルティになる。ペナルティタイムは五秒。見ての通り、ステア・レスリングは一〇秒以内に終わる。だから、バリアーを破るということは負けを意味する。牛を挟む、もう一方のカウボーイ……牛に飛びつかないほうは補助だ。牛が逃げ出さないようにしている。だから、まずは馬をコントロールする技術、経験が必要だ。また、牛の身体つき、自分自身の力の使い方もよく理解する必要がある。要するに、ステア・レスリングは乗馬術と勇気の産物だ」
「ぼくにできるようになるかな?」
 コーリッツがブラウン管を指差すと、ブラウン管の中に今よりもうんと若いコーリッツが映り込んだ。馬に乗る若いコーリッツが整えられた口髭を撫でる。
「口に髭を生やしていたんだね。そっちのほうがカッコいいと思うよ」
「うるさいぞ」
 若いコーリッツはチェック柄シャツにジーンズ、黒いカウボーイハット、革ベルトの中央には真鍮のバックルが輝いている。アナウンスが終わり、ゲートが開くとバリアーが地面に落下し、一気に馬を加速させたコーリッツが若牛に飛び掛かって牛の角に腕をかけて顎に手を回す。柔らかい土に膝まで埋めたコーリッツは口を固く結び、身体を仰け反らせると牛を引き倒した。
白く染まった無精ひげを撫でたコーリッツが「五秒半、ベストタイムだ」
「すごいね。優勝したの?」
「トロフィーはどこかにいったが」
 画面の中で若いコーリッツの後ろ姿が映る。泥だらけのジーンズをはらう素振りも見せず、観客たちに手を振ることもない。コーリッツは牛を起こすと、牛の白くてゴツゴツした背中を撫でる。
「明日はもう少し遠くまで馬を歩かせよう」
「牛は? 練習が必要でしょ?」
「それはまだ先だ。お前は馬と、もっと意思疎通をする必要がある」
「歩かせるぐらいはもうできる」
「本当にそう思うか? 馬はお前の意思を感じ取って行動しているか?」
「でも、歩いている。もっと必要なことがあるでしょ?」
「マーク、物事の本質を見誤るな。言いたいことはわかる。もっと先のことを考えているんだろう。だが、馬のことを理解していなければ駄目だ。そのためにも、明日からは本番まで、朝はお前が馬の世話をするんだ」
 カスティロが仏頂面でうなずいた。納得していないといった顔だった。

 翌朝、カスティロは一人で厩舎に向かった。南京錠が開錠されてある吊り扉を引くと悲鳴のような音が厩舎に響いた。青年はシャツの袖をまくる。褐色の肌の上に薄っすら生えた腕の産毛が揺れた。青年が口笛を吹くと馬房の中のスタンダードブレッドが首を上げ、尻尾を高く振った。厩舎の天井に張られたクモの巣の中央部にある白帯が虹のような輝きを放っている。カスティロは壁に掛けられた黒いカウボーイハットをかぶり、その下に揃えられたブーツを履いた。青年が口笛を吹きながら馬房に近付くと、頭を出したスタンダードブレッドが鼻先をカスティロの肩に擦り付けた。
「おはよう。ベンジーの代わりだよ。ぼくが食事を用意するんだ。あと、掃除。ベンジーは早く慣れるためと言っていたけれど、押し付けられた気がする。でも、嫌じゃない。毎日、君に手伝ってもらっているし。君にとってベンジーはどういう人? 飼い主? ベンジーは〈違う〉と言うだろうね。じゃあ、家族とか? さっきよりは近い気がする」
 青年は馬房の柵に逆さに引っ掛けられた鍬とバケツを手に木柵をくぐった。そして、おがくずの上に散らばった馬糞を鍬で拾い、バケツに入れていく。
「ねぇ、ベンジーとは長いの? というか、君は何歳なのかな? そもそも、君の名前を知らない。毎日、背中を貸してもらっているのに名前を知らないなんてね。気付きもしなかった。それじゃあ、あらためまして。ぼくはカスティロ。マルケス・カスティロ。母さんはマルと呼ぶけれど、その呼び方は好きじゃない。ベンジーはマークと呼ぶけど、それも似たり寄ったりかな。あとで、ベンジーから君の名前を聞いておくよ」
 青年は馬糞が入ったバケツを手に木柵をくぐると鍬を逆さに立て掛けた。
「今、食事を持ってくるから、ちょっと待ってて」
 カスティロが長方形の干し草を小脇に抱えてやって来ると、馬が鼻を鳴らした。青年は馬房の中に干し草の塊を置き、下がった馬の首を撫でる。
「馬って、ニンジンしか食べないんだと思っていたよ。君はパンが好きなんだってね。今度、買ってくるよ。どんなのがいい? チョコレート入りとかは止めたほうがいいのかな? ぼくはクルミが入ったのが好きだよ。ヒスパニックだってトルティーヤしか食べないわけじゃないからね。今日は遠くまで行くんだって。ベンジーは車を動かしに行っているよ。ほとんど乗らないから、修理しているみたい。ベンジーはなんでもできるね。奥さんのことは知っている? 随分前に亡くなったみたいだね。もし、ベンジーに子供がいたら、君のお世話は彼がやっていたのかな? ベンジーのことだから、相変わらず自分でやっているかも。君はどう思う?」
 馬は黙々と干し草を食べている。馬が干し草を食べ終えると、青年は木柵をくぐり、フックで引っ掛けられているハミを外し、手で温めた銜身を馬に噛ませてペラム(※ ハミの一種)を装着した。馬房から出たカスティロは巨大なボビンのようなテーブルの上に置かれた鞍を背負った。青年は馬房から馬を出し、馬の背にゼッケンとボア、次に鞍をのせた。青年は馬の背とゼッケンの隙間に手を突っ込んで僅かな空間をつくった。青年は馬の顔、足下、呼吸の度に大きく動く腹部を見る。息を吐きながら腹帯を締めると馬が耳をピクつかせ、青年は手を止めた。馬の鼻孔から干し草と歯肉炎の臭いが嗅ぎ取れた。
「ゆっくりやるよ。そうだ、話をしよう。たとえば、君はどこから来たんだい? ここで生まれたの? ぼくはここから自転車で一時間ぐらい走らせたところに母さんと住んでいる。母さんはメキシコから来た。よく、みんなが〈ここは自由の国だから〉と言う。でも、ぼくはここを自由の国と感じない。ここで生まれ育ったのに、どこか遠くにいるような気がしている。別に、メキシコに行きたいわけじゃないけど。君はどう? そういう違和感みたいなものってある?」
 馬の大きな黒々とした目にカスティロの顔が映る。馬が鼻先を突き出すと青年は腹帯を締めた。鞍に手をかけ、馬に飛び乗った青年が馬の腹を脚で押して前進させた。厩舎を出ると、トラックが黒煙を吐きながら停まっていた。青年は片手で手綱を引き、馬を停止させた。
「車、動いたんだね」
 自動車の窓から腕を出したコーリッツが「動かないはずがない」
「今日はどこまで行くの?」
「慣れるまでだ」
「そう? 結構、慣れてきていると思うけど。一人でハミも鞍もできるし」
「ここを乗馬クラブだと思っているのか?」
カスティロは「そういうつもりじゃないんだ」と言って、黒いカウボーイハットのつばを撫でた。コーリッツが自動車を発進させ、カスティロは馬の腹を脚で圧迫した。黄土色の地面、遠くに見える地肌が剥き出した薄茶色の山々。乾燥と風で侵食された山々はあたりを舞う砂粒で霞んで見える。木製の電柱はヒビ割れており、ヒビの隙間に入り込んだ砂粒で斑に見える。ハンドルを握るコーリッツが煙草を耳に挟む。
「煙草は身体に悪いよ」とカスティロ。
「そういうお前はどうだ?」
「ベンジーの言いつけ通りにしている」
「いいことだ。子供に煙草は似合わない」
「カウボーイには?」
「そういう時代もあった。今は昔だ」
「今なのに昔? どっち?」
「どんなものも変わる。過ぎ去ってしまう。覚えておきたいと思ったことすら霞んでしまう」
「齢のせいで?」
「それもあるが、物事そのものが霞んでしまうのかも知れないな」
「どういうこと?」
コーリッツは手をヒラつかせ「さぁな」と答えた。トラックのエンジン音、蹄鉄に巻き上げられた砂粒がマメ科の低木にかぶる。
「そういえば、馬の名前はなんていうの? 名前も知らないのに背中を貸してもらうなんて、フェアじゃないでしょ?」
「ブーファ」
「それじゃあ、奥さんの名前は?」
「エレイン。名前を口に出したのは久しぶりだ」
「寂しい?」
「一人じゃない」
「ブーファは喋らないよ」
「中々にお喋りだ。それに気分屋。かわいい奴だ」
 馬がコーリッツを見ながら鼻を鳴らす。薄茶色の山々に灰色の千切れ雲がかかり、重々しい雲はアララト山に辿り着いた箱舟のように見えた。
「そろそろ、練習用に牛を借りる必要があるな」
「今日でも問題ないよ」
「ようやく一人で乗れるようになったっていうのにか? マーク、焦る気持ちはわかるが、腰を据えることが大事だ。他の出場者たちは何年、何十年と馬に乗っているような連中ばかりだ。息を吸い、吐くように馬を操る」
「ぼくには無理っていうこと?」
「ステア・レスリングは熟練した馬術が必要だが、それ以上に勇気が必要だ。勇気とは無茶なこと、無謀なことに挑む愚かさのことじゃない。物事の本質を肌で感じ、骨の髄まで染み込ませた上でも怖気づかずに挑むことだ。大抵の場合、本質が見えてくると勇気は萎んでしまう。まるで、夜になると花びらが閉じてしまうように」
「カウボーイでも怖気づいたりするの?」
「誰だって怪我をしたくないからな。それに、熟練すればするほど、傲慢や自尊心が目を覆うようになる。これだけやっている自分は物知りで、他の連中は愚かだと決めつける。意見を聞くことが億劫だと感じるようになる」
「ベンジーも?」
「そうなりたくないと思ってはいるが、そうなっているだろうな」
「そんなことはないと思う。毎日、ぼくに教えてくれているし」
 馬は頭を垂れたまま歩いている。響きを断った蹄鉄が小石を踏む。
 トラックを二時間ほど走らせると、コーリッツが「食事にしよう」と言った。
「ブーファをどこに停めたらいいかな?」
「手綱をサイドミラーに結んでおけば大丈夫だ」
 コーリッツが路肩にトラックを停め、馬から飛び降りたカスティロは手綱をサイドミラーの金具に結んだ。二人は地面に腰を下ろし、コーリッツが包みを開いた。炙った厚切りのベーコンを挟んだだけのサンドウィッチを受け取った青年は礼を言った。頭を下げた馬はオコティーヨの棘だらけの茎に舌を絡ませ、葉を食んでいる。コーリッツが言う。
「脚はどうだ?」
「筋肉痛がひどい」
「やめたいか?」
 カスティロは首を横に振り「意気地なしになりたくない」と言い、コーリッツがうなずいた。
「食べ終えたら、アーサーの牧場に寄ろう。どの道、牛は必要だし、補助の馬と騎手も必要だからな」
 サンドウィチを口に放り込んだカスティロが立ち上がって鹿毛の毛並みを撫でた。
「助手席に水筒があるから、水を飲ませてやるといい」とコーリッツ。青年はトラックのドアを開け、助手席に置かれた大きな水筒を手にとって蓋を開けた。青年が馬の鼻先に水筒を近付けるとコーリッツが
「そのまま飲ませる奴がいるか。バケツに移すんだ。車の中にあるだろう?」
 青年は肩を竦め、トラックに積まれた青色のバケツを掴んで地面に置いた。逆さにされた水筒から水が滴り落ち、馬が鼻先をバケツに突っ込む。コーリッツは無精ひげを撫でながら言う。
「馬は一日に水が沢山必要だ。小まめに見てやるんだ。世話をする時に小便や糞も見たほうがいい。健康な時の小便は白っぽく、粘り気がある。糞は血が混ざっていないか、寄生虫がいないか。そういう時、そいつは物言いたげな態度をする。よく喋る、正直な奴だ」
 空になった水筒の蓋を締めた青年が「掃除の時に気を付けるよ」と言った。

 孤児のように取り残された雲が赤く染まり、内臓の襞のように見える頃、二人はアーサー・ギブンスの農場に行った。牛舎のまわりには牛が群れており、オーストラリアン・ケルピーたちがじりじりと詰め寄って牛たちを牛舎に誘導している。
「クジラが小魚を追うみたいだ」
 コーリッツはポケットに手を突っ込み
「クジラにしては小さいがな。牧畜犬を見るのは初めてか?」
「うん」
「ケルピーは中くらいの大きさだが、ガーディアン・ドッグは大きい。とはいえ、オオカミはもういない。あそこのケルピーぐらいのハーディング・ドッグで十分だ」
「ベンジーは犬も詳しいんだね」
「一応は牧場主だからな。馬が一頭だけだが」
握っている手綱を上下に振ったカスティロが「ところで、ブーファをどうしたらいいかな? ミラーに繋いでおけばいい?」と尋ねた。コーリッツは小屋を指差し
「あそこに馬留がある。多分、アーサーもいるだろう」
「牛は借りられそう?」
「どうだかな。行儀よくしていろよ。アーサーは気分屋だからな」
 黒いカウボーイハットのつばを撫でたカスティロが「大丈夫、慣れているから」と言って手綱を引いて歩き出した。
 小屋の中では作業着姿の中年が椅子に座りながら〈アメリカン・ライフルマン誌〉(※ 全米ライフル協会が出版している雑誌)を読んでいた。筋張った手、日焼けした首、落ちくぼんだ目は鼻が高いことで大きく陥没しているように見える。牧場主というよりは根っからの労働者然とした男は指に挟んでいる煙草を振って床に灰を落とした。
「珍しいな、ベンジー。それに、その隣の小僧。ガキがいたのなら隠さなくたってよかっただろうに」
 首を横に振り、ため息をついたコーリッツが「そういう冗談は嫌いだ」と言うと、男はひしゃげた灰皿で煙草を揉み消した。
「頼みがあるんだ」とコーリッツ。
「干し草の件は悪かった。馬がセレンに罹ったんだろう?」
「干し草の文句を言いに来たんじゃない」
「じゃあ、なんだ? そのメキシコ人を雇って欲しいのか? 人手なら減らしているぐらいだ。悪いな」
「アーサー、彼はマルケス・カスティロ。アメリカ人だ。近々、ロデオ大会があるだろう?」
「あぁ、ベンジーも昔、出場していたな」
「彼が出場するんだ」
「ベアバック・ライディングか?」
「ステア・レスリングだ」
 アーサーはカスティロの頭頂からつま先までを見た。家畜を品定めしているような目つきだった。
「気は確かか? まぁ、何事も挑戦することは悪いことじゃないにせよ」
 カスティロが口を開こうとするとコーリッツが手で遮った。しかし青年はコーリッツの手を払いのけた。
「ヒスパニックにはできないと思う?」
「いきなりなんだ? 年長者の前では行儀よくしろと教わらなかったのか?」
「質問に対して答えることはお行儀じゃないの?」
 コーリッツが額を撫でる。椅子から立ち上がったアーサーはカスティロに近付き手を差し出した。
「アーサー・ギブンス」
 カスティロはアーサーの手を握り「マルケス・カスティロ。よろしく」と言った。アーサーがじっと青年を見ても、青年は目をそらさない。口角を吊り上げたアーサーが手を放し、椅子に腰掛け、揉み消したばかりの煙草に火を点けた。
「それで、おれの馬を貸して欲しいのか?」
 青年は漂う紫煙に目を細めながら「馬と騎手、牛も貸して欲しいんだ」
「タダじゃあ貸せない」
 コーリッツは無精ひげを撫で「お前が飲酒運転した時、ハイウェイ・パトロールに口利きしてやったことがあるだろう?」
「昔の話だ」
「そう、昔の話。それから、愛想を尽かしたお前の女房がアーリントンのおふくろさんの家に帰った時、お前と一緒に行って説得した。それから……」
 手をヒラつかせたアーサーが「もういい。わかった、降参だ。昔のことを持ち出されたらベンジーに勝てる奴なんてほとんどいない」
「打ち負かそうとしているわけじゃない」
「ビリーに言っておく。でも、日が高いうちは駄目だ。あいつにも仕事があるからな」
「それで構わない。恩に着る」
 アーサーはチビた煙草を指で挟み、上下に振りながら
「ベンジー、さっきのことはビリーに言うなよ」
「当たり前だ」
 外に出ると、柵の中で睨みをきかせている茶褐色のオーストラリアン・ケルピーが二人に向かって歯を見せつけた。カスティロが馬留から外しながら
「上手くいって良かった。ところで、ビリーって誰?」
「アーサーの倅だ。齢は二〇とか……まぁ、そのあたりだ」
「ぼくと近いね」
うなずいたコーリッツが「そこのケルピーを育てたのはビリーだぞ」と言って犬たちを指差した。口笛を吹いた青年が馬に飛び乗った。

翌日、馬房に向かった青年は小便で湿ったおがくずと馬糞を鍬で取り除いて干し草を馬の前に置いた。青年はバケツ一杯に張られた水を飲む馬に向かって「どう?」と声を掛け、馬が耳をピクつかせた。
「そろそろ、慣れてきたように感じるんだ。ぼくたち、いいコンビなんじゃないかって」
 馬は目だけを動かし、水を飲んでいる。馬が食事を終えると、青年はハミと鞍を装着し、手綱を引きながら厩舎を後にした。しばらく歩くと、地面に等間隔に突き刺された真新しい、墓標のような杭が見えた。コーリッツは杭に寄りかかっていた。カスティロが言う。
「おはよう。それは何?」
「見てわからないか? 八の字にターンをするんだ。お前が指示を出し、導く」
「昨日だって、ぼくが指示を出していたと思うけど?」
 コーリッツが首を横に振る。カスティロはカウボーイハットの顎紐を指でなぞる。
「もちろん、やるよ。ベンジーを失望させたくない」
 老人は青い瞳をまばたきして「お前が懸命に取り組んでいることはわかっている。一人前になろうとしているお前に向かって失望なんてしない。絶対にだ」
 青年は照れ笑いを浮かべると馬の腹をブーツの踵で圧迫した。杭の目の前で立ち止まった馬が勢いよく小便をした。蹄鉄の足跡のまわりに白っぽい水溜まりができた。
手をヒラつかせたカスティロが「健康そうだ」と言い、コーリッツは
「ちゃんと指示を出すんだ。しっかり杭を見て、重心に注意するんだ。一緒に歩いているように考えろ」
 馬は小便を終えると歩き出した。腕を組んだコーリッツが
「曲がって欲しい方向に誘導するのに空いた手を真上より反対側に動かすな。何をやっている? 手綱で押すんじゃない」
 杭と反対方向に歩いた馬が首を振り、たてがみが揺れた。青年がブーツの踵で馬の腹を圧迫すると馬は首を落とし、手綱が引っ張られた青年が前のめりになった。
「今日はご機嫌斜めみたいだ」
「違う。そいつはお前の乗り手としての資質を疑っているんだ」
青年が口を曲げて「資質なんて言われても」と言うと、コーリッツが
「不貞腐れるんじゃない。根気強くやれば理解してくれる。馬はそういう生き物だ」
「だといいんだけど」
 馬は杭と反対側を歩き、頭を下げて地面に転がるコットンウッドの綿を鼻息で吹き飛ばす。青年がブーツの踵についた拍車を押し付けて馬の腹を押すと、目を細めた馬が尻を高く振り上げた。青年は振り落とされまいと馬の首にしがみついた。コーリッツが言う。
「むやみに拍車を使うんじゃない。拍車は痛いんだ。だから、馬が尻っぱねをする」
「やっぱり、今日は駄目みたいだ。もう終わりにしよう」
「ビリーが来るっていうのに、ターンもできないなんてな」
「ぼくのせいじゃないよ。ブーファが協力してくれないだけ」
「馬のせいにするな」
「じゃあ、何? ぼくが下手だから?」
 コーリッツは皺が寄った喉を鳴らし「誰のせいでもない。何事も噛み合わない時はある。大事なことは辛抱強く続けることだ。とはいえ、一休みする必要はあるだろう。一旦、馬房に戻そう。少し早いが昼飯だ」と言い、カスティロが気のない返事をした。
 二人は不機嫌な馬を馬房に戻して家に向かった。コーリッツが用意していたスープは水気が少なく、ペースト状だった。二人は何も言わずに食べ物を口に運んだ。居間には皿を突くスプーンの音と咀嚼音だけが響いている。窓から差し込む光が壁に貼られたエレインの写真やプッシュフォン、空っぽの赤ん坊用ベッドを照らす。絶頂を迎えつつある太陽に背を向けながら黙々と食べる二人はレンブラント・フォン・レインの絵画作品のように風景の中に溶け込んでいた。
昼餉を終えた二人はコーヒーが注がれたカップを手にコットンウッドに向かった。木に寄りかかりながら煙草に火を点けたコーリッツはため息と煙を吐き出した。地べたに腰を下ろしたカスティロが二股に分かれた枝を拾って黄土色の地面を削ると赤茶けた土が露出した。文字や記号のような無垢な忘我の上をアリが通過し、飲み干して空になったカップの中に砂が落ちた。雪のように舞い落ちる綿埃。紫煙が舞い上がっていく。手を停めたカスティロがつぶやく。
「ぼくには向いていないのかも」
 老人が人差し指で煙草のフィルターを叩いて灰を落とす。灰は崩れながら錆びたブリキ缶の中に落下した。
「馬が言うことをきかないだけで向いていないのなら、カウボーイは一人も残っていない」
「慰めてくれている?」
 コーリッツが首を横に振る。
「そうして欲しかったか?」
 青年は靴底で書き記した溝を潰し「ありがとう」と言った。
「礼を言うようなことか?」
「うん」
 コーリッツは弱々しく煙が立ち上る煙草をブリキ缶に放り
「多くの人は一度、へこたれるとそのままになる。同じ失敗をしたくないからと、賢くなったつもりでそれらしい言い訳をする。間違いだ。女房と子供が死んでからは、とにかく忙しくした。昇進試験を受け続けたし、危険な任務にも我先に手を挙げた。今思えば逃げだ。目を背けて、次から次に突き進む。一人ぼっちなんだから、どんな危険なことでも怖くなかったし、それを称賛されることは自分の価値が上がったように感じられた。繰り返すが、これは逃げなんだ。へこたれたまま愚痴を言っている連中とそう変わらない。本当の勇気とは目を背けたくなるようなことに力いっぱい挑むことなんだ」
 カスティロはカウボーイハットの顎紐を結び、立ち上がる。
「そろそろ、休憩を終わりにしようよ。ブーファの機嫌も直っているかも知れないし」
 ポケットに手を突っ込んだコーリッツが「その意気だ」と言った。

 杭の前で鼻を鳴らした馬が停止すると、青年はため息をついた。青年が馬の腹をブーツの踵で圧迫し、馬は重い足取りで歩き出す。蹄鉄が地面を踏み鳴らす音が響き、オコティーヨの棘が砂埃に揺られる。降り注ぐ太陽光は青年の黒いカウボーイハットに何らかのしるしを刻むように照らす。こめかみから一筋の汗が滴り、頬骨をなぞるようにしながら上唇の端で止まる。
「もっと身体を楽にするんだ。身体を強張らせると、肩が前に出て背中が丸まる。それに、手綱を使い過ぎている」
 馬に近付いた老人が火照った馬の首筋を撫で、馬の瞳に老人の姿が映る。馬は鞭のように尻尾を振ると片足で地面を前掻きした。
「わかっているとも。でも、もう少し力を貸してくれ。あとでパンをやるから」
 首を上げた馬が尻尾を高く振る。青年は後橋に片手を置く。
「ベンジーの言うことはキチンと聞いてくれるんだね」
 老人は肩を上下に振り、馬の首筋を撫でながら「付き合いが長いからな」と言うと、首を振った馬のたてがみが揺れた。
「さぁ、つづきだ。最初から。辛抱強くだ」
 カスティロが太腿を打ち、手綱を引いた。

 鹿毛が朱色に染まり、等間隔に打たれた杭が日時計のように影を生む頃、黒鹿毛のクォーターホースに乗ったビリー・ギブンスがやって来た。ビリーはつばが曲がったカウボーイハットにネッカチーフ、ウェスタン・ジャケット、砂漠色のギャバジンのスラックス、ブーツ、腰ベルトにはグロックG四三が装着されている。ビリーはカウボーイハットに手をやり
「やぁ、ベンジー。それから……」
 ビリーが青年を見ると、青年が「マルケス・カスティロ」と言った。ビリーはクォーターホースから降りるとカスティロに手を差し出した。青年がビリーの手袋のような手を握った。
「親父から聞いた。ステア・レスリングに出場するんだって?」
 眉をひそめた青年が「へぇ、どう思った?」と尋ねると、微笑を浮かべたビリーが
「どうも思わない。おれがやろうと思わなかったことだから」
「どうして?」
 ビリーはクォーターホースを見ながら「腕を自慢することがすべてじゃない」と答えた。
「ぼくがしようとしていることはおかしなことかな?」
「いいや、それが必要な奴もいる」
「ぼくには必要なんだ」
 鞍から伸びる縄に結ばれた若い牛を指差したビリーが言う。
「そうだろうな。ベンジー、牛を連れて来た」
 無精ひげに手をやったコーリッツが「忙しいのにすまない」と言った。
「構わないさ。親父はサボってばかりだから、少しは仕事をさせなくちゃな」
「アーサーのサボり癖は相変わらずなのか?」
「もし、おれがエルパソを離れたら牧場が閉鎖になるぐらいには」
「言っておこう」
「無駄だよ。そもそも、仕事をマメにやる親父なんて病気だ」
「普通は逆なんだがな」
 カスティロはビリーのクォーターホースをしげしげと見ている。がっしりとした身体と厚く広い胸、丸みのある臀部。自信に満ちた目をしている。対するスタンダードブレッドはがっしりとはしているものの、胴が長く、脚も短い。カスティロが
「速そうだね」と言うと、ビリーはクォーターホースを一撫でして
「サラブレッドの血が混ざっているんだ」と答えた。咳払いしたコーリッツが言う。
「クォーターホースはアンダルシア馬とサラブレッド、アラブ馬を交配させたもので、短距離の瞬発力に優れているから、乗馬、競馬、ロデオにも向いている」
「ブーファよりも?」
「そいつは温厚だ。扱いやすい。それに速歩が得意だ」
 スタンダードブレッドが大きな白い歯を見せ、鼻を鳴らす。
「それぞれ、得手不得手があるんだよ」とビリー。腕組したコーリッツが
「ビリー、頼みがあるんだが」
「ロデオに出場して欲しいってことだろ?」
コーリッツは肩を竦め「すまない」
「ベンジーが馬に乗らないっていうことは、このあたりの奴なら知っていることだし、そう言われると思っていたよ。カスティロはどれぐらい馬に乗れる?」
「八の字ターンに苦戦するぐらいだ」
「おれが先導するよ。やってみよう」
 手をヒラつかせたカスティロが「今日はブーファの機嫌が悪いんだ」と言うと、すかさずコーリッツが「馬のせいにするな」と言った。ビリーはネッカチーフを指で摘まみ
「まずはやってみよう。理由は後で考えればいい。ベンジー、牛を見ていてくれるかい?」
 コーリッツがうなずく。ビリーは手際よくクォーターホースに乗った。鐙に片足をかけて乗り込む様は〈ウェスタン・ホースマン誌〉(※ ウェスタン馬術に関する雑誌)に掲載されているものと寸分たがわない。カスティロが馬に飛び乗ると、ビリーが言う。
「身が軽いんだな」
「サルみたい?」
「軽業が得意なカウボーイはいる。馬に乗りながら宙返りしたりするような」
呆れた顔でコーリッツが「そんなことはやらなくていい」と言った。ビリーが踵でクォーターホースの腹を圧迫すると、馬が歩き出し、馬は魔法にかかったように杭を避けていく。ビリーは手綱を引かず、片手で握っているだけ。ビリーはカスティロをチラと見ると、コーリッツが
「さぁ、お前も続いて行け」と言い、青年は馬を歩かせはじめた。クォーターホースの後ろを歩くスタンダードブレッドは合図もなしにキチンと歩いた。出発地点に戻ると、興奮したカスティロが「凄い」と繰り返した。微笑を浮かべたビリーが
「そいつは素直だろう?」
「ぼくだけの時は、まるで駄目だったのに」
「したいことを押しつけてもいい結果にならない。これをやったら面白いかも、楽しそうと思わせるようにするんだぜ」
「どうやって?」
「馬の機嫌が悪い時は言い分に耳を貸す」
「それがわからないんだよ」
 コーリッツは麦わら帽子のつばを撫で「毎日、世話をしているだろう? 何か感じないか?」
「まだ、よくわからないよ」
「動物だと考えるな。人と同じように考えろ」
 鞍に手を置いたビリーが「ベンジー、彼はまだ馬のことがよくわからないんだ。急ぐのはかわいそうってもんだ」
「かわいそう? 毎日、理解されないことを悲しんでいる馬のほうがかわいそうだ」
「ベンジーは馬を大切にしているんだ。意地悪しているわけじゃないぜ」
「それはわかるよ」
「わかっているんだったら、もっと大切にしてやれ。ビリー、競技まで牛を預かっていいか? 毎日、連れて来るのは大変だろう?」
「ありがとう、ベンジー」
「こっちこそありがたい。アーサーによろしく伝えておいてくれ」
「伝えておく。でも、最近は新しいライフルのことで頭がいっぱいみたいだ」
「また、新しい銃を買ったのか?」
「まだだよ。カタログを飽きるほど見ている。いいや、飽きずに見ているのか? ベンジーからも言ってやって欲しいよ」
「ライフルは護身用には大きすぎる。狩りにも使えない」
ビリーは馬を撫で「いくら言っても耳を貸そうとしない。馬のほうがよっぽど聞き分けがいい」と言い、コーリッツが笑った。麦わら帽子のつばを撫でたコーリッツが言う。
「ターンを繰り返したら、二人で歩いてみるといい。陽が落ちきる前に戻るんだぞ」
 カウボーイハットのつばを親指で持ち上げたビリーが
「あと一時間ぐらいだ。それじゃあ、やろうか」と言って馬を歩かせはじめた。
 ターンを繰り返した後、二人は杭から遠ざかり、赤黒く染まった大地を歩かせた。闇は未亡人のヴェールのように垂れ下がり、影は刻々と肥大していく。二人と二頭の呼吸が混ざり合い、蹄鉄が小石を踏み鳴らす音が響く。カスティロはビリーの黒く輝くグロックを指差し、口を開く。
「どうして、銃を持っているの?」
「どうしてって、普通だろ?」
「まぁ、銃を持っている人は多いけれど、必要なの? ぼくは銃が必要だと感じたことは一度もない」
 ネッカチーフに触れたビリーが言う。
「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス。(※ テキサスの主権を所有した六つの国、スペイン、フランス、メキシコ、テキサス共和国、アメリカ合衆国、アメリカ連合国を表現するスローガン)テキサスは国なんだ」
「ショッピングモールで見るね」
「親父は独立派なんだ」
「ぼくはここで生まれ育ったけど、そういう風に考えたことがない」
「だろうな。実際、そう考えない奴も多い」
 ビリーの緩んだ手綱が揺れる。
「どうして、銃を持っているんだって話だったな。おれが生まれる前、兄貴がいたんだ。その日、親父は兄貴を車の助手席に乗せていた。たまたま、知り合いを見掛けたから、親父は車から降りてお喋りしていた。そうしていると問題が起きた」
「なに?」
「乱射だよ。世の中が嫌になったんだろうな。親父は無傷だったが、それで兄貴が死んだ。おれが生まれると親父は兄貴と同じ名前をおれにつけた。聖書には頬を叩かれたら逆の頬を出せと書かれているらしいが、それは理想であって現実に合わない。親父は、あの時、銃があれば兄貴は死ななかったと考えている。この話を聞かされた時、おれもそう思った」
「そうかな?」
「銃があれば全部の問題が解決するわけじゃないにせよ、平和が近付くかも知れない。それなら、そっちに賭けてみようと考えるのが普通だろ?」
「普通?」
「あぁ……銃を持たずに平和でいられるならそれでいい。でも、現実は違う」
 カスティロは褐色の腕に目を落とし、小さくうなずいた。

 空いていた馬房に干し草を置いたコーリッツは牛を馬房に入れ、バケツに水を入れた。首を下げた牛が水を勢いよく飲んでいく。
「上手くやってくれ。アーサーのいつもの寝床よりは広いだろう? それに、静かだ。ゆっくり休んで、明日から力を貸してくれ」
 コーリッツが「いい子だ」と言って牛の頭を撫でた。老人が厩舎を出ると、既に外は闇に覆われていた。馬から降りたカスティロとビリーが手綱を引きながらやって来るとコーリッツが
「そいつも馬房に入れておくか?」
「いいや、連れて帰るよ」とビリー。
「食事はどうだ? もう遅い」
 ビリーはカウボーイハットの曲がったつばを指でなぞり
「お言葉に甘えさせてもらうよ。ベンジーが作るのかい?」
「料理番じゃないんだぞ。ベンの店に行く。二人とも、さっさと馬房に馬を入れるんだ。マーク、ちゃんと干し草を用意するんだぞ。ブラッシングもだ。手を抜くことは許さないからな」
 カスティロが手をヒラつかせ、ビリーが「おれも手伝うよ」と言った。

 コーリッツが店のドアを押すと、上部に取り付けられたカウベルが鳴った。埃をかぶったスピーカーから流れるウィリー・ネルソンの『雨の別離』は鼻にかかったように響いている。三人が椅子に腰を下ろすと、ウェイトレスのデボラが大柄な身体を揺さぶりながらやって来てコーリッツの肩を叩いた。
「ベンジーが人と一緒に来るなんて珍しいわね。ビリー、久しぶり。仕事はどう?」
ビリーはつばが曲がったカウボーイハットを脱ぎ
「働き者の親父のせいで大忙しさ」
 口を歪めたデボラが「相変わらずってわけね」と言い、カスティロを見る。カスティロはまくっていたシャツの袖を戻し「こんばんは」と言った。
「新顔ね。アーサーの牧場の働き手?」
 テーブルに肘をついたビリーが「違うよ。ベンジーの友だち」
 カスティロは黒いカウボーイハットを脱ぐと名乗り、デボラと握手した。デボラはカスティロの痩せた身体をハグし「いい子ね。ベンジーと仲良くしてね。頑固だけど、いい人よ」と言い、コーリッツは麦わら帽子を団扇のように扇いでいた。
「頑固は余計だ」とコーリッツ。デボラは皺一つない頬をつり上げ
「注文は何にする?」
「ステーキがいい。お前たちはどうだ?」
 カスティロとビリーがうなずく。コーリッツは白い無精ひげを撫で
「チャルーパもつけてくれ」
「飲み物は?」
「ビールを二つ。マークは駄目だ」
 デボラはカスティロを見て「何にする?」と尋ね、言い淀んだカスティロが「コーヒー」と答えた。デボラが厨房に向かうと、あたりを見渡したビリーが言う。
「今日は、バーリングさんはいないみたいだ」
 眉をひそめたコーリッツが「会いたかったのか?」
「そりゃあ、テキサス・レンジャーはテキサス人の憧れだし」
「レンジャーになりたいのか?」
「勉強は苦手なんだ。カスティロは?」
「嫌いじゃないよ。新しいことを覚えることは楽しいし」
 コーリッツはテーブルの上に手を置き「レンジャーは給料が少ない。越境者が武装していることがあるし、今、この時も国境沿いの荒野で麻薬取引がされている。危険と隣り合わせだ。それでも希望者が絶えたことはない。マーク、理由がわかるか?」
「カッコいいから?」
「まぁ、そうだ。夢とか憧れ、郷愁……つまるところ、誇りなんだ」
「このあたりのレンジャーはみんな、バーリングさんを真似しているよ」とビリー。
「シングルアクション・アーミーはエミールぐらいしか使わない」
「仕事で携帯はしていないけど、クリスは持っているよ。見せてくれたことがある。グリップに彫刻があるやつだった。バーリングさんの服を真似している人は多い」
「支給品がないだけだ。似たような恰好をしていれば、安心できるからな。ビリー、公安局はどうだ? お前なら歓迎されるぞ」
「保安官代理?」
「ハイウェイ・パトロールもある」
 首を横に振ったビリーが「車よりも馬のほうが得意なんだ」
 テーブルにビールとコーヒー、網のあとがしっかりついたもも肉のステーキ、フライドポテト、平たく焼かれたパンを揚げてタコスを詰めたチャルーパ、小皿に盛られたタルタルソースとトマトケチャップが並べられていく。フライドポテトを摘まんだカスティロはタルタルソースを小指の先ほどつけて口に放った。目を細めたコーリッツが
「何も言わずに食べるのは礼儀に欠ける」
カスティロは肩を竦めて「お先に失礼」と言うと、コーリッツが喉を鳴らし、ビリーが笑みを浮かべた。
「親子みたいだ」
「礼儀について言うことがか?」
「いや、言い方が」
「アーサーは何か言わないのか?」
「親父は何も言わないよ」とビリー。コーリッツは突き立てた人差し指を上下に振りながら
「自分自身、年寄りの冷や水だと思うが、何も言わなければ世の中は堕落する一方だ」と言い、フォークとナイフを握って脂身の少ない肉にナイフを突き立てた。コーリッツは牛肉を咀嚼し、嚥下した。
「親父は口数が少ない男だった。食事中に喋ることは特に嫌いで、いつもテーブルは水を打ったように静かだった。隣のおふくろはビクビクしていた。結婚した時、エレインに食事中はお互いのどんな小さなことでもいいから話そうと決めた。よく喋った。思えば、あの時、喋り過ぎたんだろう。気が付いたら、親父と同じように食事していた。むっつり顔で、食うために食っていた」
 真っ黒のコーヒーを啜ったカスティロが「ベンジーは口数が多いと思うよ」と言い、ビリーが口角をつり上げた。

 太陽が頭上を照らす頃、馬上のカスティロが汗ばんだカウボーイハットに指を突っ込むと汗が滴り落ちた。鹿毛のスタンダードブレッドは急発進と急停止を繰り返したことで脂を塗られたように光っている。大きく開かれた馬の鼻孔から湿った息が噴き出され、唇を震わせた馬が大きな白い歯を見せる。コーリッツは腕を組み
「もう一度だ。もっと速く」
「ブーファが疲れているみたいだよ」
「まだ走れる」
 杭から伸びる縄に首を繋がれた牛が頭を下げて草を食む。丸みを帯びた葉が風に揺られ、カスティロは汗ばんだ手で手綱を握る。コーリッツが言う。
「そいつはもっと速く走れる。指示が行き届いていない。少しでもお前が躊躇すれば馬は混乱する。もっと深く腰掛けて、一気に行くんだ」
「これ以上、速くしたらぼくが振り落とされちゃうよ」
「どの道、牛に向かって飛び降りるんだ」
「落ちるのと、飛び降りるのは違う」
「つべこべ言っていないで、もう一度やるんだ。ゲートが開いた時に急発進できなければ元も子もないんだからな」
 カスティロは黒いカウボーイハットのつばを撫で「わかったよ」と言った。

 オレンジ色に染まる夕暮れ時、ビリーが手綱を引きながらやってくるなり「調子は?」と尋ねた。カスティロは手をヒラつかせ、コーリッツが喉を鳴らした。ビリーは
「あまり良くないらしい」と言うと鐙に足を置き、鞍に腰を落とした。クォーターホースが首を振り、たてがみが揺れた。コーリッツは牛の首に繋がれた縄を杭から解き
「ビリー、早速で悪いが、はじめよう」
 ネッカチーフに触れたビリーが「カスティロ、牛に触れたことはあるか?」と尋ね、カスティロが「昨日がはじめて」と答えた。
「ベンジー、先に牛に慣れたほうがいいんじゃないか?」
コーリッツは喉を鳴らし「走り出した牛に向かって馬を急発進させたら、牛に飛び掛かる。あとは引き倒せばいい。ビデオで見せた」
小さくため息をついたビリーが馬から降りて牛に近付く。
「牛の倒し方の見本を見せよう。まず、馬を牛の隣まで走らせる。それから……」
ビリーは左腕を牛の角に巻き付け、もう片方の腕を牛の首に巻き付けた。
「それから、えーっと」
 ビリーが言い淀んでいると、コーリッツが口を開く。
「両足を地面に突き刺すぐらい踏ん張れ。そのまま腕を自分に向かって引き寄せろ。そうすると」
 ビリーは腕を回し、牛が地面に倒れた。
「こんな感じだ。引き倒すことはそれほど難しいことじゃない。大事なことは」
「馬の操作だ」とコーリッツ。うなずいたビリーが
「そう。牛に横づけする時、距離があっては駄目だ。手を伸ばせば角に触れられるぐらいがいい。ただ、近付きすぎると飛び降りた時に馬に踏みつけられる」
 口を曲げたカスティロが「痛そうだ」
「そうならないための練習さ。やってみようか」
 牛を立ち上がらせたビリーが牛を撫でた。牛の横に立ったカスティロは目を細める。牛の瞳にカスティロの姿が魚眼レンズのように歪んで映る。カスティロが手を伸ばすと牛が首を振った。
「そんなに緊張しなくていいぜ」とビリー。カスティロは再び手を伸ばし、牛の角を握った。
「もう一方の腕を牛の首に巻き付けるんだ。隙間を空けるな。牛が踏ん張ってすっぽ抜けるぞ」とコーリッツ。カスティロが牛の首に腕をからませると、牛は脚をバタつかせてカスティロを蹴った。
「牛の蹴りなんて気にするな。馬の比じゃないからな。そのまま、グっと力を入れるんだ」
 カスティロの腕力に勝った牛が青年の腕を振りほどき、青年は尻もちをついた。無精ひげを撫でたコーリッツが
「腕の力だけで引き倒すんじゃない。腰と腰から下だ」
 立ち上がったカスティロが牛の角を掴むと僅かに膝を折り、牛の首に巻き付けた腕を引き寄せる。地面に崩れた青年の上に牛が倒れ込む。牛の瞳に青年の歪んだ顔が映った。牛の口から唾液が滴り落ち、青年のシャツに染み込む。麦わら帽子のつばを撫でたコーリッツが
「それでいい」
 カスティロは「ありがとう……それより、牛をどかしてもらえる?」

 カスティロとビリーは牛を挟み込むように馬に乗った。馬の鼻先にはコーリッツが握るゲート代わりのロープが垂れている。コーリッツが言う。
「ロープが落ちたら急発進させるんだ」
「牛が走り出さなかったら?」
「ビリー、牛の尻を押してやってくれ」
 ビリーがうなずく。
「四の五の考えなくていい。まずは、牛に追いつくことに集中するんだ。あとは鞍から牛の首を目掛けて滑り落ちればいい。仕上げはさっきの要領で引き倒す」
「集中と言うには、やることが多い」
「気にするな」
 馬の鼻先に垂れるロープがピンと張られ、微かに上下に震える。熱を失いはじめた黄土色の砂埃が舞い、馬の長い睫毛に引っ掛かる。脇に生えたウチワサボテンの葉の上でトカゲが蛾を愛撫する。
地面にロープが落ち、追い立てられるように牛が走り出し、馬が駆け出す。連続写真のように時が過ぎていく。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。
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