血と言葉

第16話: 女たち(4)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.19

警察だ。いるのはわかってるんだ!」扉は執拗に叩かれた。新垣を帰そうと説得していた凰馬は、溜息をついて階下へ降りた。近所迷惑な冗談だ。鍵を外して扉を開けた。本部長の部下ふたり組だった。喋るほうが薄笑いを浮かべ、迎えに来てやったぜ、といった。「裏に駐めてある。交通課に文句いわれる前に早く乗れ」
 凰馬は二階を気にした。警官たちはスツールに置かれたハンドバッグに気づいた。
「邪魔したか」
「遅すぎたくらいだ」
 喋るほうは呆れたようにいった。「生徒に手をつけておいて今度は同僚か。あんたみたいな本物の異常者が教師だなんてな。おかげで仕事が増えた」
「ちありの失踪はおれのせいじゃない」
「どうかな。居場所を知ってるんだろう」
「連絡がとれない」
 凰馬は階段口へ首を突っ込み、同僚を呼ばわった。反応はない。苛立ちを隠さずに二階へ上がった。新垣は万年床にへたり込んでいた。帰宅を促したが聞こえた様子はない。凰馬が手を差し出すと新垣は電気に打たれたように身をすくめ、怯えた眼で書棚へあとずさった。
 凰馬は新垣の手をつかみ、片手で吊し上げるようにして無理やり立たせた。彼は同僚を壁に押しつけて囁いた。「抽斗を見ましたね。子どもっぽい趣味でしょう。だれにもいわないでください」
 新垣の白い喉が鳴った。彼女は凰馬を凝視して答えなかった。新垣の息が早く、熱くなるのに凰馬は気づかないふりをした。蛙を抱くような嫌悪感があった。同僚が精神面にどんな問題を抱えているにせよ、これ以上の厄介を背負い込むつもりは凰馬にはなかった。
「ひとりで帰れますね?」
 凰馬は身を離した。新垣は腰が抜けたようによろめき、逃げるように階段へ向かった。転げ落ちそうな勢いだった。扉が締まる音がした。凰馬は抽斗に鍵をかけて階段を降りた。警官たちは冷やかすような目で凰馬を咎めた。
「別嬪じゃないか」と喋るほうが苦々しげに吐き棄てた。「こないだ先生を介抱してた女だろ。何だあんたの職場は。ハーレムか」
「女が多すぎるんだ。元女子高でね」
 県警本部は建て替えが必要な時期をとうに過ぎていた。最上階の執務室は自宅に較べると意外なほど質素だった。公立高校の校長室よりはましという程度に見えた。海堂宗介は見るからにやつれていた。ふたりの刑事は腰の後ろで手を組み、戸口の両脇に立った。喋るほうが顎で応接セットを示した。凰馬はソファーに座り、ピースを咥えて灰皿を探した。
「庁舎内は禁煙だ」喋るほうが呆れたようにいった。
 背を向けていた本部長は机を離れ、向かい合うソファーに身を沈めた。威圧するか泣きつくか態度を決めかねているように凰馬には見えた。
「奥さんを疑ってますね。連れて行ったと」
 本部長は憎しみをこめて凰馬を睨み、すぐに視線をそらした。「一週間前に電話があった。娘にも接触していたのだろう。私が娘を放任しているときみは考えている。私だって胸を痛めなかったわけじゃない。妻が芝居や怪しげな活動にのめり込むのだって何度も止めようとした。どうにもならなかった。幼いちありを棄てて出て行ったあの女が今さら近づく理由がわからない」
「センターは今でも監視対象ですか。何かおかしな動きは」
 本部長は話をそらした。「あの女はちありを洗脳するつもりだ」
 凰馬は直感した。警察は何かをつかんでいる。「それが教育ですよ。連中なりの」本部長の表情からそれ以上の情報は読み取れなかった。
「さすが異常者の親子だな」
「居場所がわかっているなら連れ戻せばいい」
「娘はもう自分で決められる歳だ」
「だったらなぜ悩むんです。お嬢さんがあなたじゃなく奥さんを選んだのが悔しいんですか。それをおれが解決してくれるとでも?」
 本部長は凰馬の胸ぐらをつかんだ。その手が緩んで離れた。本部長は凰馬から視線をそらし、胸が詰まったように呻いた。「ちありをおかしくしたのはおまえだ」
「あなたにも父親としてできることがあった」
「おまえら親子は……妻を奪い今度は娘まで。どうしてうちの家族を苦しめるんだ。もう勘弁してくれ」

 東京都千代田区にある老舗の総合出版社、群生舎の『文藝群生』編集部。編集者たちが会議室から散った。眼鏡と口ひげの小柄な編集者が、前方を睨んで坊主頭をゴシゴシと撫でた。厚い胸板でシャツがはち切れそうだ。
 若手編集者が追いついて声をかけた。「大丈夫なんすか水瀬先輩、今度の新人特集号。何か考えがあるようなこといってましたけど」
「ああ任せとけ。すごい隠し玉がある。おまえはおれについてくりゃいいんだよ」水瀬は後輩のラッカーで染めたような金髪をわしづかみにし、ぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。後輩は猫のように目を細めて笑った。
 とはいったものの何も考えはない。資料が積み重ねられた机に戻ると水瀬はソーシャルメディアに現実逃避した。企画のヒントを得るためと自分に弁解する。書けるやつは掃いて棄てるほどいる。どの著者も礼儀正しく、納期までに注文通りに仕上げてくる。それだけだ。飲んで雑談を交わしてもそつのない話題しか出ない。顔までみんな同じに見えた。会議で営業を納得させやすい企画を選ぶうちにいつしかそうなった。
 若い頃はもっと攻めていた。当時の編集長とつかみ合いの喧嘩まで演じたものだ。酔うと文学論を語りたがる男だった。昔はあんな出版人が大勢いた気がする。現編集長の持論は「売れっ子は無能を養うためにいるんじゃない」だ。その言葉は下請けのみならず自分たちにも向けられた。上司も同期も先輩もどんどん辞めていた。入社時にはこんなに出入りが激しい業界とは知らなかった。有名企業の肩書きに人生安泰と思えたものだ。
 タイムラインは猫と美少女とアニメとゲームの話題ばかりだった。上から目線の幼稚な説教も人気があった。今日も明日も、だれをフォローしてもしなくても大差ない。個性なんて幻想だ。人間はだれもが同じ。奇をてらえば営業から苦情が出て企画に待ったがかかる。
 膚色の画像が流れてきた。左手で目線を隠した少女が太腿を露出している。数万リツイート。プロフィールに移動した。高校二年の十六歳だという。胸の谷間を露出した写真も多い。会話も警句も気が利いていた。本当に十六か。おれがその歳の頃は箒をギターに見立ててふざけてたぞ。最新のツイートには大手ストアへのリンクが記されていた。また先生の本出したよ、買ってねと書かれていた。不意打ちを喰らった気がした。
 リンクを辿ると十数作が並んでいた。著者名はアカウントと同じく「Ω」だった。「先生」とは何だろう。どれも表紙は乱れた制服や下着姿のきわどい写真だった。山積した仕事はそっちのけで、催眠術にかけられたかのように熱心に検索した。匿名掲示板やソーシャルメディアや転載サイトの膨大な情報がヒットした。書評サイトをはじめとするウェブ上のあらゆるメディアが少女の話題でもちきりだった。その正体を巡って喧々諤々の議論が繰り広げられていた。ある者は実力派の若手作家が出版社とのしがらみを嫌って匿名で発表したと主張していた。またある者は雑誌社と結託したグラビアアイドルの新手のプロモーションだと訴えていた。そんなばかげた話があるものか。そんなネタが実在するのなら水瀬の耳に入らないはずはない。
 Ωは日々ブログやツイートで「先生」への想いを書き綴っていた。歳上の男がいかに自分を変えたか。焦燥感にも似た生々しい感情が共感を呼んでいた。その「先生」が書いた本を彼女が出版しているという設定らしい。「先生」は架空の存在で著者は美少女本人というのがファンのあいだでは定説になっていた。語彙と文体が似通っているからだ。形態素解析でほぼ一致したとする論文も出回っていた。自撮りないし自撮りを装った画像と、生命力溢れる文体とが、分かちがたい強烈な印象を見る者に与えた。幻想を受け入れさせる説得力があった。
 水瀬にはむしろ美少女のほうが「先生」の販売戦略による創作に思えた。
 マスメディアはいまだこの女子高生と接触していないようだ。果実は腐りかけが美味い。数万回のリツイートと数億回の転載がやり尽くされ、飽きられはじめてからが勝負なのだ。甘い腐臭が水瀬の鼻をくすぐった。若い著者なら好きな色に染められる。使えるかもしれない。
 二五〇円の電子書籍を購入した。ひと昔前の携帯小説のようなものを予期していた。読みはじめてすぐに暗い渦に魂をわしづかみにされ呑み込まれるのを感じた。だれもがこの著者に会いたがる理由がわかった。それは絶望的な恋に似ていた。いまだ同業者の話題にのぼらないのが理解できない。気づけば数冊目を読破していた。読めば読むほど満たされるどころか虚ろな気分が深まり、Ωの言葉で心を埋めたくなった。
 編集部の照明は水瀬の周囲を残して消されていた。後輩が心配そうに話しかけていた。水瀬は飛び上がるほど驚いた。ほかにはだれもいなくなっていた。
「ん、どうした」水瀬は照れ隠しに笑おうとした。顔の筋肉がこわばって失敗した。
「どうしたじゃないすよ。さっきからずっと挨拶してるじゃないすか。うわっ泣いてる?」
「何ばかなこといってるんだ」
 水瀬は洟を啜り上げ、眼鏡を外して袖口で顔を拭った。脳の奥が発熱したように痺れている。こんな経験は初めてだ。恐怖すら憶えた。油断すると呑み込まれる呪われた穴のようだ。
「なんすか、例の隠し玉すか」
 後輩は薄笑いを浮かべて水瀬の携帯を覗き込もうとした。水瀬は咄嗟に背後へ隠した。こいつにはまだ早い。耐えられまい。もっと老獪でタフな編集者でなければ。おれのような。
「いや……まぁ、そんなとこだ」水瀬は額に脂汗が滲むのを感じた。
「じゃ先帰りますよ先輩。終電、間に合うんすか」
「始発で帰るよ。気をつけてな」
 今度は笑顔を作るのに成功した。後輩を見送ると水瀬はフロアにひとりきりになった。大きく息を吐き、携帯画面の吹き出しにスタンプを入力して身重の妻に詫びた。そして読書に戻った。若い著者がどこへ向かおうとしているのか見届けたかった。この出逢いが何なのか知りたかった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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