血と言葉

第15話: 女たち(3)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.18

原稿は敗戦後の闇市を舞台にした推理ものだった。空襲で行方不明になった女を追う探偵が、子どもを狙った連続猟奇殺人に巻き込まれる。やがて戦時中の悲恋との繋がりが見出され、意外な真相が……という筋だ。Ωのカウンター席で新垣は読み耽った。凰馬はウィスキーのグラスを片手に煙草を吸っていた。凰馬に見られていることはすぐに新垣の意識から消えた。生徒から取り上げた原稿と同じだ。魂の後ろ暗いところをつかまれ、暗い渦に引きずり込まれるかのようだ。
 終盤に差しかかると新垣は眩暈のようなものを感じた。まただ。またあれが来た。喉の奥に熱い塊がこみ上げた。自分に何が起きているかわからなかった。やがてその塊は何かが決壊したように溢れ出した。読みやめることも嗚咽を止めることもできなかった。涙で化粧をぐしゃぐしゃにし洟を啜り上げながら読み進めた。
 新垣は「了」と記された一枚を束の最後に戻して茫然自失した。なりふり構わぬ生き様や剝き出しの感情に翻弄されて混乱した。不意に自分が今どこで何をしているかを思い出して赤面した。新垣は無言で席を立った。便所で化粧を直し、気持を落ち着けて凰馬のもとへ戻った。
 そのときまでに新垣は決心していた。この物語には著者の実人生が反映されているに違いない。虚無的な主人公は辻先生に生き写しだ。きっと不幸な過去がこんな暗い話を書かせたのだ。彼のまわりには歪んだ人物が多すぎる。赤いボールペンで書き込まれた指示や注釈が腹立たしかった。それらはまるで闇ばかり見たがる著者の過ちを増長させるかに思えた。
 こんなものを書いているから彼の人生は不幸なのだ。正しい方向へ教え導かねば。新垣は凰馬の目を見つめて決然と告げた。「この女性が死ぬのはまちがっています」
 凰馬は眉根を寄せて英語教師を見つめた。長い灰がカウンターに落ちた。
「撃ち殺すなんて。ひどいとは思わないんですか」
「そうしなければ人質の子どもが殺されていた。そういう小説です」
「そんなのどうでもいい。かわいそうだっていってるんです」
「本当に読んだんですか」
「ほかの作品も見せてください。添削します。わたしたちの本をよりよいものにしましょう」
 新垣はカウンターに入り、凰馬を押しのけて二階へ上がった。天井から吊られた傘に手を伸ばし裸電球のスイッチをひねった。酔い潰れた凰馬を介抱したとき整理したばかりなのに、万年床のまわりや文机にはもう原稿が散乱していた。あのときは紙にまで注意を向けなかった。辻先生には以前から神秘的なものを感じていたが、こんなに豊かな内面を隠していたなんて。
 蔑んだ過去を改変した自覚はなかった。新垣は紙の山を漁りはじめた。
「もう遅い時間だ。読んだら帰る約束でしょう」
 新垣は紙束を揃えて積み上げた。すべての作品をあるべき姿に書き直させるつもりだった。済めば帰る、嘘はついていない。凰馬の上衣から振動音がした。凰馬は携帯で話しながら階下へ降りた。
 新垣は黴臭い古書の山を掘り返した。埃が舞った。まだあるはずだ。辻先生は生活の場に生徒を出入りさせている。あの忌々しい小娘が隠したに違いない。文机の抽斗に手をかけた。施錠されていた。筆立をひっくり返した。ペンやナイフとともに小さな鍵が転がり出た。抽斗に試した。開いた。
 新垣は目を疑った。
 背後で階段が軋み、新垣は飛び上がるほど驚いた。戻ってきた男を恐怖の目で見た。凰馬が煩わしげに口をひらきかけた。どう弁解するつもりにせよ、その言葉が嘘であるのを新垣は直感で知った。
「海堂が失踪しました」と凰馬は告げた。
 店の前に複数の足音が近づき、扉が乱暴に叩かれた。
「電話は彼女のお父さんからでした」凰馬は声を無視して平然と話しつづけた。「部屋に閉じこもっているとばかり思っていたそうです。夕食に呼んだが反応がなく、あまりに静かなので使用人に様子を見に行かせたら……」
 警察を名乗る声が国語教師を呼んだ。
「本人は携帯の電源を切ってるようです。今夜はもうお引き取り願えますか」
 新垣には目の前の男が急に見知らぬ他人になったかに思えた。射すくめられたように視線を離せなかった。叫べば外の警官が助けに来てくれる。声が出なかった。背後の抽斗を意識した。暗い銃口を思い描いた。その孔に吸い寄せられそうだった。
 戸が叩かれる音は激しい風のように聞こえた。

 特定非営利活動法人「人間開発研究センター」は市の中心部にあるビルの三フロアを占めていた。海堂千里は最上階の理事長室に生活の拠点を移していた。数週間前まで往復していた東京では、関係者の家を泊まり歩いていた。もうそんな二重生活をする必要はない。かつてはこのフロアに理事長の妻が住んでいたこともあったらしい。彼女が今どこでどうしているかは知らない。安アパートにひとり暮らしだと聞いたようにも思う。利用価値のない人間に関心はなかった。
 辻直継が逮捕されてから経営は綱渡りで、次の契約更新ではふたつのフロアを手放さねばならなかった。来期にはこの部屋を潰してセミナー会場にするか転居せねばならない。千里はその考えが気に入らなかった。直継の器は利用するには粗末すぎた。世間の都合に合わせるくらいならいっそすべてをご破算にするつもりだった。予行演習もうまくいったし、以前からの夢を実行するのにいい機会に思えた。
 広いフロアは燭台や暖炉を模した照明で琥珀色に浮かび上がっていた。胡桃材の板敷き、天然石材の壁。調度はすべてイタリアの有名デザイナーによる作品だった。暖炉型照明のマントルピースには奇怪なオブジェが飾られていた。銃身が爆発してもつれた糸の雲になった水鉄砲のようなものだ。
 海堂母娘はソファーでクッションを抱え、手を繋いで見つめ合いながら話していた。はたからは心温まる光景に見えたろう。千里は娘の退屈な話に笑顔で耐えていた。いつまでこの気色の悪い茶番に付き合わねばならないのか。自分の直感を信じていたが今度ばかりは裏切られたかもしれない。海堂を強請るのに娘を利用できそうな気がしたのだ。世の凡庸な女たちに改めて軽蔑の念が湧いた。母親を演じ妻を演じ、つまらない家庭や世間体に養分を吸われ、醜く肥って衰えていくだけの人生。連中はそれを小市民的な幸せと信じている。自分は違う。価値がある人間なのだ。
 離れていた時間を取り戻そうとするかのように、娘は日常の些細な逸話を熱心に話した。母親が不在のあいだに何があったか。何を見てどう感じどのように育ったか。千里にとってこれほど苦痛な時間はなかった。
 ちありの整った顔立ちには確かに同じ血が流れているのが見て取れる。にもかかわらず往来の他人と大差なかった。産み落としたその日から、いや異物の塊として胎内に抱えた日々から、目の前の騒々しい他人を分身のように感じたことは一度としてない。実際には疎外され虐められているであろう学校生活を、さも楽しんでいるかのように脚色して話しているのが千里にはわかった。そうまでして媚びるのか。浅ましい子だ。気持悪い。振り払っても足元にまとわりつく重い泥のようだ。
 長年溜め込んだ感情の堰が切れたかのようにちありは話しつづけた。やがて話題が担任に及ぶや歯切れが悪くなった。視線をそらし、言葉を選んで話している。娘とその男とのあいだに何かがあったのを千里は察した。
「公立高校の国語教師で終わるのは許せない。彼の言葉を世間に広めたい。それで彼の本を個人出版したの」娘の口調はまるで彼の子を妊娠したと打ち明けるかのようだった。
「あら、じゃお金がかかったわねぇ。バイトしたの?」千里には心底どうでもよかった。堕胎費用の話であっても感情は動かなかったろう。
「ブログと同じでお金はかからない。二万五千部売った。ウェブメディアにはオファーがあればなるべく露出してる。あいつら一銭もよこさないくせに原稿と顔写真ばかり要求して、感謝されて当然だと思ってる。挙句にしつこく会いたがる」
「そう、よかったわねえ」
 所詮ごっこ遊びだ。本当に金になるとは千里は信じていなかった。他人の気を惹くためならどんな嘘でもつく愚かしい子ども。しまいにはその嘘を自ら信じ込む。体ばかり育って気色悪い。どうせその担任とも寝ているのだろう。
「フォロワーが勝手に宣伝してくれた。先生は実在しないと思われてる。あたしの妄想だって。妄想ならあいつらのほうなのに。あたしが有名作家のなりすましとかグラビアアイドルとか笑っちゃう。制服で自撮りしてるのに何でだれも気づかないのかな」
 ちありは携帯を構えるように右手を前に突き出し、左手で目線を隠してポーズを作った。千里は微笑みながら安い淫売め、と思った。じきに痛い目にあうだろう。「先生の名前は」聞くふりをするためだけの質問だった。
「辻凰馬」
「ふうん」千里は娘の話に初めて関心を持った。理事長の息子が教職に就いているとは聞いていた。利用しがいのあるネタが目の前に放り出されたのを感じた。目の輝きを悟られまいと、今度は逆に気のない態度を装う。「わたしもその先生と話してみたいわ」
 娘がその教師と仲違いしているとは千里には思いもよらない。ちありは急に表情を曇らせ、うつむいた。互いの表情の変化に母娘のどちらも気づかなかった。いわば寄り添って座りながらだれよりも遠く離れていた。決して互いを見ることはなかった。
 千里は昂奮でぞくぞくした。後ろ暗い心につけ込んで白蟻のように侵入し、内側から崩壊させる楽しみは辻直継から教わった。そのやり口で直継を破滅させた直後に息子が現れるとは。ただの強請よりやり甲斐がある。どんな男なのか。いつどこでどのようにして親しくなったのか。何を好むのか。政治的な信条は。根掘り葉掘り質問をはじめた。
 愚かな娘は求められる喜びに顔を輝かせた。訊かれもしない些事まで嬉々として答えた。母親の歓心を買うためなら何でも差し出した。そのひと言、ひと言が国語教師を、そして自分をどこへ追いやるか考えもしなかった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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