血と言葉

第14話: 女たち(2)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.17

ちありは三日間の停学が決まった。凰馬と新垣はお咎めなし。文化横丁へ向かいながら凰馬は本部長と電話で話し合い、ちありを当分のあいだ家に帰すことで合意した。ちありは自室に閉じこもって出てこないという。いずれ様子を見に行きますと凰馬は約束した。そうしてくれと本部長は応じた。通話の切れた携帯を凰馬は意味もなく見つめた。あの海堂宗介が気弱になっている。
 開店準備をしながら飯沢に電話した。どうした珍しいな、と老警部はいった。今夜うちに来ませんか、奢ります。飯沢は深く追求せず、わかった、とだけいった。
 文化横丁では朝まで営業する店は少ない。常連客は老人ばかりで日付が変わる前に帰宅した。その波が捌けた頃に飯沢は現れた。知り合った頃より酒量が減り喫煙もやめていた。大柄な体がいささか縮んだようにも見えた。痩せたんだよ、と飯沢はいった。寄る年波ってやつさ。ほかに客は若い男女がひと組だけだった。互いしか視界にない様子で酔って青臭い大声を交わしていた。たまに迷い込む場違いな客の典型だ。飯沢との会話を聞かれる畏れはなかった。
 凰馬と老警部はカウンター越しに昔話をした。
「あの爺さんは昔気質のやくざだったよ」と飯沢は語った。「怖かったねぇ。したたかで頑固で。衷さんが睨みを効かせることが犯罪の抑止力になってたのも事実だ。時代に合わない商売は若い連中から反感を買ってた。今若者のあいだで流行している合成麻薬、あれが出回りはじめたのも衷さんが引退してからだ。晩年は惨めだったね。潮が引くように取り巻きがいなくなって。だれからも手出しされなかったのはそれでもまだ畏れられてたんだろうな」
「相手にされなかったのかもしれませんよ。本当に忘れられたのかも」
「綺麗さっぱり商売から足を洗ったからな。危害を加える利点がだれにもなかったのかもしれん。おかしなやくざだったよ。多くの人間をひどい目に遭わせたはずなんだが」
 若い男女は支え合いながら出て行った。店内が静まり、話題が途切れた。オーネット・コールマンが低く流れていた。紫煙がゆっくりと天井に向かうのを凰馬は見上げた。「本題に入りましょうか」と彼は呟くようにいった。
「それが知りたくて呼んだんだな」飯沢は重い溜息をついた。
 生活に悩みがある者は社会病質に喰い物にされるのを望む。そうすれば問題に向き合わずに済むからだ。不幸は互いに引き寄せ合って増大する。凰馬は父のために多くの家庭が破滅するのを見て育った。
 特定非営利活動法人「人間開発研究センター」は、辻直継が運営する教育カウンセリング団体で、不登校児や障害者の家族にご託宣を与えて大金を巻き上げた。その団体で十年前から直継に巧みに取り入った女がいるという。その女が今は実権を握っていると飯沢は説明した。本部長の奥さんですかと凰馬が問うた。飯沢は溶けた氷に視線を落とし、知っていたかと低く答えた。
 辻直継は拘置所で心筋梗塞を起こし、半年前から昏睡していた。不摂生による肥満が原因だろう。被害者の恨みが祟ったのだと噂する者もいた。そうしたことは凰馬も聞いていたが関心はなかった。社会病質の血のほかに心臓病の遺伝リスクもあるという以上の意味はない。
「詐欺師が女に騙されるとはね。挙句に逮捕されて心臓発作。自業自得だ」と凰馬はいった。「他人がどんな商売をしようと知ったことじゃない。でもおれ自身も今あの家族とは厄介なことになってるんです。因縁ってやつですかね」
「聞いたよ。今夜はどこに?」
「学校で暴力沙汰を起こしたので自宅へ帰しました」
「どうして手を出した」
「教師に私物を取り上げられて激昂したんです」
「その子との馴れ初めだよ」
「襲われたといっても信じないでしょうね」
「笑い事にするもんじゃない。暴力は飽きるほど見てきたさ。どちらがどちらを搾取しているのかなんて当事者でさえわからない。他人が口を挟んでも看過しても暴力になる。怪我をさせたくなかったんだろう」
「互いに痛手を負いましたよ」
「こんな穴蔵みたいな店で喰っていけるのか」
 凰馬は肩を揺すった。「どうにかなるでしょう。昼間はコールセンターのバイトでもしますよ」
「元がマスターの道楽だからな。あいつも喰えない爺さんだよ。あれだけ派手に商売していながら尻尾を出さない。似ているかもしれないな、衷さんと」
「飯沢さん。亡霊を信じますか」
「どうしたんだい藪から棒に」老警部は凰馬を見つめた。「……衷さんだな」
「最近また気配を感じるんです。何か伝えようとしている」
「水臭い爺さんだ。たまにはこっちにも挨拶に来るよういってくれ」
 飯沢はそれきり黙って考え込んだ。

 翌日の午後、凰馬は遊園地の観覧車にいた。つまらない会話や愛想笑いに休日にまで神経を使いたくない。親しくもない同僚と逃げ場のない密室に閉じ込められるのが気詰まりだった。
 店じまいを済ませて寝床に向かうとき着信履歴に気づいた。ショートメッセージに場所と時間が指定されていた。正気とは思えなかった。生活に支障がないために病識がないだけで精神疾患があるのかもしれない。ちありも正常とは程遠いが、彼女の場合はサヴァンめいた知能の高さがそうさせていると思えた。新垣は得体が知れない。本を読むことがあるとすら思えなかった。何より動機がわからない。恐喝で得るものは何もないはずだ。
 無視すれば週明けの弁解が面倒だ。新垣が何をどこまで知っているのか確かめたくもあった。思惑にまんまと嵌ったのを感じた。
 駅のステンドグラス前に現れた新垣は年齢に不相応なふわふわしたワンピースを着ていた。フリルやギャザーや細い花柄をあしらった少女趣味な服だ。バッグは持つ意味が感じられないほど小さかった。誤解に基づく当てこすりに凰馬は感じた。そうだとしたらそこまでする意図がやはりわからなかった。
 新垣は紙束について一切触れなかった。凰馬も敢えて訊かなかった。要求したところで小首を傾げて微笑むだけに決まっている。腕をつかまれて地下鉄に乗せられ、遊園地まで連行された。コーヒーカップで船酔いをさせられ、老朽化したジェットコースターに別の恐怖を味わわされた。売店で買ったソフトクリームを舐めるあいだも新垣は本題を口にしなかった。
 最後に行き着いたのが宙吊りの密室だった。籠は軋みながらゆるやかに上昇する。膝を突き合わせて座る女の表情は逆光で読めなかった。
「原稿を読みました」新垣はいった。ようやく本題だ。凰馬は苦々しい気持で相手の出方を窺った。
「感想なら海堂にどうぞ。おれは書き方を教えてるだけです」
「どうしてあんなひどい話を書くんですか。登場人物のことがいまだに頭を離れません。胸が締めつけられます」新垣は表情を変えずに凰馬の目を見ていた。だれかを陥れる勝算があるときの女の態度だ。「書いたのは辻先生でしょう。あの子は校正しただけ」
 ミニチュアの街が眼下に広がる。水平線が秋の陽光を反射するのが見える。籠にはモーター音と金属の軋み、間の抜けた園内アナウンスが聞こえていた。風が吹き、籠が揺れた。「どうしてそう思うんです」
「生徒にあんなの書けません」
「何とかいう無頼派作家の孫娘は十五歳でベストセラーを書きましたよ」
「海堂さんは書いてません。どうしてそんな嘘を」
「なぜ首を突っ込むんです」
「教師には同僚の過ちを正す義務があります。教壇に立つ男性が書くべき代物ではありません。おまけに生徒を巻き込むなんて言語道断です」
「知人の娘なんですよ。あの紙束を本にする約束をした。おれは表に出るつもりはない」
「そんなのおかしい。まるで魂を売る契約みたい」新垣の笑いを凰馬は嘲笑に感じた。「いい歳した大人のやることじゃありません。生徒の遊びに付き合うなんて」
「口外するつもりですか」
 新垣は崖に追い詰めた山羊を突き落とすように微笑した。「ほかにもあるんでしょう。読ませてください。今後について話し合いましょう」
 凰馬は祖父がどこか遠い場所で笑ったような気がした。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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