血と言葉

第13話: 女たち(1)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.16

新垣は以前からずっと辻凰馬が疎ましかった。教師とは思えない猫背、眼鏡の奥の何を考えているかわからない目。汚らしい縮毛はつねに床屋へ行くべき時期を過ぎている。一挙手一投足が不快で、意思疎通さえ困難に感じた。生理的に許しがたい醜さだった。すれ違うたびに身の毛がよだった。
 凰馬は分掌も最低限しかやらず部活動の顧問すら拒否した。彼が青山以外の同僚と口を利くのを見たことがない。この男はいつか問題を起こすと新垣は信じた。女子生徒を脅かすかもしれないし保護者と揉めるかもしれない。目を背けたい気持に抗い、兆候を見逃すまいとした。
 去年の春、海堂ちありが入学してきた。陰気で反抗的な生徒だった。異様な髪型が目をひいた。他人を拒絶するかのような態度が辻凰馬と似ていた。進級とともにちありは凰馬に接近した。質問を装って凰馬に話しかけるちありを新垣はたびたび目撃した。顔を寄せ合って教科書を覗き込むふたりを嫌悪した。教育の場に災いが持ち込まれたかに思えた。
 ちありの登場は新垣の心を乱した。女の匂いを発散する生徒が気に入らなかった。男はみんな小児性愛者だ。打算尽くのこんな女に決まって騙される。注意して監視をつづけるうち、護るべき対象はいつしか秩序から凰馬へと変わった。あれだけ嫌悪した事実を忘れた。不器用な凰馬にちありがつけ込むかに見えた。新垣は母親のように凰馬を案じ、おかしな生徒を憎んだ。気づいているのは自分だけだと思った。救ってやらねばと感じた。
 金曜の午後。一週間の疲れが生徒の顔にも窺えた。新垣は普段よりも指名を増やし、生徒の集中力を取り戻そうとした。席や出席番号の順ではなく無作為に指名する。そのような自分の性格が厭になることがある。生徒からも好かれていないのを感じていた。窓際の女子たちは校庭を眺めていた。ゴム舗装の校庭では理系学級の男子生徒が体育をしている。別人のように髪を整えたちありだけが机を見つめて何か書いていた。
 生徒たちが異変に気づき、新垣とちありを交互に見た。新垣はちありを指名し、関係代名詞がどの一文を指すか英語で問いかけた。そしてすぐに高校二年の学力ではまず聞き取れない発音といいまわしをしたことに気づいた。ちありにはそのような悪意を誘発する何かがあった。ちありは煩わしげに立ち上がった。こともなげに早口の英語で答え、着席して作業を続行した。要求した以上に詳細で正確な解答だった。ふたりの短いやりとりを理解した生徒はいなかった。教室がざわついた。
 新垣は歩み寄ってちありを見下ろした。ちありは平然と作業をつづけた。文字がびっしり印字された紙にボールペンで朱を入れている。教室は再び静まり、空気が張り詰めた。隣の教室からは辻凰馬の声が、校庭からは呼子や男子生徒の歓声が聞こえていた。学校は協調性を学ぶ場だと新垣は考えていた。ないがしろにすれば社会に出てからきっと後悔する。そうでなければならない。ちありは新垣には見えない世界だけを見ている。それが許せなかった。
 文章を追うちありの筆先がとまった。新垣にはちありが微笑んだように見えた。
 頭に血がのぼるのを感じた。大人を侮るにも限度がある。衝動的に紙束をつかんで取り上げた。ちありは初めて存在に気づいたかのように新垣を見上げた。驚きが消えるとその目に憎しみが宿った。ふたりは睨み合った。今は英語の時間です、と新垣は怯えを気取られまいと強い語勢でいった。内職は禁止。
 授業は聞いています、とちありは冷ややかに応じた。原稿を返してください。
 原稿? 新垣の声には思わず嘲りが滲んだ。目の前の少女と同年齢だった頃から、自意識過剰の変わり者を新垣は軽蔑していた。あの頃も学級にひとりはそのような子がいた。自分を特別だと勘違いしたはみだし者が。ああはなりたくないと思いながら、新垣は道を踏み外さぬよう堅実に生きてきた。ちありはその生き方を否定する存在だった。まかり通ると思わせてはならない。それが教育者の務めだ。
 ちありはあたかも新垣の思考に反撥したかのようだった。手を伸ばして立ち上がり、新垣から紙束を奪い返そうとした。

 凰馬は板書を中断し、悲鳴が聞こえたほうを振り向いた。机が倒れるような物音。生徒たちはかすかな地震を感じたときのように顔を見合わせた。自習、といい置いて凰馬は隣の教室へ向かった。
 新垣とちありが揉み合っていた。椅子や机が倒れ、ノートや教科書、筆記用具が散乱している。まわりの生徒は席を離れて不安げに見るばかりでだれも止めようとしない。指導の範疇を超えた何かを凰馬は新垣の血相に感じた。両親やかつての恋人が自分に向けた感情。紛れもなく憎しみだった。
 ちありは無表情に新垣を突き倒した。接触した机が倒れて悲鳴が上がり、紙束がぶちまけられて教室に舞った。ちありが何をやらかしたか凰馬は悟った。厄介なことになった。
 新垣に馬乗りになろうとするちありを凰馬は引き剝がした。頼むから聞き分けてくれと思った。巧みに偽れとはいわない、自分自身であることが社会と摩擦を引き起こすのであれば身を低くしてやり過ごせ。廊下に野次馬が集まってきた。割って入った凰馬の胸にちありが突進した。伸ばした手は新垣に届かず空を掻いた。
 視線を集めていた。凰馬の手が反射的にちありの頭を抱こうとした刹那、男性教師が群がってちありを凰馬から引き離した。女性教師が新垣を助け起こした。ちありは大人たちに押さえ込まれて狂った獣のように暴れた。そして新垣の腹を蹴ろうとした。
 凰馬が咄嗟に新垣をかばってちありの踵を受けた。吐き気がこみ上げた。
 ちありは不意に抵抗をやめた。激昂を窺わせるのは荒い息だけとなった。ちありの目が凰馬を捉えた。その目は別な人間を見るかのような不信の色に染まっていた。

 祖父が部屋の隅に立っているのを凰馬は感じた。試すような目で見られている。校長室は応接室を兼ねていた。問題を起こした生徒の面談に使われることもあり、今がそうだった。安物のソファーは座り心地が悪かった。凰馬は新垣の隣に座り、ちありと向かい合っていた。
 目の前の少女は生命力が奇妙なほど欠落していた。授業中に薄笑いを浮かべていた生徒とも、腕のなかで泣き叫んだ獣とも違って見えた。ちありの印象がバラバラに砕け、結びつきを失ったように凰馬には思えた。すべてが悪い夢だったかのように。
 職員室で電話をかけていた教頭が戻ってきた。溜息をついてちありの隣に座る。海堂宗介は仕事の都合で来られないという。学校を訴える意思はないようだ。部下を迎えに寄越すといわれたと教頭は話した。案の定だと凰馬は思った。海堂宗介はこれまでも娘の問題にこのように距離をおいて対処してきたのだろう。思春期の子どもを持つ親の気持はわからない。
 これは何ですか、と校長は低いテーブルの紙束を示した。海堂さん説明しなさい。ちありは無表情にうつむいてひと言も発しない。一切の意思疎通を拒絶するかのようだった。
「小説です。海堂が書いた」凰馬の発言にちありを除く全員が彼を見た。
「どういうことかね」校長が不安を押し殺すかのように穏やかに尋ねた。
「親御さんに頼まれて作文を見てやっています。無報酬ですし、学校の勉強とは関わりがないので贔屓でもない」
 校長は薄気味悪い生き物を見るような顔をした。教頭はまた溜息をついた。凰馬はちありを見た。表情に変化はなかった。
 内職を注意したら襲われたと新垣は説明した。端的に事実を報告するような話しぶりから、新垣が本気でそう信じていると凰馬にはわかった。理解できないものはすべて悪、そんな単純な世界に新垣は生きているのだ。そこでは無知と悪意は純粋で正しいものとして塗り替えられる。
 机の内線が鳴った。校長が立ち上がって受話器を取り、通してくださいといった。無口なほうの刑事が顔を出して会釈した。凰馬を知っているそぶりは見せなかった。海堂君の処分はあとで伝えますと教頭が告げた。刑事はちありを連れて出て行った。三人が深く息をつくのを凰馬は見た。酸素の薄い場所から解放されたかのようだった。
 辻君にも相応の処遇がと教頭がいいかけた。辻先生は守ってくれただけです、と新垣が弁護した。声の大きさも表情も場違いだった。校長と教頭は困惑したように顔を見合わせた。処分は追って知らせますと校長はいった。早く出て行ってほしそうだった。
 凰馬は紙束に手を伸ばして口をひらきかけた。立ち上がった新垣に教頭が牽制するかのようにいった。これは新垣先生が責任を持って預かってください。処分は任せます。教頭は見るのも不快といった態度で紙束を差し出した。新垣はしてやったりといった顔で受け取った。
 凰馬が部屋の隅を見やると祖父は消えていた。
 職員室に戻ると同僚たちが群がった。何があったか凰馬と新垣から訊き出そうとする。新垣先生が内職を注意したら逆ギレされたんです、と凰馬は説明した。おれはたまたま隣で授業してたんで仲裁に。ええ、体罰でないことは親御さんも納得されてます。暴れたのは海堂のほうだと。海堂は家族が迎えに来て帰りました。新垣は口を挟まずにそばで見ていた。凰馬は心理的な圧力を感じた。取り繕った社交性を見透かされた気がした。
 怪我はないの、と女性教師が新垣を気遣った。海堂さんに乱暴されたんでしょう。新垣はにっこり笑って答えた。辻先生に守っていただきましたから。気まずい一瞬の沈黙ののち、同僚たちは冗談めかして凰馬を小突き、肩や背中を叩いて、やるなぁ男前、などと笑い合った。親しげな態度とは裏腹に、芝居めいたぎこちなさが漂った。新垣はまるで望んだ状況であるかのように無頓着だった。
 同僚が散り、凰馬は自席に着いた。新垣がそばに立っているのに気づいて顔を上げた。まだ何か用があるのか。不快感が凰馬の顔に表れたが新垣は気づかないようだった。
 新垣は身を屈めて声をひそめた。「今夜飲みに行きませんか」
「なぜ」
「きょうのことで……」
「先約が」
「原稿を返してほしくないんですか」
 生返事をしていた凰馬は改めて新垣の顔を見た。弱みを握る目だった。「じゃあ明日で決まりですね」そういって新垣は自分の席へ戻った。
 凰馬は祖父の気配を探した。どこにも感じなかった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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