血と言葉

第12話: 手製の銃(4)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.15

奥の薄暗い席。背中の窓越しに厨房が見えた。炎の柱が上がり、料理人が広東語で叫び合う。ウィスキーのグラスとピースを手にした田崎が暗い面持ちで何事か考え込んでいた。顔を上げて笑顔になった。
 用心棒が凰馬のグラスになみなみと注ぐ。
「この子にはジュースを」と凰馬。
「ラムネ」ちありがいった。大人三人が彼女を見つめた。「なければいい」
「七夕の残りがあったはずだ」田崎が指示し、用心棒が取りに行った。
 田崎と凰馬はグラスを合わせた。凰馬はひと息に干した。「風呂上がりには効きますね」凰馬はピースに火をつけた。
「おいおい、弱いくせに無茶な飲み方をしなさんな。もう餓鬼じゃないんだ」
「田崎さんと知り合った頃にはおっさんでしたよ」
「あたしからしたらまだ若造さ」
「この子はどうです」
「ふてぶてしいツラだ。お嬢ちゃん、この男が好きか」
 ちありは挑むように頷いた。用心棒が青い小瓶を手渡した。ちありはビー玉が落ちているのを見て落胆したようだった。田崎は彼女が目の前にいないかのように凰馬にいった。
「所帯を持つつもりか」
「かもしれない。成人までに気が変わらなければ」
 ちありは刺すような視線で教師を睨んだ。
「痴話喧嘩なら帰ってからやれ。金が要るだろう」
「その話をしに来ました」
「正直だな。おい」田崎は用心棒に合図した。用心棒は札束を凰馬の目の前に置いた。「六百万ある。しみったれた額だが当座は困らんだろう」
 凰馬は札束を田崎のほうへ押しやった。「誤解されています。おれは雇ってほしいだけだ」
「あれはおまえの店だ。あたしはもう噛んじゃいない。名義を貸してるだけだ」田崎は用心棒を顎で示した。「この男が仕入れや会計を代行してやってる。不慣れな先生のためにな。知らなかったのか」
「黙ってて悪かった」用心棒がいった。「公務員の副業は禁じられてると辻さんがいうから……」
「がめてたのか」凰馬はおもしろがるようにいった。
「と、とんでもない」
「税金と手間賃を差し引いたのがこの金だとしたら、どうだ。受け取りな」凰馬が上衣の懐に札束をしまうのを見届けてから田崎はつづけた。「話はそれだけじゃないんだろう」
「お見通しですね」
「親代わりに思ってくれといったはずだ」
「実の親はあんな男でしたからね」
 田崎はちありをじっと見つめた。初めて会う成人した孫を見るかのように。それから身を屈めて声の調子を落とした。「この子の母親がどこにいるか知っているか」
「その答えを畏れていました」と凰馬は答えた。

 長い黒髪がカウンターにとぐろを巻いていた。新垣は両腕に顔を埋めて意味のとれない繰言を延々と呟いていた。将大はステンレスの冷蔵庫にもたれ、冷めた軽蔑のまなざしで見下ろしている。青山は泥酔した英語教師を眺めながら高校時代を思い出した。
 当時の母校にはまだ焼却炉があった。ダイオキシンや煙について近隣から苦情をいわれながらも用務員がゴミを焼いていた。青山は放課後の掃除でじゃんけんに負けた。ひとけのない校舎裏は恋の告白や制裁の場に使われていた。湿った枯れ葉を踏みしめる感触を今でも憶えている。女子の声がして直感的に身を潜めた。同級生がふたり向き合っているのが視界に入った。
 男子は辻凰馬だった。相手は男子のあいだでは名前すら認知されない地味な女子だった。まずい場に出くわした。早く終わってくれないかな。スチールのゴミ箱を持つ手が痺れた。激昂していい募る女子に凰馬は低い声で短く答えた。何を話しているかは聞き取れない。
 青山は危うく声を上げるところだった。女子は果物ナイフを手にしていた。刃は鮮血に濡れていた。濃紺の制服が凰馬の負傷を隠していた。脇腹の裂け目から赤く染まったシャツが覗いていた。
「わたしは辻君が好きよ。あんなことになってもね」と絵梨子がいい、青山は回想から引き戻された。「彼のよさをわかってくれる女性がいるのは嬉しい。でもこの女は違う気がする」
「僕も変だと思う。新垣先生は海堂のことがあってから急に態度が変わった。辻は何も変わらないのに」それとも変わったのだろうか、と青山は思った。僕の知る辻は性犯罪者ではなかった。支配欲はない。それどころかだれとも進んで関わろうとしない。人間に慣れない獣のように。死期を悟れば人知れずどこかへ消える。
「辻君って高校の頃からああだったよね。同性愛者なのかと思ってた。ねえ何か乾き物ある?」
「おれはバーテンじゃない」
「その棚にカシューナッツの缶があったはずだ」
「ナッツよりポテチ的なのがいいな。適当に見繕って。あとで辻君にいっとくから。女は自分を愛してくれる男が好きなの。辻君と付き合ったら地獄よ」
「僕の記憶とは違うな。辻はいつでも女に優しかった」と青山はいった。血の色が残像のように新垣に重なって見えた。
「優しいのは侮ってるからでしょ。気づかないほど女はばかじゃない。このひと以外はね。話して五分で飽きたわ。辻君には普通すぎる」
「海堂は」
「そのことは考えたくない」
「まるで保護者だな」青山は笑った。
「だれかが護ってあげないと……」
「新垣先生」と将大がわざとらしく声高にいった。今初めて存在に気づいたかのように夫妻が彼を見た。「お忘れみたいですけど生徒の前ですよ。しっかりしてください」
「辻先生」と新垣は呻いた。カウンターの天板に押し潰された頬に涎が垂れている。将大は咎めるように青山夫妻を睨んだ。青山は気づかなかった。彼は泥酔した同僚を透かすようにして過去を見ていた。
「水を飲ませてタクシーを呼びましょう」絵里子はいった。
「だれが飲ませるんだよ」と将大。
「そりゃ当然、店を任されたひとよ」
「オーマに押しつけられただけだよ。あれ教育者としてどうなんです。あんたらも。このひとも」
「教師だって人間なのよ。めんどくさいわね」
「だったら人間らしいふるまいをしてください。何だよこれ」屍体のように動かない新垣を将大は指差した。「おれこのひとに英語教わってるんですよ。あしたからどんな顔で授業受けろというんです」
 何かがぶつかるように扉が開いた。泥酔した凰馬を支えながらちありが入ってきた。カウンターにつむじ風が起き、将大が目を丸くした。新垣がガバッと身を起こして飛んで行き、凰馬を支えたのだ。
「田崎さんとこで飲まされたな。弱いくせに」
 新垣は過保護な母親のように甘ったるい声をかけながら凰馬を二階へ連れて行った。凰馬は新垣を昔の恋人と間違えているようだった。ちありは目を背けてカウンター内で水を飲んだ。将大はグラスを受け取り、幼馴染の横顔を見つめた。何? と睨まれた。いや別に。半年ぶりの会話だった。
「辻君があんなになるなんて」と絵梨子。
「僕は前にも見たよ。田崎さんとこで何があった」
「あたしにはわからない話をしてた。実家がどうとか。ママと関わりがあるみたい」
「辻の実家にいるのか。あいつの父親のところに」
 ちありは肩をすくめた。「『センター』って何?」
 絵梨子が気遣わしげに夫を見つめた。辻から聞いてないかと尋ねられ何もと答えた。「だろうね。僕に話してくれたときもひどい飲み方だった」
「何の話?」ちありは苛立った。
「あいつの父親は拘置所にいる。自己啓発セミナーの事件を憶えてないか、数年前の。出入りしてた資産家の家族が失踪したとか、老人から多額の献金を巻き上げたとか。海堂の親父さんは初めから知ってたんだ、奥さんの居場所を。だから娘を利用して辻を巻き込んだ」


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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