血と言葉

連載第10回: 手製の銃(2)

アバター画像杜 昌彦, 2022年07月13日

ちありは濡れた髪のまま部屋で荷造りをした。生まれ育ったこの家に戻るつもりはなかった。目に映るすべてに哀しい想い出が染みついていた。買い替えられるものは残した。壁に貼られた大量の写真や言葉の数々もそのままにした。それらは代替品に過ぎなかった。実物に触れられなかった過去の自分に優越感を憶えた。キャリーバッグに詰めたのは大半が勉強の道具だった。
 机の写真立てを手にし、荷物に加えるか迷った。家族三人が湖畔の日差しに目を細めて笑っている。幼いちありの肩は母に抱き寄せられ、頭には父の大きな手があった。母の失踪はその翌年だった。母は美しかった。化粧用の小さな鏡と見較べ、無意識に顔を撫でた。
 扉が叩かれた。家政婦ではなかった。「晩飯を作った。食べないか」
 施錠はしていなかった。答えずにいると父は勝手に入ってきた。トレーを危なっかしい手つきで持っている。小瓶がぶつかり合う音がした。見なくてもラムネとコロナビールだとわかった。晩飯と称するのはライ麦パンにクレソンとレタス、メンチカツを挟んだサンドウィッチだ。
「お手伝いさんには帰ってもらった。もう遅いから明日にしたらどうだ。学校に荷物を持っていけばいい」
 宗介は断りもなくベッドに腰掛け、コロナビールを開栓しサンドウィッチを齧りはじめた。娘の態度には構わず一方的に喋りつづける。ママが出かけた夜よくふたりで喰ったな。学生時代からの手抜き料理だが、おまえは喜んでくれたっけ。あの頃はまだ商店街も元気だった。パン屋は娘に代替わりしていたけれど肉屋の爺さんは健在だった。パパの顔を見るなり奥へ引っ込んで、さすがに十年前の常連なんて忘れられたか、と思ったらわざわざ揚げたてを持ってきてくれた。お嬢さんは元気かって訊かれたよ。
 振り向きもされなかったが娘が聞いているのが父はわかった。あの夏休み、母の不在は父娘にとって束の間の息抜きであり、秘密の共有だった。調子外れの母をふたりとも愛していた。同じ不在が翌年にはいつまでもつづき、まるで意味が変わるとは思いもしなかった。屋敷はいたたまれない場所となり、父は仕事に、娘は自傷に逃げた。
 宗介はサンドウィッチを平らげビールを干した。空瓶をつかんで立ち上がった。「ここに置いとくからな。食べてから行きなさい。車の手配はしてある」
 宗介は戸口で思い出したように付け加えた。「パパな。ママを探そうと思うんだ」
 ちありは振り返り、父の去った扉を見つめた。それからベッドのトレーへ視線を移した。口をビー玉で塞いだ青い小瓶が汗をかいていた。どこで手に入れたのだろう。もうラムネの季節ではなかった。

「海堂の母親を見つける」と凰馬はいった。
 青山はジョニーウォーカーを、絵梨子は黒麹焼酎を、普段より早いペースで飲んでいた。凰馬は海堂宗介との約束について話した。今回の件を不問に付す代わりに、ふたつ条件を飲まされていた。娘を地元の旧帝大に合格させ、失踪した妻を捜し出すのに協力せよと。
「勉強を見てやるのはともかく、なぜ辻がそんな探偵紛いのことを」
「あの一家とうちの家族とは腐れ縁なんだよ」
「そういえば辻君が家族の話をするのは初めてね。どんな——
「辻だって人の子だ。親くらいいるさ」
 絵梨子は驚いたように夫を見た。
「あの父娘にだって似たところはあるんだろう」と凰馬。「海堂の容姿をどう思う」
 絵梨子は露骨に顔をしかめた。「そんな話は聞きたくない」
「辻にそんなことを訊かれるとはね。美少女といっていいんじゃないかな。教室で人気はないようだけど」
「わたし駄目あのタイプ。生理的に無理」
「だったら本は話題になるだろう。母親が思い出すかもしれない」
 青山夫妻は沈黙した。
 やがて青山がいった。「海堂の名義で出版するつもりか」
「あの子は納得してるの? 辻君の小説はどうなるのよ」
「あの紙束を表に出すと決めたのは海堂だ。責任はとってもらう」
「僕は辻の小説が読めればどうでもいいよ。彼女に次の仕事が来たらどうするつもりだ。ゴーストをつづけさせるのか」
「クリスマスのね。書き方も教える」
「スクルージなら改心する」
「さすがに別の人間が書いたのはバレるだろう」
「だれが気にする? 値がつくのは容姿と高校生という肩書きだ」
「何で出版前提なのよ。まず出版社に認められなきゃいけないでしょ」
「確かに滑稽だな」
「僕はおかしいと思わない。方法があるはずだ」
「絵馬に書いて神社に奉納する?」
 青山夫妻は微笑んで見つめ合った。
「それもありかもしれない」凰馬は天井の隅を眺めて煙を吐いた。
 閉店の札をかけていた扉がひらいた。喋るほうの私服刑事が現れた。ちありがその背後から飛び出してきてカウンターを回り、凰馬に抱きついた。無口なほうがキャリーバッグを下ろし、いたたまれないように目をそらした。凰馬はふたり組にいった。「ソフトドリンクでよければ一杯奢りますよ」
「最近うるさいんだ」と喋るほう。「あんたも公務員ならわかるだろう」
「お茶ごときで買収しようなんて思いませんよ」
「決めるのは世間だ。あんたらの関係もな」
「本部長の考えですよ」
「うまく丸め込んだものだな。虫酸の走る野郎だ」
「鏡を見るおれの身にもなってください」
「口の減らない野郎だ」
「それで喰ってるんで。生徒は聞いちゃくれませんが」
 無口なほうがまた噴き出しそうになり、相棒に睨まれて肩をすくめた。
「調子が狂うな。どうもこいつはおまえが好きらしい。また来る」
 青山夫妻は呆気に取られてふたり組を見送った。それからちありに寄り添われた凰馬を見て、他人の寝室を覗き見てしまったかのように慌てて腰を上げた。じゃあまた明日な。ああ、気をつけて。
 携帯で代行運転業者を呼びながら夫婦が去り、凰馬が扉に施錠すると店内は静まり返った。刑事が現れる前から音楽が絶えていたのに彼は気づいた。
 グラスをゆすぎ照明のいくつかを落とした。レジの金を集計していると、ちありが身を寄せ頭をもたれてきた。凰馬は作業を終えた。
 ちありが両手を伸ばして凰馬の頬を捉え、自分に向き直らせた。
「ああ、わかってるよ」と彼は答えた。髪を切ってやる約束をしていた。

「きみの住所のことだ。この番地は文化横丁のように思うのだが」
 校長はそういって切り出した。じつは辻君が夜の店のバイトをしていると耳に入った、説明してもらえるかね。校長は責めるでも怒るでもなく、ただ戸惑っているように見えた。
 情報源は保護者か出入り業者だろう。こちらが知らずともみんながご存知、狭い街の教員にはよくある話だ。これまで噂にならなかったのがむしろおかしい。凰馬は教頭の目つきを思い出した。今朝から様子がおかしかった。あの男もすでに知っていたのだ。
 知り合いの部屋に住まわせてもらってるんです、と凰馬は説明した。家賃代わりに階下の店を手伝っています。無報酬なので問題にならないと認識していました。
「それと海堂ちあり君のことだが、妙な噂を耳にしたので。まさかとは思うが、念のため……」
「保護者から手紙を預かってます」
 凰馬は便箋を懐から出し、手渡した。遠戚である辻凰馬君に作文の指導を頼んだ、互いの家に出入りするようになるが誤解なきよう云々と書かれている。普通なら特定の生徒への贔屓が許されるはずはなかったが、海堂の父親がいかなる人物かを知らぬ者はなかった。
 読み進めるにつれ校長の表情が曇った。深い溜息をついて手紙から顔を上げ、もういい、仕事に戻りなさいといった。深入りしたくないのだと凰馬にはわかった。かといって見過ごすわけにもいかない。校長は一気に老け込んだように見えた。
 職員室に戻ると注目を集めた。見返すとだれもが視線をそらした。英語教師が寄ってきて何があったか訊かれた。
「住所の確認ですよ。店舗の二階に間借りしてるんですが、そのことを訊かれたんです」
 首に下げた身分証に視線をやったのに気づかれ、新垣ですよと不平がましく抗議された。「同僚の名前くらい憶えてください」
 メッセージアプリのIDを教えろといわれた。業務に必要とは思えなかったが正直に使っていない旨を答えた。直視しないまでも居合わせただれもがやりとりに耳をそばだてていた。新垣は頓着せず次の授業へ向かった。凰馬もそうした。この職場には長居しすぎた。いずれ教育委員会からも呼び出されるだろう。どんな生活にも必ず終わりはある。教師だった時期が終わろうとしているのを彼は感じた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。