ああ、殺したよ。この手で何人も撃ち殺した。今も手に小道具の感触と硝煙の臭いが刺青のように残っている。おれたちの芸術を理解しない世間に報復してやった。最高の舞台で。帝都芸術劇場中ホール。あそこで演るのが夢だった。マスコミに媚びた劇団やミーハーな観客ども、ざまをみろ。
おれは下北沢のありふれた役者ばかだった。劇団の財政や団員の人間関係に頭を悩ませ、夢と現実の差に苦しむ座長に過ぎなかった。それが気づけば血と汗と埃にまみれて警官に追われている。偉大な「公演」を成し遂げた高揚感が過ぎ去ってみれば、何がどうなったのかわからない。息を切らして階段を駆け上がった。背後に大勢の足音が迫る。
わが劇団がよその芝居に乗り込んで、不遜な「解散公演」を行った理由はだれにもわかるまい。犯行声明には表現の自由やら抑圧からの解放やらと謳った。あの女の指示のもとで長い時間をかけて準備し、上演に至るまでは陶酔していられた。
芸術に殉ずる? 今となってはおれ自身にすら意味がわからない。
そもそもあの訓練からしておかしかった。「絵になる撃ち方」だけを延々と練習したのだ。芝居の延長で何の疑問も抱かなかった。もっと段取りを綿密に練るべきじゃないのか。台本のない興行なんてあり得ない。何もかもあまりに杜撰で、行き当たりばったりもいいとこだ。時間が来たら客席で立ち上がって撃ちまくるなんて、作戦でも何でもない。おまけにあの女、実行の瞬間にはどこにいたんだ。おれたちだけをこんな目に遭わせやがって。
扉に追い詰められた。把手をつかんだ。施錠されていない。屋上に出た。昼の光が目に突き刺さる。あのおかしな霧の後遺症で頭痛がした。ああこの光が舞台の照明であったなら。飛び移るには隣の建物は遠すぎた。追っ手が間近に迫った。おれの名を呼んでいる。畜生、せめて芸名で呼べ。ひと旗揚げようと盛岡を出たときに本名は棄てたんだ。な、なな舐めるんじゃない。
ステンレスの小道具を腰から抜いて構えようとした。
うわっ、マジで撃ちやがった。威嚇射撃って空に向けるもんじゃないのかよ。跳弾で怪我したらどうすんだよ。公務員で生活安泰のおまえらと違って保険入ってないんだぞ。こっちにはもう弾なんてないのに。解散公演で撃ち尽くしたんだよ。一発、一発がおっさんの体を吹き飛ばして。女の頭が西瓜みたいにはじけ飛んで。舞台の役者が独楽みたいに転倒し、逃げ惑う観客が血の海にぶっ倒れた。子どももいた。人体にあんなに血が詰まってるなんて。あんなひどい光景になるなんてだれも教えてくれなかった。
動くな、だと? どのみち殺すつもりだろう。毒の霧のなかでおれは見ちまったんだ。見境なく銃を乱射する黒いマスク集団を。仲間も観客もみんな死んだ。目を剝き舌を突き出し、喉を掻きむしって撃ち殺された。おれも危うくそうなるところだった。どうやって逃げ出したのか無我夢中で憶えていない。悪い夢だ。何もかも全部嘘だって、芝居だっていってくれよ。
近寄るな。おれに触るな。つまらないテロの実行犯なんかじゃない。おれは役者として死ぬんだ。観客ども一世一代の演技を見ろ。近づいたら、と、と、飛び降りるぞ。ああっ。身を翻して飛び降りた。通行人が驚いて見上げる。路面が視界いっぱいに迫る。どうしてこうなった。有名になって世間から賞賛されるはずだったのに。仲間と非現実の世界を楽しみたかっただけなのに。
叩きつけられる寸前にようやく悟った。嵌められたのだ。芸術も政治も関係ない。単にあの女がそうしたかっただけだ。なんでそんなのと関わっちまったんだ。
どうして。
熱い湯に打たれながらちありは両手の指を見つめた。原稿に触れていた指を。洗い流したくなかった。全身に男の臭いと痛みが染みついていた。男の住居には風呂がなかった。ちありにシャワーを浴びるよう命じておきながら、彼自身は不潔でも気にならないようだった。ちありもそのほうが好ましかった。煙草と汗の臭い。あの腕と言葉に抱かれていればいつまででも眠れた。
男の言葉はそれまでのだれとも違った。生き方を男に否定されたと感じた。無知を見透かされた気がした。憎悪のような反抗心が湧き上がった。悔しかった。憑かれたように原稿に引き込まれた。どうしても放り出せなかった。男の文体は手がかりを示すだけで答えを見せなかった。彼が見せようとしているものに届きたかった。焦がれるように何度も求めた。
あるいはそのために近づいたのかもしれなかった。自分を変える力に曝されるために。
それまでの自分は相手の気が済むまで壁に打ちつけられる粘土だった。夜の公園で酔ったサラリーマンに公衆便所へ連れ込まれたのが最初だった。それから中学の同級生たち。昼間はあざ笑いながら人目がなくなると暗がりに引き込み、翌日には決まって後ろめたい目つきでこそこそ逃げ隠れた。コミュニケーションアプリは友人や家族とやりとりするものではなく加齢臭のする脂ぎった中高年に買われるためにあった。
その夜の男もそのようにして知り合ったひとりだった。整形外科医を自称していたが真否はどうでもよかった。穴倉のようなバーに連れて行かれた。カウンターにいる男は常連から先生と呼ばれていた。縮毛で眼鏡をかけた陰気な男だった。商売をする気がないのか片手にウィスキーのグラスとフィルターのついていない煙草を持ち、もう一方の手で文庫本を読んでいた。
自称医師は酒臭い息を吐いて道徳を説いた。ちありは煩わしく感じた。どの男も同じだ。さっさとやるだけやって金を払ってくれたらいいのに。視線を感じて顔を上げるとカウンターの男が文庫本を降ろして煙草をふかしていた。ちありを見ているのではなかった。男はカウンター越しに自称医師のグラスを取り上げ、流しに酒を棄てた。
自称医師は狼狽し、ついで罵声をあげた。カウンターの男は短く厳しい言葉を発した。金は要らない、出て行ってくれ。自称医師は暗い店内でもわかるほど怒りで顔を赤らめ、ちありの腕を掴んで立ち上がった。カウンターの男がまた厳しくいった。その子を離せ、痛がっている。客がどうしようが勝手だろうと自称医師は叫んだ。数人いた客が眉をひそめて自分たちを見つめていた。ちありはうつむいた。その耳にカウンターの男の声が聞こえた。
その手はその子のものだ。あんたの勝手にはならない。
店内の視線に耐えかねて男は手を離した。二度と来るかこんな店、訴えて潰してやると棄て台詞を残して去った。ちありは指の跡が残る腕をさすりながら店を出ようとした。稼ぎ損ねたが、金がほしいわけではなかった。振り返ると男は文庫本を読んでいた。そのような男をほかに見たことがなかった。薄気味悪かった。
ほかのどの夜とも変わらないはずだった。その後も年配の異常者たちに買われた。Ωの男が店主でもバーテンでもなく、店番を任されているだけだと数人から聞かされた。先生と呼ばれるわけはだれも知らなかった。いつも何か読んだり書いたりしているからだろう、まるで作家先生みたいじゃないかとある男はいった。何人かにせがんだが連れて行ってはもらえなかった。ひとりで訪れる勇気はまだなかった。あの店は未成年の飲酒に厳しいんだ、前は固いことはいわなかったんだがと男たちは弁解した。変な疑いはかけられたくないだろう、ともいった。
あの夜からだ、とちありは思った。
カウンターの男を次に見たのは高校の入学式でだった。ちありは目を疑った。他人の空似だろうと思った。廊下ですれ違ったり、出席簿と教科書とチョーク入れを抱えて職員室に入る姿を見たりするたびに、同一人物だとの確信が深まった。
二年目にちありは辻凰馬から現代文を教わることになった。凰馬は部活も担当しておらず呆れるほど仕事に熱意がなかった。学校という空間にはつねにほかの生徒や教職員がいて、近づく隙はなかった。
高校の授業は退屈だった。どの科目も教科書を一度読めば理解できる。愚かなふりをして質問するにも限度があった。夏期講習に参加した。文学作品を読み込んで質問するほうが凰馬の気を惹けることに気づいた。それまで読書に関心はなかった。絵空事に関心を持つ者の気が知れなかった。何をどれだけ読んでもそれは変わらなかった。読めば読むほど辻凰馬は理解から遠のいた。
周囲に気づかれて揶揄されるようになった。何かが気に障ったらしく凰馬の態度も厳しくなった。ちありは近づいて話しかける代わりに監視をはじめた。凰馬を尾行し、私生活を携帯で写真に収めた。収穫物を部屋に貼って飽きずに見つめた。写真は増殖し、鱗のように壁を覆うようになった。
やめられなかった。何が自分を惹きつけるのか知りたかった。