杜 昌彦

血と言葉

第8話: 幼馴染みの日(4)

書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.11

疲れ果てて眠りに落ちたちありを残し凰馬は服を探したシャツはちありが幼児がお気に入りの毛布にするように握り締めていたタンクトップの上に上衣を羽織って店の便所に入った便器を抱えて胃液しか出なくなるまで吐いた汚れたままだと客はろくな使い方をしない掃除した洗剤の臭いでまた胃が痙攣し空えずきした
 凰馬は店の床にモップをかけカウンターを拭いた自傷の道具にされたのはわかっていた訴えると脅され拒めなかった絡め取られた暗い穴に落ちた耳の奥に獣めいた声がこびりついていた
 低い音量で晩年のジョニー・キャッシュをかけた眼鏡をかけてマイクに向かう白黒写真がどこか祖父を思わせる馴染み深いその声で二階に横たわる罪を忘れようと努めたいつもの店内いつもの音楽何も変わりはしない大丈夫だと心にいい聞かせた
 最初の客は青山夫妻だった途中で合流したのだろう絵梨子の表情は硬かったいつもと違って視線を合わせない凰馬は自分が汚物になったように感じた
 青山が戸口で振り向いた。 「入れよ
 遊田将大が睨みつけてきても凰馬は驚かなかったもう日常は喪われたのだ。 「引率か
社会見学だよコーラでも出してやれ
 夫妻はカウンターの定位置に陣取った生徒はその隣に座った凰馬はいつもの飲み物を出した青山にジョニーウォーカー絵梨子にはミントを添えたアイスハーブティ夫が運転する夜は濃いコーヒーと黒麹焼酎を出した外したことはない夫婦の会話を盗聴しているのではないかと不思議がった彼らも今では当然のように受け入れていた将大には何も出さなかった金を取らずに飲ませるつもりはなかったし取れば取ったで問題になる
喧嘩に負けたアル中みたいな格好だぞ客商売とは思えない
その観察は合ってるよどうせ田崎さんも来ない本店が忙しいらしい
そういえばご無沙汰だな
辻君?不自然に低い声で絵梨子がいった
 頭上で階段がきしみちありが目をこすりながら降りてきた凰馬のシャツを袖を折り返して着ていた下着は下しかつけていなかった裸足だった寝てろと凰馬はいったちありは静かに首を左右に振ったその額に凰馬は手をあて頷いた階段に立つちありとは目の高さが同じだったちありは何か訴えるように教師の目をじっと見つめた凰馬は冷蔵庫から炭酸入りのミネラルウォーターを取り出して開栓し差し出したちありは一息に飲み干しておくびをした
 凰馬は客全員に見つめられていることに気づいた青山夫妻が顔を見合わせそれから互いに視線をそらした
 絵梨子が将大にいった。 「諦めなさい今の見たでしょう
げっぷのことか
 絵梨子は話の通じない子どもを相手にしたように小さく溜息をついた。 「これからどうするつもりだれかが話したら辻君は……知ってたわたしたちだって
あの頃の僕らみたいなもんだろきみには大人の男がいた
あれは恋愛じゃなかった
そのことをいってるんだよ僕はきみの選択を否定しない少なくとも若さを理由に貶めはしない遊田は話さないよ
 扉がひらき常連客が遠慮がちに店内を見回した。 「おっ商売繁盛だな
今夜は貸切なんです
浮いた噂ひとつない辻君が珍しいねまた来るよマスターによろしく男は出て行った
本人の意見を聞こう青山は氷を鳴らしてグラスでちありを示し集団療法の司会のように如才なくいった。 「海堂はどうしたいんだ
あたしはこのひとを作家にする
 絵梨子と将大はピースに火をつける凰馬を次にちありを見つめた青山は動じなかった。 「それができなければ?とだけいった
殺す
 音楽が途絶え店内が静まったカウンターに紫煙が漂った
ちょっ……何いってんのよこの子絵梨子が呻いた
どうする辻先生青山はからかった
生徒が殺人犯になるのは困るな凰馬はレナード・コーエンの晩年のライブ盤を選び青山に二杯目の酒を作った作家でもあり禅僧でもある老人が呟くように歌った冷たく壊れたハレルヤ
なら書けよ読ませてくれる約束だ
まったくこの男たちときたら!絵里子が溜息まじりに首を振った
いつかそのうちな遊田海堂を家まで送ってやれおれたちは大人の話がある
 その瞬間のちありの目つきを青山はのちに凰馬に語ったあれで信じたよ書かれたものはおまえのものじゃなくなるだがあの子のものにもならないだからあの子はおまえを殺すんだ
聞こえたろきょうはもう帰れお父さんと話はついてる
親父と何話したのよ!少女が初めて発した大声に青山夫妻は驚いた
着替えも勉強も必要だいつまでもここへ置いてはおけない
嘘つき!ちありは凰馬の胸に殴りかかった
 凰馬は煩わしげに彼女を払いのけて二階へ上がった倒れた幼馴染の名を叫んで将大がカウンターを回り込もうとした凰馬が赤いボールペンを手にして戻ってきたちありは唇を噛んで涙を流し床から彼を睨み上げた
 凰馬はちありの手をつかんで彼女を立たせようとしたちありは幼児がいやいやをするように顔を背け振り払おうともがいたグラスが落ちて砕け散ったカウンターの陰になって見えなかったが青山夫妻は友人だった男が女子生徒を殴ろうとしていると信じた信頼につけ込んで支配した若者を
 将大は凍りついたように立ちすくんで動けなかったただふたりを見下ろしていた
 凰馬はちありを片腕で抱き支えると彼女の手に赤いペンを押しつけ握らせたそして低い声で耳元に囁いたちありは暴れるのをやめた青山夫妻にその言葉は聞こえなかった店内に立ち込めている空気少女が発散する何かが瞬時に変わった運悪く遊田将大には聞こえた凰馬はこういったのだこのペンで……と
 おれは勉強を見てやる海堂は原稿を直せやり方は教える

 夜の繁華街黒服に前掛けをした茶髪の客引きが離れて歩く高校生の男女に声をかけようとしてためらった安っぽい服と化粧の若い女と酔っ払ったサラリーマンが行き交う将大は人混みにちありを見失いそうだった看板の明滅が彼女の背中を遠いもののように見せた力なく追いながら将大は敗北感に打ちのめされていたちありは制服の上に似合わないコートを着てどこにでも売られている赤ボールペンを宝物のように胸にかき抱いていた足取りは明らかに軽かった
 店を出るとき将大はちありの表情を見てしまった母親の失踪以来あんな幸せそうな彼女を見たことがないそれは将大によってなされるはずの笑顔だったよりによってあの教師が取り戻したのだ
 そのようにして将大の心は死んだ


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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