疲れ果てて眠りに落ちたちありを残し、凰馬は服を探した。シャツはちありが、幼児がお気に入りの毛布にするように握り締めていた。タンクトップの上に上衣を羽織って店の便所に入った。便器を抱えて胃液しか出なくなるまで吐いた。汚れたままだと客はろくな使い方をしない。掃除した。洗剤の臭いでまた胃が痙攣し、空えずきした。
凰馬は店の床にモップをかけカウンターを拭いた。自傷の道具にされたのはわかっていた。訴えると脅され拒めなかった。絡め取られた。暗い穴に落ちた。耳の奥に獣めいた声がこびりついていた。
低い音量で晩年のジョニー・キャッシュをかけた。眼鏡をかけてマイクに向かう白黒写真がどこか祖父を思わせる。馴染み深いその声で二階に横たわる罪を忘れようと努めた。いつもの店内、いつもの音楽。何も変わりはしない。大丈夫だと心にいい聞かせた。
最初の客は青山夫妻だった。途中で合流したのだろう。絵梨子の表情は硬かった。いつもと違って視線を合わせない。凰馬は自分が汚物になったように感じた。
青山が戸口で振り向いた。「入れよ」
遊田将大が睨みつけてきても凰馬は驚かなかった。もう日常は喪われたのだ。「引率か」
「社会見学だよ。コーラでも出してやれ」
夫妻はカウンターの定位置に陣取った。生徒はその隣に座った。凰馬はいつもの飲み物を出した。青山にジョニーウォーカー、絵梨子にはミントを添えたアイスハーブティ。夫が運転する夜は濃いコーヒーと黒麹焼酎を出した。外したことはない。夫婦の会話を盗聴しているのではないかと不思議がった彼らも、今では当然のように受け入れていた。将大には何も出さなかった。金を取らずに飲ませるつもりはなかったし、取れば取ったで問題になる。
「喧嘩に負けたアル中みたいな格好だぞ。客商売とは思えない」
「その観察は合ってるよ。どうせ田崎さんも来ない。本店が忙しいらしい」
「そういえばご無沙汰だな」
「辻君?」不自然に低い声で絵梨子がいった。
頭上で階段がきしみ、ちありが目をこすりながら降りてきた。凰馬のシャツを袖を折り返して着ていた。下着は下しかつけていなかった。裸足だった。寝てろ、と凰馬はいった。ちありは静かに首を左右に振った。その額に凰馬は手をあて、頷いた。階段に立つちありとは目の高さが同じだった。ちありは何か訴えるように教師の目をじっと見つめた。凰馬は冷蔵庫から炭酸入りのミネラルウォーターを取り出して開栓し、差し出した。ちありは一息に飲み干しておくびをした。
凰馬は客全員に見つめられていることに気づいた。青山夫妻が顔を見合わせ、それから互いに視線をそらした。
絵梨子が将大にいった。「諦めなさい。今の見たでしょう」
「げっぷのことか」
絵梨子は話の通じない子どもを相手にしたように小さく溜息をついた。「これからどうするつもり。だれかが話したら辻君は……知ってたわたしたちだって」
「あの頃の僕らみたいなもんだろ。きみには大人の男がいた」
「あれは恋愛じゃなかった」
「そのことをいってるんだよ。僕はきみの選択を否定しない。少なくとも若さを理由に貶めはしない。遊田は話さないよ」
扉がひらき、常連客が遠慮がちに店内を見回した。「おっ商売繁盛だな」
「今夜は貸切なんです」
「浮いた噂ひとつない辻君が珍しいね。また来るよ。マスターによろしく」男は出て行った。
「本人の意見を聞こう」青山は氷を鳴らしてグラスでちありを示し、集団療法の司会のように如才なくいった。「海堂はどうしたいんだ」
「あたしはこのひとを作家にする」
絵梨子と将大はピースに火をつける凰馬を、次にちありを見つめた。青山は動じなかった。「それができなければ?」とだけいった。
「殺す」
音楽が途絶え、店内が静まった。カウンターに紫煙が漂った。
「ちょっ……何いってんのよこの子」絵梨子が呻いた。
「どうする辻先生」青山はからかった。
「生徒が殺人犯になるのは困るな」凰馬はレナード・コーエンの晩年のライブ盤を選び、青山に二杯目の酒を作った。作家でもあり禅僧でもある老人が呟くように歌った。冷たく壊れたハレルヤ。
「なら書けよ。読ませてくれる約束だ」
「まったくこの男たちときたら!」絵里子が溜息まじりに首を振った。
「いつか、そのうちな。遊田、海堂を家まで送ってやれ。おれたちは大人の話がある」
その瞬間のちありの目つきを青山はのちに凰馬に語った。あれで信じたよ、書かれたものはおまえのものじゃなくなる、だがあの子のものにもならない。だからあの子はおまえを殺すんだ。
「聞こえたろ。きょうはもう帰れ。お父さんと話はついてる」
「親父と何話したのよ!」少女が初めて発した大声に青山夫妻は驚いた。
「着替えも勉強も必要だ。いつまでもここへ置いてはおけない」
「嘘つき!」ちありは凰馬の胸に殴りかかった。
凰馬は煩わしげに彼女を払いのけて二階へ上がった。倒れた幼馴染の名を叫んで将大がカウンターを回り込もうとした。凰馬が赤いボールペンを手にして戻ってきた。ちありは唇を噛んで涙を流し、床から彼を睨み上げた。
凰馬はちありの手をつかんで彼女を立たせようとした。ちありは幼児がいやいやをするように顔を背け、振り払おうともがいた。グラスが落ちて砕け散った。カウンターの陰になって見えなかったが、青山夫妻は友人だった男が女子生徒を殴ろうとしていると信じた。信頼につけ込んで支配した若者を。
将大は凍りついたように立ちすくんで動けなかった。ただふたりを見下ろしていた。
凰馬はちありを片腕で抱き支えると、彼女の手に赤いペンを押しつけ、握らせた。そして低い声で耳元に囁いた。ちありは暴れるのをやめた。青山夫妻にその言葉は聞こえなかった。店内に立ち込めている空気、少女が発散する何かが瞬時に変わった。運悪く遊田将大には聞こえた。凰馬はこういったのだ。このペンで、……と。
おれは勉強を見てやる。海堂は原稿を直せ。やり方は教える。
夜の繁華街。黒服に前掛けをした茶髪の客引きが、離れて歩く高校生の男女に声をかけようとしてためらった。安っぽい服と化粧の若い女と、酔っ払ったサラリーマンが行き交う。将大は人混みにちありを見失いそうだった。看板の明滅が彼女の背中を遠いもののように見せた。力なく追いながら将大は敗北感に打ちのめされていた。ちありは制服の上に似合わないコートを着て、どこにでも売られている赤ボールペンを宝物のように胸にかき抱いていた。足取りは明らかに軽かった。
店を出るとき将大はちありの表情を見てしまった。母親の失踪以来あんな幸せそうな彼女を見たことがない。それは将大によってなされるはずの笑顔だった。よりによってあの教師が取り戻したのだ。
そのようにして将大の心は死んだ。