血と言葉

第7話: 幼馴染みの日(3)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.10

どうしたのこんな高そうな店へ呼び出して。大丈夫なの?」
 学生時代とは通う店も変わってきてはいたが、それにしても確かに、ポスドクと若手中学教師の食事には分不相応に思えた。そういいながらも絵梨子は初めての店を楽しんでいるように見えたし、青山はどこにでも馴染めるたちだった。ふたりは給仕を呼び、料理と酒を頼んだ。何かを察したのか絵梨子は普段の夜よりもドレスアップしていて化粧も完璧だった。
 青山は高校時代の同級生について話した。凰馬を憶えてるか。辻君ね、天然パーマで眼鏡かけてた。おかしなやつだった、隅の席でいつも本を読んでいて、だれとも関わろうとしなかった。今頃どうしてるのかしらね、あの頃は他人同士、毎日顔をつき合わせていて、それがずっとつづくように思ってた。
 当たり障りのないそんな会話をしながら概ね楽しく食事を終えた。
 ワインをちびちび飲みながら青山がいった。「じつは論文が認められてUCLAへ招かれた」
「よかったじゃない」
「僕は数学が好きだ。きみと同じくらいに」
「知ってる」
「解法を考えるのが好きだ。数は美しく、悩むのは楽しい。それだけだ。自殺する同級生を何人も見てきた。僕にそこまで考えつめる野心はない。ひとが落ちるとね、建物が揺れるんだよ。それから世間話みたいに今度はだれだっていい合うんだ。江戸時代の算額は知ってる?」
「何度も聞いた。市井の愛好家が楽しんで解いたのよね。解けると絵馬に記して奉納した」
「八幡宮や塩土神社にもいくつか残っている。江戸時代に生まれていたら、働きながらそういうのをやっていたろう」
「ひとの集まる場所に掲げて見てもらおうとしたんじゃないの。本にする代わりに」
「たぶんね。難問をリレーする遊びだって都会の出版物の真似だ。新人賞の落選作をアマチュア小説サイトに上げるようなものだったかもしれない。当時この地方には、ぱっとしない旅行ガイドくらいしか本がなかったから。でも僕は、神に捧げたと考えるのが好きだ」
「煙になって天に届く」
「そう。お焚き上げ。だから算額の現存数は少ない」
「辻君みたいね」
「え?」
「彼、何か書いてたんじゃないかと思うの。そしてきっとだれにも読ませない。書いたら燃やして、また次のを書きはじめる」
「想像だろ」
「うん。でもそんな感じのひとじゃなかった?」
「一度も話したことがない」
「なのに今夜は彼の話ばかり」
「たぶん僕は彼のような人間が羨ましいんだと思う。欲に人生を乱されたくない。何者でもない市井の生活者でありたい。彼はきっと今頃そうしている」
「想像でしょ」
「ああ」
「つまり渡米はやめるのね。向こうで日本語教師の職でも探さなきゃいけないかと思った。この話はどこへ行き着くの」
「それを切り出すタイミングを窺っていた」
「じゃ返事から先にいうね。いいよ」
「よかった。結婚してくれ」
「あなたにしちゃ段取りが悪いな。そこで指輪を出すのよ」
「この食事に使ってしまった。貸しにしてくれ」
「だろうと思った」
 長いときが過ぎた今、喫茶店で薬指の質素な指輪を眺めながら、青山はまだ貸しを返していないことに気づいた。婚約指輪の代わりに今さら何を贈ればいいだろう。どんなに高価な石でも足りないように思えた。その後、大学を辞めて母校に転職したら辻がいた。奇妙な縁だと青山は思う。あの夜、何の気なしに話題にするまで思い出しもしなかった男が、今では無二の親友だ。そしてそのために厄介に巻き込まれている。
「聞いてるのかよ先生」
 目の前で遊田将大が凄んでいた。顔が近い。テーブルに乗せた両腕に顎を埋め、青山を睨み上げている。
 今どき珍しい分煙が不充分な店で、生徒が訪れることはまずない。将大がこの店を選んだのもそれが理由だろう。頭のいい子だと青山は思った。時間が早いので同僚の姿もなかった。数百円と煙草代だけで時間が潰せる店は多くない。ガラス張りの檻に隔離されるのを嫌った難民がたむろしていた。有害物質が寿命を縮めるならこの老人たちは何なのだろうと青山は思った。セピア色の脂がこびりついた禁煙席は、漂ってくる紫煙でかすんでいた。
「辻と僕の共通点は、肝心な場面で喋りすぎることだな」
「はぁ?」
「成功を棄てた日を思い出していた。遊田は海堂が好きなのか」
「なっ」将大は猛然と体を起こした。「んなわけねぇだろ」力が入った拍子にコーヒーがこぼれた。大騒ぎしながら紙ナプキンでテーブルを拭く若者に、青山は苦笑した。絵梨子と付き合いはじめたのもこのくらいの年齢だった。
「そんなに心配か」
「幼馴染だからさ。ずっと一緒に育った。あいつのお袋に面倒見るのを任されたんだ」
「ひとりで便所に行ける歳だ」
「男のよしあしを見分ける分別はない」
 自分をいい部類に入れているのだろうな。青山はこの少年が好きになりかけていた。若さと情熱が羨ましかった。「決めつけるのは海堂に失礼だろ」
「みんな噂してる」
「信じるのか」
「いや。でもあいつが変な目で見られるのは耐えられない」
「僕にどうしてほしいんだ」
「別れさせてくれ。穏便に。表沙汰にして傷つけたくない」
「辻先生の年齢を考えろ。大人は遊田が思ってるようなもんじゃない。教師にとって生徒は」羊飼いにとっての羊。「子どもにしか見えない。辻先生は海堂のお父さんと知り合いなんだ。それだけだよ」
「加害者の肩を持つのか」
 やはり頭のいい子だ。恋愛と洗脳の違いを知っている。「心配なら海堂と話し合え」
「居場所がわかればな。充電が切れてるらしくて携帯にも出ない」
「なぜ僕が居場所を知ってると思う」
「知ってんだろオーマの家」
「すっかり信じてるじゃないか。傷つけたくないんじゃなかったのか」
 青山は立ち上がって支払いを済ませた。将大が鞄をつかんであとにつづいた。「連れて行ってやるが内緒だぞ。ばれたら僕は馘だ」絵梨子には日本語教師になってもらえばよかった。今さらUCLAは雇ってくれまい。
「どういう意味だよ」
「大人の店なんだ」


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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