血と言葉

第6話: 幼馴染みの日(2)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.09

戻りたいとは思わないが懐かしく思い出す季節がだれの人生にもあるものだ。六年前の凰馬は日々どこで寝ることになるのかわからない生活をしていた。実家の命令に逆らえなかった。周囲には介護と説明していたが実態は「監視」だった。何度か自殺を図っていたからだ。防ぐためというより恩の押し売りだった。
 体がままならないにもかかわらず下の世話も入浴介助も祖父は拒否した。買い物、炊事、洗濯、掃除の大半はヘルパーがやっていた。許されたのは晩酌の相手と、ヘルパーがいないあいだの繋ぎだけだった。気難しい祖父はヘルパーを次々に馘にしていた。現役を退いて長い歳月が過ぎても祖父の名は広く知られており、代わりを見つけるのに難儀した。ようやく決まったヘルパーの盗癖が発覚したこともあった。
 祖父が眠りにつくのを見届けてからアパートへ帰宅するつもりでいたが、祖父の体調が悪い日や、晩酌が長引いた夜は最終バスを逃した。年の瀬が近づくにつれそんな夜は増えた。何が起きてもいいようにスーツを着たまま、二つ折りの座布団を枕にして、茶の間の炬燵で眠る日がつづいた。女からの着信に備えて手には携帯を握り締めた。
 大学の後輩であるその女とはいずれ結婚するつもりだった。予算削減で教員が極端に減らされた時期で、女は塾やフリースクールを渡り歩き、苦労の末にようやく小学校に採用された。指導力のない校長が多くの学校で問題になっていた。パワハラの標的にされた女は睡眠薬を飲み、手首を傷つけた。
 車を持たない凰馬は深夜に電話で呼び出されるたびにタクシーを呼んだ。泣きじゃくって暴れる女から刃物を取り上げ、手当てをし、罵倒に耐えながら、眠るまで抱き締めてやった。翌日祖父のもとを訪れると、惚けたような態度で他人を見るように見られ、しばらく会話が噛み合わなくなった。晩酌の時間には調子が戻るのだが、それまで不安を味わうはめになった。
 祖父といるときは女が、女といるときは祖父が気がかりだった。女はないがしろにされたと感じていた。すべてが終わったあと、「あのときあなたは助けてくれなかった」と繰り返しなじられることになる。女は妻子持ちのベテラン教師と二年ほど不倫をつづけたあと、その男とも凰馬とも別れ、出逢い系で知り合った設計士と結婚し子どもを産んだ。
 年末年始、凰馬はヘルパーに暇を出し、蕎麦やおせち料理を用意した。祖父は珍しく上機嫌で、酒も食も進んだ。思考もはっきりしているようだった。詐欺師と結婚する前の娘の美しさや、後継に期待していた息子の筋ジスが発覚したときの落胆を語った。古い喜劇映画をふたりで楽しみ、感想を交わした。思えばそれは凰馬が生涯でただ一度、「家族と過ごす正月」らしきものを経験した数日間だった。
 仕事はじめの朝、おせちの食材の残りで簡単な食事を出し、慌ただしく出勤の準備をしていると、祖父に礼をいわれた。楽しかった、ありがとう……と。商売を妨げる相手を数えきれぬほど殺し、殺させてきた老人には珍しい態度だった。どうしたんだい爺ちゃん改まって、と動揺しながら問うと、年の初めだからな。けじめをつけんと。と呟いて祖父は笑った。
 耳が遠くなり、会話が噛み合わないことも多かった祖父の言葉を、意味がとれぬままやり過ごすことは少なくなかった。その朝も忙しさに気を取られて深く考えなかった。何かあったら茶箪笥の抽斗に大事なものが入っているから。頼んだぞ。その言葉を理解するのはすべてが手遅れになってからだった。
 年末年始を家族とどう過ごしたかという話題に耳を傾け、校長や教頭の挨拶を聞きながらも、祖父が気がかりで上の空だった。新年会で最初の乾杯を済ませたら、すぐに祖父のもとへ向かうつもりだった。女から着信があったのでその予定も変更した。女の職場でも新年会があり、出席せざるを得ないがその前に会ってくれという。いつものわがままだった。女が車をアパートの駐車場に置いて電車で街へ戻るのに同行した。
 バスを乗り継いで戻る頃には、祖父の就寝時間が近づいていた。
 祖父の家は電気がついていなかった。いつものように合鍵で勝手口から入った。茶の間の明かりをつけると歩行器が目に入った。普段なら映画を観ながら凰馬の帰りを待っている。年末年始に騒ぎすぎて疲れたのだろう。早めに就寝したのだと思った。起こしては悪いと思い、暗い廊下を足音をたてずに寝室へ近づいた。そっと襖を開けた。
 暗がりに見えたものがすぐには理解できなかった。最後は歩行器に頼りたくなかったのだろう。どうやって寝室まで辿り着いたのか。誇り高い祖父らしかった。茶の間に引き返した。茶箪笥の抽斗には鍵がかかっていた。通いはじめたときに手渡された合鍵の束を見つめた。玄関、勝手口、物置。ひとつだけ用途がわからない小さな鍵があった。それを試した。開いた。
 油紙に包まれた道具を手に取って見つめた。戻して施錠し、警察を呼んだ。
 あとのことはよく憶えていない。何度も警察に呼ばれ、同じ話を繰り返させられた。警官の作文にろくに目を通さず押印した。血で汚れたスーツは棄てた。数えきれぬほどの恨みを買ってはいたし、型通りの捜査は行われたが、鳥巳衷次郎が他人の手にかかるわけがないのを凰馬は知っていた。
 祖父は葬儀を望まなかった。だれも呼ぶなと凰馬は命じられていた。それが遺言となる日がこんなに早く訪れるとは予期していなかった。遺体の焼却に参列したのは凰馬のほかにオロオロするばかりの母親と、飯沢と名乗る初老の警官だけだった。老警官は控え室で待つあいだに名刺をよこした。役職は警部だった。衷さんには世話になった、何かあったら連絡してほしい。衷さん、そう呼んでたんですか。古い付き合いでね、腐れ縁だよ。何もないことを祈りますよ、父のことはご存知でしょう。ああ、きみはもうこれを最後に家族と関わりを絶つべきだ。
 祖父の骨と遺灰は桜色だった。血が釉の焼き物。美しいと凰馬は思った。冬の風は強く、墓石の下へ収めるあいだに桜色の灰が煙のように舞い上がった。爺ちゃんを吸い込んだ、と凰馬は思った。気管や肺から染み渡り、自分の一部になっていく。
 一切が終わると母と別れた。両親とはそれ以降会っていない。祖父の家が父によって売りに出されたと知るのはずっとあとのことだ。飯沢の世話になる機会があるとは思えなかったが、名刺はとっておくことにした。自宅とは違う方向のバスに乗り、大瀬川へ向かった。雨が降り出していた。
 夜には雪に変わるだろう雨音を聞きながら、川沿いのガード下で待った。橋の双方から列車が近づいた。祖父の形見は冷ややかで重く、手にしっとりと馴染んだ。持ち方が違う、と懐かしい声が囁いた。それでは反動で肩を痛める。掌の凹みに握りの背面を合わせて上のほうを握れ。親指の筋を側面に密着させろ。左手で右の指三本を包め。そうだ、前方へまっすぐ伸ばせ。腕の延長だと思え。
 橋梁の前に並べた空き瓶を狙った。
 頭上で二本の列車が行き違った。撃て、と祖父の声がいった。騒音が銃声をかき消した。一本目は外れ、次は風がかすめたように倒れた。最後の二本は粉々に弾け飛んだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告