その頃の凰馬は粗暴な父の言いなりだった。初めて会う老人に、それまでずっとよき孫であったかのように爺ちゃん、と呼びかけた。祖父もまた義理の息子の思惑を知った上で孫を受け入れた。そうして死なれるまでの三年間、凰馬は祖父の世話をした。学期末の繁忙でどんなに孫の帰宅が遅れても、祖父は夕食をとらずに待っていた。毎夜のごとく酒を酌み交わし、昔話や政治の議論をした。市内の中心部を見下ろすこの住宅街は、だから凰馬にとってつらく懐かしい場所だった。
海堂邸はそれ自体が目印になるような城塞めいた屋敷で、よそ者でも迷わず行き着けそうに思えた。寺のような門が自動で開閉し、車は玉砂利の敷かれた長い道をのぼった。メイド服の使用人に迎えられ、広大な応接室へ通された。古めかしい絨毯が敷かれ、調度品がごてごてと飾りつけてある。高い天井からはシャンデリアが吊られていた。どれも高価な骨董品なのだろうが凰馬には大したものには見えなかった。どうしても祖父の家と較べてしまう。衷次郎の家は人目につかない奥まった場所にあった。今は成金の新興やくざが住んでいると聞いた。あんな古い屋敷に住みたがる心理が凰馬にはわからない。箔がつくとでも思っているのか。
「先生をお連れしました」私服刑事の片方がいった。
暗い日本庭園を眺めていた五十がらみの男が、マホガニーのデスク越しに振り向いた。現場を離れて久しいのが恰幅のいい腹でわかった。着流し姿だった。子どもの頃、父親の挨拶回りで訪ねた政治家がこんな格好をしていたのを凰馬は思い出した。写真の若い祖父も和装だったがもっと粋に見えた。出逢ったときにはヘルパーに買わせた毛玉だらけのスウェット上下だった。
「きみが娘をかどわかした教師か」
「辻凰馬です。現代文を担当しています」
「訊かれたことに答えろ。何をしでかしたかわかってるのか」
人生で何をしてきたか自覚している人間なんているのか。「県警本部長ともあろうお方が、市民を拉致してその挨拶ですか。まずはそっちから名乗るのが筋じゃないですかね。海堂宗介さん」
「二度と教職に就けないようにしてやる。いやどんな仕事にもだ」
あの娘にしてこの親ありかと凰馬は思った。出所後の生活を考えた。教職以外の仕事は店のほかに経験がない。学生時代のバイトでさえ家庭教師一本だった。今さら給料を要求すれば田崎老人はどんな顔をするだろう。どのみち今の生活がいつまでもつづくとは考えていなかった。
「署ではなくご自宅を選んだのには理由があるんでしょう。このひとたちはいいんですか」
「どういう意味だ」
「聞かれたくない話もあるかな、と」
「聞かれたくないのはきみのほうじゃないのかね、辻君」
「小六まで寝小便してたのはおれじゃない。座っていいですか」凰馬は返事を待たずに腰をおろした。低いテーブルから焼き物を取り上げ、しげしげと見つめる。「これ灰皿ですよね。借りますよ」ジッポでピースに火をつけ、顔を上げて警官たちを見回した。「どうしたんです。せっかくですから爺ちゃんの思い出話でもしましょうや」
「本部長」喋るほうの部下が困惑したようにいった。
「聞きましたよ、うちの柿を盗んだんですって? さすが本部長、大した度胸だ。木から降りられなくなって泣いてるのを爺ちゃんに助けられたとか。大瀬川で溺れたのを救出したとも自慢してたけど……あ、そっちもほんとなんだ。てっきり作り話かと。あんな稼業なのに子どもが好きだったんですね」
「本部長」喋るほうがまたいった。
「もういい。仕事に戻れ」本部長がいった。
無口なほうの部下が小さく噴き出した。
「とっとと出て行け!」
刑事たちは踵を返して出て行った。
「元気な頃の爺ちゃんを知ってるひとと話せて嬉しい。本人は恥ずかしがって話してくれなかったんです。隠居するときは躊躇なく組を解散して恨みを買ったようですね。抗争も起きたとか。おかげでだれも昔の話を聞かせてくれない。警察にもご迷惑をおかけしたのでは」
「鳥巳衷次郎の孫にして辻直継の息子か。犯罪者の血筋だな。どうやって教職に潜り込んだ」
「だれも調べなかったんでしょう。新聞で読みましたが、書類を偽造して二十年も無免許で勤めた教員がいたそうです」
「娘をどこへ隠した」
「帰ってないんですか。熱があって早退したはずですが」
「おまえといたのはわかってるんだ」
「それは昨夜の話でしょう」
「否定しないのか」
「否定してどうなるんです」
「訴えればおまえは破滅だ」
「お嬢さんも傷つく」
本部長はぐっと言葉を呑み込み、歯を噛みしめて凰馬を睨んだ。
「ちゃんと話し合ってますか。学校の生活や進路のこと。晩ご飯は一緒に食べてます?」凰馬は肺に煙を満たし、深い溜息をつきながら灰皿で火を揉み消した。「当ててみせましょうか。あなたはお嬢さんの気持や考えがわからない。予期した結果になり、苛立ちを加害者にぶつけている」
本部長は立ち上がり、デスクを回り込んで凰馬の前に立った。紅潮したその顔を凰馬はうんざりして見上げた。それから生徒の父親の慄える拳を眺めた。拳は振り上げられなかった。そうなる前に力が抜けるのを凰馬は見た。
「ついて来たまえ」
海堂宗介は大股に部屋を出て行った。凰馬は火をつけようとしていたピースを箱に戻し、上衣のポケットにしまった。吹抜けのホールの階段を本部長についてのぼった。ちありの体型は母親に似たのだろうと凰馬は考えた。
二階に使用人の姿はなかった。本部長は扉を開けて凰馬に入室を促した。凰馬は絶句し、吐き気を感じた。
四方の壁に夥しい写真がびっしりと貼り出されていた。そのすべてが凰馬を盗撮したものだった。教科書を片手に机間巡視する彼。背を向けて板書する彼。職員室で採点する彼。古書店にいる彼。買い物袋を下げた彼。カウンターで酒を出したり文庫本を読んだりする姿まであった。ずっと以前から店に出入りされていたのを凰馬は知った。
マーカーで彩られた手書きポップのようなものも散見された。指導案に書いたのと同じ言葉を見つけてぞっとした。身に憶えのないものも多かったが、すべて凰馬が過去に発した台詞と思われた。小学生の頃から使っているとおぼしき学習机には、化粧と勉強の道具が散乱していて、マーカーで彩られた付箋が鱗のように貼られていた。そこには凰馬の一日の行動パターンが事細かに記録されていた。
台風に関する記事を印刷したものもあった。カレンダーにはきのうの日付が赤いマーカーで囲われて「決行!」と書かれていた。
説明を求めて振り向いた。海堂宗介の憔悴した目に見つめ返された。凰馬が知っている以上は何も知らないことがわかった。娘の奇行に狼狽し、途方に暮れる凡庸な父親に過ぎなかった。
凰馬は質問を変えた。「母親はどんな人物なんです」
鍵を挿そうとして施錠していなかったことを凰馬は思い出した。疲れ果てて何も考えたくなかった。家出少女がどこへ消えようと、事件に巻き込まれようと知ったことか。非常灯で床の泥が見えた。開店前に掃除が必要だった。ネクタイを緩めながら二階に上がった。
人の気配を感じるのと本で殴りつけられるのは同時だった。制服に裸足の生徒が本を次々に投げつけてきた。長屋は地震のように揺れた。凰馬は書類鞄で顔をかばい、やめさせようとした。ちありは両手で大型辞典をつかんで殴りかかってきた。やがて本は力を失い、弱々しく彼の胸を叩いて畳へ落ちた。ちありは凰馬の腰にしがみつき脱力して膝をついた。凰馬は引っ張られるままに腰を下ろした。
窓から青いネオンが射していた。ちありは万年床に座り込んで泣いていた。布団の上にA4のコピー用紙が散らばっていた。凰馬は自慰を咎められた少年のようなばつの悪さを憶えた。
「何でこんなひどいこと書くの。どうしてこんな気分にさせるのよ!」
「読んだのか」
「つづきは? 何で隠すの」
「それで全部だ」読む人間がいるとは思わなかった。文机の抽斗にしまうべきだった。
「先生がこんなの書いてたなんて。だれもまだこの本を知らないのよ」
「本じゃない。ただ書いただけだ」
ちありは高熱に浮かされたように凰馬を睨んだ。濡れた瞳は世界を呑む闇のように見えた。「もう先生だけのものじゃない。世に出さないのは犯罪だよ。これが本の原稿でなきゃ何なの?」
凰馬は初めてそのことについて考えた。そして答えを見つけた。
「生活の残骸だ」