杜 昌彦

血と言葉

第3話: 雨の夜(3)

書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.06

だれかと思いましたよどうしたんですかその顔眼鏡は?
 職員室で注目を集めただれにともなく念仏のように挨拶し着席して仕事の準備をはじめたいつもと変わりない朝にしたかったニットとスカートの英語教師が無遠慮な問いを発した体がこわばった周囲が聞き耳を立てるのを感じた怯えを悟られることを畏れた階段で転んだというつもりだった
侵入者にやられました眼鏡も
 視線が集まった女性教師は困惑していた
野良猫です勝手に侵入されて格闘に
災難でしたねお大事に……
 女性教師は薄気味悪いものでも見たかのように会話を打ち切り校務分掌の作業をはじめた
 朝のミーティングは頭に入らなかった青山の物問いたげな視線には気づかぬふりをした教材と出席簿を抱えて教室へ向かった一限目からあの学級だ怖じ気づいている自分を苦々しく思った
 普段通りにはならなかった教室は静まり視線が集まったそれが本来あるべき状態だとすぐには思い至らなかった。 「どうした週番授業はじめるぞ
顔が変!
いつもだろ別の生徒がいい教室に笑いが起きた
階段で転んだ今度は予定通りいえた生徒の前でならいくらでも自然に嘘が口をついて出るだれも聞かないのがわかっているからだ
眼鏡壊したの
ああきょうはコンタクトだ週番!
 女子生徒が号令をかけ全員が従ったさざめきが高まる前に凰馬は出欠を取りはじめた阿部はい井川はい上野はい遠藤……
海堂凰馬は出席簿から窓際へ視線を上げた。 「……は休みかだれか理由を聞いていないか
 教室からふざけた気配は消えとまどいと畏れが漂ったある者は空席をある者は国語教師を見た
無断欠席かと凰馬はいった
遊田ゆだなら知ってるかも男子生徒がいった。 「隣のクラスの
あいつら付き合ってんの?
幼馴染らしいよ幼稚園から一緒だって
よくあんなやつに耐えられるよな
 また騒がしくなった。 「遊田にはあとで訊いてみよう出欠をつづけるぞ
 女子生徒が遮った。 「オーマなんかしたんじゃないの
 勘の鋭いやつだ。 「はぁ? 何でおれがこの台詞はうまくいえた心からの問いだったからだ凰馬はなぜ自分が標的にされたのかわからなかった
あいつオーマの前だといつも目が逝っちゃってるもんニタニタ笑ってさ男子がいった
たまにすごい勢いでメモとってるよね
あたし見ちゃったあのノート
気になる
 女子生徒は最大限の効果を狙っていった。 「『オーマ名言集って書いてあった!
うっそマジ信じらんねぇきっも
台詞を書き留めてるみたい
やっべぇよストーカーじゃん超うける
オーマ夜道に気をつけてね襲われるかもよ
 ……襲われる凰馬は吐き気を感じた冷えた膚と燃える粘膜が凰馬の脳裏をよぎったどちらが加害者なのか教え子を住居に寝かせたまま平然と板書をする自分に身震いした
 目覚ましが鳴ったのはようやくまどろんだ頃だったカーテンの隙間から秋の陽光がささくれた畳へ射していた膚寒かった生に執着する夏を台風が力づくで連れ去ったかのようだった痺れた腕をちありの頭の下から引き抜きそっと身を離そうとするとしがみつかれた自分を棄てて去ろうとする父親を引き留める幼児のように嫌悪が走った
 凰馬はちありの発熱に気づいた店の電子レンジでタオルを蒸し体を拭いてやった打ち身が何カ所もできていた柔らかな陰毛が幼さを感じさせた敷き布団はひどく濡れていたせめてシーツだけでも替えようと凰馬は奮闘した小柄で華奢な割にちありの体は重かったスウェットの上下を着せてしまってからスポーツバッグに気づいた通学鞄とともに制服や靴丸めた下着が詰め込まれていた脱ぎ棄てられた鬘は生き物のように見えた凰馬は鬘をスポーツバッグにしまった
 何か食べるかと少女に尋ねた異常なことなど微塵もないかのように装い歩み寄ることで凰馬は正気を保とうとしたちありは眉根を寄せて寝返りを打った窓際に座っているときよりも幼く見え偽善は打ち砕かれた布団を肩までかけてやり冷却ジェルを額に貼ってやった散乱した本の下から見つけた眼鏡はレンズが割れていた数年手をつけていないコンタクトレンズを入れ冬のスーツで出勤した鍵はかけなかった昨夜の売上などたかが知れていた
 あれは悪い夢だったそう信じようとした部屋に残してきたのがクーラーボックスに収めた生首だったとしてもこれほどの気分にはならなかったそれが生徒の屍体でなければ
 授業が終わりに近づいた廊下に気ぜわしい足音が近づいて引戸がひらいた振り向いた凰馬を海堂ちありが睨みつけた次の瞬間にはあたかもそれが幻覚だったかのように少女は教師の前を素通りしたちありは音を立てて着席し頬杖をついて窓の外を睨んだ発熱のせいで顔は上気して目が潤んでいた殴り返した頬は痣になっていた
 だれもその傷について彼女に尋ねなかった凰馬も触れなかった暗いさざめきが広がった

 海堂は早退した授業を終えて職員室に戻った青山がそう耳打ちしてきたちありは急に立ち上がり気分が悪いと断って出て行ったという何かまずいことに巻き込まれたなと青山は凰馬に尋ねた
どういう意味だ
その顔だよあの子もだ噂になってるぜ
生徒に何をいわれようが知ったことか
そのうち教頭や校長の耳にも入るきょうのおまえは変だ
コンタクトのせいじゃないか
話したくなければいいが覚悟しとけよ
 午後は仕事に忙殺されて海堂ちありのことは考えなかった昨夜の出来事は嵐が見せた幻であるかに思えた青山に声をかける元気もなくだれにも挨拶せずに定時で職員室を出た過労死寸前の同僚たちは一瞥もしなかった凰馬に人並みの労働を期待するのが誤りであると学んで久しいからだ
 角を折れて職場が見えなくなったところで大柄な男ふたりに道を阻まれた辻凰馬だなと二つ折の手帳を見せられる前から展開は読めていた地味なスーツとコート履き込まれた靴暴力と権力にうんざりした厭世的な目つき刑事というのはどうしてだれも彼もが同じ臭いをさせるのだろう
もう親父とは関係ないんだほっといてくれませんか
今回はおまえに用がある青少年健全育成条例違反及び未成年者略取の疑いだ来てもらおうか
令状は? 任意なら断れるはずです
捜査に協力しなければ公務執行妨害になるその車に乗れ
 リアガラスがスモークになった黒のクラウンが路肩に停まっていた白ではない覆面車両は珍しい運転役の刑事が凰馬を一瞥した両側を挟まれるようにして後部席に連れ込まれた幸い周囲に生徒や教職員はいなかった扉が締まり運転手が無線で短いやりとりをして車は静かに滑り出した
何を訊きたいんです
着いてからだ
ここでも話せる
われわれは連れてくるよう命じられただけだ
なぜ本人が来ない
お忙しい方なのだ会っていただけるだけ感謝したまえ
警察署とは方向が違う
黙ってろ無口なほうが初めて口をきいた
 繁華街を抜けて左折し神社の鳥居の前を過ぎて上り坂を進んだ市街地に唐突に鬱蒼とした森林が出現するこの辺りの住民の多くは古くからの資産家で残りは成金と暴力団とカルトの幹部うち数名は政治家を兼ねていた鳥巳衷次郎はかつてこのあたりに住んでいた祖父の顔を凰馬は成人するまで知らなかったつまらぬ詐欺師と結婚したために母は勘当されていた組を解散し隠居した晩年の祖父は孤独だったそのことを知った父が介護を口実に凰馬を派遣したつけ込んで遺産を搾取しようとしたのだ実際にはありもせぬ金を


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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