血と言葉

第2話: 雨の夜(2)

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.07.05

書いてるか」お代わりの金を払いながら青山が尋ねた。
 強風が激しい雨を窓に叩きつけていた。店は閑散としていて、青山のほかに客はひとりだけだった。部活動を中止して生徒を下校させた直後から風雨は激しくなっていた。教職員が引き上げる頃にはJRは運行を休止しており、バスのダイヤも乱れ、まともに動く交通機関は地下鉄だけとなっていた。雨音は低い音量の『ビッチェズ・ブリュー』をかき消すほどだった。
 音楽は青山のリクエストだった。彼は煙草を吸わなかった。妻の連絡を待ちながら携帯で劇場占拠事件のニュースを見ていた。凰馬は金をレジに入れ、文庫本を片手にピースを灰にしながら「ぼちぼち」と答えた。過去におけるどの夜でも繰り返されたやりとりだった。
「どこまで進んだ」
「探偵が依頼人の父親の手下に暴行された」
「今度は何を捜してるんだ」
「まだわからない。敵は知ってるようだ」
「依頼人の父親か」
「ほかにもいるらしい」
「先に考えときゃ早いだろうに」
「だれに見せるものでもない」
「僕が読むよ」
「いつか、そのうちな」
 青山は細いネクタイを緩め襟元のボタンを外し、カウンターに頬杖をついてグラスを傾けていた。そうしているだけで絵になる。安月給の教師というより俳優のように見えた。そんな男がどうして自分とつるんでいるのか凰馬には不思議だった。正反対だからこそうまが合うのかもしれない。強いて共通点を挙げれば、広く浅い交際より特定の人間との関わりを求めるところか。青山には高校時代から恋人だった妻のほかに女性は一度もいなかった。
「劇場テロはどうなった」凰馬が尋ねた。文庫本では無能な探偵が四人目の屍体に出くわしていた。
「犯人は一名を除いて殺害された。男性二三名、女性十六名。全員が都内の小劇団に所属していた。逃げたのはそこの座長だそうだ。観客を装って客席に着き、上演が中盤まで進んだ時点で立ち上がり、銃を乱射しはじめた。上演していた側の関係者は犯人をひとりも知らなかった。やっかみから一方的に逆恨みしたのではないかといわれている。人質の死傷者数はわからない。突入時に催涙ガスが使われたようだ」
「それで死んだやつもいるんじゃないか」
「誤射もあったろうしな。座長のアパートで工業用立体プリンタが押収された。犯行に使われた銃はそれで製造されたらしい。ステンレス粉末で整形する方式だった。また規制が論じられてる」
「銃弾はどうやって手に入れたんだろう」
「アクセサリーとして個人輸入されたらしい。警視庁はプリンタやステンレス粉末の入手経路を捜査している。押収された粉末の残量から、銃は犯行に使われた以外にもあるはずだと推測されている」
「台風は」
「今夜が山だ。テレビくらい買えよ」
 青山はΩに寄り道して妻の絵梨子を待ちながら一杯やるのが日課になっていた。合流したあとはスーパーで買い物をしてマンションに帰る。絵梨子のほうが先になることもあり、週末には夫婦で長居する夜もあった。その時間を凰馬は楽しんだ。人付き合いは苦手だがこの夫婦だけは別だった。受け入れるとともに適度に放っておいてくれ、気を遣わずにいられた。
 絵梨子は背の高い美人で、音楽と文学と車の運転を好んだ。対等の人間として扱ってくれる女を凰馬はほかに知らなかった。容姿もまた女に値踏みされる社会的能力のひとつだと凰馬は知っていた。学生時代は同級生や教師、就職してからは同僚や生徒の態度でそのことを学んだ。母親からしてそうだった。
 その不信感と警戒心を緩めさせる力が絵梨子にはあった。Ωで顔を合わすたびに凰馬は彼女を、その夫と同じくらい好きになり、信頼するようになった。まともな家庭を知らずに育った彼は、この夫婦を結婚の理想像として捉えた。自分にはかなえられない幸せをふたりが楽しんでいるのが嬉しかった。彼らの小さな家庭における外れ者の叔父のような役割を楽しんでいた。
「もう。傘が役に立たないわっ」
 風雨とともに絵梨子が現れた。吹き込んだ雨で床が濡れた。長い髪もコートもぐっしょり濡れていた。タオルを手にカウンターを出ようとする凰馬を、彼女は身ぶりで制した。
「近くに車とめてあるから。駐禁取られないうちに早く。また今度ゆっくりね、辻君」
 慌ただしく店を出て行く妻を追いかけながら、青山が肩をすくめて苦笑いしてみせた。凰馬も苦笑いで見送った。車内から携帯で夫を呼んでもよかろうに、わざわざ店に顔を出すところが彼女らしい。
 振り返ると店内に客はいなくなっていた。さっきまで隅のテーブル席にコートを着た髪の長い女がいたのだ。じっとうつむいて口をきかず、酒にも手をつけていなかった。もっとも変わり者の客はΩでは珍しくなかった。帰るところは見なかった。思い返せば何か思い詰めて慄えているようにも見えた。青白い顔で唇だけが血のように紅かった。
 あれが幽霊だったとして何の問題がある? 酒と引き換えに金はもらっていた。カウンターに立つようになったばかりの頃、何度か金を取るのを忘れてから前払い制にしていたのだ。今夜はもう客は来ないだろう。施錠して閉店の札を下げ、グラスを洗い、照明と音楽を消して二階へ上がった。
 電灯へ手を伸ばしたとき、何かが猛烈な勢いでぶつかってきた。
 何が起きたのかわからなかった。万年床へ押し倒され、脳天に衝撃を感じた。古書特有の埃が舞う。積まれた本の一冊で殴られたのだ。闇に目が慣れてきた。相手は凰馬に馬乗りになり、コンクリートブロックのような本を両手でつかんで、彼の顔に何度も力任せに打ちつけてきた。眼鏡が飛び、頁で頬が切れた。
 抵抗しようにも驚きと恐怖で力が入らない。鍵がかかる文机の抽斗にしまった文鎮のことは考えなかった。それはそのように使うものではなかった。充電中の携帯に届く前に手を押さえつけられた。本がなだれを起こした。相手はその山から手当り次第に本をひっつかみ、投げつけてきた。ほとんどが分厚い全集本だ。シャツが引き裂かれボタンが飛んだ。爪で裂かれた胸元に熱い痛みが走った。
 揉み合ううちにカーテンから漏れる蒼いネオンで相手が見えた。長い髪の客だった。顔は見えない。懸命にその髪をつかんだ。腐った果物の皮が剝けるように鬘が手に残った。息を呑んで相手の顔を見つめた。
 ニタリ、と海堂ちありは笑った。
 思わず抵抗が緩んだその隙を、ちありは逃さなかった。白い指は蛇のように素早かった。ベルトを外され、また激しく殴られた。そのあいだずっと少女は教師の目を覗き込んでニタニタ笑いつづけた。コートの下の膚は屍体のように冷たいのに、吐きかけられる息だけは炎のように熱かった。風が窓枠を揺らした。散弾のように窓に打ちつける雨がたがいの息をかき消した。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告