八秒、栄光のとき

第1話: 第一章 ~ベンジャミン・コーリッツ

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.07.02

コップに張られた水道水の中には特注品の義眼が沈んでいる。義眼の虹彩は青色、瞳孔は黒色。虹彩の外側は毛様体を模した紐状の模様が描かれており、それらは日暈と幻日のように見える。
 鏡の前に立つベンジャミン・コーリッツは鏡に顔を近付け、コップに手を伸ばした。水道水が排水口を流れ落ちる音、劣化したパイプの中を水が通り抜ける音。コーリッツは蛇口を捻り、半透明のペットボトルに入ったコンタクトレンズ洗浄液を義眼に数滴垂らして水で濡らした脱脂綿で義眼を擦った。水道水が洗浄液のヌメりを落としたことを確認したコーリッツは義眼の左右を人差し指と親指で持ち、もう一方の手で上眼瞼を持ち上げて義眼の上端を上眼瞼の内側に深く挿入した。その後、視線を上に向け、下目瞼を押し下げて義眼の下部をおさめた。挿入された義眼は動かず、停止した天体は時間を停めているように見える。コーリッツはひび割れた石鹸を泡立て、顎と頬につけると剃刀で白く染まった髭を剃った。
 家の外に出たコーリッツはコットンウッドに寄りかって煙草に火を点けた。コットンウッドの熟した小さな実からは雪のような、埃のような綿が風に舞いウチワサボテンの凹凸、僅かに飛び出た棘に引っ掛かる。舌打ちしたコーリッツが黄土色をした地面に置いたままの錆びたブリキ缶に吸い尽くされたことでフィルターだけになった煙草の残骸を放った。メキシカンブルーの空には赤子の二の腕のような雲が浮かんでいる。コーリッツが歩き出す。
裏手にある板張りの厩舎の前で立ち止まったコーリッツは吊り扉を引き、レールが金切り声をあげた。干し草と馬の匂いを嗅いだコーリッツは深く息を吐いてひとりごちた。広々とした厩舎、馬房の木柵の間から顔を出した鹿毛のスタンダードブレッドが耳をピクつかせる。笑みを浮かべたコーリッツが壁に掛けられたバケツを手にすると、中に入っている三つのブラシがぶつかり、音を立てた。スタンダードブレッドに近付いたコーリッツが口を開く。
「おはよう。いつも早起きだな。いいことだ。齢をとると早起きになるが、お互い、それほどじゃないのかも知れん」
 手を伸ばしたコーリッツが馬の首筋を撫で、馬が鼻をすり寄せる。
「わかっているとも。お前がして欲しいことは、なんでもわかっている」
 コーリッツは木柵をくぐって馬房に入った。老人は床に敷かれたおがくずを踏みしめ、木柵に立て掛けた鍬で小便が染み込んだおがくずと緑がかった糞を取り除いた。その後、老人はバケツからブラシをとり出し、毛並みに沿って根ブラシを、馬糞がついた後ろ脚や股部分ではゴムブラシに持ち替えて汚れを落とした。コーリッツはゴムブラシについた毛をしげしげと見ながら
「すっかり春だな。お前以上に季節を感じさせてくれるやつはいない。季節といえば、あの忌々しいコットンウッドだ。いつか切り倒してやろうと思っているが、いざとなると踏ん切りがつかない。大体、あの綿埃はなんだ? フワフワ漂うだけで何にもならない。あれを神の御業とするなら、明日から無神論者になってもいい。それでも、あれを切り倒すことは躊躇う。別に神の御力や怒りをおそれているんじゃない。あれは自分で植えたものだし、もしかすると必要になる時が来るんじゃないかと思ってな。あれが必要になる時なんてものは永遠に来ない。それはわかっているのに」
 楕円形の仕上げブラシに持ち替えたコーリッツがブラシを馬の皮膚に届くように力を入れる。目を細めた馬が鼻を伸ばした。
「いい気持ちか? そうだろう。お前のことは全部、わかっている」
長方形に整えられた干し草を馬の前に置くと、頭を下げた馬がせっせと食べ始めた。コーリッツはフックに引っ掛けられたハミを外し、棒状の銜身はみみ※ 馬に噛ませるハミの一部)を握りしめた。馬が干し草を食べ終えるとコーリッツは「散歩に行こう」と言い、馬に銜身を噛ませて木柵を持ち上げた。手綱を引きながら厩舎を出たコーリッツが言う。
「そろそろ、爪を切ってやらなきゃならんな。ボビーを呼ぼう。お前がボビーを嫌っていることはわかっているが、その爪をそのままにすればどうなる? 歩きにくいだけじゃない。いずれ、歩けなくなる。そのためにもボビーの力が必要なんだ。そんな顔をするな。お前に嫌がらせをしたいわけじゃないんだ。そもそも、今までボビーが爪を切り過ぎたことなんて一度もないだろう? 多少、酒癖が悪いぐらいだ。誰にだって悪い部分はある」

 小一時間ほどの散歩を終えたコーリッツは馬を馬房に戻し、入念にブラッシングすると厩舎を後にした。コーリッツがコットンウッドに寄りかかりながら煙草を吸っていると農道にピックアップトラックが停まり、中からカウボーイハットにブーツ、白いシャツ、胸にサークル・スターを着けた老人が降りて来るのが見えた。老人はコーリッツに近付き、口を開く。
「ベンジー、調子は?」
「いいも悪いもない。いつも通りだ」
目を細めたコーリッツが老人を見る。シャツはサイズ違いのようで、ピストルベルトも重そうに見えた。コーリッツが「エミール、痩せたな。病気か?」と尋ねると、喉を鳴らしたエミールが
「心配いらない。もう治った」
「もうっていうことは、どこか悪かったのか?」
エミールはサークル・スターを指差し「心臓だ」
「ペースメーカーを入れたのか?」
 顔を顰めたエミールが「なんだって?」と聞き返すと、コーリッツが
「自分の身体だっていうのに、ロクにわかっていないときた」と答えた。エミールは腰に手をやり「忙しくてな」
「それで、何の用だ? 不健康自慢をしたくて来たわけじゃないんだろう?」
 カウボーイハットのつばを撫でたエミールが折り畳まれた新聞をコーリッツに差し出した。
「読んでみろ」
「今更、気になるようなニュースはないんだが」
「いいから、読め」
 ため息をついたコーリッツが新聞を開くと赤鉛筆で縁取られた小さな記事欄が見えた。

─ エルパソの殺人鬼、ダーシー・エドマンズ 死刑執行 ─

 エミールが「少しは気分が晴れたか?」と言い、コーリッツは首を横に振る。
「今更だ」
「確かにな。お前の片目が元に戻るわけじゃないし、レンジャーに復職できるわけでもない」
「復職するつもりはない。大体、この齢だ」
「退職する必要はなかった。後方で指示を出すだけでも良かった」
「引退する時、お前の倅を指名したぞ」
 エミールはカウボーイハットのつばを撫で「礼を言うと思ったか?」と言い、コーリッツがため息をついた。
「親子揃ってレンジャーにしてやりたくてな」
「余計なお世話だ。リロイはおれが引退する時に指名するつもりだった」
「その時、倅はいくつになっている? レンジャーの平均年齢を考えれば、倅は早い齢じゃない。法務執行経験だってあったし、あとは推薦、指名だけだった。お前の気が済むのを待っていたら、いつまで経ってもレンジャーになれなかっただろうさ」
 エミールは不満げに喉を鳴らし「折角、人が親切にしてやろうと思って来たら、説教されるなんてな」と言った。
「説教したつもりはない。あるがまま、感じたままを言っただけだとも。ところで……エドマンズの死刑執行には立ち会ったのか?」
 エミールが目を細めたが、それを意味するものは馬とは正反対に見える。
「どうしてそう思う?」
「わざわざ来るなんて、何かあったと考えるほうが自然だろう」
 苛立ったように手をヒラつかせたエミールが「あぁ、そうだ。他の奴でも良かったんだが、リロイに行かせたくなかった。五時間運転して、ダラスまで行った」
「女房には会ったか?」
「元だ。その話はしたくない」
 皺の寄った眉間にさらに皺を寄せたコーリッツが「相変わらずだな。いい加減、素直になれ。お前の倅に対するソレは過保護っていうものだし、元女房についても、もっと誠実になれ。デニスを思い出せ。デニスならどうした?」
「親父は関係ない」
「デニスはいいレンジャーだった。知る限りでは最高のレンジャーだ」
 エミールは白内障の初期症状のために白んだ瞳をぱちくりさせた。
「親父なら、おれを連れて行っただろう。親父は相手がどんな奴だろうと敬意を払った。おれにどう振舞うべきかを見せただろう。だが、おれは親父じゃない。ベンジー、時代は変わった。わかっているだけで一五人殺したエドマンズは苦しみもせずに死んだ。安らかなものだったよ。あいつが殺した相手は? 残された家族は? 帰りを待っている家族は?」
 コーリッツは宥めるような口調で「エミール、落ち着け。済んだことなんだ。もう元には戻らないんだ」と言い、エミールが目を見開いた。
「済んだ? 済んだのはエドマンズの死刑執行だけだ。ろくでなしが一人減っただけで、すぐに代わりが出て来る。雑草よりも早い。大体、あいつに片目を潰されたっていうのに、済んだことだって? あれがなければ、お前は今もレンジャーをやっていただろうし、第一」
 興奮して、ふぅふぅ息を切らせているエミールを遮ったコーリッツが言う。
「そこまでにしよう。怒るのは身体に悪い。今の生活に不満はない。馬は一頭しかいないし、股関節を痛めてからは乗ることもできなくなったが、それでも満足している。だからいいんだ」
 物言いたげなエミールが白い髭を触り、カウボーイハットのつばを撫でると別れの挨拶も言わずに回れ右をして歩き去った。エミールの運転するピックアップトラックが見えなくなると、コーリッツは家に向かった。

 夕餉を終えたコーリッツが洗面台の鏡の前に立つ。鏡に映るのは、くたびれたランニングシャツを着た、灰をかぶったような髪の老人だった。苦笑いを浮かべたコーリッツは馬用ブラシよりも毛先が乱れた歯ブラシを口につっこみ、歯磨き粉が混ざって白濁した水を吐き出した。歯ブラシを洗面台に置いたコーリッツは片手で上眼瞼を持ち上げ、もう一方の手で下目瞼をおさえた。それから視線を上に向け、下眼瞼から人差し指を押し込むようにして義眼の内側に挿入して下部を外した。視線を下に向けると義眼がポロリと落ちる。コーリッツはコップに水を張り、義眼は水の中、花弁のように沈んでいく。青い虹彩は蛍光灯の光を反射し、タンザナイトのような輝きを放っていた。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。
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