奇怪な形のサロワサボテンが林立するソノラ砂漠の片隅でボブロウはため息をついた。カリフォルニア州とアリゾナ州、メキシコ合衆国ソノラ州にかけて広がる一大パノラマは恋人か家族とのロード・トリップ、もしくは西部劇撮影のためのものであり、八〇年代に製造された自動車を一人で運転して挑むことは自由と成功、平穏を求める越境者というよりも開拓者に近い。ボブロウがバックミラーに映る自身の顔を見る。無精ひげ、落ち窪んだ目、乾燥のためにひび割れた頬。着古した喪服はすり減り、光沢すらある。ボブロウはベセスダのアパートを思い出す。落ち着いたモノトーンインテリア、ラタンのボールチェア、キュビズムを経過したひょろ長いライト、所有物に占領されて支配された自分自身を。
手をヒラつかせたボブロウがペットボトルに手を伸ばすものの、水は一滴も入っていない。物言わぬプラスチックと自身を当てはめたボブロウが自嘲し
「再生できないという意味では、ぼくよりもマシだ」とひとりごちた。年間、三〇〇日以上続く晴天、気温にして四〇度の太陽光が降り注ぐ。太陽系の物理的中心にして、銀河系においてはありふれた、薔薇のように真っ赤な恒星。ボブロウは噴き出す汗を拭い、キーを捻るものの、エンジンは停止したまま。ボブロウはため息をつくと腕を垂らし、目を瞑った。
サロワサボテンの木陰から木陰へと奇妙な恰好の男が移動する。上半身裸、レンズのないバイクゴーグル。装着したヘルメットには有刺鉄線が巻かれており、右手には細長い枝が握られている。受難めいた奇妙な男はセビルに近付き、手招きすると、チェック柄シャツに陸軍の刺繍がされた帽子をかぶった男がやってきた。男は散弾銃を上下させ「死んでいるのか?」
ヘルメットの男は枝を振り「息はしているみてぇだよ」
「観光客には見えない。だとしたら、自殺か? もし、そうなら邪魔するのも気が引ける。よぅし、この御仁に聞いてからにしよう。自殺したかったのなら、そうすればいいし、助けが必要なのかも知れない。まったく、運のいい御仁だ。こんな場所で見つかるだなんてな」
散弾銃の男は十字を描いて「これも思し召しだ。さぁ、ウチに連れて行こう」と言うと、セビルのドアを開け、ボブロウを担いで歩き出した。
ボブロウが目を覚ました時、彼は椅子に座らせられていた。目の前のテーブルには口が開けられた缶詰と獣の丸焼きが並んでいた。ボブロウが目を丸くしていると、隣に腰掛ける有刺鉄線をヘルメットに巻いた男が「父ちゃん、目が覚めたみたいだよ」と言った。対面に腰掛けるチェック柄シャツの男が「ガイアだ」と言った。ボブロウが聞き返すと、ガイアが「隣がスウィートウォーターで、眠っているのがエスメラルダだ」と言った。ボブロウはエスメラルダと呼ばれた若い女を見る。身体に包帯を巻かれて眠る姿は来世のための準備をするミイラか、まっすぐに育つようにと包帯を巻かれた中世の赤子のように見える。ガイアが「まず、聞こう。あそこで死にたかったのか? もし、死にたかったのなら、悪いことをした。謝罪しよう」と言い、ボブロウが
「道に迷ったんです。それに、自動車が故障してしまって」
「質問には答えて欲しいものだな。ミスター」
「ウィリアム・ボブロウです」
「そう、ミスターボブロウ」
ボブロウは首に触れ、砂埃がテーブルに落ちた。
「死にたかったわけじゃありません」
ガイアは肩を竦めると「そう。それなら良かった。ミスターボブロウの邪魔をしたんじゃないかと思ってな。それじゃあ、食事にしよう。ハラは減っているだろう? 折角だ。ゆっくりしていくといい。スウィートウォーター。ソースをとってくれ」と言い、スウィートウォーターがテーブルの上に置かれたウスターソースとケチャップが混ざったソースをガイアの前にやり
「はいよ、父ちゃん」
ガイアはテーブルの上に置かれたヴォイニッチ手稿を製本したものに手を置いた。
「食事の前にはお祈りだ。さぁ」
ガイア、スウィートウォーター。遅れてボブロウが形だけの祈りをした。祈りが終わると、ボブロウは凹んだブリキコップに注がれた水を一気に飲み干した。水には砂埃が混ざっており、口の中でシャリシャリと音を立てた。ボブロウは自身の黄ばみ、萎れたシャツを見る。それから、眠ったままのエスメラルダを。
「そんなに姉ちゃんを見て、姉ちゃんに惚れちまったのかい?」とスウィートウォーター。
「そういうつもりじゃないんだ。不思議に思ったんだ。彼女は起こさなくていいのかな?」
「姉ちゃんは起きねぇよ。でも、ピンピンしているんだ」
「彼女は病気なのかい?」
ガイアが遮るように「エスメラルダに悪い所なんてものは一つもない。こうやって、一緒に食事しているだろう?」と言い、ボブロウは曖昧にうなずいた。エスメラルダの白い包帯が開け放たれた窓から入り込む風で揺れた。ボブロウは缶詰を食べ始めた。
食事を終えると、ガイアとスウィートウォーターが外に出て行った。ボブロウは缶詰を、雨水を溜めただけの水道で洗い、骨だけになった獣の残骸を〈ゴミぼこ〉と書かれたドラム缶に放った。ボブロウは綴りの間違えたゴミ箱を見る度にこれが彼らそのものであるかのように感じた。ボブロウは額の汗を拭い、椅子に腰掛ける。そして、眠ったままのエスメラルダに話し掛ける。
「やぁ、ぼくはウィリアム・ボブロウ。そして、君はエスメラルダ。どうして、君は眠っているんだい? 起きると不都合なことがあるのかい? たしかに、不都合なことは多い。ぼくも、君のように眠って過ごしたいと思う。でも、やらなきゃいけないことがあるんだ。そう、自動車。あれが壊れてしまったことが運の尽きだったのか、それとも、それはもっと前からだったのか。考えても仕方がない。とにかく、自動車を直さなきゃ。今ほど、学生時代の専攻を間違えたと思ったことはないよ。もしくは、もっと遊んでおけば良かったのかな? おやすみ、よい夢を」
ボブロウは土埃をかぶったセビルの前で溜息をつき、紙巻煙草に火を点けた。
「自動車の直し方なんて皆目、見当がつかない。お手上げ……まったくお手上げだ。降参」
パロデルデの木陰で野ネズミの匂いを嗅ぎ取ったガラガラヘビが舌を出す。遠くでは、イノシシに似たクビワペッカリーが五頭ほどの群れでウチワサボテンの葉を前脚で器用におさえ、葉の内部にある、特に柔らかい部分を貪っている。一通り食べ終えたクビワペッカリーはお互いを毛繕いし、犬のような唸り声をあげた。澄み切った空を見上げたボブロウが空に向かって煙を吐き出した。
「マイク。今の状況を君は笑うかい? ソノラ砂漠で立ち往生。もちろん、携帯電話は電池切れ。挙句に、おかしな家族。彼らが祈っているものはヴォイニッチ手稿。精神年齢が低い長男に、一日中眠っている長女。おかしなことだらけだ。まるでおかしい。それとも、ぼくがおかしいのかな?」
パロベルデの木陰でとぐろを巻くガラガラヘビが野ネズミに噛みつき、瞬く間に全身を出血毒に侵された野ネズミが痙攣する。ガラガラヘビが音を立てずに野ネズミに巻き付く。
「おれを踏みつけるな……そんなことしないよ」
ボブロウはすっかり血の気が失せたセビルのドアを開けると運転席に座り、ハンドルに両腕を置いた。遠くのクビワペッカリーの一頭が振り向き、ボブロウと目が合った。クビワペッカリーは頭を上下に振り、鼻をピクつかせる。ボブロウが手を振ると、クビワペッカリーがゆっくりと歩き去って行くのが見えた。
「ぼくはひとりぼっち。君たちと違って」
運転席に座ったまま眠るボブロウは夢を見た。父親のガストンと母親が談笑している姿。彼は母親の顔を知らないので、ガストンの恋人の誰かであることは間違いない。若い母親が黒くて長い髪を撫でる。隣に座っているガストンは老化を拒絶するための美容整形を施す前なのだろう、顔の筋肉が自然に動いている。ガストンがネクタイを緩めてボブロウを呼ぶ。
オオハシラサボテンは待っている。一度、雨が降れば数時間と経たないうちに根を伸ばし、命を繋いでくれる唯一の食料、水を啜るために。雨を待つ間、オオハシラサボテンは茎を伸縮自在のアコーディオンのように太くする。それまでの間、オオハシラサボテンは雨の到来、冬の季節を待つだけ。
テーブルに置かれたロウソクに火が灯り、常温の缶詰の夕食。ガイアが太鼓腹を擦りながら
「近々、戦争が起きるだろう」
「なんだい、父ちゃん?」
「戦争だ。せんそう、いくさ、たたかい。言い方は色々ある」
「それぐらい知ってるさ。おいらもそこまで馬鹿じゃねぇんだから」
「それはよく知っているとも。お前はよくできた息子だからな」
ガイアが鼻の下を人差し指で擦り、照れ隠しの笑いを浮かべる。ヘルメットに巻かれた有刺鉄線が揺れた。ガイアが言う。
「ボブ、今日は何か見つかったか?」
「いいえ」
「そうか。それは残念だったな。でも、挫けずにやるんだぞ」
「えぇ、そうですね」
ガイアが裏表のない声で笑うと、つられるようにスウィートウォーターも笑った。
食事を終えると、二人が外に出て行こうとしたのでボブロウが
「二人で何をしているんです?」
「飛行機を作っているんだ」
「飛行機?」
スウィートウォーターが自慢げな顔で「そうだよ。父ちゃんとおいらで宇宙まで行ける飛行機を作っているんだ。都会でドンパチが起きたら、それを合図にして、おいらたちは空に行くんだ」
ガイアが深々とうなずきながら「設計図だってあるぞ」と言い、食事の前に祈りを捧げているヴォイニッチ手稿のコピーの束に手をやった。ページがめくられ、裸婦や奇妙な草花の挿絵が目についた。
「これには暗号、メッセージが隠されている。 これを書いた大昔の人間は書かれたものの偉大さに畏怖しただろう。これは誰だかわからん人間が書いたものじゃない。最初にこの形を作ったのは天使だ。天使が人間に書かせたものだ。天使は飛ぶだろう? だから、これは飛び方について教えているんだ」
「その飛行機はどこで作っているんですか?」
「ここから少し歩くと崖があるんだが、そこに建てた小屋でやっている。見るか?」
「あぁ……いいえ、ぼくは自動車を直さなくちゃいけないものですから」
「そうか。気が向いたら来るといい。日中に木陰を歩くなよ? ヘビがわんさかいるからな」
二人が外に出て行くとボブロウは缶詰を洗い、空き缶を〈ゴミぼこ〉に放った。相変わらず、エスメラルダは椅子に腰掛けたまま眠っている。ボブロウはエスメラルダの胸元を見る。僅かに膨らんでは萎む胸が、彼女が呼吸していることを示している。ボブロウは屈み、エスメラルダの顔に自身の顔を近付ける。
「やぁ、ぼくはウィリアム・ボブロウ。正直に言うと、あんまり自分の名前が好きじゃない。そして、君はエスメラルダ。いい名前だと思う。君は一日中眠っているけれど、どこか悪いんじゃないかな? 言いづらいことだけど、君のお父さんと弟さんは正気じゃない。しっかりしたソーシャルサービスを受けるべきだ。こんな生活は必ず破綻する。でも、ぼくにはそんな力がない。マイクなら、何か考えつくかも知れない。父さんだって……こんなぼくだけど、誰かの役に立ちたいと思うんだ。だから、自動車をなんとかしなくちゃいけない。行ってくるよ。よい夢を」
オオハシラサボテンの甘い花が咲くと、コウモリや昆虫たちは我先にと花を目指す。オオハシラサボテンは豊かな蜜と受粉を交換し、彼方で佇む、顔も知らない相手に愛を媒介する。全身苔色のイグアナがオオハシラサボテンの水分をたっぷりと含んだ多肉質の果実を飲み込み、糞と共に新たな命が輩出される。セビルに乗り込むなり、ボブロウは回りそうなネジを片っ端から回し、配線が飛び出した。額から滴り落ちる汗を手で拭う。その様子をキットギツネたちが不思議そうな顔で見ている。キットギツネたちはじゃれ合い、灰色、あるいは褐色をした耳のうしろを優しく噛みあう。
ロウソクに火が灯り、ガイアが祈りの言葉をつぶやく。ガイアが「さぁ、食事にしよう」と言うと、ガイア、スウィートウォーターに次いでボブロウがビーンズスープ缶のフタを開けた。冷えたビーンズスープからは化学物質と微かに腐敗臭が嗅ぎ取れた。ボブロウは乾燥パンをビーンズスープに浸して黙々と食べた。あっという間に食事を終えると、ガイアとスウィートウォーターが隣の部屋に行った。ボブロウは古雑誌を積んだだけのベッドの上にエスメラルダを寝かし、テーブルの上に置かれたロウソクの火を吹き消した。
朝、ボブロウはガイアたちがドアを開けて外に出て行く音で目を覚ました。ボブロウは額を擦り、立ち上がって朝食の支度をはじめた。イワシの缶詰を食べ終えると、ボブロウは椅子に腰掛けたまま眠るエスメラルダに向かって言う。
「おはよう。ぼくはウィリアム・ボブロウ。毎日、同じことを言っているね。退屈していない? ここに来るまでに色々な人に会った。はじめは、マイクのお母さん。マイクは大学を飛び級し、首席で卒業した天才だった。図抜けた才能の持ち主っていうのは、彼みたいな人のことを言うのだと思う。マイクは複雑な家庭で育った。お父さんはイラクで戦死し、お爺さんにいたっては、耕運機をドラッグ製造機に改造して逮捕されるような滅茶苦茶な人。でも、彼はお祖母さんが焼いたクッキーが好きだった。彼と知り合えたことは、ぼくの人生で一番の誇りだよ。彼のおかげでぼくは仕事に就くことができた。彼がいなくなって、寂しくてたまらない。別に、彼を愛していたわけじゃない。いや、友人としては愛していた。親友だったよ。そういえば、レックスにぼくがゲイなんじゃないかと疑われたっけ。レックスっていうのは十代の女の子。彼女はイーストポートからヒッチハイクしていた。ロスに行きたがっていた。レックスはロスに行く目的を教えてくれなかったけれど、結局、彼女は何がしたかったのだろう? でも、きっと彼女は目標を達成するだろう。彼女は強い……ぼくと違ってね。それから、もう一人、ブッチのことも話したい。聞いてくれるかい? 彼はダラスからオースティンに行きたがっていた。彼は服役し、釈放されるとナッシュビルでミュージシャンとしてやっていこうとしたみたいだけれど、ナッシュビルが肌に合わなかったらしくてオースティンに行くことにした。オースティンは彼みたいな……風変りな人を受け入れてくれると信じてね。彼の歌は変わっていた。カントリーだけど、どこか違うようにも思えた。彼の歌は少し覚えたんだけど、レックスは、ぼくはミュージシャンに向いていないと言っていたし、ここで歌うのはよしておくよ。君の睡眠を邪魔したくないしね。そろそろ、自動車を修理しに行かなくちゃ。今日こそ、なんとかしなくちゃいけない。これができたら、ぼくは変わることができるかも知れない。自動車整備の仕事をやってもいい。できればの話だけど……エスメラルダ、よい夢を」
地平線を滑っても〈果て〉と書かれた看板を見ることなんてない。私は眠っている。少しの間は起きていられるけれど、何かをすることはできない。私は名前が嫌い。取り繕ったような、勿体ぶった名前。でも、いい名前だと言ってくれる人もいる。ボブは自分の名前が嫌いだと言った。私と一緒。でも、彼の嫌いは私と少し違う。自分の価値とか、意味とか……いいえ、重圧を感じているっていうことがわかる。私はボブの顔を見ていないけれど、なんとなくわかる。痩せていて、色白で、おでこが広くて、背が高い。彼は誰かみたい。でも、その誰かは私が知らない人で、彼も知らない。私は目を開ける。多分、久しぶり。鏡を見て、おばあちゃんになっていなければ良いのだけれど。
炎天下の空の下で停まるセビル。青色の車体は空に擬態している。タイヤの下には熱砂を逃れたガラガラヘビが火照った身体を休ませている。車内で屈むボブロウは垂れ下がる配線を見る。
「これはシステムなんだ。マイクが設計した〈VM1〉と同じ。父さんが見上げる、ホテルのエントランスみたいに高い天井のスクリーンに映し出された株価や為替と同じ。完全なシステム。無機質で人間味が失われたもの。でも、同時にブッチやレックス、警察牧師や囚人たち、荷下ろし人夫たちのような人たちによって組まれたものなんだ。ぼくは見たいものだけを見ていた。完全なシステムを動かす力を見ていなかった」
ボブロウは運転席に座り、鍵を捻る。プスプスという情けない音が鳴り、それからエンジンがいななく。音に驚いたガラガラヘビが車体の下から飛び出し、近くに生えるアイアンウッドの木陰に身を隠した。ボブロウの声帯から発せられた声は横隔膜を震わせ、全身を痺れさせた。喜びと共に、クラクションを鳴らした。
「大丈夫?」という疑問符が甲高い声によって放られると、ボブロウは横を向いた。下着代わりに包帯を巻き、黄ばんだガウンを羽織ったエスメラルダが立っていた。くすんだブロンドと病人のように青白い肌は幽鬼のように見えた。咳払いしたボブロウが言う。
「君こそ、大丈夫なの?」
エスメラルダはゆっくりと首を傾げて
「時々、こうやって起きる。私は死んでいないの。父さんとスウィートウォーターは?」
「二人なら飛行機を作っているみたいだよ」
「崖の小屋?」
「そうみたい。会いに行くかい? 幸い、自動車も息を吹き返したし」
「お願いできるかしら?」
エスメラルダが夢遊病者のようにフラフラと自動車の助手席に乗り込んだ。エスメラルダは自身に言い聞かせるように「ぼくはボブロウ。君はエスメラルダ」と言った。
「起きていたの?」
「聞こえていただけ」
「君は病気なのかい?」
エスメラルダが横を向き、ボブロウの顔を見た。エスメラルダが青白い手を伸ばしてボブロウの頬を撫でた。エスメラルダは確認するように
「痩せていて、色が白くて、おでこが広くて、背が高いのね」
「ぼくのこと?」
「えぇ、そう。名前は嫌い?」
「うん。あんまり好きじゃない。名前が続くみたいでさ」
「勿体ぶって、取り繕ったように感じる。名前は自分でつけられない。でも、最初に言うこと」
「誰に対して言うの?」
「まわり。見たこともなければ、聞いたこともない。多分、これから先、すれ違うこともない人たちに向かって」
「言わされる?」
「そう、言わされる。でも、それは皆やっていること」
「同調圧力」
「なにそれ?」
「……崖の小屋ってどっち?」
「道なり」
「道なんてないよ」
「真っすぐ。サボテンとサボテンをすり抜けるみたいに」
小さくため息をついたボブロウが「やってみるよ」と言ってアクセルを踏み込んだ。セビルの上を旋回するヒメコンドルが獲物を視認したことで急降下を開始した。
崖の近くに建てられた小屋が見えてくると、奇妙な機械が視界に入った。大きな翼に剥き出しの操縦席。ガイアがペダルを一心不乱に漕ぐと翼が上下に揺れた。副操縦士であるスウィートウォーターがセビルに乗っているエスメラルダとボブロウに向かって手を振り、笑顔を振りまく。地表で投射した物体が描く軌跡。
「ボブ、カテナリー曲線を知っているかい?」
「それはなんだい?」
「懸垂線のことだよ」
「それはつまり?」
「放物線に似ているが、まったくの別物。ライプニッツやベルヌーイによって公式が得られた。一六九一年のことだ。ぱっと見ると、カテナリー曲線は放物線と変わらない。でも、結果が違うんだ。このカテナリーという名前はラテン語が由来で意味は鎖、もしくは絆なんだ」
「鎖と絆、似ているようだけれど、別物じゃないかな?」
「そう思うかい?」
「うん」
「同じようにカテナリー曲線と放物線は違うんだよ」
エスメラルダが「駄目、やめて」と叫び、糸が切れた操り人形のように気を失った。自動車を停止させて降りたボブロウが崖に近付いた。赤茶色の岩肌から身を乗り出し、崖の下をのぞくとバラバラになった飛行機の残骸が見えた。ボブロウは自動車に乗り込むとハンドルを切り、来た道を戻った。その間、隣のエスメラルダはいつものように眠っていた。
一時間ほど走らせると、ソノラ砂漠を抜けてフリーウェイにたどり着いた。緑色の看板を確認し、行くべき方向を決めた。
病院に着いた時、ボブロウはうまく声が出なかった。話すべきことが多すぎて、言葉を見つけることができなかった。受付嬢が訝しんだ様子で見ていた。ボブロウは自身を落ち着かせるために息を大きく吸い込んでは吐き、意を決したように言う。
「診てもらいたい人がいるんだ。それから、警察に連絡して欲しい。崖で転落事故があったんだ」
受付嬢は着古して砂埃塗れの喪服を着ているボブロウを見て「患者はあなた?」
「ぼくじゃない。車の中にいる。怪我はしていないけど、とにかく診てもらいたいんだ」
「どういうことです?」
「わからない。とにかく診てもらいたいんだ。そして、早く警察に連絡して」
受付嬢が合図すると、白い上下の男たちがどこからともなくあらわれ
「患者はどちらですか?」と尋ねた。
「車の中。一緒に行くよ」
白い上下の男たちにつられるようにボブロウも走り出した。
担架に載せられたエスメラルダが運ばれていく。くすんだブロンドとだらりと垂れたガウンは沈みゆくオフィーリアのように見えた。ボブロウは、やってきた医師と二時間ほど、同じような話を繰り返した。医師との会話を終え、疲れ果てたボブロウは廊下にある黒い長椅子に腰を下ろした。ボブロウが床を見ていると「大変だったな」という声が聞こえたので、顔を上げるとカウボーイハットにカーキ色のシャツ、焦げ茶色のズボンの保安官が立っていた。保安官が拳銃を見せつけるように腰に手をやった。
「群保安官のエディ・バラード。お前さんは?」
「ウィリアム・ボブロウです」
「ウィル・ボブか」
「ぼくに何の用です?」
「そう警戒しないでくれ。お前さんをしょっ引こうとしているわけじゃないんだ。それとも、やましいことでもあるのか?」
「いいえ」
「なら問題ない。今しがた、ガイアとスウィートウォーターを運んだ」
「どうして、ぼくに言うんです?」
「お前さんはあの娘をここまで運んできてくれただろう? 縁は異なものって言うじゃないか」
「そうですね」
「つれないな……いいか、小僧。よく聞け? ガイアにはカミさんがいた。ムネモシュネっていう名前の女で、気立てが良くて評判だった。ムネモシュネは、ある日突然自殺しちまった。ショックでガイアはおかしくなっちまったんだ。あぁ、スウィートウォーターは元からだったがな。あの娘が眠ってばかりになっちまったのもそれがキッカケだ。ガイアは気のいい奴だった。おれの一番の友だちだ。だから……」
バラード保安官は目から大粒の涙を流し、振り絞るように両腕でボブロウを強く抱きしめた。
「お前さんのおかげだ。あの娘を助けてくれて、本当にありがとう」
ボブロウが息を漏らすと、ようやくバラード保安官が両腕を解いた。
「彼女はどうなるんです?」
バラード保安官は手で目を擦ると咳払いして
「退院したらウチで引き取る。ガイアには何もしてやれなかった。おれは、都合よく考えていた。もしかすると、そのうちあいつも元に戻るんじゃないかってな。そうこうしているうちにこの有様だ。おれ自身、今更だと思う。それでも、これぐらいはしたいんだ」
バラード保安官が肉厚のある手を出し「ありがとう、ウィル・ボブ。お前さんのおかげだ」
ボブロウはバラード保安官の手を握り「お元気で。彼女によろしく伝えてください」と言って、廊下を歩き出した。
曲がりくねった廊下を歩いた先の中庭にはオオムラサキツツジが植えられていた。オオムラサキツツジは最近、刈り込まれたばかりなのか、大きな苔玉のように見えた。ボブロウは横に灰皿が置かれたベンチに腰掛けた。それから、キャメルをとり出して口にくわえる。ポケットをまさぐってもライターは見当たらず、ボブロウは小さく舌打ちする。隣に白髪頭の老人が腰掛け、ボブロウの様子を見るなりポケットからジッポライターをとり出した。
ボブロウは「ありがとう」と言ってキャメルに火を点けた。青と白の煙が絡み合いながら空に上っていく。ボブロウがキャメルの箱を上下させると、老人が頭を横に振った。
「透析をするようになってからやめたんだ。それまでは、毎日二箱空けていたのにな。健康なうちしか不健康なことはできないなんて皮肉なもんだ。あぁ、なんで煙草を吸わないのに、こいつを持っているのかって? 普通だったら、倅に譲るのが筋なんだろうが、倅は毎日のようにジムに通う健康オタクだし、使いもしないものを渡すのは気が引ける。結局、自分のことは自分で始末しなくちゃいけないってことだ。とはいえ、これを捨ててしまうと、なんだか自分を否定するみたいに思えてな。お若いの、名前は?」
「ウィリアム・ボブロウです」
「サム・ファーグノリだ」
「はじめまして、サム」
「ワシは他人を指差して、〈お前が必要だ〉なんて言わないから安心してくれ」
「必要とされても、ぼくにできることなんてありません」
「随分と悲観的な物言いだな。どうした? しょぼくれるのは、ワシみたいな爺さんになってからでも間に合う。幸い、年寄りは話し相手にうってつけだ」
口を開いたボブロウが淡々とした調子でこれまでの旅について話しはじめた。はじめは事務的な調子だったものの、次第に抽象的になり、やがて水面を走る波紋のように消えた。聞き終えたファーグノリは息を大きく吸い込んで吐き出した。歯周病と老人特有の甘ったるい臭いが混ざった臭いだった。
「お前さんには色々と言いたいことがあるが、最初に思ったことを言うとしよう。うらやましいとな」
「うらやましい?」
「そうとも。若い時はなんでもできる。それこそ、目的が決まっていない旅だってな。年を重ねると、目的がないとなんにもできなくなっちまう。残りの時間が少ないことに気が付いて、寄り道できなくなるんだ」
「ぼくのしていることは全部が寄り道?」
「ワシにはそう見えるよ。でも、それはお前さんにとって大切なことだ。人生に不必要なことなんて一つもない。なぜって、人は不必要なことを選ぶほど、愚かでも賢くもないんだからな」
言い終えたファーグノリは腕時計を覗いて「そろそろ、ダマニーが来る時間だ」
「ダマニー?」
「ワシの孫だよ。忘れていなければ、迎えに来てくれる約束なんだ」
「そうですか。話を聞いてくれてありがとうございます」
「気にするな。年寄りの数少ない仕事だからな」
二人は握手して別れた。
トラックの助手席に乗り込んだファーグノリはハンドルを握るダマニー・ナストに向かって言う。
「運転は慣れたか?」
ナストが大きく息を吸い込んで吐く。
「全然。後ろから煽られるし、大声で罵られるし……嫌になる」
「そうやって慣れていくんだ。最初から上手く運転できるような奴はおらんよ。ワシが初めて運転した日のことを話そう」
「それ、前も聞いた」
「こういう時は黙って聞くもんだ。なぜって、年寄りは同じことを話したくなるものなんだからな」
ナストがアクセルを踏み込む。汗ばんだ手で握られたハンドルは水をかぶったようだった。
「初めて運転した日、ワシはガレージで意気揚々とアクセルを踏み込んだ。でも、肝心のギアを変えるのを忘れた。ガレージを突き破り、台所まで走り抜けちまった。驚いたおふくろがミートパイを落っことした。ミートパイはおやじの好物だったんだ。おやじに殴られると思ったワシは熱々のミートパイを手ですくって助手席に放り投げた。手を火傷するし、ガレージも台所もボロボロ。納屋にいたおやじが血相を変えてやってきた。おやじはワシを殴ったりしなかった。おやじはおふくろが無事だと見ると、ワシに向かって〈さっさと手を水で冷やしてこい〉……それから〈もう一個、パイを焼いてくれ〉と言ったきり、納屋に戻って行った」
「ひいお爺ちゃんは優しい人だった?」
「そうでもない。気が荒くて、保安官の世話になったのも一度や二度じゃなかった」
「お爺ちゃんに似ているね」
「ワシは逮捕されたことなんてない」
「そういうところかな」
ファーグノリの話を聞き終えたナストは前を見ながら「それで、ボブはどうなったの?」と尋ねると、頬杖をついたファーグノリが
「さぁ、わからん。でも、いずれは何か見つけるだろう。渡り鳥だって、いつまでも空を飛んでいるわけじゃないんだからな」
連載目次
- イタロ・マリネッティ記
- Q
- ルイジアナ・ホット・セブン
- ダラー・デイ
- ウィリアム・ボブロウ ~朝日のようにさわやかに
- セルロイドの塔
- ルイジアナ・ホット・セブン ~私を月に連れて行って
- イタロ・マリネッティ記 ~LAプレッパー
- ウィリアム・ボブロウ ~テキサス州ダラス
- ルイジアナ・ホット・セブン ~川走
- イタロ・マリネッティ記 ~ロスに唄えば
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅠ
- 一八時二五分、停止なし
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅡ
- 不戦試合
- ウェイク・レコード
- ルイジアナ・ホット・セブン ~テキサス州会議事堂前
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅢ
- イタロ・マリネッティ記 ~インターナショナル・プレッパーズ
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅣ
- イタロ・マリネッティ監督、インタビュー ~インタビュアー、アンブローズ・ロック